「エコ」?
リチャード・ハインバーグ(Richard Heinberg)の非常に洞察に溢れたインタビュー動画を御紹介したい。
周知のように、今日、持続可能性(sustainability)の重要性が広範に認知され、社会の諸領域で対応策が練られている。
とりわけ、経済界は、これを好機としてとらえて、政府と協力して積極的に活動を展開している。
諸々のメディアを動員したキャンペインは、この数年のあいだに、「エコロジー」を時代の流行に押しあげることに成功した。
NHKの放送では、「明日のエコではもう遅い」という強迫的なことばが呪文のようにくりかえされ、「エコロジー」ということばを「神聖化」することに成功している。
確かに、厳密な意味におけるエコロジーは、複雑系としての生態系のダイナミクスに着目する非常に高度な認知構造を要求する学問であり、そうした認知構造が広範に共有されていない状況において、治世者がマスメディアを動員して、そうした「呪文」を配信することをとおして、特定の空気を醸成することには意味があるのかもしれない。
しかし、そうした空気に対して違和感を覚えているひとも実は多数いるのではないだろうか。
また、歴史的には、大衆操作を目的として意図的・戦略的に宣伝されていた「プロパガンダ」が徐々に治世層までをも思考停止状態に絡めとるという目撃を経験している。
たとえそれが善意にもとづくものであろうとも、集合規模で思考停止状態を醸成することは、結局のところ、冷めやすい熱狂と蒙昧を生みだすことにしかならないのではないだろうか……。
いずれにしても、「エコロジー」ということばが「神聖」なものとして祭り上げられるとき、そこでは必ず大規模な思考停止が発生することになる。
個人的に最も懸念するのは、今日、「エコロジー」ということばが急速にそうした思考停止を称揚する呪文に変容しつつあるということである。
例えば、「定常経済」(Steady State Economics)の関係者が主張するように、今日の人類の持続可能性の危機の要因のひとつは、この惑星が有限なものであるという基本条件に人類が立脚することができていないということである。
実際、殆どの場合において、「エコロジー」ということばが利用されながらも、そこでは、「無限成長」という惑星の有限性の拒絶にもとづいた思想が擁護されつづけている。
そこでは、持続可能性の実現を阻む現代の大量消費型文明の前提条件が全く問われていないのである(こうした積極的な無意識は、例えば、今、新施策として実施されている「エコ・ポイント」なるものに典型的に示されているように思われる)。
そこでは、大量消費活動を惑星規模で維持するために、代替エネルギーの開発が鼓舞・称賛されるが、しかし、われわれが全精力を傾注して維持しようとしている「大量消費主義」という発想と行動の構造そのものは批判的に問われていないのである。
つまり、上記のインタビューでリチャード・ハインバーグが洞察するように、人類は、同時代の危機にたいして、あくまでも供給(supply side)を強化することをとおして対応しようとしているのである(また、そこでは、豊富な代替エネルギーが、そうしたエネルギーを駆使して、多様な自然資源の消費を高速度化することについては全く意識されていない――これは持続可能性を確立するうえで重要検討事項となるLiebig’s Lawが無視されているということである)。
それは、需要(demand side)を減少することの必要性にたいして一顧だにしないのである。
そして、ハーマン・デイリー(Herman E. Daly)が洞察するように、正にそれこそが現代社会のタブーなのである。
(「不都合な真実」(An Inconvenient Truth)(Davis Guggenheim監督)は、エコロジーの促進が経済的繁栄をもたらすと主張することをとおして、そうしたタブーを冒すことを巧妙に回避したと思う。換言すれば、作品がこれほどまでにひとびとのこころを掌握することに成功したのは、それが大量消費型文明の前提条件を擁護する姿勢に一貫して支えられていたからだということである。)
いうまでもなく、こうした今日のエコロジーの虚偽は、「フラットランド」(Flatland)の影響のもと、必然的に結果するものといえるだろう。
フラットランドとは、解決策とはあくまでも外面(例:技術革新)に見出されるべきものであると発想する。
そこでは、そうした斬新な解決策を必要とする危機的状況を生みだした内的な要因そのものを意識化して、それそのものを問いなおそうとする発想は拒絶される。
今日、経済界の牽引のもと、国内・国外で展開するエコロジー運動が、あまりにも外面的なものであるのは――そして、それゆえに非常に虚偽に充ちたものであるのは――それが徹底してフラットランドの世界観にもとづいて運営されているからなのである。
今日、あまりにも感傷的・感覚的に「エコロジー」という呪文に酔い痴れる同時代の空気に対して違和感を覚えるその感覚は、実は正鵠を射たものであると思われるのである
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