全てを携え全てを明け渡して聴く 一参加者のMeditative Dialogue体験 

千葉 絵里

通訳者という職業柄、聞くこと、話すことに深い関心を抱いている。このため、ITPの具体的な活動の中でも、とりわけ心を惹かれているのがMeditative Dialogueだ。この小文では、それを中心に、自分のITP体験を綴ってみたい。


Meditative Dialogueは、共同で霊性の深み、新しい次元、真実を探求する試みだと私は解釈している。ベースにあるのは、ソクラテス以来の叡智の探求の伝統である、対話術だろう。でも、Meditative Dialogueのときに実際に何が起こっているのかを説明することは難しい。無理を承知で、説明を試みよう。


技法として用いられているのは、昨今一般にも普及してきた「傾聴」である。相手に対する「慈愛のこころ」に基づき、BMI(Basic Moral Intuition=「最大の幅に対して、最大の深度を保護し、促進する」)*1 という思想を踏まえ、傾聴し、「もっとも高次の自己」の立場から発言することが求められる。 *2


ITPには色々な立場の人が集まってきている。学生、会社員、自営業の人、家族と一緒に住んでいる人、いない人。それぞれが、それぞれの人生を携えて。ダイアローグのとき、意識の重心を下げ、誰かが話すのを皆が一心に傾聴している姿はとても印象的で、感動的ですらある。そうすることで、全員を「含んで、かつ超えている」何かが働き出す、神秘的な雰囲気が醸成されるからだ。


自分の経験にはないのだが、英語圏では、授業で出欠を取るときに、「プレゼント(=present、出席しています)」と答えることがあるそうだ。Presentが「ある=存在」という意味と、「贈り物」という意味を持つのは非常に象徴的だと思う。あなたが存在すること、そのことそのものが世界からの贈り物である。同時に、誰かとともにいるときに、身体だけでなく、心、たましいの全てをもって、ただ「そこにいる」ことが、他者に対する最上の贈り物になりうるのだ、ということを、ダイアローグの際に私は度々感じた。


この、ダイアローグのときの聴く姿勢が、通訳者のあり方ととてもよく似ているのだ。通訳者も、長期間に渡る技能訓練、「一生受験生の生活が続くようなもの」とさえ言われる背景知識の過酷な勉強を携えて、仕事の場に出る。パフォーマンスの出来不出来次第で、今後仕事が来るかどうかが決まるから、毎回が真剣勝負。一回一回の仕事に人生がかかっているのだ。そういう重みを抱えて、通訳者は現場におもむく。


けれども、実際に仕事に入ったら、そういうことは忘れなければならない。特に、「上手にやりたい」「パートナーに下手だと思われていないだろうか」「私はこのスピーカーの言うことには賛成できないのだけれど」などという、自分中心の意識・邪念を一切捨てて、スピーカーの言うことにひたすら耳を傾けなければ、いい通訳は結局のところできない。


完璧に目覚めて、明晰なのだけれども明け渡している。そういう意識をもってスピーカーに寄り添えたとき、とても不思議なことが起こることがある。それは、スピーカーの魂に触れた、という実感。そして、ヘレン・ケラーが溢れる水に手を触れたとき、「ものには名前がある!」と悟ったように、ぴったりする、ストンと腑に落ちる言葉を探し当てたときの喜びである。


ダイアローグのとき、こういう感動的な瞬間に立ち会うことが何度もあった。でも、全体ダイアローグは同時通訳にも匹敵する複雑な作業(相手の話を聞きながら、自分の心の中で起こっているプロセスに気づく・味わう、場で起きているプロセスを察知する、自分の感情・思いが言葉を形作るのを待つ、等)を瞬時に、次々と行わなくてはならないので、今期初めて取り組んだ私は、積極的に参加できたとは言えないことも多かった。ちょうど、同時通訳の訓練を始めたばかりの頃、全部聞こえていて、意味も分かるのに、「ああ」とか「うう」としか言えないような状態である。ある程度修練を要するものであるのは確かなようだ。でも、もっと融通が利くコホート・グループ(全体活動とは別に、二人でペアを組んで行う個別活動)のダイアローグでは、私も、当事者として、忘れられない体験をした。


あるコホート・グループ会合のときのこと。「同じ経験をしていないと、どういう気持ちを抱くものなのか、想像だにしえないことがある。それが寂しい」ということを私は話していた。コホート・パートナーは子どもを持つ立場、私は子どもを持たない立場であり、子どもを持たないがゆえに、自分の親に関して、永遠に分かりえない思いがあるのだということを、残念にも悲しくも思っていた。「でも、"親になってしまうと見えなくなるものもあるのだから、あなたはその(子どもの)視点を大切にしなさい"とある人に言われたんですよ」と言うと、彼女は共感を示し、異なる視点を持つ人は貴重なのだ、という話をしてくれた。そして、しばらくしてから彼女がつぶやいた言葉が、とても印象に残っている。「二人で、両岸に立って、淋しさの川を眺めているみたいね」。


このときに抱いた深い印象は、今でもよく覚えている。異なるエネルギーの粒子が完全に混ざり合う前の、ざらついた感じ。深いしじま。お互いの孤独と孤独に触れ合っている、という感覚。誰にも、究極においては生きなければならない孤独があり、誰が助けることも、代わってやることもできない。そういう宿命を抱いて生きざるを得ない人間という存在への、あわれみ、いつくしみ、労わりのような感情、そして、こういう宿命を等しく持つという一事で"つながっている"という感覚が胸の奥からじわりと沸いてきたのを覚えている。淋しいのだけれど、なんだかしみじみ慰められる体験だった。誰もが願うであろう、「立場の違う人同士が協力しあう」という夢は、こういう、お互いの間に横たわる断絶や深淵をくりかえし、くりかえし見つめることからしか始まらないのではないだろうか、とそのとき感じた。


お互いが、存在の全てをかけて向かいあうとき、思いもかけぬ次元が開けてくることがある。なんという恩寵だろう! これは、ダイアローグだけではなく、探求のプロセスそのもののように思える。知識・能力・精神の限りを尽くし、力を使い果たした後に、恩寵として与えられる深み、真実。様々な叡智の伝統が述べているように、自力と他力、ErosとAgape、上昇する力と下降する力、情熱と無執着のダイナミズムの中から、新たな次元は恩寵として現れてくる。


けれども。ITPの紹介を見ても、「挑戦」「自己否定」など自力志向の強い言葉が並んでいるし、知性的な勉強の重要性が非常に強調されていたりするので、「どこで他力を認めているの!? 」と思われるかもしれない。実際には、"与えられること""待つこと"の大切さも折に触れて言及されており、体験した者にとっては違和感はないのだが、それはこういうことなのかもしれない。


神谷 美恵子の詩に、「うつわの歌」 *3という美しい作品がある。
 
「私はうつわよ、愛をうけるための」で始まり、「私はただのうつわ、いつもうけるだけ」で結ばれるこの詩は、待つこと、Agapeに希望を託すことを切々と歌っている。この詩そのものの文脈からは少し外れるが、この器の喩えを使うならば、私が思うに、ITPは、「あなたが、そもそも器でなければ、水を受けることができないではないか」という立場だ。しかもこの器は、一回造れば足りる、というものではない。造っては壊し、壊しては造り、より深く、広く、しっかりとした、味わいのある器にならなければならない。それでこそ、愛をしっかりと受け止め、なみなみと湛え、溢れさせ、周りにも注いでいくことができる……私はITPはこういう志向を持つものだと捉えている。


ITPで、知性的な勉強を通して意味構築能力・解釈能力を培うことを強調しているのは、これが人間としての"器"そのものの基礎になると考えているからだろう。認識・解釈する力がよく発達し、柔軟で奥深いものの見方ができるようにならなければ、人格そのものが成熟したものになり得ない。そして、人格が成熟していなければ、霊性が本当に深まることもあり得ない。カルトにはまるなど、真理を求めて却って間違った方向に行ってしまうこともあり得る。人間や世界の"あるがまま"を余りにも安易に肯定し、その結果、人格が未熟であり続けることを許容してしまう内面性探求のあり方に対して、ITPは極めて批判的だが、それにはこういう理由がある。

最後に、いくつか。


何度も「恩寵」という言葉を使ったが、恩寵そのものを目的にしてはいけないと自戒している。恩寵は、"獲得する"ものではなく"与えられる"ものであり、いつ、どのように、どういう形で与えられるかは分からないからだ。*4 恩寵は、深い闇に伴うかすかな光のようなものとして、あるいは無味乾燥として体験されることがある。また、「とても痛いこともあるのよ、あんまり勢いがいいと」と「うつわの歌」でも歌われている通り、痛く、また苦く感じられることもある。甘美なものばかりではないのだ。


自分自身、「造り変えられた」と思う経験をしたのは、音楽の専門家を目指した10代の頃の容赦ない訓練と挫折、「あなたの通訳のせいで会議が混乱した」という上司の厳しい言葉、人間関係の望まぬ転回などで、自分が粉々に砕かれたときだった(何年かたって、同じ上司から、「上達した」と言われたときは、どんなに嬉しく思ったことだろう。私は、この極めて率直だった上司こそ、信用のおける人だと思っている)。人間の自然な心の傾きとして、心に苦いものよりも、甘美なもののほうを求めるものだ。また、必要以上に苦みや痛さに恐れを抱くものだ。しかし、成長とは、「ああ、あの時はあんなことで悩んでいたのだ」と思える地点に至って初めて自覚されるもので、している最中は分からない。それと同じで、何が本当に自分を養ってくれる糧なのかは、後になってみなければ分からないものもあるのではないだろうか。


なので、恵みを、報いを得ることをあてにせず、どんな恵みであるかも選り好みせず、ただ坐り、心を開き、耳を傾ける。そういう姿勢が大切なのだろうと思う。


ITPという取り組みに出会ってから、何か碇を下ろした、自分の存在の根っこに深く結ばれた、という感覚を抱いている。碇が下りれば、海上で船が動く範囲は自然に定まる。自分がどこに行ってしまうのだろうかと、余り心配することがなくなった。非常に解放され、同時に落ち着いた穏やかな気持ちで、日々の平凡な生活にいっそう誠実に取り組めるようになったこと、これが私にとってはITPを始めて一番の収穫である。こういう対話の方法に巡り合えたこと、そして対話の場を可能にしてくれる仲間に出会えたことに心から感謝している。


時には、仲間の器からあふれ出す水の勢いがよすぎて、自分に穴が開くような思いをするかもしれない。けれども、仲間は、自分が新たな形を取るまで誰かが辛抱強く待っていてくれる、と気づかせてくれるだろう。そして、自分が砕かれ、土くれのようになり、何の価値もなくなったと思うときも、慈愛の雨はずっと変わらず降り続いている――「愛は降り続けるのよ、時には春雨のように、時には夕立のように。どの日も止むことはない」(前出「うつわの歌」)――ことを、思い出させてくれるだろう。


*上記には、コホート・パートナーと交わした個人的な会話が収録されていますが、当事者の明確な同意を得て掲載しています。ITPでは、集まりで話したことを外部に公開することは基本的にはありません。

*1 Ken Wilber(1995/2000)pp. 640-643.
*2 鈴木 規夫(2007a)
*3 神谷 美恵子他(2004)に所収。
*4 努力と恩寵――悟りも、恩寵のひとつであろう――の間に定式化できるような対応関係がないとすれば、なぜ、修行をしなければならないのだろうか? これは直接答えることが最も難しい問いのひとつであり、修行者が何度も立ち返らざるを得ない問いだろう。私は、それでも人が霊的実践に携わろうとするのは、次のような仕組みがあるからではないかと思っている。
  永遠、根源的なもの、一者……そういうものを一瞬でも垣間見た者は、弓から放たれた矢のようなものだ。放たれるままに飛んでいかざるを得ず、そういう者にとって、霊的な実践・修行は、「しなければならないもの」ではなく、「せずにはいられないもの」として感じられるようになってくる。全ては、自分を存在させている、最も根源的なものに対する憧れの表現なのである。たとえ傍目には、地上をのた打ち回っているようにしか見えなくとも。
  山に登る道がいくつもあるように、意識的な霊的実践の道を通らなくても、"自分を超える根本的な何か"に至る道はある。研究、芸術、仕事への献身、他人へ思いやりを示すこと……などなど、損得勘定を抜きにして、せずにはいられない何か、やむにやまれぬ何かを持っている人は、同じく、根源・一者・超越(その他多くの名がある)に呼ばれているのではないだろうか。そう考えると、人間が、自分を超えたものに憧れ、それに対して自分を開くことができるということが、最初にして最大の恵みであるように思われる。
  ただ、決まったフォーマットに従い、意識的に実践に取り組むことは、いわば"飛んでいく"方向を確認しながら進むことができるため、安心感をもたらしてくれるのは確かである。霊的実践の伝統は、超越からの呼びかけが真正なものであるか否かを識別し、その道から外れていないかどうかを判断する方法・基準を何らかの形で持っているからだ(ITPの場合は、ShadowのワークやAQALの枠組み等がこれに相当するだろう。このような方法論を持たない霊的実践は非常に危うい)。そして、より多くの地点を計測して作った地図がより正確であるように、人間活動のあらゆる側面を包含しようとする試みであるITPは、霊性の深みを探求しつつ地上を歩き通すという困難な旅において、現在知られている限り最も信頼できる羅針盤を提供してくれるだろう。


参考資料

Ken Wilber (1995/2000). Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution (Second Edition). Boston: Shambala.[邦訳:ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(1・2)春秋社]
アビラのテレサ、鈴木 宣明監修、高橋 テレサ訳(1992)『霊魂の城−神の住い』 聖母文庫
シモーヌ・ヴェイユ、渡辺 義愛訳(1968)「重力と恩寵」『シモーヌ・ヴェイユ著作集 第三巻』 春秋社
神谷 美恵子他(2004)『神谷美恵子の世界』みすず書房
鈴木 規夫(2006a)「ケン・ウィルバー紹介〜インテグラル思想入門〜」Available at http://www.integraljapan.net/about_kw/kenwilber_1.htm
鈴木 規夫(2006b)「統合的変容のための実践」Available at http://www.integraljapan.net/articles/for_itp_1.htm
鈴木 規夫(2007a)「ITP Meditative Dialogue」
鈴木 規夫(2007b)「共同空間の構築」Available at http://www.integraljapan.net/training/itp_essay2.htm
鈴木 規夫(2007c)「Boomeritis Spirituality」 Available at http://www.integraljapan.net/trainning/itp_essay4.htm
高橋 恵介(2007)「AQAL」Available at http://integraljapan.net/words/aqal.htm
クラウス・リーゼンフーバー(2004)『超越に貫かれた人間−宗教哲学の基礎づけ』創文社