次回のケン・ウィルバー研究会(10月21日)の予定箇所(「進化の構造」第11章)を再読。(以下は私個人の理解に基づくものであり、詳しくは原著をあたるか研究会のほうへどうぞ)
<非二元的意識>の自覚によりプラトンは、<一者>に関する神秘的な知識を得た。そして<それ>自体は一切語ることはできないが、<一者>が世界に顕現した時、二つの方向性が異なる働きがあることを語った。一つ目は、<一者>から万物が流出し、世界を創造する「下降の道」。二つ目は、万物が<一者>へ帰還する「上昇の道」である。
プラトンやプロティノスにおいては、<一者>の心の中でこの二つは統合されていた。しかしウィルバーが指摘するところでは、<非二元>の自覚に達しなければ、この二つの運動は結び合わせられることなく、どちらかを強調しがちになるという。
上昇的な霊性か下降的な霊性か。
プラトン以後、西洋は、アリストテレス(神を「この世界」以外のところにおいたため、上昇的な霊性と見なせる)と、キリスト教(神話的な「この世」と「あの世」の分離により、「あの世」をめざす上昇的な霊性)の影響により、大きく上昇的な霊性のほうへ傾いたのだった。
下降の流れから切り離された「上昇のみ」の霊性においては、「この世界」での救済は全く残されていない。ひたすら「あの世」を希求し、この世界の物事は、悪夢か罪であると考える。これは、真の上昇(エロス、智恵)ではなく、下に引き摺り下ろされることを恐れる「フォボス」である。ここには、多者を<一者>の顕現として抱擁するプラトン/プロティノスの下降的霊性のヴィジョン(「充満の原理」)は全く見失われている。このような上昇者が支配する世界はルネサンスまで続いた。
その後西洋の歴史は、ウィルバーによれば、大きな逆転が起こったという。ルネサンスから啓蒙主義の間に、上昇的な霊性は衰退し、下降的な霊性が解き放たれ、わずか数世紀の間に全西洋世界を作り替えてしまったのだった。(現代世界もこの下降の流れのもとにある。)
この世界を賛美し、<スピリット>の善性を探求する下降的なヴィジョンが広範に受け入れられるようになったのは、集団的な規模で理性(形式操作的思考)が出現したためであった。理性は、「もう神話はごめんだ」と表現されるように、神話的な宗教に対して証拠を求めるという合理的な要求をつきつけることにより、上昇者の世界空間を解体してしまった。
神話段階から合理性段階への意識構造の移行は、神話や帝国主義を解体し、政治、道徳、法律の領域において自由な主体を実現させた。とりわけ科学の領域においては、爆発的な発展が起きた。あまりにもその成果が圧倒的だったので、啓蒙主義の時代以降現代に至るまで、私たちは物質的経験的科学(内面の科学と区別する)の後につき従うことを決め、ひたすらこの世界を見つめ「そこだけ」に人生の目的を見出そうと努めることとなった。
やはりここでも<非二元的意識>の自覚がなく、上昇から切り離された「下降のみ」の霊性は、危険なものになりうる。それは低位を抱擁するのではなくそこまで退行しようとする。いかなる上昇、超越、成長にも疑いの目を向け、ひたすら全員に共通の幸福を追求せよという。共通の幸福とは、物質的な快楽である。ここには幸福にはレベルがあるということが抜け落ちている。これは真の下降的霊性(アガペー、慈悲)ではなく、タナトス(退行と還元、固着と停止の源泉)である。
上昇から切り離された下降者の支配する世界。経験科学(それがシステム理論のようなホリスティックなものであれ)を盲信する世界。内面的な意味を剥奪された平板な世界(フラットランド)。これこそが現代世界の根源的な問題点であるとウィルバーはいう。(この問題の性質、そして乗り越える方法は、12,13章で探求される)
下降者は現代に向うにつれ、上昇から完全に離され、ひたすら洞窟に映る影のみを見て歓喜するようになってしまった。しかし、元々ルネサンス時代の科学者は、神の善性としての自然を探求していたつもりでいた。ここには間違いなく非二元的な霊性における下降的ヴィジョン、「充満の原理」の働きが見られる。
プラトンはこの世界を「目に見え、感覚で捕らえられる神」と呼んだ。そしてプロティノスは、「充満の原理」を、<一者>から魂、心、感覚、物質と流出する存在のレベルに体系化した。アーサー・ラヴジョイはこの多元的な存在のレベルを「存在の大いなる連鎖」と呼び、時代を超えて真の霊性の伝統が抱き続けてきた観念であると言う。そしてこの認識が、人間中心主義を乗り越えさせたのである。
またラヴジョイは、ルネサンスから啓蒙主義にいたる科学的な発見は、少しも驚くべきことではなく、プラトン/プロティノス的な充満の原理から直接導き出されたことであるという。一般的には、コペルニクス/ケプラーによる太陽中心説などの科学的発見が、それまでの考え方を革命的に変える事態であったと考えられている。しかし中世の人にとっては、地球を中心からずらしてもいまだに地球は独自のものとしてあったのだ。
そうではなく、真に驚きを持って捉えられたのは、「存在の大いなる連鎖」「充満の原理」から導かれる非人間中心主義、根本的な非ー中心的な考え方であった。それは他にも人間のような存在が住んでいる世界が無数に存在していると考えられた。
ウィルバーは、「この非中心的な観念こそ、他のいかなる観念よりも中世的な精神を揺さぶり、中世からルネサンスに移行させたものであった。」という。そしてこの主たる推進者は、ジョルダーノ・ブルーノであり、この説に近代的な表現を与えたのは、ミコラス・クザーヌスであった。
「クザーヌスとブルーノはこうして、天文学に充満性ないし下降の側面に重要性を与えた最初の人々となった。ブルーノと同時代の、そして彼以降の時代の天文学者たち、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオらは、すでに事実と考えられていたこの説の証拠を真剣に探し始めたのである。
西欧を近代に押し進めたのは、ブルーノの革命であって、コペルニクスの革命ではなかったのだ。
ブルーノが異端審問官の目にとまり、やがて火刑に処せられたのは、偶然ではない。ブルーノから、新しい考え方はそのもっとも著名な代表者であるデカルトにまで引き継がれていった。17世紀末にいたるまでには、意識存在の住む世界は複数あると、ほとんどの教養ある男女は信じていた。教会によるガイアを中心とした神話は、二度と回復することはできなかった。」
重要なことは、科学的な証拠が先に発見され、その後にこうした考え方が出てきたのではなく、観念が先にあったということである。非二元的霊性の下降的ヴィジョンが先にあり、発見がその後に続いたのだ。
近代西洋には多くの損害があるが、中世から近代、神話段階から合理性段階への移行は間違いなく、意識の進化であり、人類の進化を示すものである。そしてこの進化を背後から、深層から促したのが、プラトン/プロティノスから始まる霊性の伝統だったのである。
表層の歴史としては多くの逸脱と見られるものがあるが、より深く見ていけば、スピリットの善と善性は常に働いており、存在を新たな段階へ押し上げてきたというのが「進化の構造」でウィルバーが語りたかったことではないかと思う。(もちろん未来においてうまくいかなくなる可能性はある。未来は何も決められていない。)
そしてそこには必ず<非二元的>ヴィジョンを直覚する人々がいたのである。