近年、Harvard UniversityやIntegral Institute等の研究機関においては、これまで以上に包括的な枠組みをとおして人間の発達について調査・研究が為されるようになっている。
そのために、われわれ関連領域の人間が考慮しなければいけない要素は急速に増えている。
くわえて、研究者自身が、発達という旅路にあるものとして、積極的に自己を理解・変容するためのとりくみに従事するよう求められている。
こうした状況があるためか、人間の発達について専門的に研究している関係者のあいだでも、今、多くの混乱が生じているようである。
とりわけ、発達心理学の先端文献が殆ど翻訳・紹介されないという今日の出版状況のなかで、国内の関係者は、国際的な動向と隔絶したところで――過剰なまでに国内的(domestic)な関心にもとづいて――形成される雰囲気にますます絡めとられることになっているようである。
また、近年、国内においては、集合規模で言語能力が急速に地盤沈下するという退行状況が展開しているために――つまり、普遍的な説得力をもつ、真の叡智を創造することのできる強度をそなえたものとしての日本語が弱体化しているために――専門的な研究者であるか否かを問わず、人々の関心はますます狭隘化している。
こうした状況において、高次の発達という現実を実感をもって意識することが困難になるのは、致しかたのないことであろう。
しかし、そうはいっても、関連情報は断片的に紹介されるわけで、それを咀嚼するための枠組みをもたない関係者は、どうしても歯痒い気持ちをあじあわされることになる。
いうまでもなく、これは、ひとりひとりの誠意や努力の問題ではなく、今、日本という共同体が内在させている問題である。
そして、こううした状況を診るとき、あらためて、今、国内で日本語で学問をするということの困難を思い知らされるような気がする。
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こうした状況のなかで、個人的に、とりわけ懸念しているのは、今、日本において、「個となる」ということの奥深さがあまりにも軽視されているということである。
個であるということが、いかに豊穣な叡智を体現することであるのか、そして、個となるためには、いかに多大な試練と困難をのりこえる必要があるのか――そうしたことに関してあまりにも問題意識が希薄なのではないだろうかと思われるのである。
「普通であることの凄さ」ということばを耳にすることがあるが、実際のところ、「常識的・一般的・慣習的」(conventional)な発達段階に到達することは全く容易なことではない。
「あたりまえ」のことをあたりまえにできることが実際にはどれほど大変なことであるかについてはあらためて説明するまでもないだろう。
そこには、しばしば砂を噛むようにあじけない日常を黙々と生きることのできる静かな意志と叡智と希望と諦念が息づいている。
しかし、われわれはそこに豊穣な叡智が体現されていることを案外忘れがちなのではないだろうか……。
ある意味では、人格の発達とは、世界というものが自己の思いのままにならないことを認識・受容する過程と形容できるものである(「自己中心性の減少」)。
「常識的・一般的・慣習的」な段階に至るまでに、われわれは正にそうした課題と対峙して、そこに解決策を見出すことを要求されるのである。
そうした過程をとおして「自己中心性」(自己に対する執着)が健全に減少することができれば、個人の意識と関心は必然的に「私」(“I”)を超えたものに開かれていくことになる。
人間が、矮小な自己の存在を超える「普遍的」なものに自己を捧げることができるのは――たとえば、それは、共同体の歴史や文化であるかもしれないし、また、普遍的な説得力をもつ学問的な真実や法則であるかもしれない――自己に対する執着を克服することができているからなのである。
「常識的・一般的・慣習的」であるとは、即ち、こうした普遍的な現実のまえに自らの頭(こうべ)を垂れることができることなのである。
そして、それは、そうしたことができるほどに、自己の器が深化・拡張しているということを意味するのである。
トランスパーソナル思想のことばを借りれば、正にこれこそが「パーソナル段階」(personal stage)の構造を確立するということなのである。
「今、日本において、個となるということの奥深さがあまりにも軽視されていることを懸念する」というときに、わたしが云わんとしているのは、パーソナル段階を確立するなかで、われわれが通過することになる、こうした課題のむずかしさを軽視する傾向が広範に蔓延しているのではないかという心配なのである。
そうした軽視は、必然的に、パーソナル段階に到達するために必要とされる諸々の支援機構を整えることに関してわれわれを怠惰にすることになる。
そして、それは必ず集合意識の地盤沈下を惹起することになるのである。
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先日、JTAの基礎講座で講演をしたときにも実感したことだが、こうした発達の問題に関しては、トランスパーソナル・コミュニティでも、随分と誤解と混乱があるようである。
上記のように、実はパーソナル段階においても、個人は、自己を超えた普遍的・超越的な次元・領域に対して自己の意識を開いていくことになる。
そこでは、自己の存在を超えるものを認識して、その継承と発展に自己の存在を捧げていくという果敢な「自己放棄」と「自己超越」が行われることになる。
そして、そこでは――しばしば科学者が斬新な発見や発明するときに報告するように――霊感やヴィジョンや偶然に啓発されるという「非日常的体験」も頻繁に経験されることになる。
その意味では、今日、「トランスパーソナル段階」の体験・成長として説明・探求されていることの大部分は、実は、厳密には「パーソナル段階」の範疇にはいることなのである。
こうした誤解が蔓延する背景には、パーソナル段階の体験さえもが稀有なものになりつつあるという同時代の事情があるのではないかと推測される。
パーソナル段階にむけた発達を支援するための叡智と洞察が集合規模で失われるとき、パーソナル段階の領域は――それが簡単に経験することのできないものとなるために――必要以上に神秘的なものとして見做されることになる。
トランスパーソナル・コミュニティの関係者が、パーソナル段階において経験可能となる領域をトランスパーソナルなものと理解してしまう背景には、もしかしたら、こうした非常に現代的な衰退と混乱があるのではないだろうかと思うのである。
Carl Jungが述べたように、現代に在るということそのものは、現代に生きるために必要とされる内的成熟を保証してくれない。
真に現代に生きるために必要とされるものが、自己の無意識を内省して、精神というものが、そして、世界というものが内在させる神秘性に意識と存在を開くことのできる能力であるとするならば、それは鍛錬をとおして開発されるべきものである。
そして、それは決して容易な道程ではあるまい。
しかし、パーソナル段階を確立するということは、そういうことなのである。
その意味では、今、トランスパーソナル・コミュニティが――それと意図せずして――とりくんでいるのは、パーソナル段階にむけた健全な成長を支援するためのそれといえるだろう。
とりわけ、社会の支援機構が急速に溶解している今日の状況において、それは非常に価値のあるとりくみであるといえる。
また、パーソナル段階にむけた発達を促進する社会の支援機構は、今日の「量化の思想」に席巻された文化空間においては、往々にして、神秘性に対する感性を過剰に抑圧・排除する傾向にある。
その意味では、パーソナル段階にむけた発達をトランスパーソナルの関係者が支援することには、非常に大きな価値があるといえるのである。
しかし、同時に、そこでは、われわれは発達論の貴重な洞察を充分に留意することを求められることになる。
多くの場合、トランスパーソナルの関係者自身は、既にパーソナル段階を確立して――Harvard Graduate School of EducationのRobert Kegan博士が指摘するように――人類の意識の発達の最先端であるVision Logic段階の意識を探求しはじめているひとたちである。
そこでは、パーソナル段階以上に意識の複雑性と統合力と浸透性が深化するが、また、それゆえに、独自の課題と盲点に絡めとられる危険性が増すことになる(詳細については、Ken Wilberによる“Boomeritis Spirituality”と“Mean Green Meme”の議論を参照せよ)。
Vision Logic段階への移行とは、パーソナル段階における普遍的・抽象的な領域への埋没から、具体的・実存的な現実を抱擁する「転落」の過程と説明することができる。
そして、これは、しばしば――プリパーソナル段階とは非常に異なる意味において――「私」(“I”)であることに対する関心と執着を再燃させることになる。
結果として、前期Vision Logic段階の行動論理をとおして体験されるとき、超越的な現実は、しばしば、自己に対する執着を超克しようとする志向性ではなく、むしろ、自己の独自性に対する執着を増幅する志向性にもとづいて解釈・統合されることになるのである。
必然的に、こうした「解釈」はトランスパーソナルの関係者の発言に独自の嗜好性を付与することになる。
しかし、それは、果たして、今日の時代状況において、真に必要とされるメッセージなのだろうか……?
今、日本は世をあげての個性礼賛ブームである。
しかし、実際には、そこに生起する言語生活はますます貧困化しており、普遍的な価値をもつ知識や洞察はますます希薄になっている。
そこには、人格発達のためにまず必要とされる「自己中心性減少」のための支援機構が圧倒的に欠如しているのである。
そうした状況において、果たして、前期Vision Logic段階の行動論理にもとづくトランスパーソナル関係者の言説が真に建設的な役割を果たすことができるのだろうか……?
今、留意されるべき問いとはこうしたものである。
そして、そうした問いにこたえることができるためには、発達の視点がどうしても必要となるのである。