Boomeritis SpiritualityV 

鈴木 規夫

今日、Integral Institute(I-I)を機軸として展開するインテグラル思想が実践思想としての方向性を志向するものであることは、インテグラル思想の根幹に存在する人間観が人間存在の悲劇性を明瞭に認識するものであることを確認するとき、ある意味では、必然的なものとして認識されるであろう。

Ken Wilber(KW)が著書のなかで繰り返して指摘するように、人類の集合的進化がどれほど高度の段階に到達しようとも、個人の生命は必ず最も原始的な発達段階(Stage 0)から開始される。真の意味で人間が人間となることができるためには、個人は、共同体のなかに受容されて、そこに機能する潜在性の解発装置の支援をあたえられなければならないのである。つまり、人間が人間となることができるためには、自己の内部に潜在する成長の衝動を慈愛を基盤として解発する関係性の恩恵が必要となるのである。

人間は、自己が地獄に産み落とされたことさえをも認識することのできない完全なる無明――即ち、無意識的地獄("Unconscious Hell")のなかで人生を歩み始めることになる。そして、意識の成長とは、先ず、こうした自己の状況に目覚めること――即ち、意識的地獄("Conscious Hell")を抱擁することを意味するのである。その意味では、人間存在は、誕生の瞬間より、暗黒のなかにあることを宿命づけられた悲劇的なものであり、人間は一生をとおしてこの自己の構造的な条件と格闘することを要求されるのである(Wilber, 2000a)。

こうした宿命を認識しながら、尚、救済を志向することのできる、人間の世界と自己にたいする根源的な信頼感は、誕生以降、共同体によりあたえられつづけてきた慈愛により支えられているものである。つまり、人間にとり、自己の所属する共同体が慈愛の顕現であることは、自己の生命力の持続可能性を維持する必須条件なのである。諸々の過酷な条件にもかかわらず、尚、世界に生き続けることをとおして、自己の救済の可能性を探求する、このような生にたいする根源的な信頼と意志は、人類が、共同体という装置を創造することをとおして、集合として獲得してきた連帯("solidarity")という共有の財産であるということができるだろう。その意味では、自己の存在可能性の基盤である生にたいする根源的な意志を持続しようとするとき、われわれは必然的に共同体への貢献に衝き動かされることになるのである。

インテグラル思想は、人間存在の悲劇性を冷徹に認識したうえで、そうした人間の宿命が、必然的に、人間を自己の救済を成就するための共同活動に衝き動かすことになる動力であることを洞察する。こうした観点にもとづけば、人間の日常を規定するあらゆる活動が、実際には、救済の装置としての価値を体現する神聖なものとして見做されることになる。生活者として携るあらゆる活動が、本質的には、救済の空間としての世界の信頼性を確立するための霊的活動としての意味をもつものとして認識されるのである。

このような人間の構造的な性質を機軸として展開する個人と集合の緻密な相互関連のダイナミクスにたいする洞察は、インテグラル思想の基盤として、その実践的側面に多大な影響をあたえている。インテグラル思想には、変化というものが、実際には、人間存在の根源的な領域における変容を伴う――誤解を覚悟でいえば――非常に危険な行動となりえるものであることにたいする厳然とした認識が息づいている。結果として、こうした認識は、この思想運動の関係者に人間の変化の可能性(困難性)にたいする醒めをあたえることをとおして、その具体的な活動に狷介な慎重をもたらすことに成功している。そこには、「世界の変革者」としてあまりにも純朴に自己を位置づける人々が体現する、あの肥大化した救世主的精神は存在しないのである。

日常生活における人間のあらゆる活動は、本質的には、救済の希望を託されて取り組まれる霊的な活動である。そして、個人・個人のそうした活動は、救済の空間としての共同体("worldspace")の生成に寄与するものとしての意味をあたえられることをとおして、個人を必然的に他者との相互関係に巻き込んでいくことになる。その意味では、個人にとり、自己の行動に救済の空間の生成のための必要要素としての意味をあたえてくれる関係性の存在とは、自己の深層に内蔵されている根源的な恐怖――自己が地獄に存在していることへの恐怖――の克服を可能とする、いわば、正気の確保のための必須条件なのである。そして、こうした関係性への要求は、どれほど「自己実現」の過程が成熟しようとも、その重要性にたいする認識が深められることはあれ、喪失されることはないのである。

他者の成長にたいする責任を抱擁するということが、必然的に、こうした個人と集合を巻き込んで成立する「正気の均衡」そのものを動揺させる行為であることを看過することは、"Change Agent"として自己を位置づけた人間にとり、あらゆる意味において、破滅的な結果をもたらさざるをえない。そして、今日、そうした破滅的な影響を大量に生産しているのが、KWが"Boomeritis Spirituality"と形容する霊性の探求者たちなのである。

Boomeritis Spiritualityの信奉者が典型的に例証するように、こうした霊的探求は、しばしば、自己を救済の構想の擁護者として位置づけたうえで、そうした構想の信奉に他者を誘導することを救済の方途とする傾向にある。いうまでもなく、構想の信奉が救済を意味すると理解する姿勢は、変容を意識の内容(contents)の交換をとおして達成しえるものとしてとらえる霊性("Translative Spirituality")を絶対化する限定的な霊的探求である。しかし、むしろ、こうした姿勢の深刻な問題は、この瞬間において他者が体現している均衡状態がすでに救済を保障する構想として機能しているという厳然たる事実を看過するものであるということである。たとえいかなるものであろうとも、そこにひとつの救済の構想が存在して、それを基盤として生活が組織されているということがもつ意味を軽視しているのである。

そうした無知があればこそ、彼らは変容の触媒としての自己の構想の効果を純朴に信頼することができるのである。つまり、そこには救済の構想が信奉されるときに人間の深層に機能している生死をめぐる格闘にたいする透徹した洞察が欠如しているために、彼らは、他者にたいして、あまりにも純朴に、そして、あまりにも軽薄に自己の構想の価値を主張することができるのである。そして、正にそうした無知があればこそ、彼らは、変容を拒絶する人間の保守性を短絡的に克服されるべきものとして見做して、それにたいして無防備に挑戦し敗北し絶望しえるのである。

インテグラル段階の発想の特徴として、KWは、それが、発達という人間の構造的な宿命にたいする認識にもとづいて、厳格さと寛容さを発揮するものであることを主張する。人間が個人として、そして、集合として発達の過程で経験してきた各段階は、複合的存在(compound organism)としての人間の構成要素として継承されることになる。進化の過程で経験されてきたそれらの各段階の行動論理は、同時代の現実として、着実に働きつづけているのである。その意味では、人間は、過去との連続性を確立することをとおしてしか、自己を確立することができない存在であるということができるだろう。そこで問題となるのは、あくまでも、いかにして過去との連続性を抱擁するかということであり、決して、過去との連続性を受容するか拒絶するかという選択の問題ではありえないのである。歴史的な連続性のなかに自己を位置づけるという責任を怠ることは、必然的に、同時代に存在する過去からの行動論理にたいする無知を生み出し、結果として、生存条件にたいする自己の対応能力を溶解することにならざるをない。発達という構造的な宿命が人間に賦与するこうした持続的な危機にたいする問題意識にもとづいて、インテグラル段階の発想は、進化の過程で蓄積された各発達段階が体現する尊厳(dignity)と破壊性(disaster)を検証しようとするのである。

Boomeritis Spiritualityに代表される、今日、先進国を中心にして展開しているFlatland思想の深刻な問題は、発達という宿命がもたらす人間の構造的な危機にたいしてあまりにも無防備であるということであろう。彼らは、あまりにも暢気に自己の時代を過去の清算を達成する新時代(New Age)として祭り上げて、同時代に強力に並存しつづける過去のダイナミクスにたいして無防備となるのである。

各発達段階は、段階特有の行動論理を成立させることをとおして、人間を自己の救済を獲得するための独特の献身的行動へと衝き動かすことになる。人間にとり、それらの行動は、特有の世界空間を開示することをとおして、自己の集合性への参画を可能とする「霊的交感の行為」(Act of Communion)といえるものである。行為者にとり、それは本質的に意味のある行為なのであり、それにたいする干渉は自己の霊性にたいする攻撃としてとらえられることにならざるをえない。

人類の救済のための決定的な解答として、自己の信奉する構想を声高に主張するBoomeritis Spiritualityの信奉者の姿勢は、そうした純朴な善意が自己の参画する世界空間を絶対化する深刻な自己中心性を隠蔽するものであることにたいして無自覚である。そして、そこには、他者の信奉する霊性が――それがいかに「旧態依然」としたものと見えようとも――各発達段階の行動論理が開示する生存条件に適応した妥当なものであるという可能性にたいする根本的な無知が存在するのである。それは、換言すれば、各発達段階が歴史的に人類の集合的重心として存在したという歴史的事実の重さにたいする無知ということができるだろう。

今日、Boomeritis Spiritualityの信奉者のこうした歴史的感性の欠如がもたらしている最も深刻な悪影響のひとつは、人間の基礎的な発達段階をめぐる混乱――即ち、Spiral Dynamics(SD)がRed vMemeと形容する価値体系の肥大化とBlue vMemeと形容する価値体系の溶解――である。こうした問題は、国内においては、集合的規模における規範感覚の溶解を原因とする急激な治安の悪化というかたちで展開している。Boomeritis Spiritualityの中心的価値観である多様性の尊重という大儀のもと、あらゆる行動論理が平等に許容された結果、同時代に並存する多様な行動論理を統括するために必要となる秩序体系が恒常的な麻痺状態に陥っているのである。そこでは、共同体の統一性の必須条件となる歴史的に発現してきたそれぞれの行動論理の尊厳と破壊性を統括するための集合的能力が阻害されているのである。

SDをはじめとする各種の発達理論が共通して洞察するように、高次の発達段階は低次の発達段階の構造的な課題・問題を解決するために創発する。そして、高次の意識構造の創発をとおして獲得された諸々の成果は、歴史の遺産として継承・洗練されていくことになる。

あらゆる行動論理は独自の秩序体系にもとづいて世界空間を組織するが、そうした秩序形成を合理的思考にもとづいた普遍的思想体系の構築をとおして意識的に執り行う最初の段階は神話的合理性段階である。こうした装置を構築することをとおして、人間は、初めて教義化された客観的な価値体系にもとづいて世界を組織化することができるようになるのである。今日において、神話的合理性段階の歴史的な遺産は、人間の基本的な秩序感覚・規範感覚の確立を保障する倫理・道徳の体系として、共同体の重要基盤として機能しつづけている。これは、自己陶冶の精神を擁護することをとおして、自己の生理的衝動を超越した普遍的な価値にたいする感性を育成するという、人格形成上の重要課題の克服を可能とする装置である。共同体の秩序とは、こうした装置の活力が維持されるときに、初めて保持されえるのである。こうした装置が麻痺状態に陥るときに、共同体は、構成員の秩序感覚を支えることができなくなるために、急速に無秩序化(断片化)の悪循環に陥ることになる。今日、国内において展開している規範意識の溶解とは、神話的合理性段階の偉大な遺産であるBlue vMemeの価値体系の溶解に起因するものなのである。

Boomeritis Spiritualityの信奉者が主張する多様性尊重の精神を基盤とした対話とは、実際には、歴史の成果として継承されているBlue vMemeの健全な機能を前提として獲得されるものである。Blue vMemeという価値体系が、生理的衝動のあからさまな追求行為を厳格に抑止することができているからこそ、相互尊重の精神を基盤する対話活動が成立しえるのである。Boomeritis Spiritualityとは、こうした自己の存立基盤の脆弱性にたいする無知――それは、また、人間存在の発達的性質にたいする無知でもある――を温存しながら、多様性尊重の大儀のもと、共同体の秩序溶解に積極的に加担する歪な霊的探求のあり方といえるのである。

こうした破壊的姿勢は、しばしば、「慈悲」や「慈愛」の名目のもと、際限のない容認主義に結実する。しかし、そうした姿勢が、結果として、暴力性の表現を称揚することをとおして、共同体の溶解を促進するものとなりかねないという意味においては、むしろ、それは、自己の内的な充足を獲得するために他者の福利を巻き添えにしていく、「白痴の慈悲」("idiot compassion")と形容しえるものである(Wilber, 2000b, pp. 370-374)。そこには、相互尊重という精神そのものが歴史的な進化の成果として獲得されたものであること、そして、今日においても、それが集合的な努力をとおして確保されねばならないことにたいする認識が欠如しているのである。

例えば、Boomeritis Spiritualityの信奉者が擁護する代表的な価値観のひとつである非暴力主義は、こうした自らが享受している生存条件の脆弱性にたいする無知があればこそ抱擁されえるものである。Blue vMemeの価値とは、例えば騎士道や武士道に象徴されるように、洗練された思想的体系にもとづいて、共同体の福利にたいする破壊的勢力を抑止・殲滅するための実力(force)を体系的に行使する能力を発揮することにある。Boomeritis Spiritualityの信奉者は、しばしば、非暴力主義を原理主義的に信奉することをとおして、こうしたBlue vMemeの重要機能を批判・麻痺させることになり、結果として、Blue vMemeの存在により抑制されていた暴力性・違法性(Red vMeme)の増幅を助長することになる。今日、第1領域(Civic Sector)・第2領域(Government Sector)・第3領域(Economic Sector)を横断して国内において跳梁跋扈する無数の「濁流」勢力の伸張は、Blue vMemeの溶解によりもたらされているものであることはいうまでもない。

刻々と深刻化するこうした状況にたいして、New Ageの創造の牽引者を自認するBoomeritis Spiritualityの信奉者たちは、有効な対応策を処方することができないだけでなく、むしろ、現代に生まれ合わせることをとおして自己にあたえられている歴史の恩恵を食い潰していくことに汲々としているだけである。相互尊重という非常に限定的な生存状況において妥当性をもちえる価値観のなかに人々を埋没させることをとおして、益々、同時代において肥大化する暴力性にたいする無防備を悪化させているのである。

確かに、閉塞化した精神状態が蔓延するなかで、自己の根源的な生命力を活性化しようとする「体験主義」(experientialism)や「感覚主義」(sensualism)等の内面探求は価値を有するものである。しかし、人々がそうした内面探求に没頭しているあいだに、同時代の生存状況は、治安の溶解が必然的にもたらすことになる、より直截的な破壊性・暴力性を周囲に充満させている。今後、発生するであろう生存状況の劇的な劣化は、瞬時に、そうした内面探求をとおして獲得された癒しの甘美な記憶を剥奪して、あらためて人々を人間存在の原点である構造的な悲劇性と対峙させることになる。その意味では、Boomeritis Spiritualityの妥当性とは、自己の信奉する過度に美化された人間観が意味をもちえるだけの平穏な生存状況がBlue vMemeにより確保されるあいだにおいてのみ維持されえるものであるといえるのである。

現代において、インテグラル・スピリチュアリティ(ITP)を実践するとはいかなることを意味するのだろうか? また、インテグラル・スピリチュアリティというものが、Vision Logic(VL)段階の意識構造を基盤として実践されるものであることを考慮すると、それは、そのまま、こうした時代状況のなかで、VL段階の行動論理にもとづいて、日常を生きるとはいかなることを意味するのかという主題を探求することでもある。

この主題について探求するうえで、とりわけ重要なことは、KW(2003)が指摘するように、歴史上、いかなる変革も、個人・集合の内的成長(interior development)を伴うものでないときには、必ず失敗に終わってきたということである。実際、Flatland思想の蔓延する今日の状況において主張される殆どの改革論は、共同体の諸々の外的機構(LR)の構造改革を主張するものに終始するものである。そこには、共同体として共有・志向するべき思想的構想の明確化という改革の根幹となる精神的な必要性にたいする認識が決定的に欠如しているのである。とりわけ、国内においては、こうした傾向が非常に顕著であり、泡沫のように雲散霧消していく諸々の政治改革議論の葬列は、共同体内に自らの集合的な自浄能力にたいする深刻な不信感を蔓延させることになっている。

今日の国内・国外の治世者層を特徴づけるこうした思想性の欠如という症状は、本質的には、質的発想(内面的発想)を駆逐する量化の思想としてのFlatlandの蔓延が、世界的に完結していることの証左であるといえるだろう。そして、正に、この「深み」(depth)の剥奪という問題にたいして、今日、インテグラル思想は戦略的・実践的に取り組もうとしているのである。

しかし、非常に皮肉なことに、こうした問題の解決の主導権をにぎるべき階層であるBoomeritis Spiritualityの信奉者の取り組みは、長期的には、こうした内面的探求を可能とする共同体の基盤を溶解することに寄与している。ある意味では、こうした取り組みが、表面上、内面性の復権という、時代の要求に対応する処方としての意義を有するものであるだけに、そうしたあり方の罪はとりわけ深いものであるといえるだろう。

KWが指摘するように、こうした取り組みにおいて、とりわけ留意されるべきことは、現在という瞬間のなかに、人類が歴史的に経験してきた全ての段階の行動論理が並存しているということである。こうした歴史的認識なしには、Boomeritis Spiritualityの信奉者が「白痴の慈悲」の行使をとおして犯しているように、共同体の存在基盤にたいする致命的な攻撃をくわえることにならざるをえない。

今日のように、大規模の集合意識の退行が進行している状況において必要とされるのは、必ずしも、New Ageを志向して垂直的進化(変容)を求めることではない。少なくとも、集合意識の地盤沈下が深刻化している状況において、そうした精神的均衡状態を動揺させることは、大規模の共同体の溶解を招来させることにしかならないだろう。

冒頭にあるように、人類の集合的進化がどれほど高度の段階に到達しようとも、個人の生命は必ず最も原始的な発達段階から開始される。そして、人間が人間となることができるためには、個人は、これからも、共同体のなかに受容されて、自己の内部に潜在する成長の衝動を慈愛を基盤として解発する関係性の恩恵を必要としつづける。共同体が溶解するとは、こうした人間の人間化の契機が集合規模で麻痺することにほかならず、それは、ひいては、共同体が最も原始的な発達段階の行動論理に支配されることを意味する。そうした変動的な状況において、自己を人類の意識進化の先導者に位置づけて、慎重さを欠いた「慈悲」を実践することは、たとえそれがどれほど純粋な善意にうらづけられたものであろうとも、結局は、同時代に多大な災厄をもたらすことにならざるをえないのである。

こうしたことを鑑みると、今日の時代状況のなかでインテグラル・スピリチュアリティを実践するとは、現在、共同体のなかに並存している、人類が歴史的に経験してきた行動論理の再統合に貢献するという、ある意味にでは、非常に「ありきたり」の活動にたずさわるということに収斂するのかもしれない。もちろん、こうした「ありきたり」の取り組みに意味を見いだすことができるためには、実際には、VLという非常に斬新な意識構造が必要とされることはいうまでもない。


参考文献

Ken Wilber (2000a). The collected works of Ken Wilber (Volume 7). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (2000b). The collected works of Ken Wilber (Volume 8). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (2003). Excerpt A: An integral age at the leading edge. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/kosmos/excerptA/part3-2.cfm