Boomeritis SpiritualityU 

鈴木 規夫

意識の発達とは、窮極的には、人為だけでは説明しきれない神秘的な現象である。意識の構造的な成長とは、文字通り、測り知れない力が働くときに、初めて可能となるのである。しかし、同時に留意するべきことは、必ずしも意図的なとりくみが無意味なものではないということである。自己の成長を促進するために、意図的にできることもまたあるのである。


意識の覚醒は、しばしば、「事故」("accident")と形容される。これは、意識の覚醒というものが、窮極的には、恩寵によりあたえられるものであることを示唆している。そこでは、自己が本質的に体現している悟性が、獲得されるのではなく、認知されるのである。


修行とは、基本的に、到達されるべき目標を設定したうえで、その実現へと自己を傾注する「意図的」な行為とならざるをえない。それは、将来において獲得されるべき目標を設定したうえで営まれるものであるという意味において、本質的には、今、「常に既に」("Always Already")自己が体現している悟性との乖離を促進する、覚醒の阻害の行為とならざるをえない。


Ken Wilber(KW)が指摘するように、あらゆる有効な修行方法は、窮極的には、自己の構造的な限界を露呈することになる。その意味では、意識の覚醒とは、あらゆる修行が成功することにより、自己の治癒の技法としての限界を露呈するときに生じるものといえるのである。即ち、意識の覚醒とは、救済の期待を担ってとりくまれた実践活動が、窮極的には、期待に応えることができないものであることが体験的に認識されるときに、その諦念と絶望のなかに立ち上がるものといえるのである。その意味では、意識の覚醒とは、実践の成就の成果として獲得されるものではなく、むしろ、実践の成就をとおして実践の無意味さが実感されるときに醸成される静謐な空虚のなかに図らずも見いだされるものであるといえるだろう。実践の価値とは、失望をもたらすことによって、人間を自己の希望から解放することにあるのである。


しかし、ここで留意するべきことは、こうした実践の特徴が実践の意義をいかばかりも減じるものではないということである。実践は、救済を保証するものとして聖化された対象への執着から人間を解放することをとおして、意識の覚醒の可能性を向上する。つまり、「事故」を発生しやすくするのである。


基本的には、人間は、自己の追求する対象を獲得することができたときに、初めてそれが実際には自己の投影していた「絶対的価値性」(numinosity)を支えることができないものであることを認識することができる。こうした充足の経験なしに、意識的に対象への執着を放棄しようとしても、それは自己の内部に息づく欠乏感の抑圧を昂進することにしかならない。救済にたいする執着に拘泥するあまり、自己の構造的な衝動を抱擁することを拒絶するという、深刻な自己欺瞞をもたらしかねないのである。


実践とは、充足を希求する自己の衝動を抱擁して、それを燃焼することを意図する営みである。それは、根源的な欠乏感に衝き動かされて、救済を彼方に見いだしていかざるをえない、人間の性質をありのままに抱擁することから、自己の変容に参画しようとする態度と行動なのである。そして、ITPとは、窮極的には意識の覚醒という最終的な目的の実現を阻害するものでしかない、長期的・継続的な実践という非常に迂遠な行程を敢えて歩んでいこうとするこころみであるということができるだろう。


確かに、窮極的には実践は無意味なものである。しかし、実践が無意味であるということは、実践を成就した人間だけが認識することのできる叡智である。実践の拒否は、真摯な長期的・継続的な実践だけがもたらしえる充足と絶望の体験を剥奪することをとおして、結果として、人間を自己の欠乏感に執着させつづけることになる。こうしたパラドクシカルな人間の性質を認識して、日々の実践にとりくむことをとおして、その解決を志向することができるときに、われわれは初めてありのままに自己を抱擁することができたということができるのである。


KW(1997)の指摘するように、今日、先進国を中心に展開している"Boomeritis Spirituality"("translative spirituality")は、「ありのまま」という概念を歪曲して、しばしば、それを実践を拒否するための概念的な道具として横領する傾向にある。こうしたSpiritualityの信奉者は、人間は「常に既に」に悟性を体現しているのであり、悟性からの乖離を促進する作用をもたらしかねない実践行為は、むしろ、自己の本質の疎外の行為とならざるをえないと主張する。しかし、上述のように、実践は、自己の本質の疎外をひきおこしている「救済への希求」から人間を解放するための必須条件となる充足と絶望を体験するための必要過程といえるものである。こうした過程を経ることなく、「救済への希求」にたいする執着に絡みとられたままの自己を温存することは、不可避的に、Boomeritis Spiritualityの信奉者が重視する人間の本質的な悟性からの乖離を昂進させることにならざるをえない。


また、こうした態度は、自己が構造的に内包する自己超越への衝動を抑圧することにならざるをえないために、結果として、Boomeritis Spiritualityの信奉者をありのままの自己の抱擁という自らの主張を逸脱する自己欺瞞に絡めとることにもなる。超越の対象から除外された自己は、高次の批判的視野から隔離されることをとおして、際限のない肥大化をつづけることにならざるをえない。"Nobody tells me what to do"という主張に代表される、Boomeritis Spiritualityを特徴づける自己耽溺と自己肥大に傾斜する精神性(ethos)は、人間存在の本質的なパラドクスにたいする洞察を欠如させたところに成立する浅薄な「ありのまま」志向が必然的に醸成するものなのである。


いずれにしても、今日、様々な粧いをまとい、「こころの時代」の機軸として展開しているBoomeritis Spiritualityを克服するためには、あらためて、実践の重要性を認識することが必要となるだろう。また、21世紀という時代は、人類に未曾有の生存状況を衝きつけることをとおして、スピリチュアリティという人間の営みに重要な変容をもたらすことにならざるをえないだろう。


多数の識者の指摘するように、21世紀は、人類が惑星規模で存亡の危機と対峙することになる「危機の時代」である。こうした文脈において、必然的に、今日、未曾有の物質的繁栄を前提として成立している「こころの時代」は妥当性を喪失することなり、また、スピリチュアリティはそうした文脈のなかで自己を定義しなおすことを要求されることにならざるをえない。とりわけ、今後、生態系の破壊や自然資源の枯渇が加速度的に進展することが確実視されるなかで、これまで共同体の持続的な均衡を前提として成立していたスピリチュアリティは、外的生存状況の変化が人間にもたらす影響を注視することのできる、内面と外面を包括的に抱擁することのできるものへと進化する必要がある。


外的生存状況の悪化は、共同体の人口収容能力を縮小することをとおして、必然的に、個人間・共同体間の暴力的衝突を激化させることになる。こうした状況においては、自己の生存を希求する人間の根源的な衝動が顕在化することになり、20世紀後半に成立しえた共同幻想としての空想的平和主義の妥当性は瞬時に雲散霧消することになる。1 そこでは、人間は、これまで未曾有の物質的繁栄の恩恵のもと隠蔽されてきた根源的な恐怖と対峙することを、そして、あらためて、生存への意志を確認することを要求されるのである。その意味では、危機の時代においてスピリチュアリティを実践するとは、そうした危機的状況のただなかで実際的な価値をもつ叡智を発揮することのできる逞しい精神性を育むことでなくてはならないのである。スピリチュアリティは、これまでのように、茫漠とした充足感と倦怠感のもと、自己の空虚感を忘却するための娯楽として消費されるものとしてではなく、むしろ、危機の時代と対峙して、それを果敢に強靭に生き抜くための機軸としてとらえなおされなければならないのである。


危機の時代において、スピリチュアリティの実践者は、New Age産業が喧伝する空想的な楽園思想に酔い痴れるのではなく、むしろ、共同体の存亡を決定するほどの巨大な暴力性が充満する状況のなかで、人間の破壊性を冷厳に直視しながら、集合的な福利を現実的に志向することができねばならない。そのためには、人間が自己の内部に「天使」と「悪魔」を包含する複合的存在("compound being")であることを認識することが必須の条件となるのはいうまでもないだろう。


Boomeritis Spiritualityの信奉者が例証するように、物質的繁栄のもと、長期にわたり存亡の脅威から保護されつづけるとき、人間は、往々にして、自己の構造的な脆弱性が賦与する根源的な恐怖を忘却してしまう。こうした虚脱状態は、結果として、自己の安逸を成立させている前提条件の持続可能性にたいする冷徹な眼差を鈍化させ、ひいては、世界の不確実性と不可知性にたいする畏怖の感覚を剥奪することになる。


生存の能力とは、生存状況の変化にたいする対応能力を基盤とするものであるが、しかし、生存状況にたいする鋭敏な感性は、自己の内部に衰退と滅亡の恐怖に戦慄する生存の意志が脈々と息づいているときに機能するものである。こうした内的条件が存在しないときには、生存状況がいかに危機的なものとなろうとも、人間は、眼前の安逸に耽溺したまま、麻痺状態にとらわれつづけることにならざるをえない。しばしば指摘されるように、自己の死について瞑想をできることは、人格の成熟性と生命力の証であるが、今後、人類が危機の時代を迎えていくなかで、われわれが個人として、そして、集合として自己の衰退と滅亡の可能性に戦慄できることは、真に建設的に集合的な生存の可能性に寄与することができるための重要条件となるのである。


化石燃料の大規模実用化を基盤として成立しえた大量消費主義は、今後、Peak-Oilの到来にともない、短期的な生命を終えて、終焉していくことにならざるをえない。そして、そこでは、未曾有の物質的繁栄という歴史的に特異な状況のもとに成立しえたBoomeritis Spiritualityに代表される空想的な楽園思想は妥当性を喪失して、あらためて、人間の構造的な脆弱性の凝視を基盤とする現実的な実践思想が台頭することにならざるをえない。周知のように、既に残存する自然資源をめぐる熾烈な争奪戦は惑星規模で展開しており(例えば、Engdahl, 2004)、こうした惑星の物理的な拘束条件に起因する共同体間の軋轢は、今後、益々激化していくことになるだろう。つまり、今日、展開している危機の時代において要求されるのは、こうした熾烈な軋轢を生き残ることができながら、また、惑星という共同体の福利を視野に内包した包括的な構想と戦略を構想・実践することのできる強靭で柔軟な精神なのである。


上述のように、Boomeritis Spiritualityは、実践を拒絶することをとおして、人間の構造的な自己超越の衝動の成就を疎外する。こうしたありかたは、必然的に、悟性の開示をもたらす充足と絶望の体験を剥奪することにより、人間を「救済への希求」にたいする執着に絡めとりつづけることになる。こうした自己の構造的衝動の抑圧をつづける状況において、人間は、悪化する欠乏感に苛まれるようにして、益々狭隘な自己探求の作業に没頭することにならざるをえない。必然的に、こうしたあてどない自己探求への拘泥は、同時代の生存状況にたいする感性を鈍磨させることをとおして、人間としての生存衝動と生存能力を劣化させていくことになるのである。実際、今日、多くのBoomeritis Spiritualityの信奉者が主張する空想的な楽園思想が、急速に熾烈化する同時代の生存状況において有効性をもつ、生存のための実践的な叡智を提供することができないという事実は、Boomeritis Spiritualityが非常に深刻なかたちで人間を去勢するものであることの厳然とした証左であるといえるだろう。そこには、人間というものが、死の根源的な恐怖に衝き動かされながら、自己の構造的な脆弱性を拒絶するための自己防衛にとりくまざるをえない悲劇的な存在であることへの冷徹な認識が欠如しているために、そうした構造的な脆弱性を基盤として発祥する人間の破壊性を畏怖する感性が欠落しているのである。


浅薄な「ありのまま」思想に容易に魅惑されてしまうBoomeritis Spiritualityの信奉者の幼稚性とは、人間としてあることの悲劇性を拒絶しようとする逃避衝動にもとづいて無菌処理された世界観と人間観への執着がもたらす必然の帰結であるといえる。KW(1995/2000)は、人間の生々しい現実を拒絶して、過剰に純化されたものとして構想された高次の領域を志向するダイナミズムを"phobos"と形容しているが、Boomeritis Spiritualityとは、本質的には、正にそうした恐怖の精神を基盤として成立する逃避的な内面探求なのである。世界という無慈悲な空間に存在することが不可避的に発露させる人間の暗黒を直視する責任を放棄するために、安息を約束する虚構のなかに逃避するありかた――それこそが、今日、旺盛に展開する「こころの時代」の機軸であるBoomeritis Spiritualityの本質なのである。その意味では、Boomeritis Spiritualityとは、紛れもなく、人間の受容能力の基盤である「慈愛」("Agape")の疎外に起因する病理ということができるのである。


こうした視野に立脚して、今日の先進国の状況を俯瞰するとき、そこで実践されているスピリチュアリティと形容される内的探求活動が非常に深刻な欺瞞を内包していることが把握されるだろう。それは、存在の根源的な恐怖を排除するために構築された虚構のなかに自己閉塞することを正当化することをとおして、人間の生命力を枯渇させている。そして、こうした虚脱状態は、今後、惑星規模で人類の生存状況の劣化が進行して、実存的な不安が増進するなかで、益々、人間を自己閉塞化させ、同時代の生存状況にたいする責任能力(response-ability)を溶解していくことになりかねない。KW(2002)の喝破するように、Boomeritis Spiritualityは、今日、スピリチュアリティの健全性を脅かしている最大の脅威であるが、それは、また、生存という人間の生物としての基本的な能力を溶解している脅威でもあるのである。


KW(1995/2000)は、真の治癒というものが暗黒("the Dark")と深淵("the Deep")のなかに見いだされるものであることを指摘する。その意味では、Boomeritis Spiritualityの問題とは、眼前に展開する暗黒と深淵と対峙することを拒否することをとおして、人間から治癒の可能性を剥奪することにあるといえるだろう。今後、人類の集合的な生存状況として展開することになる暗黒と深淵は益々その濃度を深めていくことになるが、インテグラル・スピリチュアリティを実践するとは、そうした状況において、尚、世界を直視する気概と慈愛を発揮することを意味するのである。


1 こうした空想的な楽園思想の代表例としては、例えば、今日、多くの「進歩的知識人」が主張する「脱国家主義」あるいは「反国家主義」と形容することのできる類の思想をあげることができるだろう。普通、こうした思想は「国際協調主義」や「地球市民主義」等の思想的な粧いをまとって表現されるために、今日、もてはやされている"Globalization"(国際化・惑星化)の機運に合致するものとして見做され、無批判に受容される傾向にある。

しかし、21世紀を展望するうえで、われわれが注意するべきことは、国際化の進展が必然的に国家間の相互関係の緊密化・熾烈化をもたらす宿命にあるということである。相互関係の緊密でない状況においては、「国際協調」や「国際親善」等の「空想的平和主義」にもとづく諸々の楽園思想が信奉されやすい。しかし、これは共同体間の利害の衝突が比較的に軽微なものであることから発生する幻想のようなもので、相互関係の緊密化・熾烈化は、そうした幻想を瞬時に打ち砕くことになる。そのとき、各共同体は、あらためて、自己の活力の源泉を探求することをとおして、自己を定義しなすことを要求されるのである。


Holonは、自律性(agency)と関係性(communion)という対極的なダイナミズムを内包するが、これらのひとつが肥大化するとき、Holonは、危機的な状況に陥り、最悪の場合、溶解・崩壊することになる。今日、惑星規模で展開するGlobalizationという関係性の急激な変質は、こうした対極的なダイナミズムを賢明に管理するために、各共同体に自己をあらためて探求・定義しなおすことを要求している。こうした刻々と熾烈化する状況において、空想的な楽園思想に埋没して、自律と自尊の覚悟のもとに自己の共同体の運営にたいする責任の取得を回避することは、共同体の溶解・崩壊を招来する危険を冒すことを意味するのである。その意味では、緊密な国際協調が要求される危機の時代が到来しようとする今日の状況においては、空想的な楽園主義を基盤として発想される短絡的な国際協調主義は、むしろ、共同体の自滅をもたらす危険思想であるといえるのである。


また、周囲で喧伝されている流行的思想を無批判に受容して、これまでの歴史的過程のなかで人類の共同体の形態として敷設されてきた諸々の成果を容易に超越できると想像することは、あまりにも怠惰な態度であるといえる。人間というものが「家族」・「地域」・「国家」等の様々な種類と規模の共同体に重層的に所属する存在であることを軽視・無視したうえで、個人を「惑星」という共同体に直截的に参画する存在として位置づけようとする発想は、歴史的な感性を欠いた短絡的な発想でしかないのである。


例えば、中西 輝政は、一連の著作のなかで、こうした思想が国家共同体(Nation State)というSocial Holonにたいする拒絶衝動を先鋭的に体現していることを指摘している。必然的に、こうした発想は国家共同体というSocial Holonにたいする真摯な思索と探求の機会を人々から剥奪してしまうことになる。つまり、国家共同体というSocial Holonがいかなる構想と戦略を構築して主体的に国際関係に参画することができるのかという建設的・現実的な発想を麻痺させてしまうのである。こうした自律性の疎外をKW(1995/2000)は"pathological heterarchy"と形容しているが、今後、人類の生存状況の悪化が共同体間の衝突を激化させることが確実視されるなかで、こうした共同体としての自律性の麻痺は、外部環境にたいする貢献能力だけではなく、また、共同体としての構想・目的・戦略の構築・実施の能力を溶解することをとおして、確実にその生存能力を低下させることになるのである。


参考文献

F. William Engdahl (2004). A century of war: Anglo-American oil politics and the new world order. London: Pluto Press.
Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution (Second Edition). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (1997). A spirituality that transforms. Available at http://wilber.shambhala.com/html/misc/spthtr.cfm/
Ken Wilber (2002). Sidebar H: Boomeritis Buddhism. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/sidebar_h/index.cfm/