AQAL

高橋恵介

はじめに

AQALはインテグラル思想の基本概念であり、All Quadrants(全象限・四象限)とAll Levels(全レベル)を合わせた意味を持つ。ここではケン・ウィルバーが自著作で展開しているように、これら二つの側面をそれぞれ集中的に説明することで全体像の理解へと進めていきたい。


図1 AQAL詳細 

※オリジナルは色なし。あくまで説明のための便宜的なものである。


ALL QUADRANTS

四象限を理解するうえで、最も冒しやすい誤解は、「四つの事象がある」ととらえることである。こうした見方には観察者自身がアプローチを変えていくことで見えるものも変わっていくという動的な視点が欠けている。

そうではなく、ひとつの事象に四つの異なったアプローチを行い、ひとつの事象から四つの側面とそれらの相互関係を見ていくのが全象限アプローチの立場である。

アプローチの違いをメガネの違いに例えたのが以下の図表である。見ている対象は同じであるにかかわらず、観察者のアプローチによって同じ対象の違った側面が見えていくことを表している。


図2-1 ひとつの事象に四つのアプローチ



図2-2 四象限 (各アプローチからの眺め)



四象限の実験  *スーパーマーケットに行こうとした男の場合

この例で解るのはいわゆる「個人の思考」というものが一般に考えられているほど個人的なものではない、ということである。個人の思考(左上)は、文化的な習慣と言語(左下)、そして、その相関物である社会的な構築物(右下)という広大な背景をもって存在しているのであり、それなしには個人は思考というものを構成することができない。


図3 スーパーマーケットに行こうとした男


「私」(I)・「私たち」(We)・「それ」(It/s)――ビッグ・スリー

四象限は「私」・「私たち」・「それ」を主語とした言語で記述され得る。左上は「私」という主語であり、左下は「私たち」であり、右側はどちらも 客観的なものを扱うため「それ」を主語とした言語で記述される。四象限を非常に簡略化した表現が「私」・「私たち」・「それ」なのである。 

※右下象限は、文脈によっては"ITS"であり、「それら」と表記されることもある

図4 「私」、「私たち」、「それ」

 

【三つの領域の主要な構成要素】

「私」

意識・主観性・主体性・自己・芸術・誠実さ・真実性

「私たち」

倫理・道徳・世界観・共同の文脈・文化・間主観的な意味・相互理解・公正さ・公平さ

「それ」

科学と技術・客観的自然・客観的形態(脳から社会システムまで)・命題的真実(単独対象に関する場合と機能的な適合に関する場合の両方)


上記に記した三つの領域をインテグラル思想では「ビッグ・スリー」("the Big Three")と呼んでいる。この三つの領域が高度に普遍的であることを示す一例として、哲学・思想におけるビッグ・スリーについて以下に書き留めておきたい。


【哲学・思想におけるビッグ・スリーの一例】

私たち

それ

 プラトン

「美」

「善」

「真」

 カール・ポパー

「主観世界」

「文化世界」

「客観世界」

 カント

『判断力批判』

『実践理性批判』

『純粋理性批判』

 ハーバーマス

「主観的な誠実性」

「間主観的な公共性」

『客観的な真実』

 仏教

「仏(ブッダ)」

「僧(サンガ)」

「法(ダルマ)」


 

統合的なアプローチ:「真実の四つのタイプ」

四象限は、それぞれ異なった特定の「真実のタイプ」・「妥当性の条件(妥当要求)」を持っている。下図5がその要約である。この図をもとに、真実のタイプとは何を意味するのかを具体的に見てみよう。


図5 妥当性の条件 Validity claim




真実のタイプ

解説

真実
(Truth)

真実のタイプは(表象的)「真実」。単純な地図化、または単純な対応。「外で雨が降っている」という叙述は実際に外を見て雨が降っていれば「真実」である。ほとんどの経験科学、日常生活を貫く「最もなじみ深い」真実のタイプ。 

代表的分野:科学(物理・生物学)・医学等

真実性
(Truthfulness)

真実のタイプは「真実性」。人の内面的なイメージ・思考は対話などでしか知りえず、その内容を解釈し、それが信頼できるものなのかどうかを判断しなければならない。最先端の機器を用いて臓器としての脳をいくら調べても(右上のアプローチ)その人がスーパーマーケットにいつ行きたいと思ったのかは解らない。その人の内面を知るには対話を通じて解釈していくしかない(解釈する必要があるのは、彼が嘘をついていたり、記憶が曖昧であったりする可能性があるためである)。このアプローチではその解釈が正確であるほどに真実性という妥当性を満たしている、といえることになる。 

代表的分野:臨床心理学・宗教・文学等

機能適合

(Functional fit)

真実のタイプは「機能適合」。客観的な全体に対する機能的な適合という観点から説明を試みる。それぞれの事象が全体的システムの相互的なネットに結びついていれば真実であるとする立場。

代表的分野:システム理論・ガイア理論等

公正さ

(Justness)

真実のタイプは「公正さ」。主体が、どのように相互理解という関係性の中に適合するのかを説明しようとする。あなたと私が一緒に住むとして、私たちは、単に客観的・物理的に同じ場所に住むのではなく(それは右下の領域の関心事である)、同じ文化・道徳的・倫理的な空間の中に住むのである。したがって、ここで問題になるのは事実だけでも、真実性だけでも、また機能的適合だけでもない。ここでは公正さ・善・公平さが問題になる。

代表的分野:解釈学・構成主義・構造主義等

 

全象限アプローチの立場からの批判

インテグラル思想の重要な特徴として、それが「メタ思想」であるということが挙げられる。これはすなわち、インテグラル思想が様々な理論や思想を――自分自身の立場も含めて――鳥俯瞰的に一望できるような「眺め」・「方法論」を持っているということである。


これまで四象限のさまざまなアプローチを見てきたが、人間の視野に盲点があるように、すべての方法論、すべてのアプローチはそれぞれ固有の盲点を抱えている。左側の道においては客観的な領域が盲点となりがちであり、右側の道においては、価値や意味といった内面的な領域が盲点となりがちである。ある方法論を採用して物事を見ていく際に、自らの方法論に潜む盲点に気づいていれば問題はない。しかし、そうでなく、自らの方法論だけがすべての真実を明らかにできると主張する時、それはどのようなものになるのか? 以下、そのような特定の象限だけを絶対的なものとする誤謬("Quadrant Absolutism")を犯した代表的な立場について全象限アプローチから明らかにしていきたい。




 問題となる立場とその批判

科学主義 (または科学的唯物論・実証主義・還元主義等)

科学主義とは、感覚的に経験できるもの、または、その延長である道具(望遠鏡・脳波測定機等)で測定できる右側象限の「それ・それら」だけを真実探求の対象とする立場である。

科学主義の盲点は大きく二つある。ひとつは、科学主義の立場に照らせば、科学主義は真実でないということ。なぜなら科学主義という立場そのものは感覚的に観察できる右側象限にはなく、私たちの思考(心・精神)に存在するものであり、それそのものは科学主義の立場からは考察対象とできないからである。
二つ目の問題は、科学主義は右側象限だけを扱う限定的な立場であるため、人間にとって同様に重要である、内面・価値といった左側象限が無視される、あるいは、「それ・それら」の働きの結果として浅薄に扱われる傾向があるということである。

ここで注意するべきことは経験的科学の方法論そのものが間違っているというわけではないということである。間違っているのは経験的科学の方法論のみが真実を知りえる唯一の方法であるとする立場である。

システム理論的還元主義

システム理論家は、すべてのリアリティを「右下の象限」に還元する。すべての現象を、大きな統一システム、ネット、織物、内包秩序、統一場のなかに織り合わされたプロセスの総和として述べる。
この立場は上記の科学主義と同じ問題を共有しているばかりか、それ以上にやっかいな問題を含んでいる。科学主義の還元主義は主に粗い還元主義であった。ここではすべての内面を単に原子・素粒子の働きへと還元するだけである。しかし、システム理論的還元主義では微妙な還元主義という、より複雑な還元主義の立場をとっている。すなわち、すべての内面を構造・機能として扱うという立場である。ケン・ウィルバーはこの種の微妙な還元主義の具体例として「一般システム理論」「ほとんどのニュー・パラダイム」「エコロジー・ホリスティック理論」を挙げている。

さて、ここでハーバーマスや後期のフーコーが危機感を抱いたと言うシステム理論のある側面について触れておきたい。システム理論ではすべてのリアリティを調和のとれた相互連結的な秩序(システム)として客観的な言語で説明しようとする。このアプローチを生きた人間である主体に適応するとどうなるか? 主体は意味や価値を失い、「すばらしく調和の取れたシステムの全体」のなかの「機能的・道具的な部分」に成り下がってしまう。ハーバーマスはこれを「生活世界の植民地化」と簡潔に要約している。「意味」が「機能」に還元されるこの立場の危うさの一例を挙げてみよう。例えば個人の意味・価値をどこから判断すればいいかという問題があるとする。システム理論の立場によると個人の意味は行動適応の問題に還元される。 すなわち、社会の体制がどうであれ、社会によりよく適応している個人ほど、価値があり、意味がある。ここでは社会がそもそも適応に値するかどうかは問われない。例えば、20世紀にドイツにおいて成立していたナチス体制が適応に値するものなのかどうかは問われないのである。これが「全体論的」かつ「相互に連結する秩序と調和の取れた全体」として物事を見ていこうとするこの立場の致命的な落とし穴である。

極端なタイプの相対主義者

この理論は、すべての真実は相対的であり、普遍的な真実など何もないと主張する。しかし、この見方それ自体は、自身の立場を普遍的かつ真実であると主張している。絶対的なものなどない、他に優越した立場ものなどない、としながら、そうした主張をしている自分の立場は絶対的であり、他に優越しているものと暗黙のうちに了解しているのである。
そのように、極端なタイプの相対主義者は自己矛盾を起こすことなしに自分の立場を主張できない。また、この立場はしばしば客観的な真実を無視、または、軽視して間主観的な合意を得ようとする傾向がある。例えば女性と男性の区別はすべて文化的に作られたものであるとする立場(極端なタイプのフェミニズム等)がある。この場合における決定的な盲点は、客観的データである男性ホルモン(テストステロン)や女性ホルモン(オキシトシン)といった要素が人間の心(左上)や文化(左下)に与える多大な影響を無視あるいは隠蔽しなければ主張できないというものである。

美学のみ

「あなたがたまたま好きなものが真実の最終的な審判官である」。これがウィルバーが皮肉を込めて紹介する最新の美学的理論である(『統合的心理学への道』のpp. 42-23を参照)。ここでは、すべての客観的、間客観的、間主観的な真実は、単に主観的な好みへと還元される。個人的な好みだけがリアリティの審判官となっているのである。
「左上の象限」である審美学的な判断を、「左下の象限」である相互理解と文化的適合、「右側の象限」である科学的真理と機能的適合と統合することは絶対に必要である。
単なる審美学としての知の理論は不正確なもので、それは間主観的な善性や公正性の問題を扱えないばかりか、真実の客観的側面をも捨て去ってしまう。何故、美学だけがうまく機能するのかを説明しようとすると、他の象限から「密輸」("hijack") せざるを得ず、結局、自己矛盾を起こしてしまう。

 


ALL LEVELS

自己成長

さて、ここから個人の成長について見ながら、インテグラル思想がレベルや段階についてどのような見解を持っているのかを説明していきたい。


1. 超えて含む

あらゆる成長は「超えて含む(transcend & include)」というプロセスを踏んでいる。*1 新しいレベルの誕生とは創発(emergence)であり、全く新しい構造の出現である。古いレベルの基本的な特性は、新しいレベルの誕生と共に捨て去られることなく維持され、継承されていく。これを「超えて含む」と言う。例えば人間の脳などは典型的に超えて含むというプロセスを経って進化してきた、ということがポール・D・マクリーンの有名な研究によって示唆されている(下図参照)。


図6 ポール・D・マクリーンの三位一体脳モデル


ここで強調すべきことは何もかもが含まれるというわけではない、という事である。発達は基本構造(basic structures)――その段階固有の特性、能力など――は保存するが、排他的構造(exclusivity structures)――その段階固有の世界観(自己中心的世界観・自民族中心的世界観等)を否定する。例えば成熟した大人は、子供時代に培った言語能力、情緒や身体感覚といった基本構造を継承している。しかし子供時代の自己中心的な世界観といったものは、より成熟した世界観によって排除される。

「超えて含む」と表現される様態の最も包括的かつ代表的なものとして、太古からの宗教的伝統の世界観である「存在の大いなる入れ子」(the Great Nest of Being)がある(図7)。スピリットは魂を超越しているがそれを含み、魂は心を超越しているがそれを含み、心は生命を超越しているがそれを含んでいる。すなわち、超えて含む一連のプロセスの重層的なイメージであり、それが図7の同心円状のイメージなのである。

尚、スピリットが最上位にあると同時に円外にある理由は、それが到達点であると同時にすべての存在の基盤としてあるからである。

図7 存在の大いなる入れ子 The Great Nest of Being



2. 自己のライン

個人の発達領域には複数のラインが存在している。*2 その中でも中心的なラインが自己のラインである。自己のラインとは自己感覚、アイデンティティであり、そうした認識を通して見えるところの世界観のラインである。ケン・ウィルバーはこうした自己のラインにおける発達モデルを、東西にわたる70人を超える理論家を調査し、その発達の構造の普遍性・類似性を証明している。下図ではその中から代表的な3人、左からアブラハム・マズロー、ジェイン・レヴィンジャー、ローレンス・コールバーグを取り上げている。

※F-1の"F"は支点(fulcrum)の意


図8 自己のライン

 

3. 成長とは自己中心性の減少

成長とは自己中心性の減少のプロセスである。ハーバード大学の発達心理学者ハワード・ガードナーは次のように指摘している。

「幼児は全面的に自我中心的(エゴセントリック)である――というのは、自分のことだけを利己的に考えていることではなく、逆に、自分自身のことを考えられないという意味である。自我中心的な子供は自分以外の世界と自分自身を差異化できない。他人または客体から自分自身を分離していないのである。そこで、他人は自分の苦痛や快楽を共にしている、自分のモグモグ言うことは必ず理解されるだろう、自分の展望はすべての人と共有されている、動物や植物さえ自分と意識を共有していると感じるのである。(中略)人間の発達の全コースは、自我中心性の連続的な減少と見なされる……」

『万物の理論』 pp. 48-49

自己愛、または自己中心性は、差異化が最小な状態の支点1(F-1)が最大で、支点2へと移行するにつれて減っていく。最初の最も重要な変容が支点4の「規則・役割的」の段階であり、ここでは他者の眼を通して自分自身を律することが可能となり、自己中心性は一層減ることになる。

インテグラル思想では自己中心性減少のプロセスとして少なくとも3つの段階を示唆している。

1. 自我中心的 (F-1の「感覚物質的」〜F-3の「表象的心」)

2. 社会中心的・自民族中心的 (F-4の「規則・役割的自己」)

3. 世界中心的 (F5の「形式的・反省的」〜)

ここで解るのは一見"自己中心的"に見える大人でも、本当の意味で自我中心的である人はほとんどいないということである。そういう人はたいてい社会中心的であり、会社や学校やマスメディアといった何らかのコミュニティーの価値観を行動原理としている。 *3

また、二つ目の重要なポイントは「世界中心的」な視点の広がりが「形式的・反省的」な自己のレベルと共に現れるという事である。あらゆる既存のコミュニティーの価値観から脱中心化するプロセスを経て、人ははじめて「私」と「私たち」にとって本当に重要なのは何かと内省することが可能となる。

そうした内省のプロセスを通して、ある特定の他者の眼だけでなく、あらゆる他者の眼を自分の中に包括し、その結果、これまでにない自己中心性の減少と幅広い広い視野を獲得するとウィルバーは語っている。


4. 1-2-3構造と病理

1-2-3構造とは自己の発達における基本的なプロセスである。『万物の歴史』では次のように書かれている。


1. 融合/同一化

自己は意識の新しいレベルへ発達ないし進化する。そして、そのレベルと同一化ないし「一つになる」。

2. 差異化/超越

次にそのレベルを超え始める(ないしそこから差異化する、あるいは脱同一化する、あるいは超越する)。

3. 統合/包含

新しい高次のレベルに同一化する、あるいはそこに中心を置く。


図9 差異化/超越の過程を通して、かつての私であったところの場を対象化する

 


このプロセスは自己の発達レベルのすべての段階で繰り返されるものである。 発達の過程で1-2-3構造のステップがうまく運ばない時、その段階特有の病理が発生する。それは、一般的に、低次の段階でのつまずきほど症状は深刻なものであるといわれている。*4



5. 新しい世界観の獲得は、新たな問題を生む

ウィルバーがたびたび述べる言葉に「犬はガンになる。石はならない」というのがある。これは上位のレベルは下位のレベルにない問題を持っているということを端的に意味している。発達とは新しい世界観の獲得であり、視野と自由度の拡大であると共に、より多くの問題、より困難な問題を担っていくことでもある。

自己のラインにおいて発生する可能性のある段階特有の病理には、およそ次のようなものがある。それぞれの病理にはそれぞれの治療の様式があるという点に注目されたい。



ここでもインテグラル思想の根本的な発想が生きているのが理解できる。私たちにとって大事なのはあらゆる状況に対処できる治療の様式を見つけるの ではなく、対処すべき特定の状況にふさわしい治療を見出すことである。なぜならすべての視点に真実と盲点を含むように、治療の様式もまた同じく真実と盲点を含むからである。



まとめ 理論から実践へ

さて、まずここまでの要約をしてみたいと思う。前半では、あらゆる事象には少なくとも「私」・「私たち」・「それ」と呼ばれる三つの領域(「ビッグ・ スリー」)が存在するということ。私たちがするべきことは、そのどれかの領域を重視するのでなく、そのすべてを尊重することであるということ。そして、ある領域のみを重視する偏った視点がいかに歪みを引き起こし、自己矛盾に陥ってしまうかを見てきた(科学主義、相対主義)。 後半では、自己成長の説明を通して、インテグラル思想がレベルや段階という概念に、まったく新しい包括的な文脈を提供するものであることを見てきた。また、成長が自我中心的から世界中心的へと至る視野の拡大をもたらすと共に、そうした視野の拡大がこれまで無意識であったところの問題点、ウィルバーの言う「無意識の地獄への気づき」をも副次的にもたらすという点にもふれてきた。

冒頭でAQALには理論的な側面と、実践的な側面があると述べた。ここまで書いてきたことは主にAQALの理論的な側面である。ウィルバーがよく使うメニューと食べ物の比喩を借りれば、メニューであるといえる。そして、重要なのはメニューを飾り立てることでなく、食べ物を作り、それを食べることである。すなわち、具体的な行動を伴った実践が必要となってくるのである。

実践には大きく3つのタイプ、一人称の実践・二人称の実践・三人称の実践がある。一人称の実践としては全レベル――ボディ・マインド・ソウル・スピリット――への働きかけという形で、二人称の実践としては他者との建設的な関係構築への働きかけという形で、三人称の実践としてはより大きな、地球規模での社会的・文化的な出来事への働きかけという形で、それぞれ具体的かつ継続的なかかわりを必要とするものである。*5
 最後に、長くなるがウィルバーが 「ワン・テイスト:ケン・ウィルバーの日記」(One Taste: Daily Reflections on Integral Spirituality. Shambhala, 1999/2000.)でインテグラルな実践について述べている箇所を引用して終わりとしたい。日記ということもあって非常に闊達な文体で書かれたこれらの内容はとても明快であり、雄弁である。 


ワン・テイスト:ケン・ウィルバーの日記
One Taste: Daily Reflections on Integral Spirituality. Shambhala, 1999/2000.



誰もが自分自身で統合的な実践を組むことができる。考え方としては、人間の身心の主要なレベルと次元をすべて同時に鍛錬することである――身体的、情動的、心的、社会的、文化的、霊的。全象限を通じていくつかの例をあげよう。私たちは以下のようなレベルと能力を持っている。代表的な実践をそれぞれあげてある。

【右上の象限 (個的、客観的、行動的)】

「身体的」

 食事療法――プリティキン、オーニッシュ、イーズ、アトキンス/ビタミン、ホルモン

 構造的――ウェイト・リフティング、エアロビクス、ハイキング、ロルフィングなど。

「神経学的」

 薬理学的――適切な種々の薬/ドラッグ。

 脳/心の機会――意識のシータそしてデルタ状態を誘導することに役立つ。



【左上の象限 (個的、主観的、意思的)】

「情動的」

 呼吸――太極拳、ヨーガ、バイオエナジェティックス、プラーナあるいは感情エネルギーの循環、気功。

 セックス――タントラの性的交歓、自己超越的な身体全体のセクシュアリティ。

「心的」

 セラピー――心理療法、認知療法、影(シャドウ)のワーク

 ヴィジョン――意識的に人生の哲学を定めること、観想(ヴィジュアリゼーション)、確言(アファーメイション)

「霊的(スピリチュアル)」

 心霊(シャーマン/ヨーガ行者)――神性ヨーガ、イダム、黙想的な祈り、進歩したタントラ)

 微細(聖者)――ヴィパッサナー、自己探求、純粋な注意力、観照。

 元因(賢人)――ゾクチェン、マハームードラ、カバラ、禅、エックハルトなど。


【右下の象限 (社会的、間客観的)】

「システム」

 ――全レベルにおいて、ガイア、自然、生物円、地球政治的な基本施設(ジオポリティカル・インフラストラクチャー)、に対する責任を果たすこと。

「制度」

 ――家族、地域、都市、国家、世界に対する教育的、政治的、市民的な義務を果たすこと。

 

【左下の象限 (文化的、間主観的)】

「関係性」

 ――家族、友達、生きとし生けるものすべてとの関係。関係性を個人の成長、自己の脱中心化の一部にすること。

「公共サービス」

 ――ボランティア、ホームレスのシェルター、ホスピスなど。

「道徳」

 ――「善」の間主観的な世界に従事すること、生きとし生けるものすべてとの関係において慈悲を実践すること。


  統合的な実践の一般的な考え方は実に明確である。各カテゴリーから、あるいはできるだけ実用的なたくさんのカテゴリーから基本的な実践を選び取り、「全レベル、全象限」において、同時並行で実践するのである。要するに、自己、文化、そして自然において、身体、心、魂、そして霊(スピリット)を鍛えるのだ。 「身体、心、魂、そして霊(スピリット)」が全レベルである。そして「自己、文化、そして自然」(あるいは単にビッグ・スリー)の「私」、「私たち」、そ して「それ」)が全象限である。より多くのカテゴリー連動すればするほど、それらはより効果的になる(なぜなら、それはすべてあなた自身の存在のある側面 と本質的に結びついているからである)。それらを勤勉に実践し、身心それ自体が<空> に開示されるまで、身心の多様な潜在力を開示しようとする統合的な努力を続けよう。」

『ワン・テイスト 上巻』 pp. 212-215


注釈


1. より詳しく知るためにはホロンという概念の理解が欠かせない。ホロンはアーサー・ケストラーが作った造語で、「ある全体はより大きな全体の部分である」という発想を元としている。定義は「全体であると同時に部分」。例えば原子はそれ自体で全体であるが、分子の部分でもある。単語という全体は構文の中の部分であり、構文という全体は文章という全体の部分である。何が上位で何が下位かを調べるには下位のホロンを破壊したときに上位のホロンが破壊されるかどうかを調べればいい。原子を破壊すると分子が消える。分子を破壊しても原子は消えない。 

ケン・ウィルバーは「リアリティは部分/全体であるホロンから構成されている」と、代表的著作である『進化の構造』のなかで語っている。その中では、ホロンという概念を使う理由として宇宙から「存在すべてのレベルと領域に共通する実体、あるいは共通するプロセスを見つけようというまったくムダな努力から解放される」ということを挙げている。ムダな努力とは宇宙は素粒子でできている、あるいはクオークでできている、というような、ある特定の領域のみを特権化する試みを指す。そうでなく、あらゆる存在がホロンであり、宇宙とはホロンとホロンが織り成すホラーキー(ホロン階層)であるというのがインテグラル思想の立場である。


2. ケン・ウィルバーはハワード・ガードナーのマルチプル・インテリジェンス理論("Multiple Intelligence Theory")をたびたび引用し、高く評価している。なぜなら、人間の人格的発達とはそもそもひとつの尺度(例えば知能など)で測れるものではなく、他の領域に多様な能力の可能性があることを認識・尊重することを通してはじめて全体的な理解が出来るものであるからである。ハワード・ガードナーはそうした多様なラインから8つの代表的なものを定義している。 ※「自然」と「実存」は後の調査に基づいて追加したもの(1999年)。

* 言語(Linguistic Intelligence)
* 音楽(Musical Intelligence)
* 論理・数学(logical-mathematical)
* 空間感覚(Spatial Intelligence)
* 身体・運動(Bodily-Kinesthetic Intelligence)
* 自己(Personal Intelligence―intrapersonalとinterpersonal)
* 自然(Naturalist Intelligence)
* 実存(Existential Intelligence)

3. 自己中心性というのは「自己中、自己中でない」の二元論でなく、スペクトラム、あるいはグラデーションで理解するといい。現在の私たちの世界では“自己中”という言葉があまりに安易に、粗雑で浅薄に扱われてしまっている風潮がある。


4. 以下は『万物の歴史』からの引用である。精神外傷を「分離した自己」による内乱と解釈。セラピーは本質的に「分離から統合へ」と促すプロセスであることを改めて認識させられる。

 さまざまな理由で、こうした初期の段階で、反復された、強い精神外傷を受けたとすると、例えば生後3、4年ぐらいの前慣習的段階において、以下のようなことが起こる傾向があります。

 自己の重心が前慣習的、衝動的な段階にあったために、衝動的な自己が切り離される、あるいは分離します。この分離が非常に強い場合、自己発達は急停止します。しかしほとんどの場合、自己はそのまま、もがきながら、分離の道を進もうとします。どれほど傷ついても意識の拡大する梯子を上ろうとする、発達を続けようとします。登っていく間、そこらじゅうに血を撒き散らしますが、とにかく登り続けるのです。

 しかし衝動的な自己という側面は切り離され、分離したままになっている。この分離した側面は、登るのを止めます。成長し発達するのを止めるのです。むしろこの分離した自己は、いわば地下で店を開く。それは段階1の道徳的世界観を持っている。なぜなら、この例では、そこで分離が起こったからです。分離した自己は道徳段階1に留まり、その間、他の自己は成長を続けていくのです。そこでこの分離した自己は、完全に自己愛的、自己中心的、自己没入的で、そしてなにより衝動的です。それは世界を、その原初的、古層的な段階でのみ入手できるカテゴリーに基づいて解釈し続けるのです。

 そこで、自己の水滴の主な部分が梯子をとぼとぼ登っていくとき、分離した小さな水滴は下に留まっていて、神経症的な、あるいは時には分裂病的な症状を呈して、自己の主な部分の足を引っ張ろうとしています。主な水滴はだんだんと、より高い、より広い世界を眺めていきますが、小さな水滴のほうは相変らず自分だけの自己愛的な、古層的世界観だけで世界を見、前慣習的な衝動と欲求にはいりこんでいるのです。

 そこで今や道徳段階3か4、5にある主な滴と、道徳段階1にある小さな滴の間の内的葛藤は、破壊的なものになりうるのです。この闘争は外部との葛藤ではなくて、内乱です。その別名が病理です。 

 (中略)

 いったんこうしたアクシデントが起こると、つまりいったんどれかのレベルで「サブフェーズ奇形」が形成されてしまうと、こうした病理は後に続く発達全体に影響して歪めがちな意識障害を形成するのです。発達中の真珠にからみこまれた一粒のように、その奇形はその後の層すべてを「縮め」、傾かせ、歪めるわけです。

 いまや、自己が所有していない、または許していない、または認知していない自己の存在の側面があるわけです。それは自分自身から隠れはじめるのです。言い換えれば、自己は自分自身に嘘をつきはじめるわけです。偽りの自己システムが、実際の自己、どんな瞬間にも本当はそこにある自己の上に育ちはじめるのですが、しかしいまや拒否され、または歪められ、または抑圧されるのです。抑圧とは基本的に、実際にあなたの心(プシケ)のなかで走りまわっていることに不誠実であるということです。

 こうして個人的無意識の経歴がはじまるのです。そしてこうした無意識は、ある部分、自己の嘘の座なのです。以前言ったように、意識(アウェアネス)の諸側面が分裂するのです。いわば「小さな水滴」、小さな自己、小さな主体が地下の闇に押しこめられるわけです。こうした小さな水滴は、分裂し拒否されたときの発達のレベルに留まります。それらは成長しなくなります。抑圧したレベルと融合したままになります。地階に潜伏し、その地階へのドアは嘘によって見張られるのです。

 そのようにして、分離によって立ち入り禁止にされた潜在能力の諸側面が、エネルギーと気づきを食いつくしはじめるのです。それらは下水溝です。さらなる成長と発達を故意に妨害します。それらは役に立たない自重、成長して抜け出すべきだった過去の年齢の重みです。しかしそうではなく、嘘によって保護され、庇護されて、威嚇しようと生き続けているわけです。 

 『万物の歴史』 p. 242

5. 鈴木 規夫 (2006) 「統合的変容のための実践」を参照。



補遺 レベルという言葉が敬遠されている背景 

レベルという言葉が敬遠されている理由として、ここでは代表的なものを2つ挙げておく。階層否定・ランク付け否定の背景は、最善の面では世界中心的な視点から平等と公正さを願う気高い意図があり、考慮の価値のない面においては単なる自己中心的な世界観への執着がある(「自分より"高い人間"がいるなどと認めたくない」)。


階層否定・ランク付け否定派の見解

 

インテグラル思想の側からの返答

1.段階や階層という発想そのものが差別的な思想であり、前近代的な非常に危険な考えである。


自然的な階層(成長・進化の階層。例えば原子から分子。前論理段階から論理段階など)と支配的な階層(前近代的で差別的・抑圧的な社会システム)を混同している。

 

 

 

2.人間というのはそもそも一本道の階層・段階モデルに当てはまるような単純なものではない。 


単一のレベルという誤解。インテグラル思想は成長の多様性を認めている(例えばハワード・ガードナーのマルチプル・インテリジェンスを支持している)。


留意していただきたいのは、インテグラル思想はレベルという概念に新しい文脈を提供する思想であるということである。インテグラル思想は階層否定・段階否定の立場については、たとえその動機が気高い意図からくるものであってもその限界を明らかに指摘する。その理由として次のようなものがある。

  • 段階という考え方を敵視するあまり、自らがそうした平等主義・多元主義という高い視点に立つために経てきた段階そのものを否定するという自己矛盾を起こしている。
  • 階層否定・段階否定の立場ではナチスやKKKに対して問題点を指摘することができない。すべての立場が平等であればどうしてある立場がある立場に対して問題を指摘することなどできるのか。しかしレベルという視点を持つならば、ナチスやKKKは自民族中心主義的な差別主義者であり、世界中心的な平等主義者と比べ劣った段階であると言うことができる。

階層否定・段階否定の立場は教育の分野でもはっきりと現れる。例えば教育議論のなかでしばしば「自己決定」という言葉を聞く。発達心理学の知見によればそうした個人主義的・自律的な自己決定が行えるようになるためには、少なくとも前慣習的、体制順応的といった段階を経ねばならない。ここでは社会の規則・慣習、そして周囲の人間の期待に応えるという重要な能力の確立が、自己決定を可能とする新しい段階の創発の必要条件となっている。しかし、階層否定・段階否定の立場ではそうした過程についての議論は無視される傾向がある。その結果、小学校という現場で「自己決定能力の育成」が称揚されたりするのである。確かに、自己決定は“いいもの”である。しかし、規則やルールを学び、他者の立場からものごとを考える能力を身につける重要な過程を無視してそこに至ることはできない。 


参考文献

ケン・ウィルバー(著)岡野 守也(翻訳)『万物の理論』トランスビュー(邦訳2002年)
ケン・ウィルバー(著)青木聡(翻訳)『ワン・テイスト 上・下』コスモスライブラリー(邦訳2002年)
ケン・ウィルバー(著)吉田 豊(翻訳)『科学と宗教の統合』春秋社(邦訳2000年)
ケン・ウィルバー(著)松永 太郎(翻訳)『統合的心理学への道』春秋社(邦訳2004)
ケン・ウィルバー(著)大野 純一(翻訳)『万物の歴史』春秋社(邦訳1996年)
ケン・ウィルバー(著)松永 太郎(翻訳)『進化の構造』(1・2)春秋社(邦訳1998年)
ケン・ウィルバー(著)吉福 伸逸+プラブッダ+菅 靖彦+田中 三彦(翻訳)『眼には眼を』青土社(邦訳1987年)
鈴木 規夫 「統合的変容のための実践」(2006年)
鈴木 規夫 「ケン・ウィルバー紹介 〜インテグラル思想入門〜」(2006年)