禅における「魔境」と「自己」について
本日も、月に一度の代々木上原の座禅会に参加した。先月に続いての参加なので二日目だ。
Mさんからの入門者への説明では、禅の種類(凡夫禅、外道禅、小乗禅、大乗禅、最上乗禅〔だったかな?〕の5種類)と、「魔境」に関する話を本日は伺った。
禅における「魔境」と言えば、いろんなものが見えたり聞こえたりすることを指すのは知っていたが、それ以外にも、次のようなことも「魔境」だと聞いて興味深く思った。
・悟りを得た際に「私の得た悟りは広くて深いので、とても一般の人たちに伝えることはできないだろう」と思い、伝えることを諦めようとすること。(釈迦もこの「魔境」を経験したとのこと。)
・ちょっとした悟りを経験しただけで、有頂天になり、「自分はすごい」「他の人たちとは違うのだ」「優れているのだ」などと思うこと。
個人的に、座禅会に参加した後は体の調子が良いようだ。
落ち着いて座ることができてていないなあと思っていたら、今日の午後は、座っている際に丹田に気が収まる感覚が起こって、体が安定してきたので集中しやすくなったように感じた。以前、日常的に座禅をしていた時の感覚が少し戻ってきたようで、うれしく思った。
この会では、老師が「提唱」の際や茶話会などで話をしてくれるのだが、老師の話を聞いていて、特に悟りに関する(非二元の領域の)内容だと、初めは(頭では理解できても)実感を伴って理解することができない、実感が湧かないことが多い。
しかし、茶話会などでリラックスして繰り返し話を聞いている際に、ふと「なるほど、そういうものかもしれないな」と何かが伝わった感覚になる瞬間があるなと思った。
今日は、自分が生まれる前にすでに世界は「整っている」という話や、両親が生まれる前の自分の顔は?という公案の話などが印象的だった。
「『自己』を殺さなければならない(『自己』も幻想だ、ということに気づけということか)」ということに関する老師の説明の中で、「自分の体を『無』に『レンタル』していると思え」という喩(たと)えが出てきたのが面白かった。
老師の説明とは異なってしまうが、「自分の体や生命も『無』(あるいは『空』というほうが適切かも)から『レンタル』しているものであり、寿命がつきたら根源である『無』の世界に返却するもの」と考えたら、なんだか納得がいくなあ、などと、先ほどお風呂に入りながら考えていた。
今日は、老師の話をたくさん聞いたおかげか、帰宅後も「自分も大きな水の流れの一部であり、また水は全体とひとつである」というイメージがじわじわ湧いてきて、続いている感じがする。
座禅は、独学でするのではなく、必ず師(正師〔しょうし、正しい師〕)を見つけて指導を受けつつ行うのが望ましいとも聞いた。
指導を受けることができるいい場が得られそうだ。
せっかくなので、一日の中で座禅をする時間をきちんと取って、日常的に座ることにしてみようと思った。