「実践と気付き―その1 レンズの気付き」 

須崎 宣一郎

私がITPの実践を行うようになって、2年が過ぎました。私がこの2年間に行ってきたITPの実践と、それによって得られた気付きをお伝えすることで、ITPとはどういうものか、具体的にどういうことを実践しているのかということを少しでも理解していただければ幸いに思います。


ただし、わずか2年の実践ですから、行ってきた実践も、それにより得られた気付きも、まだまだ未熟なものです。ですので、今まで真剣に瞑想やボディーワークに取り組んできた方々、あるいは、ケン・ウィルバーが執筆した数々の本を熟読し、インテグラル思想に造詣が深い方が読むと、物足りないものになっていると思います。その辺のところはご容赦願います。


しかし、わずか2年ではありますが、ITPで行っている実践によって得られた気付きは、私を大きく変えるものであったことは、私にとって真実であります。その得られた気付きにより、感動や衝撃を覚え、自分の使命や目的を深く考えるようになり、人生の平安も味わうことができる様になってきたといったら、大げさに聞こえるかもしれません。裏を返せば、それだけ私が未熟だった事を証明する事になり、恥ずかしい思いもありますが、それにより、ITPの実践の、ごくごく一端でもご紹介できればと思い、このように書いている次第です。


では、具体的にどういう実践を行い、どのような気付きを得ているのかをご紹介致しましょう。


私の行っている実践


まず、現在、私のITPの実践を紹介します。


Bodyの領域

筋力系

  • アイソメトリック運動(一週間に5日ほど。所要時間20分)

持久力系

  • サイクリング(週に一度くらい。60kmから80km。所要時間4時間から6時間)
  • ウォーキング(ひとつ手前の駅で降りて歩く。出来る時はいつでも。所要時間はまちまち)
  • ストレッチ(風呂上り。所要時間15分くらい)

Mindの領域

    • 読書(空き時間。読むペースは本の内容によって異なります)
    • 対話(インテグラル思想研究会における対話)

Heart & Shadowの領域

私の場合、この2つは密接に絡み合っているので、分けることはできませんが、どちらにより重点を置いているかで分けられます。

  • 対話(重点Heart)月に2度のITPの集まりと月に3度のボランティアの集まりで行う仲間達との会話
  • フォーカシング(重点 Shadow)月に1度のフォーカシングの実践と勉強会

Soul & Spiritの領域

    • 坐禅(ほぼ毎日。所要時間、約50分。また週に一度道場に行きます。そのときは45分を2回坐ります
    • 般若心経を読む。祈り。(ほぼ毎日)

以上の実践は、ITPを意識するようになってから、日常の生活に新たに加えたものです。


実は、Bodyに関して行っているものは、以前実践していたものを復活させているものです。Mindの領域の読書自体は普段から行っていたものですが、ITPの実践を行うようになってからは、それまで読んでいたビジネス書関連の本から、インテグラル思想関係、仏教や禅の思想などの本を多く読むようになりました。それから、新たに加わったものといえば、Soul & Spiritの領域のものと、Heart & Shadowの領域のものとなります。


これに日常の生活としての、家庭や仕事における実践があります。この、日常生活の実践が占める時間の割合が圧倒的に多いのですから、ここを大事にしなければならないと、自分を戒めております。


Soul & Spiritの領域の実践


それでは、これから、エッセイの中で、私の行っている実践を毎回ひとつの領域について、少し詳しくお伝えして行きたいと思います。また、それらの実践から得られた気付きをひとつずつ、お伝えしたいと思います。

今回の実践の紹介はSoul & Spiritの領域をお伝えします。 


坐禅について


もともと、坐禅には興味はありましたが、どのように実践したらよいかは分かっておりませんでした。それで、テレビで紹介されていた東京都日暮里の擇木道場(http://homepage2.nifty.com/takuboku/top_R.html)において、坐禅の手ほどきを受けました。日暮里というのは、私の通勤経路にある駅なので、気軽に寄れるのです。ちなみに「坐禅」の「坐」は、「座」という字は使いません。これは屋根(广)が無くてもどこでもすわるというので「坐る」と言う字を使うとのことです。


今でも実践している坐禅は、そのときに指導していただいたものと変わりはありません。私は、体が硬く、結跏趺坐(けっかふざ:両方の足をそれぞれ反対の腿の上にのせる坐り方)では坐れないので半跏跌坐(はんかふざ:片方の足だけを反対の腿の上にのせる坐り方)で坐っています。この道場は、臨済系の道場なので、入門していない私は、坐禅中は、数息観(すうそくかん:坐っている時に息を数える実践)を行っています。


最近はそうでもありませんが、初めて坐った時には、脚が痛くてたまりませんでした。早く時間が過ぎる事だけを願って坐っていたものです。現在は、なんとか50分くらいは坐れるようになりましたが、初期のころは20分坐るのがやっとで、少しずつ坐る時間を延ばしてようやくここまで来た感じです。


坐っていて辛く感じるのは、脚の痛さだけではありません。先ほど数息観(坐っているときに息を数える実践)を行うと書きましたが、これが大変なのです。数息観とは、息を吸って「いー」、吐いて「ちー」、もう一度吸って「にー」吐いて「いー」、と一呼吸ごとに息を数えることなので、そのもの自体の行為はちっとも大変ではないのですが、以下の約束事を守らなければなりません。

勘定を間違えないこと。
雑念を交えないこと。
以上の二件に反したら、1に戻ること。

この約束事を守るのが大変なのです。実践してみるとわかるのですが、最初の僅かな時間は数を数えることに集中できるのですが、その集中力は長くは続きません。30位まで数えられればいいほうです。仕事や家庭で気になっていることなどがふっと頭をよぎったりしますし、まわりの音や、匂い、空気の流れや温度などでも刺激を受けて様々な考えが湧いてきます。そのたびに1に戻すのですが、あまり頻繁だと嫌になります。ひどいときには1を数えるのも忘れて、妄想だらけで頭がいっぱいになっているときがあります。そうなると坐っていること自体が本当に辛くなってきます。100まで数えたら1に戻るということなのですが、なかなか100まで数えられません。


私の場合は、一人で行っている時はそういう状態になると坐っているのが耐えられないほど大変なのですが、道場で坐る時は、その場のピンと張り詰めた空気のような緊張感のお陰でしょうか、そのようなつらく耐えられない状態になりにくくなります。


私が指導された坐禅は、自分のことを見つめるということはしません。ヴィパッサナー瞑想で「サティ」と呼ばれるような「気付き」を入れる、ということもありません。ですから観照者の立場になり、自分を第三者の立場から見つめるということはしません。私のように入門していない人は、息を数えて坐るのみです。入門して考案を頂いている人は、それを工夫します。


よく「坐禅をすると集中力がつく」とか「精神力が強くなる」と言われるようなことは、坐禅をした結果としてそのようになるとしても、それを目的として坐禅をするものではないという指導を受けております。


とはいっても、坐禅を行うことで、いろんな考えが頭の中に渦巻いているのを、「あっ、今、自分は妄想状態になっている」と気付く自分がいるのは事実です。いわゆる「自分を見つめること」を体感します。上記にも書きましたが、坐禅は「自分を見つめること」を体感するのが目的ではないと思いますし、私にとっての瞑想のプラクティスも、そこを求めているものではありません。


ところで、私は、ITPの実践のところで書きましたが、坐禅の実践はSoulの実践だけでなく、Spiritの実践になると考えています。


なぜかという問いに答えることは、私にとっては、非常に難しいことですが、ヒントとなるのではないかと思うものに最近気が付きました。


私が気付いたのは、数息観は究極的には「非二元」の実践になるのではないか、ということです。数えられる数字と数える私がひとつになる実践、つまり「非二元」の実践です。


そう気付いたことで、坐禅はSpiritの実践だと納得できるようになりました。納得はできても、とても今の自分では、坐る=「非二元」、とはなりません。いつの日か達成したいと願い、「坐る」実践を続けようと思っています。しかし、体や形としては、坐ることに慣れてきたかもしれませんが、「心」や「精神」の方は、いまだに「坐禅」になっていないと思います。「心」や「精神」も「坐禅」できるようになるためにも、そして、「非二元」の実践の達成のためにも、「師」を求めて「師」の指導を受けなくてはならないと、強く思うようになってきています。


「レンズの気付き」


さて、次に、ITPの様々な実践により、得られた気付きのひとつをお伝えしたいと思います。今回お伝えするのは、「レンズの気付き」です。


この「レンズの気付き」は、坐禅をすることにより、「自分を見つめること」を体感したことが、大きな要因になっていると思います。しかし、それだけではなく、他の領域の分野で行っているすべての実践が統合されて、この気付きが表れたと思っています。例えば、筋力トレーニングやストレッチにしても、力が入っている部分や伸ばしている部分と対話をしながら(そこに気持ちを集中しながら)行っています。仲間との対話にしても、自分の思考や感情を見つめながら行おうと努力しています。繰り返しになりますが、それらの各領域での実践の成果が統合された結果、この「レンズの気付き」を得ることができたのだと考えています。


私が気付いた「レンズ」とは、「人はそれぞれの感覚で生きている。それは一人一人違うものである。いわば、自分独自のレンズをかけて世界を見ているようなもので、その見ている世界はひとつとして同じものは無い」というものです。


それ以前の私は、次のような考えをしていました。それは、「私の見る世界、聞く世界、嗅ぐ世界、味わう世界、触れる世界、考える世界は、唯一のものであり、正しいものであり、他の人もそのように感じているはずだ」というものです。


こう書き表してみると、レンズの考え方の方が正しく、自分独自の世界の考え方は非常に傲慢だと分かるのですが、そこに行き着くまでは、随分と苦しい思いをしました。


ITPによる新たな実践を行う過程で、今まで気付いていなかった傲慢な自分の考え方が、否が応でもあぶりだされる様になってきました。自分の価値観や考え方を絶対のものだと信じ、それを人に押し付けていたということが、徐々に分かってきたのです。人から相談や悩み事を打ち明けられた時は特にそのような傾向にありました。ひどい自己嫌悪を感じるようにもなっていきました。人が考えていることや感じていることを、独りよがりに解釈し、自分の世界でのみ生きてきたと分かってきたのですから、当然のことのように、ひどく落ち込みもするようになりました。


しかし、その時点では、なぜ自分が、そのように人の気持ちや考えが理解できないかが皆目分からなかったのです。また、それではどうしたら良いのかもまったく見当もつきませんでした。


自分が今まで、「真実」、「善良」、「美しい」と信じていたものが、本当にそうなのか分からなくなっていきました。自分の考えていたことが、価値のないものだと感じ、自分が生ること自体、意味が無いのではないかと思うようにもなりました。


それを解決してくれた、「レンズの気付き」には、あるきっかけがありました。仲間との会話の中で、「『赤』といっても人によって感じる色は違うのですよ。真紅のような赤をイメージする人もいれば、ピンク系の赤をイメージする人もいるし、オレンジがかった赤をイメージする人もいるでしょう。」という言葉があったのです。


この言葉は今でもよく覚えています。でも、その時は、私の中では、とりたてて変化はなかったと思います。その言葉の意味を本当に理解できたのは、「レンズの気付き」を得た時です。


ずいぶんと落ち込み、生きている資格もないと自己嫌悪を一ヶ月くらい感じたでしょうか。そして、ある日の会社帰りのことです。いつものようにひとつ手前の駅で降り、暗い道を歩いている時に、ふと「色」についての仲間との会話を思い出し、そして突然閃いたのです。


「ああ、そうか。 自分が見ているものは自分だけの世界のもので、真実絶対の世界ではないんだ。人によってそれぞれ違う世界があるんだ。自分が真実だと思ってみている世界は、自分の眼が見たものを、自分の脳が勝手に作り上げた世界なのだ。」


そう思ったとき、見えている世界は一変した様に感じました。薄くかかっていたカーテンが、さっとひかれていく様な感じがしたのです。また、不思議なことにひどく平面的な景色に見えました。まるで映画のスクリーンを見ているような感じがしました(後日、映画のスクリーンとは、まるで違うものだと認識するのですが)。


素直に、眼に写るように脳が見るようになったのかもしれません。つまりそのときは、着けているレンズが外れたのかもしれません(ほとんど起こりえないことだと思いますが、その時の私にとっては、今までに経験の無い感動的なものだったということです)。それまでは、見えていた映像を脳が勝手に立体的に再生していたのかもしれません。あるいは、自分が見ている世界は、自分の持っているレンズを通して映し出されたものにすぎないということを意識したことによって、景色がそんなふうに感じられたのかもしれません。


いずれにしても、それは、その時の私にとっては、非常に新鮮で感動的な体験でありました。


やっと自分のレンズの存在に気が付いたわけです。


「レンズの気付き」を得られたことによって、私のなかに変化が生まれました。人の話を少しずつですが聞けるようになっていったのです。


私もレンズを持っているのだから、他の人も必ずそれぞれのレンズを持っているはずです。同じ単語を使って会話をしていても、頭の中で思い描いている世界は、一人一人皆違うものだということが理解できるようになっていったのです。


そのことで、孤独感はほとんど感じていなかったと思います。おかしなことに、レンズのことを気付かない間は、随分と孤独感にも悩まされたのですが、人は一人一人違うレンズを持っていると理解したときに感じたのは、孤独感ではなく、「他の人は一体どんなレンズを持っているのだろう、見てみたいなあ」という興味と好奇心だったのです。


好奇心を持って話をすると、人の話が聞けるようになっていきます。対話ができるようになってきたのです。今でも、いつもうまく対話できるようにはなってはいませんが、なぜうまく対話できないのかという問いについての答えのひとつは理解しましたので、生きていく上で、随分と「楽」で「平安」になっています。


その後、あれほど新鮮で感動的だった「スクリーンのように景色が見える状態」も、一週間くらいで体験できなくなりました。また、そのとき得た感動も、徐々に薄れていきました。今でも稀にスクリーンのような状態を感じることはありますが、それほどの感動を得る事はありません。しかし、それにより、個々人が自分のレンズを持っているという気付きは消えたわけではありません。


さて、わたしにとって「スクリーンのように景色が見える状態」を経験したことは、「変容」をしたのではなく、「翻訳」あるいは「上位の世界」を垣間見せたくれたのだと今では解釈しています。残念ではありますが、当然なことだと思っています。


ITPの実践には、「一人称の実践」・「二人称の実践」・「三人称の実践」があります。私は、自己の成長を目指すことは、「一人称の実践」として重要なものだと思っております。そして、ITPの実践においては、成長といっても、「翻訳」ではなく、「変容」が目指されます。


ただ、「変容」には、普通、少なくても数年間の誠実で真摯な実践が必要だと言われています。才能のある人にとっては、そんなに長くかかることでは無いかもしれませんが、私のような未熟者は、人の倍くらい時間がかかっても不思議ではありません。


しかし、私は落胆はしておりません。元来が呑気で気楽な性質なのもありますが、垣間見た世界は、実際にあるということですから、真摯に誠実な態度で実践を続けていけば、今生では到達し得なくても、そのうちたどり着くだろうと、楽観しています。


さて、私は、ITPの実践を行うことで、幸運なことに、以上のような「レンズの気付き」を体験しました。この気付きにより、当時の私は、感動や衝撃を覚えたのです。そして、自分の使命や生きる目的などを改めて深く考え直すようになりました。


わたしは、この「レンズの気付き」を得て、ITPの実践を以前よりもまじめに行うようになりました。そして、ITPのもとになっているインテグラル思想も積極的に学ぶようになっていったのです。


その後、様々な実践を行い、いろいろな場を与えてもらったり、指導をしていただいたりしてきました。その中で、新しい「気付き」や「考え方」を経験する恩恵も受けました。


次回は、その恩恵のひとつである「観照者の気付き」をお伝えできればと思います。また、具体的な実践は、Bodyの領域についてお伝えしたいと思います。