2008/6/2 月曜日

日本人の宗教観

Filed under: 霊性・思想 — admin @ 14:11:00

5月30日の読売新聞に「宗教心 静かに息づく」という見出しで、日本人の「宗教観」に関する世論調査が掲載されていました。

宗教を信じているかという問いには、26%が「信じている」 で、72%の「信じていない」が大きく上回っています。

しかし、「日本人は宗教心が薄いと思うか」では、45%が「そう思う」、49%が「そうは思わない」と拮抗しており、意外と宗教心は薄くないと思っている人が多いことが窺えます。宗教や特定の信仰には抵抗があるが、宗教心はなんとなく大切だと感じているということでしょうか。

また、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか」という問いには、56%の人が「ある」と答えています。40歳代が60%で最も多い。

記事では、「自然をおそれ、敬う気持ちや、先祖を敬う気持ちは、日本人に共通し、宗教観の形成に影響しているようだ」と結んでいます。

また、「スピリチュアル」への関心についても調査しています。でも、ここでの定義は、「前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりによって心の安らぎを得ること」とされています。「ひかれる」 が、全体で21% 男性13% 女性27%

死んだ人の魂については、30%が「生まれ変わる」 24%が「別の世界にいく」でした。

「宗教」「宗教心」「スピリチュアル」「魂」と聞き方によって色々な反応がありますが、49%の人が「宗教心は薄くない」と答えた時の、「宗教心」とはどのようなことをイメージしていたのでしょうか?

私自身、日本人の宗教心、あるいは日本的霊性とは何かについて、関心を持ってきましたが、この記事を読んで、もう一度日本人が漠然と抱いている宗教心について考えさせられました。

2007/11/3 土曜日

呼吸力

Filed under: サトル・ボディ — admin @ 19:40:48

生命・情動のレベルは、自己の基盤であり、この領域を豊かにし健全に保つことは、その上に築かれる心、魂の可能性を拡げることにつながる。
自分にあった実践法を見出し、身体が疲れていたり、心が落ち込んでいても、短時間に心身を回復させる技術を身につけておくことは一生の財産になると思う。

このレベルの実践、また身体性について、斉藤孝氏の「呼吸入門」からエッセンスを抜粋してみたい。
「声に出して読む日本語」やテレビでもおなじみの斉藤孝氏は、20年以上呼吸を基本とする身体技法を研究し、日本の伝統が持っていた身体文化の継承を訴えている。

斉藤孝氏が主張する身体文化とは、腰ハラ文化と息の文化である。
この二つは密接につながっており、腰とハラに力を漲らせしっかりと構えることを可能にさせるのが、深い呼吸であると言う。
呼吸というと身体のみの活動のようにイメージされるが、「息」というとそこには心理的な要素、心構えといった意味が加わってくる。

日本人は、古来、息の仕方でその人となりを判断していたのである。
そのため呼吸が浅いか深いかはその人物の優劣を見極めるとても重要な要素であり、重大な局面においていのちを左右するものであった。

勝海舟もこのように言っていた。
「全体なにごとによらず気合ということが大切だ。この呼吸さえよく呑み込んでおれば、たとえ死生の間に出入りしても、けっして迷うことはない」(氷川清話)

斉藤孝氏は「呼吸力」という言葉を使っている。
どれだけ息を持ちこたえるかは、どれだけ踏ん張りがきくかということと連動していている。
このように呼吸によって感情、心を制御することを、日本人は身につけていた。

現代では、感情を制御することは抑圧的とされ、解放するほうばかりが求められる。
しかし、本来、解放の技術と制御の技術はセットであり、
安易な解放は、自分の快適なものばかりを受け入れ、不快なものは排除する傾向を助長すると斉藤孝氏はいう。そして感情の種類が少なくなっていくと。

「感情を上手にコントロールして、悲しみなら悲しみに耐えないといけない。悲しみという状態を、外に爆発させて暴れるのでなくて、浸ったり噛み締めたりして味わう。
これが感情のコントロールというものです。

己の感情に流されきって外に流出してしまわないで、いったん自分の中に留めておく。
その状態をある程度維持して自分自身で味わう。これが、私たちの感情の文化であり感情を豊かにする技術でした。」

<呼吸力の定義>
1、息をどれだけ深く長く続けることができるか
2、息と動きをどれだけ連動させることができるか

動きと連動した深く長い息こそが、集中力を養い、持続力をつけることになる。
動作と呼吸があってくると快適になり、疲れることが少なくなる。

<力みの避雷針>
そこに意識を置けば、力まないで集中した状態が得られる場所。気分の悪いときやイライラしているときも、調整してくれる場所。
1、臍下丹田(へそから3,4センチ下)
2、足の親指の付け根辺り

この二つの箇所は、いわば他の箇所の力みを吸収してくれる場所であると言う。
つまり、からだの中心軸を作ると他の部分の無駄な力が抜けていくということ。

「自分の中に、丹田なり、垂直軸なり、足の裏なり、中心だと感じられるものを確立するととても楽になります。
そして例えば、地球の中心と自分の頭のてっぺんとが真っすぐにつながってくる垂直感覚を持ってみる。地球の重力をしっかり感じつつ、意識を遠くに放つことによって、自分の中心というものに線を引く。

自分のからだを内側に閉じたものというふうにしないで、地球の中心というものに開いていく。
垂直な力の軸が自分の中心を貫いているとイメージする。
なぜ意識を遠くに放つかといったら、1メートル先の地面を見て自転車をこぐのと百メートル先の目標を見るのとでは、からだのぶれが全然違うようなものです。
そうすると意識は大きく解き放たれて、からだは真っ直ぐに安定しやすくなるのです」

こうした呼吸や姿勢を重視する文化は、インドや中国の精神身体文化を源流として、何千年と培われてきたものである。
そして日本人はそれをより洗練させ、様々な型をつくり、生活の中に浸透させていたのである。

呼吸(息)はシンプルだが、パワフルなものであり深遠なものである。

私たちはそうした智恵を学び、また新たな型を創造して、次につなげる責任があるのだと思う。

2007/10/19 金曜日

ブルーノとクザーヌスの非中心主義

Filed under: 霊性・思想 — admin @ 0:04:58

次回のケン・ウィルバー研究会(10月21日)の予定箇所(「進化の構造」第11章)を再読。(以下は私個人の理解に基づくものであり、詳しくは原著をあたるか研究会のほうへどうぞ)

<非二元的意識>の自覚によりプラトンは、<一者>に関する神秘的な知識を得た。そして<それ>自体は一切語ることはできないが、<一者>が世界に顕現した時、二つの方向性が異なる働きがあることを語った。一つ目は、<一者>から万物が流出し、世界を創造する「下降の道」。二つ目は、万物が<一者>へ帰還する「上昇の道」である。

プラトンやプロティノスにおいては、<一者>の心の中でこの二つは統合されていた。しかしウィルバーが指摘するところでは、<非二元>の自覚に達しなければ、この二つの運動は結び合わせられることなく、どちらかを強調しがちになるという。

上昇的な霊性か下降的な霊性か。

プラトン以後、西洋は、アリストテレス(神を「この世界」以外のところにおいたため、上昇的な霊性と見なせる)と、キリスト教(神話的な「この世」と「あの世」の分離により、「あの世」をめざす上昇的な霊性)の影響により、大きく上昇的な霊性のほうへ傾いたのだった。

下降の流れから切り離された「上昇のみ」の霊性においては、「この世界」での救済は全く残されていない。ひたすら「あの世」を希求し、この世界の物事は、悪夢か罪であると考える。これは、真の上昇(エロス、智恵)ではなく、下に引き摺り下ろされることを恐れる「フォボス」である。ここには、多者を<一者>の顕現として抱擁するプラトン/プロティノスの下降的霊性のヴィジョン(「充満の原理」)は全く見失われている。このような上昇者が支配する世界はルネサンスまで続いた。

その後西洋の歴史は、ウィルバーによれば、大きな逆転が起こったという。ルネサンスから啓蒙主義の間に、上昇的な霊性は衰退し、下降的な霊性が解き放たれ、わずか数世紀の間に全西洋世界を作り替えてしまったのだった。(現代世界もこの下降の流れのもとにある。)

この世界を賛美し、<スピリット>の善性を探求する下降的なヴィジョンが広範に受け入れられるようになったのは、集団的な規模で理性(形式操作的思考)が出現したためであった。理性は、「もう神話はごめんだ」と表現されるように、神話的な宗教に対して証拠を求めるという合理的な要求をつきつけることにより、上昇者の世界空間を解体してしまった。

神話段階から合理性段階への意識構造の移行は、神話や帝国主義を解体し、政治、道徳、法律の領域において自由な主体を実現させた。とりわけ科学の領域においては、爆発的な発展が起きた。あまりにもその成果が圧倒的だったので、啓蒙主義の時代以降現代に至るまで、私たちは物質的経験的科学(内面の科学と区別する)の後につき従うことを決め、ひたすらこの世界を見つめ「そこだけ」に人生の目的を見出そうと努めることとなった。

やはりここでも<非二元的意識>の自覚がなく、上昇から切り離された「下降のみ」の霊性は、危険なものになりうる。それは低位を抱擁するのではなくそこまで退行しようとする。いかなる上昇、超越、成長にも疑いの目を向け、ひたすら全員に共通の幸福を追求せよという。共通の幸福とは、物質的な快楽である。ここには幸福にはレベルがあるということが抜け落ちている。これは真の下降的霊性(アガペー、慈悲)ではなく、タナトス(退行と還元、固着と停止の源泉)である。

上昇から切り離された下降者の支配する世界。経験科学(それがシステム理論のようなホリスティックなものであれ)を盲信する世界。内面的な意味を剥奪された平板な世界(フラットランド)。これこそが現代世界の根源的な問題点であるとウィルバーはいう。(この問題の性質、そして乗り越える方法は、12,13章で探求される)

下降者は現代に向うにつれ、上昇から完全に離され、ひたすら洞窟に映る影のみを見て歓喜するようになってしまった。しかし、元々ルネサンス時代の科学者は、神の善性としての自然を探求していたつもりでいた。ここには間違いなく非二元的な霊性における下降的ヴィジョン、「充満の原理」の働きが見られる。

プラトンはこの世界を「目に見え、感覚で捕らえられる神」と呼んだ。そしてプロティノスは、「充満の原理」を、<一者>から魂、心、感覚、物質と流出する存在のレベルに体系化した。アーサー・ラヴジョイはこの多元的な存在のレベルを「存在の大いなる連鎖」と呼び、時代を超えて真の霊性の伝統が抱き続けてきた観念であると言う。そしてこの認識が、人間中心主義を乗り越えさせたのである。

またラヴジョイは、ルネサンスから啓蒙主義にいたる科学的な発見は、少しも驚くべきことではなく、プラトン/プロティノス的な充満の原理から直接導き出されたことであるという。一般的には、コペルニクス/ケプラーによる太陽中心説などの科学的発見が、それまでの考え方を革命的に変える事態であったと考えられている。しかし中世の人にとっては、地球を中心からずらしてもいまだに地球は独自のものとしてあったのだ。

そうではなく、真に驚きを持って捉えられたのは、「存在の大いなる連鎖」「充満の原理」から導かれる非人間中心主義、根本的な非ー中心的な考え方であった。それは他にも人間のような存在が住んでいる世界が無数に存在していると考えられた。

ウィルバーは、「この非中心的な観念こそ、他のいかなる観念よりも中世的な精神を揺さぶり、中世からルネサンスに移行させたものであった。」という。そしてこの主たる推進者は、ジョルダーノ・ブルーノであり、この説に近代的な表現を与えたのは、ミコラス・クザーヌスであった。

「クザーヌスとブルーノはこうして、天文学に充満性ないし下降の側面に重要性を与えた最初の人々となった。ブルーノと同時代の、そして彼以降の時代の天文学者たち、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオらは、すでに事実と考えられていたこの説の証拠を真剣に探し始めたのである。

西欧を近代に押し進めたのは、ブルーノの革命であって、コペルニクスの革命ではなかったのだ。

ブルーノが異端審問官の目にとまり、やがて火刑に処せられたのは、偶然ではない。ブルーノから、新しい考え方はそのもっとも著名な代表者であるデカルトにまで引き継がれていった。17世紀末にいたるまでには、意識存在の住む世界は複数あると、ほとんどの教養ある男女は信じていた。教会によるガイアを中心とした神話は、二度と回復することはできなかった。」

重要なことは、科学的な証拠が先に発見され、その後にこうした考え方が出てきたのではなく、観念が先にあったということである。非二元的霊性の下降的ヴィジョンが先にあり、発見がその後に続いたのだ。

近代西洋には多くの損害があるが、中世から近代、神話段階から合理性段階への移行は間違いなく、意識の進化であり、人類の進化を示すものである。そしてこの進化を背後から、深層から促したのが、プラトン/プロティノスから始まる霊性の伝統だったのである。

表層の歴史としては多くの逸脱と見られるものがあるが、より深く見ていけば、スピリットの善と善性は常に働いており、存在を新たな段階へ押し上げてきたというのが「進化の構造」でウィルバーが語りたかったことではないかと思う。(もちろん未来においてうまくいかなくなる可能性はある。未来は何も決められていない。)

そしてそこには必ず<非二元的>ヴィジョンを直覚する人々がいたのである。

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