ブログの移行のおしらせ
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コメント (0)“Until you change the way money works, you change nothing.”
- Michael C. Ruppert
われわれは「金」(money)に囲まれて生きている。
それはまるで空気のようである。
それはあまりにも近いところにあるために、われわれはそれについてあらためて対象化して研究することはない。
それをうまく獲得するための方法には興味があるが、そもそも金とは何であるのかということについて真剣に探求することはないのである。
つまり、どのような仕組をとおして、金がわれわれを魅惑して、われわれの生活と仕事と人生を呪縛することになるのかということについて、本質的な問いかけをすることはないのである。
その意味では、金こそが現代における最大のタブーであるといえるだろう。
金を獲得したり、貯蓄したりするための方法については、あらゆるところで実に旺盛な議論がおこなわれているが、それはあくまでも金というものを「最高の関心事」として信奉した前提で執りおこなわれることである。
しかし、そもそも金というものが、それほどの時間と精力を傾注して追求するに値するものであるのかということに関しては――あるいは、そのようなものとして神格化されるに至った深層的な経緯については――根本的な意味では批判的に検討されないのである。
その意味では、金とは、われわれが世界を観察するときに、われわれの意識に対象物として存在するものではなく、われわれのレンズそのものを構成することになる。
あらゆる瞬間において、われわれの意識は金に濁らされることになるのである。
社会では、今、無数のひとびとが、社会貢献をしようと高邁な意志をいだいて、さまざまなとりくみをしている。
そこに息づいているのは、紛れもなく純粋な貢献意識である。
しかし、往々にして、そこに決定的に欠けているのは、金というものにたいする問題意識である。
それがどのようなメカニズムをとおして、個人と社会を呪縛しているのかということにたいする根本的な問いかけがないのである。
それは常に所与の条件としてとらえられるために、彼等の構想しているものが、そのメカニズムを変えることなしには、実現しえないという可能性を直視しようとしないのである。
それほどまでに、金とは、われわれと近いところにあるのである。
それゆえに、それとの精神的な距離を確保することができないのである。
しかし、そうした対象化の作業がなされないかぎり、結局のところ、ありとあらゆる善意のとりくみは、世界を変えることができないで終わるだろう。
上記の引用で、Michael C. Ruppertが言うのは、そういうことである。
*
神学者のPaul Tillichは、「信仰」(faith)のことを「最高の関心事」(“the ultimate concern”)と定義している。
個人の意識を呪縛している最高の関心事こそが、そのひとの信仰なのである。
その意味では、信仰をもたない人間はいない。
人間は必ず何かを大切にして――何かに執着して――生きているのである。
そこでたいせつにされているものが、宗教であるのか、出世であるのか、成功であるのか、快楽であるのか、容姿であるのか、財産であるのか、思想であるのかは関係がない。
そこでは何かが大切にされているのである。そして、その何かを大切にしようとする心の働きこそが信仰なのである。
そして、あらゆるものが経済至上主義というイデオロギーに浸潤されたこの時時代においては(http://jp.wsj.com/Life-Style/node_439872)、大多数のひとびとの信仰とは、金という恩寵をひたすらに求めることなのである。
*
今日の霊性運動を観察すると、そこでは「直観」や「癒し」や「悟り」や「瞑想」をはじめとして、変性意識状態(non-ordinary states of consciousness)に関する様々な話題がとりあげられ、それらを体得するための方法や実践について紹介がされている。
もちろん、それらのとりくみは非常に価値あるものであるのは間違いない。
しかし、そうした変性意識状態が終息して、日常の意識状態にもどり、普段の生活をはじめるとき、われわれは金という信仰を奉じる社会の中にとらえられることになる。
変性意識状態においていかなる恍惚を経験しようとも、日常にもどれば、われわれはこの社会を支配する金という神に嫌がおうにもとらえられることになるのである。
その意味では、今日の霊性運動の深刻な問題のひとつは、神を変性意識状態の中だけに求める傾向にあるということだと思う。
そのために、このなにげない瞬間のただなかに息づいている神にたいしては、非常に無自覚――無防備――になるのである。
残念ながら、変性意識状態の中で経験された崇高な真実についてどれほどたくさんのことばを尽くして説明をしたとしても、金という神によって強力に呪縛されているひとびとには、その意味は伝わるはずはないのである。
また、往々にして、そうした説明をしているひと自身が、日常の意識状態の枠組をとおして、みずからの変性意識体験を解釈しているために、金という神にたいする信仰を冒涜しないようなかたちで、そうした体験を意味づけることになる。
今日の霊性運動があまりにも無力である背景には、こうした状況があるのである。
即ち、霊性(spirituality)というものを変性意識状態における諸々の恍惚や高揚や洞察を経験することであると狭くとらえているために――Jorge Ferrerはこうした姿勢のことを「体験主義」(experientialism)と形容している――結局のところ、日常と乖離したところで自慰的にとりくまれる行為に貶めることになっているのである。
いうまでもなく、問題は金の存在ではない。
それは、社会において必要とされる道具のひとつである。
しかし、われわれは、今、その道具に呪縛された存在と成り果てている。
われわれは実は既に金という神につかえているのであり、そこには異なる神を受け容れる場所は残されていないのである。
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コメント (0)先日、友人に紹介されて、『スライヴ』(Thrive)という作品をYouTube上で鑑賞した。
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI
今、世界中で静かな話題を呼んでいるようである(実は、Post Carbon InstituteのHPにも長文の批評が掲載されており、個人的にも興味を抱いていた - http://www.postcarbon.org/blog-post/666767-film-review-why-thrive-is-best)。
あえていえば、この作品は、 “Zeitgeist: Moving Forward”をはじめとして、自主制作されたのち、主にインターネットを通じて配信されて注目される、一連の「ニュー・パラダイム」志向の作品のひとつであるということができるだろう。
現代におけるさまざまなタブーが触れられており、非常に興味深いのであるが、ただし、あれもこれも一緒くたに詰め込まれているようで――しかも、それらが相互に関連しているような印象をあたえるために――漠然とした抵抗感を覚えたというのが正直なところである。
穿った見方をすれば、作品中にとりあげられている話題のひとつでも、完全に詐欺的なものであることが判明することになれば、作品中にとりあげられている全てのことが同じようなものとして見做されることになる危険があるように思うのである。
作品中には、Catherine Austin FittsやJohn Taylor GattoやSteven M. Greerをはじめとして、それぞれの領域で長年にわたり研究と実践を積んでいるパイオニアが登場しているが、果たしてこうした文脈の中で彼等の業績が紹介されることが、いいことなのだろうか……と思うのである。
もしかしたら、大多数のひとびとにとっては、単なるキワモノ作品でしかないのかもしれないが、個人的には、そう簡単に切り捨てることができるものでもないのではないかという気がする。
ただし、いくつかの疑問があるのも事実である。
・ 微妙な還元主義
作品がとりあげているのは、基本的には、外面領域だけで、内面領域については、ほとんど言及されていない。つまり、本来であれば、ひろく公にされるべき先端的な技術や知見が隠蔽されているために、世界は不幸な状況を脱することができないのだという論旨が展開されているだけなのである。
少数の権力者の利権を守るために、これまで意図的に秘匿されてきた先端技術がひろく共有されることになれば、あるいは、世界はこの悲惨な状況を克服することができるはずだ……――作品の核心に息づくのは、こうした主張である。
しかし、世界の神秘や仕組について解明をして、そうした知見にもとづいて、世界を縦横に操作することのできるような超先端技術を開発することができたとしても、必ずしもそれは内的(精神的・心理的)な成熟をもたらすことにはならない。
内的な成熟とは、あたらしい世界観を習得することをとおして実現されるものではなく、内的な領域の鍛錬をとおしてのみ可能となるのである。結局のところ、世界観とは、意識の内容物(contents of consciousness)に過ぎず、それを容れ替えても、それは真の成熟にはつながらないのである。
作品には、その認識が決定的に欠けているのである。その意味では、この作品には、あたらしい世界観を習得すれば、平和や繁栄がもたらされるとでもいうような、無防備な発想があるように思われるのである。
思想家のケン・ウィルバーは、こうした発想のことを「微妙な還元主義」(subtle reductionism)と形容して、それを、諸々のNew Age思想やNew Paradigm思想をはじめとする「進歩的思想」の深刻な盲点として位置づけているが、この作品にも、そうした盲点が先鋭的にあらわれているように思う。
・ システム論的な視座の欠如
Post Carbon Instituteの批評でも指摘されているが、この作品の最大の問題のひとつは、今日の人類文明が直面する資源枯渇の問題をエネルギー問題に還元していることである。つまり、化石燃料よりも効果的・効率的な代替エネルギーを開発できれば――そして、作品はそれが存在するという――人類はさらなる成長に向かうことができると主張するのである(このあたりは、原子力発電を脱却して、再生可能エネルギーにもとづいたものに産業構造を移行すれば、今後も経済成長は可能であると主張する、緑化された成長主義者の発想と同様のものである)。
しかし、現代の問題は、エネルギー(化石燃料)が枯渇していることだけでなく、そうしたエネルギーを用いて、さまざまなかたちで収穫・加工・消費されている他の資源も枯渇局面を迎えているということである。われわれは石油を直接に飲食しているのではなく、それを利用してさまざまな機械や施設を動かし、諸々の資源を収穫・加工・包装・移送して、それを消費しているのである。
たしかに、エネルギー問題の解決は、こうした複合的な問題を解決するうえで、ひとつの重要な要素とはなりえる。しかし、安価なエネルギーが供給されるようになることは、場合によっては、他の資源の枯渇を早めることにもなりえるのである。その意味では、この作品には、複合的な要素間の関連をとらえようとするシステム論的な思考が欠如しているように思えるのである。
*
作品中には、数々の興味深いアイデアが次々と陳列されはするのだが、結局のところ、それらはひとつ統合的な構想を結ぶことがないままに終わる。
作品は、合理性段階の「技術信仰」や「成長信仰」に立脚する、今日の人類文明の危機を克服するための方途を示そうとしているのだが、作品そのものが構造的に合理性段階の行動論理に呪縛されているために、最終的には、既存の「信仰」を追認することになってしまう。
個人的には、このあたりがとても残念である。
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コメント (0)思想家ケン・ウイルバー(Ken Wilber)は、「保守」(conservative)と「革新」(liberal)の本質を下記のように整理している。
What is the real difference between liberal and conservative? Well, if you ask the simple question—Why do human beings suffer? —you will get two different, basic answers. The conservatives will say, You suffer because of yourself; the liberals will say, You suffer because of someone else….
In each case, the conservative mostly recommends interior changes, the liberal, exterior changes. Likewise, when it comes to social change, the conservative recommends interior development (character education, family values, industriousness, self-responsibility); the liberal recommends exterior development (material improvement, economic redistribution, universal health care, welfare statism). Of course, there are exceptions. But more often than not, that is a genuinely basic difference in socio-political orientation between conservatives and liberals.
http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/wtc/part2.cfm/
一見すると、あまりにもシンプルな説明であるために、抵抗を覚えるのだが、実はひとつの基準としては非常に有効なものである。
われわれは基本的に自らの自由な意思にもとづいて、日々、認識・思考していると確信しているが、実はわれわれの認識や思考は、われわれの立脚している深層的枠組(「認知構造」・“vMeme”・「行動論理」)に大きく規定されている。
これは、われわれが日本語で認識・解釈・思考している限り、日本語の文法構造――そして、日本語をとおして人格形成することで涵養してきた感性や感情――にどうしても呪縛されるのと同様のことである。
もちろん、このことは、人間に自由意志が存在していないということを意味するのではない。
むしろ、これが示唆するのは、われわれが想像する以上にわれわれの精神生活がわれわれの立脚しているものに制限されているということである。
個人が自らの政治的な立場を選択するとき、当然のことながら、そこには実にさまざまな要因が影響をすることになるわけだが、その選択が意識的・無意識的なものであるにかかわらず、いったん選択がおこなわれると、そのひとの認識や解釈や思考は、そうして選択された立場に随分と制限されることになる。
余程卓越した自己内省力をそなえているひとでない限り、自身の選択した立場があくまでもひとつの立場であるということを――立場というものが、ひとつの認識の枠組として、世界を特定のかたちで立ち上がらせるものであるということを(それは世界を照明することであり、また、歪曲することでもあるということを)――自覚することはできない。
ほとんどの場合においては、個人は、自らの自律的な解釈や思考や判断にもとづいて意見を表明するのではなく、自身をとらえている立場の拡声器として自動機械的に喋らされることになるのである。
こうしたことは、「保守」と「革新」という政治的な立場に関してもいえることで、実際、あまりにも多くのひとびとの思考がこうした自動機械的な反応にもとづくものに終始している。
インターネットは、われわれに多様な情報を提供してくることになったが、同時に、われわれは、そうした多様な情報の中から、自分の嗜好や立場に合致するものだけをとりだし、それに浸ることで満足してしまうという自己閉塞の危険とも隣り合わせに生きることになっている。
SNS等においても、結局のところ、周りに自分と意見や嗜好を同じにするひとびとを配置することになるので、結局のところ、自らの思考に揺らぎを生みだすことができないままになるのである。
皮肉なことに、周囲に存在する情報が多様化するほどに、ひとりひとりの思考は硬直化・閉塞化してくるのである。
巷では、「保守」と「革新」という区分はもはや意味をもたないということが盛んに言われているが、深層的な領域に着目すると、実は現代日本には、紛れもなく「保守」と「革新」という対立構造が歴然と存在していることを痛感する。
具体的には(上記のウイルバーのことばをまとめると)下記のようになるだろう:
「保守」(conservative):自己責任論に立脚する発想。苦しみを解決するためには、内的な変化や成長が必要であると主張する。人格陶冶・価値観の確立・自己責任感等の内的な素養や能力の獲得が重要であると発想する。
「革新」(liberal):他者責任論に立脚する発想。苦しみを解決するためには、外的な変化や成長が必要であると主張する。物質的支援の充実・富の分配・福祉等の社会制度の充実等の社会的な制度の変革や充実をとおして、ひとびとの苦しみを緩和することが重要であると発想する。
「保守」とは、困難な状況を解決・克服するためには、自己責任の思想にもとづいて、個人・個人が自己の能力を開発したり、自己の人格を陶冶したりすることが重要であると発想するのである。必然的に、保守派の発想は、ひとびとがこうした内的な変化や発達をすることができるよう、必要な教育や指導や支援を提供することに主眼が置かれることになる。つまり、ここでは、人間とは、生まれたときにはあくまでも未熟な存在であり、その資質や能力や魅力は、社会化されることをとおして――社会の文化や制度の洗礼を受けて、それを習得・超克していくことをとおして――成熟していくものであるととらえられるのである。
「革新」とは、困難な状況を解決・克服するためには、個人・個人の本来的な才能や能力や魅力の実現を阻害している外的な障害や問題を除去することが重要であると発想する。こうした枠組みにおいては、個人とは、「教育」されたり、「開発」されたりするべき存在ではなく、生まれながらに才能や魅力をあたえられている存在であり、必要なことは、そうした要素の健全な発現を妨害する外的条件を排除することであるととらえられるのである。つまり、個人の幸福とは、社会的・政治的な介入を可能な限り排除して、ありのままに尊重されることをとおして実現されると解されるのである。
*
いうまでもなく、「保守」と「革新」の双方に妥当性がある(また、そうでなければ、これほどまでに両者の相克が長続きすることはないはずである。人間は完全に間違った主張にいつまでも固執できるほどに強靭な意志を有していない)。
それらは、この多面的・重層的な人間という存在をありのままに――多面的・重層的に――とらえるために必要とされる視点を提供してくれる。われわれは、それらのどちらが正しくて、どちらが誤っているのかと問うのではなく、それらがどのような限定的な真実を呈示してくれていると問うべきなのである。
重要なことは、「保守」と「革新」のそれぞれ真実を認識したうえで、それらを相補的に統合することである。
しかし、非常に残念なことに、日本では――もちろん、これは日本に限ったことではないが――いまだに「保守 対 革新」という構図にもとづいた思想的な衝突がつづいている。それは、あまりにも愚かしい対立であるし、そして、何よりもそうしたことばに囲まれて生活するのは、健全な精神のはたらきを阻害されているようで、精神衛生上よろしいことではない。
そんな貧困を目のあたりにすると、暗然とした気持ちになる。
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コメント (0)昨日はグルジエフやスタイナーの思想に詳しい畏友と夕食を共にしながら、終電間際までいろいろ話し込んでいた。
わたし自身はそれほどこれらの思想家については詳しくないのだが、説明をしてもらうと、彼等の呈示していたものが、その大枠においては、ケン・ウイルバー(Ken Wilber)のインテグラル思想と非常に似ているものであることを実感する。
もちろん、それぞれの思想家の感性は異なるし、また、それぞれの時代や文脈の中で彼等が背負わされているものも異なっている。
ただ、彼等に共通しているのは、人間というものが半ば夢見状態の中で自動反応的に生きているということにたいする強烈な問題意識である。
世界には、そうした夢見状態からの覚醒を促そうとする作用が働いているにもかかわらず、人間が「効果的」な防衛反応を発動して、夢見状態を維持しようとする生物であることにたいする透徹した認識である。
周知のように、これらの思想家は、「トランスパーソナル思想」をはじめとする、諸々の新宗教運動に直截的・間接的に影響をあたえているが、個人的には、彼等の思想の核心にある問題意識は、こうした思想運動には実質的にはあまり理解されていないのではないかと思うことがある。
即ち、新宗教運動においては、「変容」や「進化」や「変革」や「覚醒」をはじめとする、それらしいことばが持て囃されはするのだが、そうしたことばによって喚起される楽園的な世界観そのものが、あらたな「夢」になってしまっているのである。
結果として、ひとびとは、「わたしは覚醒している……なぜならば、わたしはそうした革新的な神秘思想に共鳴しているから」という、根拠の薄弱なエリート主義に呪縛されてしまうことになるのである。
こうした状態に陥るとき、人間は、往々にして、そうした思想を抱擁できることそのものが、覚醒していることの証であると勘違いしてしまい、それとは異なる思想や世界観や信条を擁護している人々を軽蔑したり、攻撃したりすることになる(ウイルバーは、今日の「スピリチュアリティ」や「ニュー・エイジ」の信奉者にひろく診られる、こうした攻撃性を“performative contradiction”と形容して、批判をしている)。
こうした倒錯は、新宗教運動の展開のもと、諸々の神秘思想の訓えが書籍や研修をとおして容易に入手できるようになるなかで、広範に蔓延するようになった。
そして、まさにこうした倒錯した発想そのものが、これらの神秘思想家が夢見状態として危険視したものなのではないかと思うのである。
その意味では、今日の状況は、自己の夢見状態を正当化するための霊的な道具が非常に充実しているために、意識の覚醒という課題にとりくむうえでは、これまで以上に困難なものとなっているのではないかと思うのである。
ところで、昨日の畏友の話を聴きながら、個人的にとりわけ興味を覚えたのは――また、とりわけ驚愕したのは――グルジエフが、世界には、人間の意識の覚醒を阻害しようとする作用が実に周到に張り巡らされているということを非常に明確に認識していたということである。
いうまでもなく、ウイルバーと同じように、グルジエフも世界には意識の覚醒を触発しようとする「進化の衝動」が息づいていることは認識しているという。
しかし、それはあくまでもコスモスを非常に大局的に俯瞰したときにいえることであり、個人が日々の生活の中で具体的な事象として認識できるような判りやすいものではないのである。
実際、「スピリチュアル・コミュニティ」の関係者と会話をしていると、しばしば、そこで進化ということばが実に御都合主義的に利用される傾向にあることに気づく。
同時代の中で発生している具体的なイベントを指して、「まさにそこに人類の意識が進化している証拠を見出すことができる」というような発言がなされるのである。
とりわけ近年においては、大規模の政変や震災が頻発していることもあり、そうした傾向は非常に顕著に観察することができる。
つまり、それらの非日常的な状況の中で数多くのひとびとが果敢な行動をしているために、それらの具体的な動向をみて、あたかもそこに人類史的な変容が生じていると錯覚してしまうのである。
「東日本大震災をとおして、日本人は覚醒しはじめた」とか、「中東の民主化運動を契機として、人類は目覚めはじめている」とかいうことが、大真面目に主張されるのである。
しかし、グルジエフは、そうした発想を否定する。
そのような発想は、人間にとって、変容をするということが、成長をするということが、進化をするということが、いかに困難なことであるのかを弁えていない世迷言に過ぎないのである。
むしろ、彼は、人類というものが、いまだに相互に反目したり、衝突したりすることしかできない時代の只中に置かれていることを指摘する。
人類はいまだに未熟であり、くわえて、このコスモスそのものに人間の成熟を阻害するような作用が厳然と働いているというのである。
換言すれば、人間にとり、意識の覚醒を実現するとは、コスモスの導きにこたえることで実現されるものではなく、ある意味では、人間の覚醒を阻害しようとするコスモスの妨害に抗いながら、とりくまれるべきものであるととらえられるのである。
こうした説明を聴いたときに、グルジエフというひとが――今日の霊性運動の関係者とは完全に次元を異にする――人間の悲惨な状況にたいする透徹した視点をもっていたことを示されたようで、少なからぬ衝撃を受けた。
たしかに、ウイルバーも、著書(One Taste)において、今日、広範に蔓延しているに「ニュー・パラダイム思想」――「これまでの人類の歴史において目撃されたことのないような画期的な変革が、このわたしが生きている時代において生まれようとしている」と発想する自己陶酔的な発想――は、幼稚な自己陶酔と自己肥大の産物でしかないと分析をしている。
しかし、ウイルバーの思想の中には、果たして人類がコスモスそのものと対決しなければならないほどに困難な状況に立たされているという認識があるだろうかと問われれば、否と答えざるをえないのである。
そこには、ケン・ウイルバーという思想家の天性の楽天性が独自の盲点を生みだしているのだと思う。
また、ウイルバーが生きた時代と場所が、その思想に少なからぬ影響をあたえていることも間違いないだろうと思う。
いずれにしても、グルジエフに関する説明を畏友にしてもらいながら、その冷徹な感性に感嘆すると共に、同時に次のようなことを問わずにはおれなかった。
即ち、今日の霊性運動には、人間の状況にたいするこうした冷厳な認識が、少しでも息づいているのだろうか? という問いである。
そして、また、今日の霊性運動を特徴づけるあまりにも幼稚な全能感と楽観性は、人類がこの過酷な時代がつきつける課題や問題と対峙するうえで、全く救いをもたらしてくれないだけでなく、むしろ、危険なものとなるのではないだろうか? という問いでもある。
それは、ひとびとに「醒めている」という幻想をあたえてくれるかもしれない。
しかし、それは、窮極的には、コスモスとさえ対峙しなければならないという、人間が置かれている状況の過酷さを隠蔽することにしかならない幻想でもあろうと思うのである。
結局のところ、夢をみている人間には、それがいかに麗しい夢であろうと、夢見状態のそのものの限界を克服することはできない。
また、21世紀という危機の時代がわれわれにつきつける課題や問題の複雑性は、夢をみながら対処できるほどに容易なものではないという気がするのである。
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コメント (0)昨日の武術の練習もいくつかの洞察をもたらしてくれた。常に「思考する武術」を指導してくれる師範には感謝である。
(当然、襲撃者がナイフ術を習得している場合にはあてはまらないが)一般的には、ナイフの襲撃は、2種類の形態を採ることになる。即ち、腹や胸や脇を狙って、水平的にナイフを挿し込んでくる形態、そして、上方から振り下ろしてくる形態である。基本的には、夜間の護身においては、あいての所持する武器や襲撃の形態を明確に見極めることができないので、あれこれと考えずに、シンプルな反射運動をすることしかできないわけだが、そうした反射運動だけでは対応できない数少ない状況として、ナイフ攻撃があるという。
個人的には、いわゆる「アラビアン・ナイフ持ち」といわれる後者の攻撃にたいして、どう対応するかということについては、これまでいまひとつ良く理解できなかったのだが、今回の練習では、そのあたりのコツを少しだけ理解できたような気がする。
あいてを攻撃するとき、人間は二本脚の動物なので、必然的に重心を二本の脚に配分することになる(このことは、素手で攻撃をする場合にも、武器で攻撃をする場合にもあてはまる)。そして――これが重要なのだが――あいてに深く斬り込むほど、踏み込んだ脚に重心を多く移行することになるのである。結果として、こうしたとき、攻撃者の両脚はいちおう地面には着地しているのだが、実際には一本で体を支えているという状態になる。そして、正にそれゆえに、体がバランスを崩した状態に陥ることになるのである。
これを護身という観点からとらえると、重要なことは、自身の安全を確保しながら、あいてにどれだけ深く踏み込ませるかということになる。当然のことながら、攻撃を受けるときには、それなりの速度で襲撃されることになるわけで、相当の圧力を受けることになるので、それに潰されないということが必須となる。
しかし、襲撃を力で受けてしまうと、あいては激昂して第2撃・第3撃と攻撃を繰り出してくることになるだろうし、また、そうしたときにはどうしてもあいてをこちらに十分に引き付けることのないままに防御をすることになるので、あいてのバランスをそれほど崩すことができない。
対ナイフ術においては、こうしたジレンマをどう解決するのかということが問題となるように思うのである。
昨日の練習では、練習パートナーとあれこれと実験をしながら、このあたりのことを探求してみたのだが、「ああ、なるほど!!」と思えるような瞬間がいくつかあり、非常に勉強になった。具体的には、「あいてをこちらに十分にひきつける」ということが、腕(とりわけ肘)の柔軟性を維持することと不可分に結びついているということが、今さらながらに理解できたのである。
これはどうしようもないのだが、武器で襲撃をされれば、人間は咄嗟に全身を緊張させて、腕を突っ張って、武器を遠避けようとするものである。しかし、そうすると、あいての武器は、緊張したこちらの体の表面をツルリと滑ってしまい、どこにも絡まることなく、自由に動いてしまうことになる。これでは、あいての武器を制御できなくなる。重要となるのは、こちらの体の力を抜いて、あいての武器や腕と衝突するのではなく、こちらの体を絡みつかせることである。
そのあたりの課題にたいしてどう対処すればいいのだろうか……?
昨日の練習の収穫は、そのコツが垣間見えたことである。
結局、重要なことは、不可避的に守勢に立たされるとき――基本的にそれが護身術の前提である――正面衝突をしないようにするということである。余程の達人でなければ、正面衝突をして無事に状況を解決することはできないものである。つまり、勝てない衝突をするのではなく、それを勝てる衝突に変換するために、どう文脈を変化させるかということが重要となるのである。
武術の中に息づく、そのあたりの叡智を訓えてもらったように思う。
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コメント (0)こういうことに関しては、わたしは完全に時代に遅れているのだが、巷で話題になっている『7つの習慣』(The 7 Habits of Highly Effective People)という著書の概要をWikipediaで調べてみた。
何のことはない、この著作は、発達心理学でいうところの、「前期合理性段階」(Expert)から後期合理性段階(Achiever)に垂直的に移行するための要諦をまとめたものなのだ。
その意味では、合理性段階の水平的な成長を支援しようとするMBAをはじめとする諸々の成人教育の基礎的な能力を紹介するものといえる。
「7つの習慣」は、それそのものとしては成功を保証するものとは思えないが、少なくとも成功のための基盤となるものといえるだろう。
日本にも、この著作の支持者が数多くいるということだが、それも当然のことだと思う。
今、われわれは集合意識の重心を前期合理性段階から後期合理性段階に移行しようとしている。
しかし、そうしたこころみはことごとく失敗しており、いまだに前期合理性段階の行動論理に呪縛されつづけている。
くわえて、後期合理性段階の行動論理を前期合理性段階にいる人々がすんなりと理解できるように紹介してくれる「型」を、日本ではいまだ誰も造ることができないでいる。
この作品はそんな間隙を衝くことで成功を収めたのだと思う。
また、この作品には、日本人好みの道徳的な教訓や説教が適度にふりかけられており、「道徳的に生きること」と「商業的に成功すること」が齟齬なく両立可能なものであるという単純素朴な成功思想を正当化してくれるものである。
そこにあるのは、基本的には、高度成長期の成功方程式として人々の行動を牽引してきた成長主義であり、楽観主義である。本質的には、今、高邁な理想に燃えて、「価値創造」や「企業変革」や「社会変革」や「自己実現」にとりくんでいる有為のひとびとの中に息づいているポジティヴ志向と同質の行動論理にもとづくものである。
ただし、そうした発想には、現代という時代が直面している――正に文明論的としか形容のできない――特殊な課題や試練にたいする感性があまりにも希薄である。そのあまりにも純朴なポジティヴ志向は、浅薄であり、退屈であり、そして、もしそれが同時代の生存状況に適応するための適切な方法であると誤解されるとすれば、危険でさえあると思う。
しかし、同時にいえることは、後期合理性段階という、この複雑な時代を生きるために最低限必要とされる行動論理を習得するためには、このあまりにも「浅薄」で「退屈」で「危険」な発想が、まぎれもなく効果的であるということだ。
個人的には、このあたりに、現代が抱える困難の大きさを痛感するのだが……。
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コメント (0)「新潮45」(2012年4月号)に『反・自由貿易の経済史:「日本的なもの」の敗北』(中野 剛志)という興味深い記事が掲載されている。
周知のように、中野氏は、TPP問題に関して非常に貴重な発言をしており、個人的にも高く評価している識者のひとりである。
ただ、今回の記事であるが、その云わんとすることには共感できるのだが、正直なところ、その論旨の妥当性に疑問をいだかざるをえない。「日本的なもの」と「非日本的なもの」を対立させて、後者が前者を席巻している今日の状況を問題視して、「日本的なもの」の維持を主張するというのは、状況を過度に単純化するものであるように思えるのだ。
今日、日本がしなければならないのは、単純に「日本的なもの」を保護し、「非日本的なもの」を拒絶することでもなく、また、「日本的なもの」を放棄し、「非日本的なもの」を抱擁することでもない。むしろ、課題は、「日本的なもの」を質的(垂直的・構造的)に進化させることである。そして、そのためには、「非日本的なもの」との接触や対峙や受容は、必須となるように思われるのである。
今日、日本に襲来している「非日本的なもの」とは、後期合理性段階(Achiever)の行動論理を先鋭的に体現した発達論的には高次のものである。残念ながら、「日本的なもの」の多くは、いまだ神話的合理性段階~前期合理性段階の行動論理に呪縛されており、これからわれわれが高次の行動論理を志向しようとするとき、周囲には、合理性段階の行動論理を体現するものとしては、「非日本的なもの」しか存在していないのである。
もちろん、異質な文明の中で確立された行動論理を模倣することは、あまりにも安易であり、また、日本の文明的な土壌を荒廃させることになる危険なことでもあろうが、しかし、ひとびとが「非日本的なもの」の言説にこれほどまでに魅惑されてしまうのには、それなりの理由があるのである。そのことを看過して、単に「日本的なもの」を保持することを主張するだけでは、不十分なのである。
その意味では、中野氏の言説は、一般的な意味での保守派の枠組をこえるものではないと思う。そこには、インテグラル理論でいわれるところの「発達論的な枠組」がないために、結果として、これまでの日本の言論界を呪縛してきたありきたりの対立構造に絡めとられてしまうのである。
われわれが直面する課題とは、単に「日本的なもの」を保護するだけではなく、それを質的(発達論的)に進化させることなのである。
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コメント (0)インテグラル理論セミナー
「世界をとらえる枠組みと、人の成長について学ぶ」
講演&ワールド・カフェ
日 時:2012年6月17日(日)14:00~19:30
14:00~17:00 - 講演、17:30~19:30 - ワールド・カフェ
参加費:\5000(BCL卒塾生は\3000)
定 員:30名
会 場:豊洲文化センター
東京都江東区豊洲2-2-18
http://www.kcf.or.jp/toyosu/map.html
有楽町線豊洲駅7番出口より徒歩2分
ゆりかもめ豊洲駅徒歩1分
講 師:鈴木 規夫氏(インテグラル・ジャパン総合研究所代表)
http://integraljapan.net/
主 催:ウィルビジョン株式会社
http://www.willvision.jp/
後 援:Dynamics of Dialogue LLP
お申し込みは bakatsu@willvision.jp まで下記事項を記載の上お送りください。
件名:インテグラル理論セミナー申込み
お名前:
連絡先住所:
領収書: 要 不要 (←どちらかを残してください)
場活流チェンジリーダー塾では、「自分が変われば世界が変わる」というコンセプトで半年間に渡り様々な体験を通して、自分の内面と向き合い続け、あり方を磨きます。
それが結果として、自分の外面である組織やチームを活性化することにつながってゆきます。
人も世界も、もともととても複雑な存在です。複雑であるがゆえに、何か解決したい課題があったときに問題解決法だけでも、因果論だけでも、精神論だけでも変えていくことはできません。まず、現状を偏りなく、歪みなく、ありのままとらえるものの見方が必要になってきます。
そのための参考として、インテグラル理論があります。インテグラル理論は現代の思想家ケン・ウィルバーが提唱しているもので、欧米のリーダー層を中心として注目を浴びている実践理論です。この混迷の時代に人類が直面している集合規模の課題や問題に対処するためのフレームワークとして広く認識されており、ダボス会議の中でも取り上げられたことがあります。
今回はインテグラル理論の日本での第一人者、鈴木 規夫さんをお招きし、世界をありのまま見るための「統合的な思考法」と、そのような思考法を修得するために必要な「人の精神の発達段階」について、ワークや対話を交えながらお話いただきます。
講演のあとは、その理解を共有しさらに深めるためのワールド・カフェを行います。対話の場を通して、学んだ知識とこれまでの自分の経験を融合させ、さらに発酵を進めましょう。
なお、事前に鈴木さんの著書『インテグラル・シンキング』を読まれて参加することをお勧めいたします。
http://amzn.to/qaOb21
【講師プロフィール】
鈴木 規夫Ph. D.(インテグラル・ジャパン総合研究所代表)
人間の心理的発達と能力開発の領域において、20年以上にわたり研究と実践に取り組んでいる。企業組織における人材育成を主要な活動としており、主に発達段階の測定、リーダーシップ・パイプラインの構築、及び、エグゼクティブ・コーチングとリーダーシップ・トレーニングを担当している。
2004年にCalifornia Institute of Integral Studies(CIIS)で博士課程を修了。専門は、東洋と西洋の心理学(East-West psychology)。日本に帰国後、アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。
著書に『インテグラル理論入門』(I & II)(春秋社)、『インテグラル・シンキング』(コスモス・ライブラリー)、訳書に『実践 インテグラル・ライフ』(春秋社)がある。
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コメント (0)危機の時代において、真に必要とされるのは、醒めていることだけではない。巷に流布されるプロパガンダに夢中にならず、醒めていられることは、たしかに重要なことではあるが、それだけでは、単なる傍観者としての姿勢に呪縛されることにしかならない。
そもそも「傍観的であること」と「客観的であること」は異なる。どのような事態になろうとも、醒めていられることを自慢気に語る知識人は、そのことを完全に見落としているのである。それゆえに、彼等は、必然的に、当事者意識を欠いた、無責任な思考や行動をすることになる。実際、こうしたことは、中途半端に知恵のついた知識人にしばしば診られるものである。
この世界において、悪が成功するためには、実は、こうした「醒めている」ことに酔い痴れている中途半端な知識人が数多く存在していればいいのである。全てを冷静に俯瞰・分析しながら、何事にも当事者意識をもつことのできない傍観者としての態度にしがみつこうとする去勢された知性――必要とされるのは、それだけなのである。
自らにあてがわれた役割を粛々と誠実に果たしていれば、社会人としての責任を全うしたことになるという時代は、実は例外的に平和な時代である。危機の時代においては、そうした凡庸な誠実さこそが、悪を増長させるのである。ベテルハイムをはじめ、危機の時代を生きた心理学者たちは、そのことを訓えてくれる。
東日本大震災の発生後、われわれは毎日のように、行政の腐敗振りを目のあたりにしているが――例:原子力村の腐敗・「ショック・ドクトリン」としてのTPPの推進――そうした末期的な状況を見渡すとき、われわれは正にそんな暗黒の時代を生きていることを実感する。
そんな状況下において、あたかも平穏な日常がつづいていくかのごとく、ただひたすらに「誠実」に、「真摯」に、「忠実」に生きていくことだけで、社会人としての責任を果たしたことになると発想するとすれば、それは、あまりにも歴史を無視した態度といえるだろう。
そうしたひとびとは、しばしば、優れた知性を有しているが、同時にそこに漂うのは、醒めて世界を観察できることに陶酔できる無恥であり、傲慢であり、鈍感である。彼等は、この世界の凶暴さと残酷さのまえに、自己が常に立たされていることを忘れて、「観察者」(傍観者)としての立場に絡めとられてしまっているのである。
心理学の世界では、自己観察能力が重要視される。自己の内部に生まれる思考や感情を対象化して、それを内省できることが、精神的な健康を確立するための基盤となるというのである。
そのためだろうか、往々にして、心理学者は、外部の世界に影響や衝撃を受けずに、常に全てを冷静に俯瞰・観察できることが、意識の静謐さを獲得することであると錯覚してしまう(そうした傾向は、とりわけトランスパーソナル思想をはじめとして、坐禅や瞑想等の霊的実践を積極的に採りいれた統合的な態度を標榜しているひとたちに顕著であるように思われる)。外部の世界がいかに劣悪なものとなろうとも、自己の内面領域だけは、「幸福感」や「静謐感」や「充足感」にみたされたものとして維持しつづけることができるはずだという、異様な「ポジティヴ志向」に呪縛されてしまうのである。
Chris Hedgesは、著書Empire of Illusionの中で、現代においては、諸々の心理学的な方法により、「幸福」というものが捏造されるようになっていることに警鐘を鳴らしているが、そうした洞察は、幸福にたいする肥大化した飢餓感に衝き動かされて、心理学や霊性をはじめとする諸々の内面探求に夢中になる現代人の病理を見事にとらえていると思う。
こうしたひとたちは、決してみずからを傍観者であるとはいわないだろう。むしろ、彼等は、自己の可能性を最大限に開発して、人間として享受できる喜びを十全に満喫していると宣言するはずである。
しかし、問題は、こうした幸福を実現しようとするとりくみが、世界がその混迷を深めるほどに、いっそう悲壮で懸命なものに変質しているようにみえることである。人間の内面領域は、社会の文化的・制度的・物理的な悪条件から隔離されて、ひたすらに「幸福感」という麻酔によって陶酔状態に浸されているように思えるのである。その意味では、今日、「自己成長」や「自己実現」の擁護者として活躍している「治療者」たちは、ひとびとの傍観者としての立位置をいっそう強固なものとしているとさえいえるだろう。
今日のように、心理学の知見が横領されるとき、醒めていることに酔い痴れるという、何とも不思議な状態に陥ることになる。そのことに、われわれは用心深くなければならない。
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