Boomeritis Spirituality 

鈴木 規夫

Ken Wilber(KW)は、最新作Integral Spirituality: A Startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern World(2006)のなかで、"Boomeritis Spirituality"(「団塊の世代の精神構造を特徴づける病理を基盤として成立するスピリチュアリティ」の意味)という概念を紹介しながら、今日、先進国を中心に展開しているスピリチュアリティのありかたにたいして警鐘を鳴らしている。KW(2002)は、Boomeritis Spiritualityを、今日、スピリチュアリティの健全性を脅かしている最大の脅威("the single greatest threat")と認識して、その克服の必要性を強調している。


Boomeritis Spiritualityとは、Spiral Dynamics(SD)において"Green vMeme"と形容される価値体系を基盤として展開される非常に特異な霊的探求のありかたのことを意味する。周知のように、Green vMemeは、20世紀において"Deconstructive Postmodernism"と形容される思想運動が世界的に展開するなかで、高度の認知能力(前期Vision Logic段階)を基盤として、集合規模で喧伝・受容された価値体系である。Deconstructive Postmodernismの主眼は、人間の内的・外的な行動を規定する諸々の要因(例:経済構造・言語構造)を対象化(認識・批判)することをとおして、人間が、自己の所属する時空間に拘束された、歴史的な存在であることを明示することにあるといえる。人間のあらゆる行動は、本質的には、共同体の構成員として、そこで共有されている規範を内面化することをとおして展開するものであり、その意味では、それらは、本質的に、自己の生存状況を規定する諸々の外的要因の支配的影響により構成されるものであると主張されるのである。


KWの主張するように、こうした観点は、人間の歴史的存在としての性質を理解するうえで、非常に重要な洞察を提供してくれるものである。しかし、こうした観点は、また、AQALの一領域(Lower Left)の重要性を絶対化することをとおして、人間の歴史的存在としての性格を過度に強調する歪な世界観を称揚するものでもある。また、しばしば指摘されるように、こうした観点は、あらゆるものが歴史的な構築物であることを主張するにもかかわらず、「あらゆるものは歴史的な構築物である」という自らの主張そのものを普遍化するという自己矛盾("performative contradiction")を内包するものでもある。KWは、Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(SES)(1995)以降、こうした発想の偽善性が深刻な病理を蔓延させることの照明をインテグラル思想の重要な責務のひとつとして位置づけて、言論活動を展開している。


今日、われわれが、スピリチュアリティというものについて探求するうえで、とりわけ注意をはらうべきは、こうした問題意識のもとに、インテグラル思想が現代の病理の源として診断する"Flatland"という概念である。これは、Deconstructive Postmodernismの影響のもと、共同体において共有されているあらゆる価値体系が歴史的・人為的に構築されたものであると見做されることの結果として発生する麻痺状態と理解することができるものである。そこでは、人間の価値判断行為を可能とする判断基準を擁護することが「虚構の擁護」として否定されるために、あらゆるものを同等に価値を有するもの、あるいは、同等に価値を有さないものとして見做すという慢性的な判断保留の態度が正当化されることになるのである。


こうした態度は、必然的に、人間科学の領域においては、発達理論を基盤とする発想を否定する水平的発想として結実することになる。つまり、Flatlandの判断基準にもとづけば、発達という発想は、人為的に構築された判断基準(「虚構」)にもとづいて人間の存在の価値を順序づける不当なものとして判断されるのである。KWの洞察するように、人間の発達というものが、本質的には、「真」・「善」・「美」という価値を希求・実現する過程であるとするならば、Flatlandの発想は、窮極的には、そうした価値を希求・実現する姿勢の妥当性そのものを否定しようとするのである。あらゆるものは同等に価値を有するもの、あるいは、同等に価値を有さないものであるべきであり、そうした判断基準にもとづいて自己陶冶にとりくむことは、高度の成長を実現する者と低度の成長を実現する者という「成熟度の格差」を発生させることになると問題視されるのである。


例えば、今日、国内において流行している「こころの時代」と形容される思想状況の根幹に息づく「生命礼賛思想」は、あらゆる価値判断を保留して、多様な存在をありのままに許容・抱擁することを志向する発想であるが、これなどはFlatland的発想の典型的な症例であるといえるだろう。いうまでもなく、こうした発想の背後には、価値判断という「悪」と位置づけられる行為を回避することをとおして、自己の「清浄性」(purity)と「特権性」(privilege)を確保したいという強烈な自己保全と自己特権化の欲求が息づいている。つまり、価値判断という、悪の温床として位置づけられた発想に寄与することを積極的に拒絶することをとおして、自己の救済の可能性を確保したいという、本質的に自己中心性にねざした衝動が息づいているのである。1 そうした衝動にとらえられた人間は、自己を清浄なる例外者・救済者として設定することが必然的に醸成する尊大な雰囲気を漂わせることになる。


数々の著作においてKWが指摘するように、Flatland思想は、「真」・「善」・「美」を探究するという、自己陶冶の契機を人間から剥奪することをとおして、個人を自らの構造的な自己中心性のなかに絡めとることになる。Flatland思想を基盤として成立する内面探求は――今日の国内の状況が端的に証明しているように――こうして自己中心性肥大化の装置として機能することにならざるをえないのである。


インテグラル思想を理解・実践するうえで、われわれが注意するべきことは、今日の思想状況がほぼ完全にFlatland思想に浸潤されているということである。実際、そうした状況のなか、トランスパーソナル思想等のいわゆる"Counter-Culture"と形容される思想運動も、Flatland思想を積極的に抱擁・擁護するかたちで成立するという事態が展開している。今日、先進国を中心にして展開している「こころの時代」の消費者層の大部分は、Flatland思想の産物である生命礼賛思想の信奉者である。つまり、そこでは、"Counter-Culture"を標榜していた思想運動が"Mainstream-Culture"に呑みこまれるという状況が成立しているのである。 2


周知のように、インテグラル思想を効果的に実践するためには、AQALを包含する視野(解釈体系)を確立することが必要とされる。とりわけ、Body・Mind・Heart・Soul・Spiritという領域を日常の実践をとおして統合していこうとする意志を持続するためには、適切な解釈体系を構築・練磨することが必須の条件となることは、KWのみならず、ITPの提唱者であるGeorge LeonardとMichael Murphy(1995)も指摘しているところである。適切な解釈体系の存在しないところには、適切な実践活動は成立することができないのである。その意味でも、インテグラル思想を実践することができるためには、Boomeritis Spiritualityを特徴づける「反知性主義」(Anti-Intellectualism)――そして、それを温床として発生する「体験主義」(Experientialism)と「感覚主義」(Sensualism)――を批判・克服することは必須の条件であるといえる(価値判断の麻痺状態を醸成するFlatland思想は、思考停止状態の蔓延をもたらすことをとおして、「感覚」や「体験」への退行的な執着と耽溺を称揚することになる。「体験主義」や「感覚主義」とは、霊的探求において、刹那的な「体験」や「感覚」を獲得することを目的とするありかたのことを意味する。これは、Flatland思想の影響のもと蔓延している快楽主義が霊的探求の領域に適用されるときに発生する傾向である)。


ITPを実践するとは、必ずしも、Body・Mind・Heart・Soul・Spiritの各領域に対応する具体的な実践を並行的に継続することで完結するものではない。重要なことは、それらの実践に並行的にとりくむことではなく、むしろ、それらの実践を統合することなのである。そして、そのためには、統合の知的枠組である解釈体系を構築することが必須となるのである。そうした条件が欠如するとき、実践者は、実践をとおして経験した洞察を自己の日常的な行動として建設的に体現するという重要な責務を履行することができないだけでなく、潜在的には、それらを破壊的に体現する危険を冒すことにさえなりかねない。とりわけ、ITPの二人称・三人称の実践形態である共同体という文脈における実践活動においては、実践者が行使する影響と権限が大きなものであればあるほど、自己の洞察を関係性において適切(skillfully)に表現することが必要となる。共同体の複合的な要求を尊重した対応の必要性にたいする認識を欠如して、あくまでも自己の内的な欲求だけにもとづいて行動すること("Quadrant Absolutism")は、本質的には、自己中心性の温存を志向する行為でしかないのである。KWが、Boomeritis Spiritualityという概念で照明しようとするのは、正にこうした陥穽なのである。


関係性の要求を拒絶したうえで自己の内的な世界へと逃避する姿勢が共同体の運営方針に反映されるときに――例えば、非暴力主義が有効な対応方法として成立しない状況においても、尚、自己の個人的な信念・信条にもとづいて、そうした主義・主張を共同体の行動規範として設定しようとする場合――共同体は溶解の危険に曝されることになる。それは、自己の情緒的なこだわりに執着するために他者を巻き添えにする、破壊的な行為とさえなりかねないのである。


とりわけ、Boomeritis Spiritualityの信奉者は、発達の観点を拒絶することをとおして、自己の存在を規定する条件(例:人格的成熟度)を他者に投影したうえで――つまり、こちらが前提としている条件が他者にも共有されていると思い込んだうえで――人間関係に参画する傾向にある。結果として、こうした姿勢は、例えば、自己が霊的に誠実でありえるならば、あるいは、自己の慈悲が十全なものであるならば、こちらの主張は必ず相手に理解されるはずだ、というような、過度に退嬰的な発想を醸成することになる。相手の認知能力を無視したうえで自己の希望的観測を妄信・投影するときに成立するこうした発想は、例えば、普遍的な規範を尊重・遵守する能力を確立していない、合理性段階以前の発達段階に重心を置く相手との関係において堅持されるときには、自己の生存そのものに深刻な脅威をもたらす自己破壊的行為となりかねない。共同体という文脈における二人称・三人称の実践活動において(例:共同体運営)、こうした発想がなされることは――たとえ、そうした発想がいかなる「善意」と「誠意」と「慈悲」にもとづくものであろうとも――事実上、共同体にたいする破壊行為(sabotage)を構成することにならざるをないのである。3 SDの創始者であるDon Beck博士が、Green vMemeの蔓延は、共同体の自己防衛機能を麻痺させることをとおして、共同体を溶解すると主張するときに意図されているのは、正にこうした「善意」と「誠意」と「慈悲」にもとづいているがゆえに抑制されることのない破壊衝動なのである。


善意と誠意と慈悲にもとづいているがゆえに、そうした発想の信奉者は自己の病理を内省することができない。自己の行動は曇りのない誠実性(authenticity)にもとづいているのであり、むしろ、批判・救済されるべきは、これほどまでに純粋な善意を批判する周囲の人間なのである――こうした思考の悪循環に絡めとられながら、Boomeritis Spiritualityの信奉者は自己の内的領域を絶対化する自己肥大の過程を増進させていくことになるのである。SESにおいて、KWは、Flatlandの擁護者が、自己の業績を世界救済を可能とする画期的な構想として喧伝する、臆面もない自己陶酔と自画自賛の傾向を内蔵させていることを指摘しているが、それはこうした病理を背景にして展開しているのである。


Boomeritis Spiritualityは、文字どおり、団塊の世代(Boomer Generation)の精神的傾向を形容する概念としてKWが提唱したものである。しかし、いうまでもなく、こうした傾向は、団塊の世代のみならず、次世代の精神的傾向を強烈に特徴づけるものでもある。むしろ、国内においては、こうした精神的傾向は、高度成長期において確立された未曾有の物質的繁栄をあたりまえのものとして謳歌してきた次世代の精神構造を決定的に規定しているものであるということができるだろう。第二次世界大戦後に出現した極度の貧困のなか、そうした状況においてむきだしにされる人間の生々しい自己中心性と対峙した団塊の世代とちがい、次世代は、New Age産業が喧伝する美辞麗句に酔い痴れることができるほどに人間にたいして無知である。その意味では、Boomeritis Spiritualityは、今日、「こころの時代」の主要な消費者層を構成している次世代こそが真剣に対峙するべき問題であるといえるだろう。


いうまでもなく、この世代は、今後、加速度的に深刻化するであろう自然資源の枯渇や自然環境の劣化を契機として、人類の生存条件が惑星規模で破局的な状況をむかえ、国際関係が熾烈化するなかで、賢明に共同体の舵取りをすることを要求される世代である。つまり、この世代の二人称・三人称の実践活動は、共同体の生存と直結した営みとならざるをえないのである。そこでは、20世紀以降、大量消費主義の成立を可能としてきた諸々の条件が溶解するなかで、そこで当然のものとして受容されてきた価値観の妥当性が否定されることになることは間違いないだろう。そうした状況において、次世代がFlatlandの呪縛を超克することができることは、二人称・三人称の実践活動に建設的に参画することができるために必須の条件となるのである。


Sigmund Freudは、人生の窮極の目的が"Love"と"Work"にあると示唆するが、インテグラル思想の用語で換言するならば、それは二人称と三人称の実践活動に建設的にとりくむことにあると表現することができるだろう。つまり、インテグラル・スピリチュアリティ(ITP)を実践するとは、正にそのことを意味するのである。


*1 あらゆる価値判断を忌避しようとするBoomeritis Spiritualityを特徴づけるこうした発想は、しばしば、「非暴力主義」・「平和主義」・「国際協調主義」等の思想的立場にたいする固執として顕現することになるが、そうした姿勢は、普通、それらの思想的立場が「自明の真理」としてあらゆる人間において妥当性をもつにちがいないという前提を設定したうえで盲目的に信奉される非常に硬直した姿勢として成立することになる。結果として、こうした姿勢は、Boomeritis Spiritualityの信奉者がしばしば強調する価値である「相互理解」や「相互尊重」等の精神を基盤とした相互関係が構築・維持できるためには、実際には、関係者が、少なくとも、普遍的な規範を尊重・遵守する能力を確立する「合理性段階」に重心を確立している必要があるという事実を無視する、いわば、深刻な現実乖離にもとづいた行動を結果させることになるのである(「空想的平和主義」)。しかし、Boomeritis Spiritualityの信奉者にとり、こうした人間の現実を認識することは、自己を規定している自己保全と自己特権化の衝動を意識化するという非常に過酷な成長の要求と対峙することを意味する。自己の世界観を超克するという自己否定の作業にとりくむのではなく、むしろ、発達という現実を拒絶することをとおして維持される特異な世界観のなかに閉塞することが魅惑的に思われるのは、その意味では、当然のことであるといえるだろう。とりわけ、そうした自己の世界観への固執が、「全ての存在の価値の同等性の尊重」等、今日、大量諸費されている「霊性関連書籍」にちりばめられているもっともらしい宗教的な言説を利用することをとおして正当化することができることを鑑みると、Boomeritis Spiritualityの信奉者を絡めとる束縛を断ち切ることが必ずしも容易なことでないことが理解されるだろう。

*2 こうした状況において、自己の存在価値を主張することができなくなったトランスパーソナル思想が終焉の危機を迎えているのは当然のことであるといえるだろう。
*3 対外関係において、自己の所属する共同体の正当な利害を主張することができず、「協調」・「協働」の大儀のもと、戦略的・戦術的に提示されてくる相手の要求を受容することは、不可避的に、共同体を疲弊させることになる。また、こうした姿勢は、こちらが自己防衛の意思、あるいは、能力を有していないという印象をあたえることをとおして、相手の強圧的・侵略的な姿勢を許容・増長させることになる。対外関係において、こうした状況が継続するとき、必然的に、共同体は疲弊の度合を深め、また、共同体の構成員は苦悩と苛立ちを募らせていくことになる。最終的に共同体が破局的状況にたちいたるときには、しばしば、共同体の内部には、極端な対応処置の必要性を主張する過激な意見が蔓延するという状況が醸成されており、こうした空気のもと、共同体は激情的・暴力的な行動に流されていくことになる(中西 2006 pp. 197-202)。
ここで留意するべきことは、Boomeritis Spiritualityの信奉者は、共同体の責任者として、こうした破局的状況を醸成した最大の責任を負うにもかかわらず、共同体の過激な自己防衛行動の発動の責任を巧妙に他者に背負わせることをとおして、対外的には「対話主義者」・「融和主義者」としての対面を保つことができるということである。状況がどのように展開しようとも、彼らは、自己を激情的・暴力的な行動を容認することのない温和・清浄な存在として維持することができるのである。実際、疲弊の極限において共同体により発動される激情的・暴力的な行動が、しばしば、共同体に壊滅的な終焉をもたらすことを鑑みると、最終的に行われるであろう責任追及の場において、自己をあくまでも共同体内の過激勢力により抑圧された被害者として位置づけることのできるBoomeritis Spiritualityの信奉者の行動論理は、ある意味では、非常に狡知に長けているということができるだろう。

参考文献

George Leonard & Michael Murphy (1995). The life we are given: A long-term program for realizing the potential of body, mind, heart, and soul. NY: Jeremy P. Tarcher.
Ken Wilber (2001). Introduction to The Deconstruction of the World Trade Center. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/intro/intro.cfm/
Ken Wilber (2001). The Deconstruction of the World Trade Center: A Date That Will Live in a Sliding Chain of Signifiers. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/wtc/part1.cfm/
Ken Wilber (2002). Sidebar H: Boomeritis Buddhism. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/sidebar_h/index.cfm/
Ken Wilber (2006). Integral spirituality: A startling new role for religion in the modern and postmodern world. Boston: Shambhala.
中西 輝政(2006)「日本文明の興廃:いま岐路に立つ、この国」 PHP