
先ほど、今道友信の『出会いの輝き』を読了しました。今道友信は1922年生まれの東京大学名誉教授。哲学・美学の分野においては世界的権威とも言える文字通りの大学者です。『出会いの輝き』は一般向けに書かれた半自伝書なのですが、私にとって数年に一度と言えるくらいに深く印象に刻み込まれた一冊でした。
この本の味わいは大きく二つに分けるとすると、まず一つは出来事、つまり著者の自伝的エピソードである幼少時代~老年、人との出会い、読書体験、研究について。そして二つ目が前者の出来事に対する自省・思索・コメントです。私はとりわけ、この二つ目のコメント的な部分に深く没頭させられるものがありました。
例えば、アリストテレスの有名な「タウマゼイン」という言葉。
大学時代に著者が出隆教授に「これを一緒に読もう」と勧められ読みはじめたアリストテレス『形而上学』のギリシア語の原典(!)。「戦争末期の焼け野原の風景と飢えに苦しむ夜をまったく忘れさせるほど、面白い本だった」らしく、思い出の深いこの本については特別紙数を使って熱っぽく感動的に紹介している章があります。
ここで著者は「タイマゼイン」という言葉が「驚異する」と一般的に訳されているのは違う、と反論します。「驚異する(タウマゼインする)ことによって、人間は哲学を始めたのである」という解釈は違うのだと。「驚嘆する」とは「好奇心」につながります。そしてこの好奇心について著者は――
「私は単純に好奇心というものを学問の始まりとしてはならないと思います」 p253
と言います。単なる好奇心の対象という話であれば、動物実験でも人体実験でも学問の対象になってしまう、これは決して探求と言うには値しないと。
では学問の動機である「タウマゼイン」とは何なのかと言うと、それは「賛美」であると言うのです。つまり「賛美する(タウマゼインする)ことによって、人間は哲学を始めたのである」となります。プラトンによればタウマゼインは「星のように崇高で偉大なものへの賛美」という意味を持っていたそうです。他にも、ストア派の詩人・哲学者アトラス、トマス・アクィナス、ニコラス・クザヌス、などの文献を持ち出し、いずれも「賛美」という解釈を支持するものであることを立証します。
一度、これを知ると、「驚異する(タウマゼインする)ことによって、人間は哲学を始めたのである」という訳が空しいものに思えてくるから不思議です。それに比べて「賛美」訳の方は言葉の力が漲ります。ニュアンスの違いというのは本当に大事で、言葉の生き死に関わるものだとあらためて思えました。それにしても著者の「学問」への想いには心響くものがあります。以下、最後の一説を引用したいと思います。ここには美学の研究に一生を捧げた著者の学問観がよく現れています。
「好奇心が学問の正しい動機だと主張する人々が多いのはほんとうに困ったことで、真理への愛としての「タウマゼイン(賛美)をまじめに考えましょう。そこには感動と涙があります。まことの学問は自ずから倫理的であると私は思います。その原因は、学問らしい学問は神が創った世界の神秘に賛嘆することに基づくからです。もとより、この世には賛美すべき偉大なことばかりでなく、悲惨があり苦悩があります。それに対する同情の涙もまた、創造のもとになります。賛美と涙とが学問や芸術の創造の源なのです」