「主観的な真実」への気づき 〜ダイアログを実践して〜  

渡邉 謙二

1. ITPにおけるダイアログとは

ITP(Integral Transformative Practice・統合的変容のための実践)では、期間中、隔週に集まり、ダイアログ(dialogue)という活動を行っている。ダイアログとは、日本語では対話を意味するが、特にITPにおいては瞑想的(meditative)な態度を持ってお互いの近況や思いなどを傾聴し合うことを強調した対話を指す。
今回は、私がダイアログから得た気づきを通してITPの一端を紹介したいと思う。

ダイアログは、「他者に対する慈愛の心を基盤として、まず何より他者をありのままに受け留める姿勢で他者の声に耳を傾けるところから始める。話し手の全存在を意識の視野に入れるように心がけ、表現される言葉だけでなく、動作や話し手の醸しだす雰囲気にも注意を払う」 *1 という点に特徴がある。まず、何よりも聴き手が相手の話を十分に傾聴することを第一の目的とするのである。

そしてまた、話し手は「自己の主観的真実を尊重したうえで、それを自己の主観的真実として表現する。自己の発言内容があくまでも自己の主観的な視野を通して解釈された限定的な認識に過ぎないことを留意する」*2 ことが要求される。自分自身が見聞きし、解釈したものを、一般論として見なすことなく、あくまで一個人の解釈にもとづいたものとして捉え続けようとするのである。


2. 「主観的な真実」として世界を捉える実践

私は、この原則を心に留めながらダイアログに挑んだが、そうするほどに「話そうにも言葉が出てこない」という体験をした。

このとき、私は聴き手の役割に徹していたつもりでいたが、それは「ありのままに」聴くのではなく、実際は何かしらのアドヴァイスを行なうことを目的に据えた情報収集になってしまっていた。そのために、アドヴァイスではなく共感の意などを示したいと思ったときに、言葉が出なくなくなってしまったのである。

傾聴することは、必ずしもアドヴァイスをすることが前提にあるわけではない。傾聴は、何よりも相手の話を聴いて理解することが目的であり、相手を正しく理解をするために質問をしたり、理解して感じたことをメッセージとして伝えることが大切なのである。

意見を求められても沈黙することしかできず、私はそこで恐怖や孤独感に直面した。日常の会話において私の陥りがちな傾向を、ダイアログの原則が浮き彫りにしていたのである。

こうした恐怖や孤独を通して、私はコミュニケーションの方向性が偏っていたこと、さらにそういった偏りが自分自身の自信のなさからきていたことに気づいた。

アドヴァイスは、問題と自分のあいだに距離をとることによって成り立つものであるが、感想や自分の気持ちは、問題を自分の身に寄せて考えなければ得られない。

私は、自分の気持ちに自信が持てないがために、発言する際に「こんな気持ちを伝えてしまったら相手は失望するのではないか」という不安があったが、そういった不安な気持ちを、アドヴァイスばかり発言することで隠そうとしていたようだ。

特に、他者にとって大切な関心事でありながら、私が普段あまり考えたことがなかった話題や、もしくは自分自身のアイデンティティに関わる話題に返答をするときは、「こんな気持ちを伝えてしまってはまったくの的外れなのではないか」という不安をなかなか取り払うことができなかった。

しかし、一歩進んで考えてみると、そういった不安は、それ自体が私の現状を知らせてくれるものとして必要であると同時に、自分の見方を変化させるときにも欠かせないものであると、ある時に気づいた。

「こんなことを言ってしまったら相手は失望するのではないか」という不安は、原則に沿って一個人の解釈として言い直したならば、「『こんなことを言ってしまったら相手は失望するのではないか』と私は思っている。」となる。

私は、この不安があくまで一個人の限定的な解釈であり、また懐疑的な見方であることに気づいた。そして、この見方を、他者や世界を信頼した世界観に置き換えたいと思い始めるようになった。

このように思い至ってから、ダイアログでは一緒にいる仲間を信頼すること――それによってこの世界を信頼すること――が私の重要な実践のひとつとなった。確かに、これを実社会にまで拡大して、すべての人が他者に善意をもって接していると考えるのは危険だろう。そういった意味で懐疑心を前提として持つのは正当なことである。けれども、ダイアログにあたって原則を遵守していこうと確認し合った仲においても、懐疑心を抱いたままでいるのはどうだろうか。世界や仲間を信頼し、相手の発言が善意によるものであると最終的に判断できるのは本人だけなのである。

幾度も「こんなことを言ってしまったら的外れではないだろうか」だとか「こんなことを言うのは不適切ではないのか」という不安に襲われながらも、これらの不安は、私がこの世界を懐疑的に見た結果、湧き上がったものとして捉え直していく作業が続いている。

こうした作業を続けることができているのは、この世界を信頼のもとに解釈し、そして、他者だけはなく自分自身をもありのままに受け入れるということを行っているITPのメンバーあってのことである。

私は、メンバーが自分の気持ちを率直に話す機会に何度も立ち会ってきた。これらの機会を経て、素直に話すことは、私を含めたメンバーを信頼していなければできないことだと感じた。

そんなメンバーの信頼した態度の後押しを受けて、徐々に私も、何度も懐疑的な態度に陥りかけながらも、自分自身や仲間を信頼する態度のもとに、気持ちを素直に表現できるようになってきた。複雑な心境を、複雑なままに、少しずつ率直に表現するようになった。

今も、ダイアログを行う際に不安や恐怖を感じることはある。しかし、それは自分自身と向き合い、そして他者と共感しあうために必要なものである。不安や恐怖は、私たちが人とつながっていないことを知らせてくれるものであり、また、そこから生じる寂しさによって、人と人とは共感し合おうとするのだと思うからである。


3. 日常生活への応用

これまでの私は、日常生活でも懐疑心に縛られたまま過ごしていた。しかし、この見方を日常生活でも意識して取り入れたとき、友人は、私が考えていた以上に真剣に向き合ってくれたことを覚えている。世界観を置き換えるときには、どうしても幾ばくの時間が必要である。友人は、その際の沈黙を、優しく待っていてくれたのである。

そんな中で、以前は伝えられなかった自分の感じたことや気持ちを相手に伝えることができるようになった。自分の感覚・思考への不安や恐怖を、肯定的に捉えられるようになった。

それは、感情に単に巻き込まれるだけではなく、感情を対象化することを通して、より信頼にもとづいた立場を能動的に選択することができることを「主観的な真実」という認識が示してくれたからである。


4. 最後に

ここまで、私がダイアログの原則から「主観的な真実」という捉え方を理解していく過程と、そこで得た世界観への気づきを述べた。

この気づきは、主観域に選択の可能なスペースがあると示すことで、対話の際に感じていた私の不安を希望に変えてくれるものとなるだろう。

これからも「主観的な真実」の認識が途切れ、世界に対して不安や恐怖を感じることがあるかもしれない。しかし、そんな気持ちを、まさに私が感じていると直視させることで、一方で信頼にもとづいた世界観を選ぶ権利があることを、この気づきが示してくれるからである。

しかし、これはダイアログにおける「原則」に従う中で得た感想であり、自分自身の内面を掘り下げていく過程においては、まだ「初めの一歩」にすぎないかもしれない。

これらの気づきは、インテグラル理論に従った見取り図から言うと、個人の内面領域にとどまるものである。

自分の感じたことを「主観的な真実」として認識すること――この私個人に関する「一人称」の気づきを尊重すること――を第一歩として、他者の「主観的な真実」をも尊重しながら同意点と相違点を認め合う「二人称」の実践、そして世代を超えて認め合えるものを求める「三人称」の実践にも取り組んでいきたい。

*1 ITP資料 Meditative Dialogue「傾聴の技法」より抜粋のもと要約
*2 ITP資料 Meditative Dialogue「傾聴の技法」より抜粋のもと要約