2010/3/9 火曜日

ケン・ウィルバー研究会 - 『万物の歴史』を読む(第6回)

Filed under: Announcement — admin @ 6:32:30

ケン・ウィルバー研究会 - 『万物の歴史』を読む(第6回)

 

ケン・ウィルバー研究会では、20099月に復刊されたケン・ウィルバー(Ken Wilber)の著書『万物の歴史』(Brief History of Everything)をとりあげ、その内容を掘り下げていきます。

 

『万物の歴史』は、ウィルバーが『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の要約版として執筆したものですが、全体が対話形式でまとめられており、初心者にも非常に解りやすい内容となっています。また、その数年後に執筆されたもうひとつの入門書である『万物の理論』(Theory of Everything)と比較しても、過度に簡略化されておらず、内容的に充実したものとなっています。

 

今回の復刊を機に、あらためてインテグラル理論の核心にあるものを、議論をとおして、探求していきたいと思います。

 

5

 

開催日: 322日(日曜日)13:0016:00 p.m.

開催場:品川区立総合区民会館きゅりあん

    大井町駅(JR京浜東北線,東急大井町線)徒歩2

    http://www.shinagawa-culture.or.jp/

参加費用:2,000円(一般)

     1,800円(IJ Member

参加条件:特にありません

参考図書:『万物の歴史』(春秋社)

対象範囲:第16章~最終章

 

尚、会場にて『万物の歴史』を販売しておりますので、必要な方は御申出ください。

 

6回日程

 

2009

11017

21115

31223

2010

4130

5228

6322

 

尚、各回の開催場所の情報は後日、インテグラル・ジャパンのBLOG等に掲載いたしますので、そちらをご確認ください。

 

主催:インテグラル・ジャパン

URLhttp://integraljapan.net/

連絡先:info@integraljapan.net

2010/3/2 火曜日

個となるための道程

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 2:08:58

近年、Harvard UniversityIntegral Institute等の研究機関においては、これまで以上に包括的な枠組みをとおして人間の発達について調査・研究が為されるようになっている。

 そのために、われわれ関連領域の人間が考慮しなければいけない要素は急速に増えている。

くわえて、研究者自身が、発達という旅路にあるものとして、積極的に自己を理解・変容するためのとりくみに従事するよう求められている。

こうした状況があるためか、人間の発達について専門的に研究している関係者のあいだでも、今、多くの混乱が生じているようである。

とりわけ、発達心理学の先端文献が殆ど翻訳・紹介されないという今日の出版状況のなかで、国内の関係者は、国際的な動向と隔絶したところで――過剰なまでに国内的(domestic)な関心にもとづいて――形成される雰囲気にますます絡めとられることになっているようである。

また、近年、国内においては、集合規模で言語能力が急速に地盤沈下するという退行状況が展開しているために――つまり、普遍的な説得力をもつ、真の叡智を創造することのできる強度をそなえたものとしての日本語が弱体化しているために――専門的な研究者であるか否かを問わず、人々の関心はますます狭隘化している。

こうした状況において、高次の発達という現実を実感をもって意識することが困難になるのは、致しかたのないことであろう。

しかし、そうはいっても、関連情報は断片的に紹介されるわけで、それを咀嚼するための枠組みをもたない関係者は、どうしても歯痒い気持ちをあじあわされることになる。

いうまでもなく、これは、ひとりひとりの誠意や努力の問題ではなく、今、日本という共同体が内在させている問題である。

そして、こううした状況を診るとき、あらためて、今、国内で日本語で学問をするということの困難を思い知らされるような気がする。

 

 

こうした状況のなかで、個人的に、とりわけ懸念しているのは、今、日本において、「個となる」ということの奥深さがあまりにも軽視されているということである。

個であるということが、いかに豊穣な叡智を体現することであるのか、そして、個となるためには、いかに多大な試練と困難をのりこえる必要があるのか――そうしたことに関してあまりにも問題意識が希薄なのではないだろうかと思われるのである。

「普通であることの凄さ」ということばを耳にすることがあるが、実際のところ、「常識的・一般的・慣習的」(conventional)な発達段階に到達することは全く容易なことではない。

「あたりまえ」のことをあたりまえにできることが実際にはどれほど大変なことであるかについてはあらためて説明するまでもないだろう。

そこには、しばしば砂を噛むようにあじけない日常を黙々と生きることのできる静かな意志と叡智と希望と諦念が息づいている。

しかし、われわれはそこに豊穣な叡智が体現されていることを案外忘れがちなのではないだろうか……

ある意味では、人格の発達とは、世界というものが自己の思いのままにならないことを認識・受容する過程と形容できるものである(「自己中心性の減少」)。

「常識的・一般的・慣習的」な段階に至るまでに、われわれは正にそうした課題と対峙して、そこに解決策を見出すことを要求されるのである。

そうした過程をとおして「自己中心性」(自己に対する執着)が健全に減少することができれば、個人の意識と関心は必然的に「私」(“I”)を超えたものに開かれていくことになる。

人間が、矮小な自己の存在を超える「普遍的」なものに自己を捧げることができるのは――たとえば、それは、共同体の歴史や文化であるかもしれないし、また、普遍的な説得力をもつ学問的な真実や法則であるかもしれない――自己に対する執着を克服することができているからなのである。

「常識的・一般的・慣習的」であるとは、即ち、こうした普遍的な現実のまえに自らの頭(こうべ)を垂れることができることなのである。

そして、それは、そうしたことができるほどに、自己の器が深化・拡張しているということを意味するのである。

トランスパーソナル思想のことばを借りれば、正にこれこそが「パーソナル段階」(personal stage)の構造を確立するということなのである。

「今、日本において、個となるということの奥深さがあまりにも軽視されていることを懸念する」というときに、わたしが云わんとしているのは、パーソナル段階を確立するなかで、われわれが通過することになる、こうした課題のむずかしさを軽視する傾向が広範に蔓延しているのではないかという心配なのである。

そうした軽視は、必然的に、パーソナル段階に到達するために必要とされる諸々の支援機構を整えることに関してわれわれを怠惰にすることになる。

そして、それは必ず集合意識の地盤沈下を惹起することになるのである。

 

 

先日、JTAの基礎講座で講演をしたときにも実感したことだが、こうした発達の問題に関しては、トランスパーソナル・コミュニティでも、随分と誤解と混乱があるようである。

上記のように、実はパーソナル段階においても、個人は、自己を超えた普遍的・超越的な次元・領域に対して自己の意識を開いていくことになる。

そこでは、自己の存在を超えるものを認識して、その継承と発展に自己の存在を捧げていくという果敢な「自己放棄」と「自己超越」が行われることになる。

そして、そこでは――しばしば科学者が斬新な発見や発明するときに報告するように――霊感やヴィジョンや偶然に啓発されるという「非日常的体験」も頻繁に経験されることになる。

その意味では、今日、「トランスパーソナル段階」の体験・成長として説明・探求されていることの大部分は、実は、厳密には「パーソナル段階」の範疇にはいることなのである。

こうした誤解が蔓延する背景には、パーソナル段階の体験さえもが稀有なものになりつつあるという同時代の事情があるのではないかと推測される。

パーソナル段階にむけた発達を支援するための叡智と洞察が集合規模で失われるとき、パーソナル段階の領域は――それが簡単に経験することのできないものとなるために――必要以上に神秘的なものとして見做されることになる。

トランスパーソナル・コミュニティの関係者が、パーソナル段階において経験可能となる領域をトランスパーソナルなものと理解してしまう背景には、もしかしたら、こうした非常に現代的な衰退と混乱があるのではないだろうかと思うのである。

Carl Jungが述べたように、現代に在るということそのものは、現代に生きるために必要とされる内的成熟を保証してくれない。

真に現代に生きるために必要とされるものが、自己の無意識を内省して、精神というものが、そして、世界というものが内在させる神秘性に意識と存在を開くことのできる能力であるとするならば、それは鍛錬をとおして開発されるべきものである。

そして、それは決して容易な道程ではあるまい。

しかし、パーソナル段階を確立するということは、そういうことなのである。

その意味では、今、トランスパーソナル・コミュニティが――それと意図せずして――とりくんでいるのは、パーソナル段階にむけた健全な成長を支援するためのそれといえるだろう。

とりわけ、社会の支援機構が急速に溶解している今日の状況において、それは非常に価値のあるとりくみであるといえる。

また、パーソナル段階にむけた発達を促進する社会の支援機構は、今日の「量化の思想」に席巻された文化空間においては、往々にして、神秘性に対する感性を過剰に抑圧・排除する傾向にある。

その意味では、パーソナル段階にむけた発達をトランスパーソナルの関係者が支援することには、非常に大きな価値があるといえるのである。

しかし、同時に、そこでは、われわれは発達論の貴重な洞察を充分に留意することを求められることになる。

多くの場合、トランスパーソナルの関係者自身は、既にパーソナル段階を確立して――Harvard Graduate School of EducationRobert Kegan博士が指摘するように――人類の意識の発達の最先端であるVision Logic段階の意識を探求しはじめているひとたちである。

そこでは、パーソナル段階以上に意識の複雑性と統合力と浸透性が深化するが、また、それゆえに、独自の課題と盲点に絡めとられる危険性が増すことになる(詳細については、Ken Wilberによる“Boomeritis Spirituality”“Mean Green Meme”の議論を参照せよ)。

Vision Logic段階への移行とは、パーソナル段階における普遍的・抽象的な領域への埋没から、具体的・実存的な現実を抱擁する「転落」の過程と説明することができる。

そして、これは、しばしば――プリパーソナル段階とは非常に異なる意味において――「私」(“I”)であることに対する関心と執着を再燃させることになる。

結果として、前期Vision Logic段階の行動論理をとおして体験されるとき、超越的な現実は、しばしば、自己に対する執着を超克しようとする志向性ではなく、むしろ、自己の独自性に対する執着を増幅する志向性にもとづいて解釈・統合されることになるのである。

必然的に、こうした「解釈」はトランスパーソナルの関係者の発言に独自の嗜好性を付与することになる。

しかし、それは、果たして、今日の時代状況において、真に必要とされるメッセージなのだろうか……?

今、日本は世をあげての個性礼賛ブームである。

しかし、実際には、そこに生起する言語生活はますます貧困化しており、普遍的な価値をもつ知識や洞察はますます希薄になっている。

そこには、人格発達のためにまず必要とされる「自己中心性減少」のための支援機構が圧倒的に欠如しているのである。

そうした状況において、果たして、前期Vision Logic段階の行動論理にもとづくトランスパーソナル関係者の言説が真に建設的な役割を果たすことができるのだろうか……?

今、留意されるべき問いとはこうしたものである。

そして、そうした問いにこたえることができるためには、発達の視点がどうしても必要となるのである。

2010/2/27 土曜日

ベルリン・フィルの音

Filed under: Resource — admin @ 8:33:33

非常に高く評価されているベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)の音楽監督のサイモン・ラトル(Simon Rattle)であるが、実はその音楽に感動したことが全くない。

 

歴史的な大不況に見舞われているクラシック音楽業界のなかで、比較的にコンスタントにヒットCDを生みだすことに成功している類稀な指揮者であるが、その音楽には、どうしても解析と工夫の痕跡ばかりがめだち、蒼古とした詩情をどうしても感じることができないのである。

 

ベルリン・フィルハーモニーの音楽監督となれば、必然的にドイツ古典派の交響曲の解釈において、高度のものを要求されることになるわけだが、聴衆はつい最近までギュンター・ヴァント(Gunter Wand)等の超絶的な演奏に触れてきたわけで、ラトルが直面している壁は実に巨大なものといえると思う。

 

先ほどYouTubeを検索していたら、ベルリン・フィルハーモニーの最近の演奏の動画が掲載されていた。

 

クリスティァン・ティーレマン(Charistian Thielemann)の指揮による、ブルックナーの交響曲第8番の最終楽章の演奏である。

 

数分の動画ではあるが、そこにはわれわれがベルリン・フィルハーモニーに期待する響きが確実に継承されており、正直なところ、非常に感動した。

 

少なくともブルックナー演奏においては、ティーレマンは、ラトルの遥か先を行っていることを確信した。

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

尚、ベルリン・フィルハーモニーではないが、ティーレマンがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(Munchner Philharmoniker)を指揮したブルックナーの交響曲第5番の動画がYouTube上にあるので、ご紹介しておきたい。

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

You need to a flashplayer enabled browser to view this YouTube video

 

2010/2/26 金曜日

日本語と英語のあいだ

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 9:26:39

刊行以降、大きな反響を呼んでいる水村 美苗氏の『日本語が亡びるとき』であるが、確かにそこには驚異的な慧眼が示されている。

 

ことばという、ある意味では、人間を人間たらしめる根源的なものを主題としてとりあげている作品でもあり、必然的にその射程はわれわれの文明としての持続可能性そのものにも及んでいる。

 

驚くべき著作である。

 

ことばとは、われわれが日々そのなかで泳いでいる水のようなものである。

 

そして、その「水質」が急激に悪化していることに心ある人々は薄々と気づいていたのであろう。

 

この比較的に地味な著作がこれほどまでに広範に受容されているのは、それが、集合規模で共有されはじめているそうした問題意識に見事にかたちをあたえることに成功しているからなのであろう。

 

但し、そうしてことばにされてみると、今、真に危惧するべきことが起こっていることを痛感せざるをえず、慄然とする想いになるのも事実である。

 

それでは、その「危惧するべきこと」とはどのようなことであろうか?

 

それは、今、世界的規模で、真の叡智を求める人たちが、自国の国語ではなく、普遍語である英語をとおして書かれたものを求めるようになっているということである。

 

たとえば、インターネット上でニュースを確認するとき、われわれは、エンターテインメントやスポーツ等の重要性の低いことがらについては、国内の新聞社のHPを閲覧するが、世界情勢等の重要性の高いことがらについては、New York TimesWashington PostHPを閲覧する。

 

また、今日において、科学や思想等の領域における最新の調査・研究の成果を確認するとき、国語ではなく、英語で執筆された文献をあたることが常識となっている。

 

研究者のあいだでは、既に英語以外の言語で執筆された文献に価値などあるはずがないという暗黙の前提が厳然と共有されているのである。

 

しばらくまえに「頭脳流出」ということばが巷間をにぎわしたが、インターネット網が確立されて以降、実際に発生したのは、必ずしも、優れた頭脳が欧米の研究機関にいっせいに集中するという問題ではなく、むしろ、優れた頭脳が――彼等が物理的にどこに所属するかということに関わらず――英語により構築される言語空間のなかに集中するという状況である。

 

そうした人々は、これまでと同様、日常の意思疎通においては現地の言語空間のなかに留まりつづけるかもしれない。

 

しかし、真の叡智を探求・創造するときには、英語の言語空間に参加することになってしまうのである。

 

結果として、現地語の空間は、そうした叡智とは隔絶したものとして貧困化・狭隘化していくことになる。

 

つまり、極言すれば、現地語の言語空間は、叡智の探求と継承と創造と無縁のところで生産・消費される浅薄・皮相な情報だけが流通する、圧倒的に貧困な言語空間と化してしまうのである。

 

そうした空間において生産・消費されるのは、物理的・歴史的な限定性を超克して、人類全体に寄与することを企図する知識や叡智ではない。

 

むしろ、人々の嗜好の変化にあわせて、目まぐるしく生みだされ、忘れられていく刹那的な幻影のような情報である。

 

それは、今この瞬間における現地の人々の感性と欲求に適合したものであるために、熱烈に受容される。

 

そして、正にそれゆえに、実に僅かな時間の変遷と共に見限られ、忘却されていくのである。

 

そうした情報の充満する言語空間において営まれる精神生活は、不可避的に非常に退嬰化することになる。

 

それは、文脈を共有することのない他者の存在を意識して、自己の思惟を鍛錬するという合理性段階の基本的な条件をないがしろにしたところに成立する、非常に閉塞した精神生活ということができるであろう。

 

実際、日本国内においては、小説や映画をはじめとして、第二次世界大戦後、世界の先端にありつづけた表現活動は、事実上、壊滅状態にある。

 

また、TV等のマスメディアも急激な質的劣化を遂げており、たとえば櫻井 義秀が指摘するように、実質的には、TVは、メディア・リテラシーをもたない文化的・経済的な「下層」を対象とする媒体に失墜している。

 

われわれの周囲には情報の奔流が渦巻いているが、そこには、人間について、世界について、そして、神について、真に信頼にたる洞察と叡智に支えられた情報はあまりにも欠乏しているのである。

 

また、たとえそうした洞察と叡智をもつ人々がいたとしても、彼等にはそれをありのままに――内容を劣化させることなく――国語で表現するための機会は殆どあたえられていない。

 

そうした表現をしたとしても、それは、今日の流通機構のなかでは生き残ることはできないのである。

 

出版社の関係者と話をすると、彼等は、例外なく、今日の日本人が読解能力を退化していることを指摘する。

 

少しでも難解なことばで表現されると、全く理解することができないのだという。

 

結果として、書籍を制作するときには、とにかく「難しい」という印象をあたえないように、ことばづかいを平易にするように注意をするのだという。

 

もちろん、そこでは、読者に真剣な熟考と内省を要求するような「難解」な内容は忌避されることになる。

 

慄然とするような悪循環である。

 

しばらくまえまでは、読書とは、彼方にみえる山頂にむけて登山をするような行為として認識されていたと思うのだが、そうした時代というのはもう過去のものなのだろう。

 

いずれにしても、こうした状況は、単に優れた書籍が売れない、読まれないということだけではなく、国語の言語空間において、ことばを遣うという人間としての根源的な領域において致命的な退行が進行していることを示唆するものである。

 

結局のところ、人間の能力とは――そして、文化・文明の能力とは――その言語能力に比例するものである。

 

正にその根源的な領域において、歴史的な退行が進行しているのである。

 

残念ながら、日本人にとり、英語を真に修得することは容易なことではない(「修得」とは、普遍性のある洞察と叡智を継承・創造することのできる高度の洗練と複雑をそなえた次元において、英語を修得するということである)。

 

それは、今後とも、ごくごく一部のひとたちの責任でありつづけることになるのは、いたしかたないと思う(全てのひとがそうしたレベルに到達することができると発想するのは、英語のむずかしさをあまりにも軽視した発想だと思う)。

 

しかし、英語の世紀に生きるとは、決して英語に自己の全存在をあけわたすことを意味するものではない。

 

正にそうした世紀をむかえたからこそ、その文脈のなかで、日本人が日本語の強度を維持・発展させるための人類史的な責任を負うことになるのである。

 

それは、即ち、普遍的な洞察と叡智を継承・創造する機能を発揮できるものとして、日本語という国語を維持・鍛錬することを意味するのである。

 

水村氏の主張とは、そうしたものである。

 

わたしは、それは非常に卓抜した主張であると思う。

2010/2/24 水曜日

JTA基礎講座配布資料

Filed under: Resource — admin @ 1:14:08

昨日、JTAの基礎講座を担当しました。そのときに配布した資料を転載しておきます。非常に抽象的にまとめられていますので、所々難解な箇所がありますが、御了承ください。

 

JTA基礎講座

2010223

鈴木 規夫 Ph. D.

www.integraljapan.org

 

トランスパーソナル心理学とは?

トランスパーソナル心理学とは、人間の高次の可能性を探求する学問です。拠って、トランスパーソナル心理学について理解するためには、人間の成長・発達(development)について基礎的な概念を理解することが必要となります。

 

成長・発達について理解するために

 

1.        「私」

トランスパーソナル心理学は、「第4の潮流」(“the Fourth Force”)と形容される心理学です。それは、既存の心理学(第1・第2・第3)の遺産を継承しながら、それをいっそう包括的な文脈のなかに位置づけるものといえます。基本的には、心理学とは、全ての個人が経験する主体(subject)としての感覚を対象として調査・研究する学問であるといえます。そして、Suzanne R. Kirschner1996)が指摘するように、それは、人間の意識に息づく「疎外の感覚」を問題としてとりあげて、それを大いなるものとの結合を通して、治癒をもたらすことを企図する実践的なとりくみであるといえます(c.f., The Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis)。こうしたとりくみの核心にあるのが、「私」(“Ego”“Ich”“I”)といわれものです。心理学者は、これを「心の統合中枢」・「心の統合機能」(“integrating center of the psyche”“integrating function of the psyche”)と形容しています。

 

2.        アイデンティティ

アイデンティティ(“identity”)の重要な機能は「自己と他者の境界」(self/other boundary)を構築することにあります。自己をひとつの統一性のある存在として維持するために、人間はこの境界構築の活動に常に従事しています。アイデンティティの内部(inside)に抱擁されたものは、自己の構成要素として認識され、防衛機能を通して防衛されることになります(アイデンティティに包摂されたものに対して攻撃を受けたときには、肉体的・精神的な痛みが経験されることになります)。

 

3.        発達・成長とは?

発達・成長(development)とは、アイデンティティをより広い、より深い世界の領域を包含するものに進化・深化させていく過程のことを意味します。それは、世界をより正確に――よりありのままに――認識・受容する過程であるために、自己中心性減少の過程であるとも形容されます(Howard Gardner)。つまり、世界というものが、自己の「欲求」や「希望」や「思い込み」を離れたところに成立する自律的な存在であることを徐々に認識していく過程であるのです。それは、世界の不確実性を受容することができるようになる過程でもあります。必然的に、この過程のなかで、個人は徐々に強靭性(resiliency)を高めていくことになります。

 

4.        発達の危機

発達は、既存の境界を否定して、新しい境界を確立する「死と再生」(death and rebirth)の過程と形容することができます。そのために、一般的には、発達を経験することには、非常に大きな危険が伴うといわれます。必然的に、こうしたプロセスを無事に完遂することができるためには、適切な「支援と挑戦」(“support and challenge”)が必要となります(Robert Kegan)。また、一般的には、こうした成長が起こるためには、個人・集団の肉体的・精神的な生存に深刻な脅威をもたらす「存在の問題」(“problems of existence”)の経験が必要となるといわれます(Don Beck)。

 

5.        幸福の必須条件

人間のアイデンティティは、本質的に、均衡状態(equilibrium)を維持するよう方向付けられています。幸福とは、基本的には、こうした均衡状態が無理なく維持されている状態に経験される感覚です(具体的には、これは、自己の存在が充足感覚(“sense of substantiality”――Ernest Becker)に支えられている感覚として経験されます)。成長とは、何等かの要因の影響により――例えば、成長衝動・生存条件――こうした均衡状態が崩れて、アイデンティティの再構築が必要となるときに起こるものといえます。その意味では、成長とは、それそのものとしては「善/悪」の価値判断とは離れたところに発生する客観的な現象であるということができます。基本的には、幸福とは、あたえられた生存条件下において、個人の均衡状態が無理なく維持されていることであるといえます。

 

6.        発達段階(Jane Loevinger/Susanne Cook-Greuterの研究を参照)

 

人間の発達は「超越と包含」(transcend and include)の法則に則りながら、下記の発達段階を通過していきます。

 

1.        衝動的段階Impulsive)(pre-personal

2.        呪術的段階(Magicpre-personal

3.        他者利用型段階(Opportunistpre-personal

4.        体制順応型段階(Conformistpre-personal/personal

5.        専門家型段階(Expertpersonal

6.        達成主義的段階(Achieverpersonal

7.        相対主義的段階(Relativistpersonal/post-personal

8.        融合主義的段階(Synthesistpost-personal

9.        自己対象化(Ego-awarepost-post-personal

10.    融合(Unitivepost-post-personal

 

トランスパーソナル段階とは、厳密には、第9段階以上の発達段階のことを意味します(尚、第9段階はケン・ウィルバーがpsychic stageと形容する段階に相当します)。

 

但し、発達過程が第9段階に到達するまえの段階においても、全ての発達段階において、諸々の霊的(spiritual)な体験や感性が経験されることになります。代表的なものとしては:

 

·           非日常的意識状態(nonordinary states of consciousness

至高体験や臨死体験等に代表される非日常的な意識状態。これらは、しばしば、病気(肉体的・精神的)・事故等の極限状況において経験されます。また、芸術や自然や運動等の肉体的・精神的な集中状態/解放状態においても、頻繁に経験されます。くわえて、これらの非日常的な意識状態は、坐禅や祈祷等の霊的な修業を積むことを通して、意図的に醸成することができるようになります。但し、それらの非日常的な体験は、体験時の意識構造を通して解釈・統合されることになります。

 

·           超越的な領域に対する感覚・感性

超越的領域(Subtle領域やCausal領域)に対する直感や霊感や感性として、日常生活において持続的(意識的・無意識的)に維持・発揮される感覚・感性です。これは、しばしば「第6感」と形容され、肉体的感覚がとらえることのできない現実を把握します。また、これは、自己の「魂」(soul)とのつながりとして持続的に経験されるものでもあります(自己の高次の可能性や独自性に対する感覚)。これらの感覚は、生得的に全ての人間にあたえられているものですが、意図的に鍛錬することのできるものでもあります(また、一部には、非常に卓越した鋭敏な感覚を備えている人もいます)。但し、これらの直感や霊感や感性も意識構造との密接な関係のなかで発揮されることになります。

 

危機管理の方法としてのトランスパーソナル

 

トランスパーソナル心理学が主眼とするのは、必ずしも非日常的な体験や感覚を体験するための方法を開発・検証することだけにあるのではありません。むしろ、いっそう重要なことは、そうした体験を人格に適切に統合することにあるといえます。実際には、非日常的な体験や感覚は、日々の生活のなかで、多数の人々が頻繁に経験しているところであり、また、そうした非日常性を体験することを「目的」として積極的に追求することは、往々にして、「霊的物質主義」(“spiritual materialism”)を助長することになります。くわえて、そうした非日常体験とは、膨大なエネルギーの流入を伴うために、適切な意識(mindset)と文脈(setting)に支えられることなしには、多様な問題をひきおこすことになります(例:自我肥大・現実乖離)。

こうしたことを考慮して、トランスパーソナル心理学は、不可避的な体験としての非日常性を適切に体験・解釈・統合するための枠組みを呈示します。とりわけ、近年、これまでにトランスパーソナル・コミュニティを支配した「体験主義」(“experientialism”)に対する反省が為されるようになるなかで(c.f., Jorge Ferrer (2001). Revisioning Transpersonal Theory)、統合機構としての自我構造を成熟させることの重要性が認識されるようになっています。こうした問題意識にもとづいて、今日においては、これまでとは異なる構造的な変容に焦点をあてた「統合的」(integral)な方法論が呈示されはじめています(例:インテグラル・ライフ・プラクティス)。

 

参考資料

 

Christopher Bache (2000). Dark night, early dawn: Steps to a deep ecology of mind. Albany, NY: State University of New York Press.

Allan Combs (1995/2002). The radiance of being: Understanding the grand integral vision; Living the integral life. St. Paul, MN: Paragon House.

Susanne Cook-Greuter (2005). Ego development: 9 levels of increasing embrace. Available at http://www.cook-greuter.com/

Susanne Cook-Greuter (2005). On the development of action logics. Available at http://www.cook-greuter.com/

Jorge N. Ferrer (2002). Revisioning transpersonal theory: A participatory vision of human spirituality. Albany: State University of New York Press.

Robert Kegan (1994). In over our heads: The mental demands of modern life. Cambridge, MA: Harvard University Press.

Suzanne R. Kirschner (1996). The religious and romantic origins of psychoanalysis: Individuation and integration in post-Freudian theory. Cambridge University Press.

Chogyam Trungpa (1987). Cutting through spiritual materialism. Boston: Shambhala.

Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution. Boston: Shambhala.

Ken Wilber (1997). The eye of spirit: An integral vision for a world gone slightly mad. Boston: Shambhala.

Ken Wilber (2000a). Integral psychology: Consciousness, spirit, psychology, therapy. Boston: Shambhala.

Ken Wilber (2001). A theory of everything: An integral vision for business, politics, science, and spirituality. Boston: Shambhala.

Ken Wilber (2006). Integral spirituality: A startling new role for religion in the modern and postmodern world. Boston: Shambhala.

2010/2/20 土曜日

『日本語が亡びるとき』の洞察

Filed under: Book Review — admin @ 3:13:28

 

「知識人」といわれるひとたちの発言が、内容空疎なものになってひさしいが、この作品を読みながら、久しぶりに真に成熟した知性に触れることができたという感触をいだくことができた。

今日、国内では、同時代の生存条件と乖離したところに成立するアカデミアといわれる温室空間のなかで、知識人といわれるひとたちによる自慰的な知的遊戯が延々とくりひろげられている。

そこでは、「相対主義」(脱構築主義)というイデオロギーに浮かされた「お利口さん」たちが、些細な差異を過剰に誇張して、時代遅れの「体制批判ゲーム」に耽溺しているのである。

そこには、彼等が批判と攻撃の対象としている「体制」なるものが着々と溶解しはじめているという厳然たる現実が認識されていないために、そこで生みだされる知識は、結局のところ、同時代人にとり、全く無意味なものに終始することになる。

もともとこの国には、純粋な知的探求よりも、実学を重んじる伝統があるようであるが、それにしても、今日ほどに――とりわけ大学機関の人文学部に在籍する――知識人の質が劣化したのは未曾有のことではないのだろうか……

そうした視野狭窄と比較すると、水村氏の発想は、非常に大局的なものであり、また、実際的なものである。

そして、それは、真の意味で時代に開かれた問題意識に支えられたものであるといえるだろう。

その主張の根本にあるのは、非常にシンプルな洞察である。

それは、少々乱暴であるかもしれないが、それはつぎのようにまとめることができるだろう。

 

日本語という言語を国語として確立することに成功した日本人が、人類全体に対してになう重要な責任のひとつとは、それを普遍的な価値をもつ叡智を創造することのできる十分な強度をもつ言語として鍛錬・継承しつづけることである。しかし、今、日本人の言語能力は、集合規模で急激な地盤沈下を起しており、そうした責任をになうための基盤そのものが溶解している。そうした現象の背景にあるのは、普遍語としての英語を習得することに対する非常に浅薄な強迫観念、そして、国語(canon)を批判することが抑圧の解除と多様性の尊重に寄与することになるという教条的な脱構築主義的なである。むしろ、今、緊急に必要とされていることは、こうした地盤沈下を食止めて、豊かな言語能力を恢復するための国語教育である。また、同時に、現代の普遍言語として君臨する英語の言語空間において、十全に渡りあえることのできる真の知的エリートを育成することである――

 

こうした問題意識は、真の意味で、グローバルな視野をもちえるひとだけがいだきえるものということができるだろう。

英語という支配的な普遍言語の空間に積極的に参画しながら、同時に自己にあたえられた独自性を抱擁・継承することの責務を果たすという、「独自性」(agency)と「普遍性」(communion)の対極性(polarity)の統合を明確に意識した問題意識は、非常に高度の視野にもとづくものである。

それは、こうした対極性の緊張のただなかに、長年にわたり身を置いて、その両方において真の熟達の領域に到達したひとだけがいだくことのできるものであるように思われるのである。

また、そうした問題意識にもとづいて呈示される具体的な構想と戦略は、実現可能性(feasibility)を意識した非常に実際的なものであり、また、「反エリート主義」(anti-elitism)という、過去半世紀にわたり日本を支配してきた病理を超克する斬新なものでもある。

その意味では、そこに示されている洞察と見識は、真に統合的なものということができるだろう。

 

これまで、わたしは、人間の発達という現象に興味をいだいて、少々専門的に探求をしてきたが、そこでくりかえして痛感することは、意識の成熟においてことばというものが果たす役割の圧倒的な重要性についてである。

意識とは、結局のところ、対象化というはたらきをとおして機能するものである。

そして、われわれがことばをあたえることができるのは、対象化することのできたものにだけなのである。

必然的に、意識の成熟とは、われわれが――個人として、そして、集合として――ことばを利用して、対象として世界に定着化することができたものの豊かさに端的にあらわれることになる。

その意味では、言語という能力領域において退行することは、正に人間としての成熟において退行することと密接に関係しているということさえできるのである。

即ち、ことばの貧困化とは、単なるひとつの能力(言語操作能力)の貧困化ではなく、意識する存在としての人間の根源的な能力の貧困化を示唆するのである。

個人的には、自然環境の破壊や自然資源の枯渇以上に、言語の貧困化は深刻な問題であると考えている。

というのも、そうした能力無しには、そもそも世界に存在する諸問題を問題として認識して、それに責任(response-ability)を発揮することができないからである。

「認識」とは、ある意味では、そこに「現実」(reality)を生みだすことである(enaction)。

そして、認識をするためには――また、認識を定着させるためには――われわれはことばというものを必要とする。

豊かなことばを喪失することは、世界を認識する力を失うことであり、そして、世界を創造する力を失うことである。

そして、それは、文脈を共有することのできない――異なる場所や時代に生きる――他者にたいしてなにかを伝えようとする意志を失うことである。

今、失われようとしているのは、そうした文化と文明の持続可能性を保証する必須条件なのである。

 

確かに、世界には実に膨大な情報(ことば)が流通しており、ことばが貧困化しているという状況認識にたいして疑念をいだくひともいるかもしれない

しかし、発達の視点にもとづいてものを見るとは、単に「量」(quantity)を見るだけではなく、むしろ、それ以上に質(quality)を見るということである。

そうした視点と感性を欠如させれば、目のまえの奔流に圧倒され、状況の深層を把握することはできなくなる。

貧困化は、表面的には多様な表現を許容する風潮をもたらし、結果として、流通する情報量を爆発的に増加させることになる(基準の低下にともない、それまでに表現の場所を得ることのできなかった作品にも、そうした場所があたえられることになる――たとえば、「ライト・ノベル」や「携帯小説」といわれるようなものは、その代表例であろう)。

しかし、それらは、歴史をこえて、ひとびとに読み継がれるために十分な普遍性と叡智を内蔵したものにはまずなりえない。

それらは、正に雑誌の記事がそうであるように、読み捨てられていくものでしかないのである。

百年後――あるいは、数十年後――に生きるひとが、洞察と叡智を求めて、そうした作品を紐解くことはまずありえないのである。

そして、今日の貧困化の問題とは、そうしたものばかりが生産され、消費されているということなのである。

それは表面的なにぎやかさに着目した問題意識ではないのである。

 

ことばという、人間の、文化の、文明の存立基盤をいかにして維持・進化させていくかということは、もしかしたら、今日われわれが直面するあらゆる問題のなかでも、もっとも緊急・重要な問題なのかもしれない――水村 美苗氏の作品を読みながら、今、あらためてそのことを実感しているところである。

2010/2/15 月曜日

オバマ大統領について

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 23:20:23

 

undefined

 

http://integrallife.com/node/66225 ケン・ウィルバーKen WilberをはじめとするIntegral Instituteの関係者がオバマ政権の1年目について多角的な評価をしている。

 

5人の見解が紹介されているが、彼等の評価は、基本的には、バラク・オバマという大統領の行動論理がGreen vMeme(前期Vision Logic段階)にあるという意見で一致している。

 

これは妥当な評価だと思う。

 

2009年の政権発足以降、オバマ大統領の発信する「進歩的」なメッセージに対しては、「リベラル」な聴衆が純朴な賛同を表明するいっぽうで、多数の識者からは常に懐疑と懸念が表明されてきたが、実際のところ、ここにきて後者の意見が相当程度に的を射たものであったことが、証明されているようである。

 

人類を新時代へと導く「救世主」として人々に熱狂的に迎えいれられたオバマ大統領であるが、その後の推移を観察すると、そのリーダーシップの端々には、Green vMemeという高次の――そして、非常に深刻な盲点を内包した――行動論理の特徴がまざまざと表現されているように思われる。

 

発達理論をある程度心得ている人であれば、そのあたりのことを診てとることができるだろう。

 

個人的には、オバマ政権に対して特に大きな期待をいだいていたわけではない。

 

むしろ、周囲の無防備な熱狂に漠然とした不安を感じつづけてきたというのが正直なところである。

 

ただ、バラク・オバマのリーダーシップに関して注視していることがあるとすれば、それは、合衆国が覇権国家(superpower)として着実に地盤沈下していくなかで、彼が、そうした衰退のプロセスをどう着地させるのか、そして、その間隙をついて台頭してくることになる暴力的なRed vMeme(他者利用型段階)の行動論理を基盤とする中国やロシアに対してどのような抑止戦略を構築・展開するのかということである。

 

これまでのところ、これらの課題領域においては、何等評価のできる成果はもたらされていないと思う。

 

しばしば指摘されるように、Green vMemeの行動論理のもっとも深刻な盲点のひとつは、とりわけRed vMemeとの関係を営むうえで必要となる広義の意味での安全保障に関連する知性(intelligence)の重要性を真に認識することができないということである。

 

残念ながら、これまでのところ、オバマ政権は、Green vMemeの行動論理を特徴づけるこうした構造的な陥穽を忠実に踏襲しているように思われる。

 

いずれにしても、一連の興奮と陶酔が醒めた今、われわれは、少なくとも、今日の文脈において、前期Vision Logic段階の行動論理を体現する卓越したリーダーが意図せずして――正に高次の能力を発揮することができるがゆえに――生みだしてしまうことになる独自の問題について検討をするべき時期を迎えているように思われる。

 

後慣習的段階(post-conventional)の最初の段階である前期Vision Logic段階は、抽象的な操作能力がもっとも先鋭的に発揮される段階であるといわれる。

 

David Ray Griffinは、この段階の行動論理を支える精神を“hyper-rationality”(過剰な合理性)と形容しているが、それは、シンボル(ことばやイメージ)を縦横に活用して偉大な構想(vision)を創作・発信する、その卓越した認知能力を端的にとらえたものといえよう。

 

しかし、それは、また、シンボルを巧みに操作することができるがゆえに、そうしたシンボル空間に完全に載ることのない人間と世界の限界や暗黒に無意識的になってしまうという傾向をそなえている。

 

Green vMeme(前期Vision Logic段階)の行動論理を体現する人物として、しばしば『もののけ姫』(宮崎 駿監督)の主人公のアシタカが挙げられるが、Green vMemeの行動論理とは、正に「曇りなき眼」で世界を観ることができるがゆえに、皮肉にも、そうした透徹した視野に絡めとられ、世界と人間の救い難い暗黒や深淵に盲(めしい)になってしまうのである。

 

優れた知性がしばしば陥ることになる現実乖離の原因のひとつは“hyper-rationality”のこうしたパラドクスにあるのである。

 

通常、Green vMemeにもとづくヴィジョンは、非常に麗しい。

 

それは、人々を陶酔させ、夢想させ、希望をいだかせる。

 

それは、自己実現講座の講師が参加者を陶酔させるのに似ている。

 

しかし、結局のところ、陶酔というものは刹那的なものであり、世界の現実が必ずそうした白昼夢を打ち破ることになる。

 

そのとき、白昼夢のなかで無為に消費された時間は、取返しのつかないものとして認識されることになる。

 

Green vMemeの行動論理の問題とは、そうした陶酔と浪費を、その卓越したシンボル操作能力を駆使して、完全なる慈愛と誠実さにもとづいて促進してしまうことにあるのである。

 

 

結局のところ、人々は自らに相応しいリーダーを得るものである。

 

こうしたリーダーシップが熱狂的に求められる背景には、リーダーに「夢」を語ることを要求せざるをえない人々の脆弱性があるのだと思う。

 

昨年の日本の政権交代に言及するまでもなく、国家のリーダーにこれほどまでに陳腐であることを強いているのは、窮極的には、その人物を選出した人々の心性なのだと思う。

 

その意味では、今、われわれが集合規模で経験しているリーダーシップ喪失の責任の所在とは、正にわれわれ一般人にあるということができるのだ。

 

今後、真に必要とされるリーダーとは、現実を陳腐な希望で隠蔽することなく、たとえそれが救いようのないものであるとしても、危機を危機として呈示してくれるリーダーなのではないだろうか……

 

少なくとも、わたしにはそれこそがリーダーにできる真の信頼の表明であると思われるのである。

2010/2/10 水曜日

ケン・ウィルバー研究会 - 『万物の歴史』を読む(第5回)

Filed under: Announcement — admin @ 13:55:15

ケン・ウィルバー研究会 - 『万物の歴史』を読む(全6回)

ケン・ウィルバー研究会では、20099月に復刊されたケン・ウィルバー(Ken Wilber)の著書『万物の歴史』(Brief History of Everything)をとりあげ、その内容を掘り下げていきます。『万物の歴史』は、ウィルバーが『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の要約版として執筆したものですが、全体が対話形式でまとめられており、初心者にも非常に解りやすい内容となっています。また、その数年後に執筆されたもうひとつの入門書である『万物の理論』(Theory of Everything)と比較しても、過度に簡略化されておらず、内容的に充実したものとなっています。今回の復刊を機に、あらためてインテグラル理論の核心にあるものを、議論をとおして、探求していきたいと思います。

5

開催日: 228日(日曜日)13:0016:00 p.m.

開催場:アトリエ・イフ・シーエーティー

    世田谷区奥沢6-27-2 アーバンSKビル2

       自由が丘駅より徒歩7

      九品仏駅より徒歩2

     アクセスマップ:http://www.color-art.jp/access.html

参加費用:2,000円(一般)

     1,800円(IJ Member

参加条件:特にありません参考図書:『万物の歴史』(春秋社)対象範囲:第13章~第15尚、会場にて『万物の歴史』を販売しておりますので、必要な方は御申出ください。

6回日程

2009

11017

21115

31223

2010

4130

5228

6322

尚、各回の開催場所の情報は後日、インテグラル・ジャパンのBLOG等に掲載いたしますので、そちらをご確認ください。

主催:インテグラル・ジャパン

URLhttp://integraljapan.net/

連絡先:info@integraljapan.net

 

2010/2/9 火曜日

インテグラル理論中級講座

Filed under: Announcement — admin @ 23:35:10

 

インテグラル・ジャパン

インテグラル理論中級講座

 

ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の提唱するインテグラル理論(Integral Philosophy)は、現在、ひとつの思想としてだけではなく、世界各地において、個人と集団を対象とした多様な実務的な活動のオペレーティング・システムとして応用されています。これまで、日本においては、インテグラル理論の思想的側面は紹介されてきましたが、そうした実務的な方法論としての側面はあまり紹介されてきませんでした。しかし、近年、国内・国外において、そうした実践活動が富に実施されるようになり、その結果や成果が蓄積されるようになりはじめています。そうした実践の成果の検証を通して、インテグラル理論というものが、われわれの日常生活において具体的にどのように応用することができるのかが明確になりはじめているのです。インテグラル理論中級講座では、そうした近年の成果を踏まえて、インテグラル理論を実践の枠組みとして利用するための基礎をご紹介します。

 

多様な文化的な背景を有する人々の共同作業がますます要求される今日の複雑化・多様化する社会に於いて、真に効果的な行動をすることができるためには、統合的な視点が必須のものとなるといわれます。現在、カウンセリグ・コーチング・コンサルティング・マネジメント・教育等の領域に於いて、クライアントの成長支援や能力開発に携わっている方々にとり、こうした統合的視野を確立しておくことは、非常に強力な武器となります。この中級講座では、そうした統合的視野を確立するための支援を提供します。

 

1回:統合的な状況分析(Integral Intake

クライアントとの共同作業において、クライアントの状態とクライアントを取り巻く状況を包括的に把握することは、効果的な支援を提供するうえで必須の条件となります。第1回では、インテグラル理論にもとづいた状況分析の方法を概観します。

 

2回:統合的なリスク管理(Integral Risk Management

各発達段階は独自の叡智と盲点に特徴づけられます。クライアントとの共同作業において、クライアントの発達段階(行動論理)を把握し、その叡智を引き出し、また、その盲点を意識化することは、適切な支援を提供するうえで非常に重要となります。第2回では、インテグラル理論にもとづいた危機管理の方法を概観します。

 

3回:インテグラル・コーチングとは?Integral Coaching

インテグラル・コーチングは、インテグラル理論にもとづいた統合的な他者支援の方法論です。その包括的・深層的な視点にもとづいたコーチング手法は、現在、最先端の方法論として注目を浴びています。第3回では、このインテグラル・コーチングの内容を概観します。

 

尚、当講座は、各参加者の具体的な興味や関心を採りあげて、それについての議論や対話を交えながら進められていくことになります。こうした対話の質を維持するために、定員を15人とさせていただきます。

 

開催場所:アトリエ・イフ・シーエーティー

     世田谷区奥沢6-27-2 アーバンSKビル2

      自由が丘駅より徒歩7

      九品仏駅より徒歩2

      アクセスマップ:http://www.color-art.jp/access.html

日:

1425日(日曜日)

2529日(土曜日)

3619日(土曜日)

開催時間:13:3017:00

 

費:

3回参加

45,000円(一般)

41,500円(会員)

 

1回参加費

18,000円(一般)

15,000円(会員)

 

定  員:15

参加条件:これまでにインテグラル・ジャパン主催の下記のイベントのいずれかに参加していること

·           インテグラル理論基礎講座/インテグラル理論入門講座

·           インテグラル・ライフ・プラクティス(Integral Life Practice

·           インテグラル・トランスフォーマティヴ・プラクティス(Integral Transformative Practice

·           インテグラル思想研究会、別名、ケン・ウィルバー研究会(3回以上)

·           オープン・ワークシップ(3回以上)

定員に到達次第締め切ります。なるべく事前にお申込み下さい:http://integraljapan.net/info/seminar2010_tyukyu.htm

会員(IJ Members)への申し込みはこちらで受け付けています:http://www.integraljapan.net/info/ijmembers.htm

 

講師:鈴木 規夫Ph. D.(インテグラル・ジャパン代表取締役)

人間の心理的発達と能力開発の領域において10 年以上にわたり研究と実践に取り組んでいる。企業組織における人材育成を主要な活動としており、主に発達段階の測定、リーダーシップ・パイプラインの構築、及び、エグゼクティブ・コーチングとリーダーシップ・トレーニングを担当している。

2004年にCalifornia Institute of Integral StudiesCIIS)で博士課程を修了。専門は、東洋と西洋の心理学(East-West psychology)。日本に帰国後、アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。 2005 年より、個人の統合的成長を目的とする実践のプログラム(Integral Life Practice)、及び、組織文化の統合的変容のプログラム(Culture of Leadership Program)というインテグラル思想を基盤としたプログラムの実施に中心メンバーとして参加している。また、ケン・ウィルバーの主催するインテグラル・インスティトュート(http://www.integralinstitute.org)の創立メンバー。現在は、International Advisory Board の一員として参加している。

2010/2/4 木曜日

“KNOWING”

Filed under: REFLECTIONS — admin @ 15:59:17

 

21世紀はしばしば「危機の時代」と形容される。

 

確かに、20世紀以降、人類は――昨年、逝去した宗教哲学者のEdith Wyschogrodが指摘するように――人間の手により創造された大量破壊(“Man-Made Mass Death”)の可能性と常に隣りあわせに生活している。

 

また、今日、惑星規模で展開する生態系破壊と自然資源の枯渇は、人類の生物種としての生存可能性そのものを大きく揺らがせている。

 

その意味では、大量破壊、あるいは、大量死とは、具体的なイベントとしてではなく、むしろ、着実にわれわれの日常のムードとして密かに定着しているという指摘は決して的外れのものではないだろう。

 

いうまでもなく、これまでの歴史をとおして、人類は常に死という現実と格闘しつづけてきた。

 

人類学者のアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)によれば、人類は、この回避することのできない「生存の条件」を、文化や文明という「象徴的な超越」(“symbolic transcendence”)の仕組を共同して構築することをとおして、「克服」してきたという。

 

その論理とはつぎのようなものである:

 

確かに個人の肉体と精神は死することになるかもしれない。

 

しかし、この世界にその個人が存在したことの証は、そのひとの創造した業績や価値として、共同体の集合的な記憶のなかに継承されつづけていくことになる。

 

つまり、個人は、共同体の歴史をとおして、永続的な生命を獲得することができるのである。

 

このような信念のもと、人間は、意識の水面下に蠢く圧倒的な虚無を排除して、「意味の構築」という象徴的な創造作業に従事してきたのである。

 

人間は、死を認識することができるからこそ、そして、死を超越できるとしんずることができるからこそ、この不条理な世界において、正気を失うことなく、創造的に生きることができるのである。

 

しかし、20世紀において、人類が創造した大量破壊の可能性は、そうした人類の歴史的な営みに深刻な脅威をあたえることになる。

 

瞬間のうちに、共同体を蒸発させてしまうその圧倒的な破壊力は、これまでに人類の「正気」を保障してきた「象徴的な超越」という適応法の妥当性を根源的な意味で溶解させてしまうことになるのである。

 

死んでいくひとびとの遺産を継承する共同体そのものを死滅させてしまう、こうした大量破壊は、死という生存の条件との関係において、人類が歴史的に創造・蓄積してきた叡智を、事実上、完全に無意味化することになりかねないのである。

 

そして、今、急速に展開する惑星規模の生態系の破壊は、そうした大量死の可能性をいっそう切実なものとしてわれわれに衝きつけている。

 

21世紀という時代の本質を形容することばとして、われわれはしばしば「危機」ということばを耳にするが、個人的には、現代の危機の特異性とは、単に危機の規模が惑星規模のものに巨大化しただけではなく、むしろ、それがこれまでの歴史的な叡智を無意味化するような画期的な性格をともなうことにあるのではないかと思うのだ。

 

そして、今日、われわれが意識の深奥で朧気に体験している不安とは、単に深刻化する社会的な諸問題に対するものだけではなく、その深層において、この惑星における人類の適応能力そのものがほころびを来たしはじめていることに対する直観に基因するものなのではないかと思うのである。

 

そうした歴史のあらたな局面をむかえて、根源的な意味において、「生きる」という営みにおいて、名状しがたい麻痺状態にとらわれているというのが、今日の人類の状況なのではないだろうか……

 

ときにそんなことを思う。

 

そんなことを考えているときに、先日、思いもかけず、そうした現代的な主題を正面から採りあげた、すばらしい作品を鑑賞したので、御紹介しておきたいと思う。

 

『ノウイング』(Knowing)という作品である。

 

 

2009年を代表する傑作である。

 

監督のアレックス・プロヤス(Alex Proyas)は、これまで『ダーク・シティ』(“Dark City”)という秀作により知られていたが、今回の作品で漸くその本領を発揮することに成功した。

 

その本質とは、正に「ヴィジョナリー」と形容されるべきもので、21世紀というこの未曽有の危機の時代に生きるわれわれが意識の深層で体験している茫漠とした不安に形をあたえることに見事に成功している。

 

今日、人類の集合意識のなかに蠢きはじめているのは、今世紀において直面することになる危機が、人類の対応能力を完全に凌駕する圧倒的な規模のものとなるではないかという不安であろう。

 

そうした危機をまえにして自らにできることは、ただ立ち尽くすことだけではないのだろうか?――今日の不安とは、そうした粛然とするような感覚ということができるだろう。

 

そこで要求されるのは、目前の状況に英雄的に対応するための能力ではなく、むしろ、圧倒的な破壊と混沌の力をまえにして、完全なる無力さのなかで、自己の最期を迎えるための能力でしかないのかもしれない。

 

われわれはそうした状況に追い込まれることを恐怖して、自己の責任能力と対応能力(“response-ability”)を信じようとするが、同時代の生の現実とむきあうとき、そうした自信がいとも簡単に溶解することを意識の深奥で実感している。

 

現代の芸術作品のとりあげるべき主題のひとつとは、正にそうした破滅の予感に形をあたえることにあるといえるだろう。

 

この作品は、正にそうした21世紀の主題を最高の演出と技術を駆使して映像化することに成功したものである。

 

作品は、視聴者を信頼して、この世界の本質的な不可知性と残酷性をありのままに呈示する果敢さと胆力をそなえたもので、われわれは主人公が経験することになる過酷な運命を目撃しながら、そこに、この危機の時代を生きる自己の存在を見詰めなおすためのあたらしい視座を発見することができる。

 

興業的にはそれほどの成功を収めることはなかったようであるが、この作品の価値は、今後、確実に高まることになるのではないだろうか……

次のページ »

HTML convert time: 3.606 sec. Powered by WordPress ME