共同空間の構築 

鈴木 規夫

インテグラル思想は実践思想である。研究と実践を相補的な活動として認識するインテグラル思想は、それらを並行的に実践することを実践者に要求するのである。


今日、世界的に展開しているインテグラル・ムーヴメントは、実際、こうした発想にもとづいて、自己と他者の福利にたいする責任感覚を基盤とした研究と実践の活動に取り組んでいる。現在、東京で継続的に開催されているIntegral Japan主催の研究と実践の活動(インテグラル思想研究会、そして、Integral Transformative Practice)は、こうした世界的な動向に積極的に参画することを意図して、取り組まれているものである。


ここでは、そうした活動に主催者のひとりとして参加するなかで経験・発見した洞察を共有したいと思う。


インテグラル思想の実践においてとりわけ重要となるのは、一人称・二人称・三人称という三種類の実践に並行して取り組むことである。 [1]

  • 一人称の実践:自己の個人としての成長を志向する実践
  • 二人称の実践:自己の参加する人間関係の向上を志向する実践
  • 三人称の実践:自己の存在を超えて共有・継承される共同体の福利の維持・向上を志向する実践

とりわけ留意するべきことは、こうした枠組が、本質的に、エロス(Eros)とアガペ(Agape)という二種類の愛を自己の存在をとおして体現することを志向するものであるということである。


今日、先進国を中心に展開している「こころの時代」を特徴づける諸々の実践形態が、基本的に、個人の内的領域の探求を重視する一人称の営みであるのにたいして、インテグラル思想の実践は、意識的・積極的にそうした実践のありかたを批判・超越しようとする。そこでは、そうした自己の内的領域の探求に特化する実践が、自己にたいする執着を増幅する危険性、つまり、自己肥大化の危険性を内包することが留意されるのである。


こうした問題は、一人称の実践活動が構造的に内蔵する盲点に起因するものであり、窮極的には、一人称の実践活動そのものをとおしては克服することはできない。こうした問題を克服するためには、二人称・三人称という質的に異なる実践活動に従事することをとおして、自己を「忘却」することが必要となるのである。


インテグラル思想は、各実践法が、独自の意識状態を醸成することをとおして、独自の真実を開示するものであることを認識する。しかし、インテグラル思想は、また、各実践法が、特定の意識状態の醸成に特化することをとおして、必然的に構造的な盲点を抱え込む傾向にあるものであることも認識する。こうした認識を基盤として、インテグラル思想は、様々な形態の実践に並行して取り組むことを称揚して、この問題を克服しようとするのである。その意味では、インテグラル思想の実践とは、活動のただなかにおいて、常に自己の体験をとらえている限定条件を把握・克服しようとする、極めて内省的・創造的な実践活動であるということができるだろう。


今日、先進国において展開している「こころの時代」の深刻な問題のひとつは、それがスピリチュアリティを自己の内的領域の探求活動により実践されるものとして排他的に規定していることであろう。つまり、そこでは、スピリチュアリティとは、あくまでも自己との対峙・対話をとおして営まれるものであり、他者との関係性への参画という要素が欠落することになるのである。こうした傾向は、必然的に、異質性との対峙という生命の活性化のための必須体験を剥奪することになり、結果として、実践者の自己という閉鎖された世界への拘泥を進行させていくことになる。ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、今日、スピリチュアリティの実践者の多くが、意識退行の悪循環に陥っている背景には("Boomeritis Spirituality")、今日、称揚されているスピリチュアリティが過剰なまでに一人称のありかたに規定されているという事情があることは間違いないだろう。


一人称・二人称・三人称という三種類の実践の必要性を強調するIntegral Transformative Practice(ITP)(統合的変容の実践)の意義が、自己への執着というこうした現代の病理を克服するための継続的な共同活動の空間を提供することにあることはいうまでもない。そこでは、自己の存在を開示することをとおして、他者の存在を抱擁することが、本質的に、自己の忘却というスピリチュアリティの窮極的な実践を可能とするものであることが認識されるのである。


こうした問題意識にもとづき、ITPにおいては、共同空間("We Space")の維持・向上のために積極的に貢献をすることが重視される。共同空間は、独自の文化(構成員間の意思疎通のありかたを規定する支配的形態)をもつことをとおして、個人の成長に寄与することも、また、個人の成長を阻害することもできる。しかし、いうまでもなく、それは、個人のありかたを規定するものであるのみならず、また、個人のありかたが規定することのできるものでもある。つまり、共同空間の福利に責任を負うとは、そして、他者の福利に責任を負うとは、こうした相互の意思疎通のありかたを規定する「支配的意思疎通形態」("Dominant Mode of Discourse")の進化に建設的に寄与することを意味するのである。二人称・三人称の実践とは、こうした自己の責任を意識的に果たすことができるときに、始まるのである。 [2]


共同空間の文化の進化に寄与するために参加者が遵守するべき規則として、ウィルバー(2006)は、下記を挙げている。

  • 共同空間における自己の行動(思考・行動・発言)を常に「高次の自己」から発せられるものとするべくこころがけること。「高次の自己」を表現するとは、即ち、自己の内部に息づく賢明さと聡明さの源泉である最高・最深の智慧を尊重するということである。
  • 常に自己を内省することをとおして、自己の内部に立ち上がる現象(思考・感情等)を観察しつづけること。「高次の自己」の視点から行動するとは、絶え間なく変化しつづけるこれらの現象を対象化(観察)する静謐な自己を基盤として行動することである。
  • 常に自己を内省することをとおして、自己の「影」を認識するためのこころがけをすること。「影」とは、しばしば、外的な刺激(代表的なものとしては、他者の発言や行動)により自己の内部に惹き起こされる激しい感情的反応を意識・探求することをとおして把握することができるものである。
  • 共同空間を向上するために、常に主体的であること。主体的であるとは、共同空間における体験を質的に向上するために、先ず、己が率先して行動することを意味する。また、これは、共同空間における体験を好ましいものへと変化するために、他者に依存をしないということを意味する。
  • 自己の意見があくまでも自己のものであることに留意すること。つまり、これは、自己の視点が、あくまでも、数あるなかのひとつにすぎないことを理解すること、そして、自己の視点の限界を留意したうえで、他者の意見にこころを開くことを決意することを意味する。

こうした条件が整うときに、われわれは、はじめて、自己の存在そのものを他者の変容に寄与するための「装置」(vehicle)として献呈することができるのである。そして、また、参加者がこうした規則を真摯に遵守することができるとき、共同空間は、はじめて、祝福された空間として立ち上がることができるのである。


その意味では、共同空間の維持・向上にたいする責任を抱擁するとは、先ず、参加者が、自己との対峙という作業に、自らの絶対的な孤独を受容したうえで、果敢にとりくむことができるように、(自己を含む)全ての参加者に必要な支援を提供することを意味する。ITPという共同空間は、こうした自己の責任を受容した個人のための空間なのである。


いうまでもなく、共同空間とは、われわれに「個」であることの重圧の忘却を可能とするための、逃避の装置ではない。われわれは、窮極的には、自己の救済にたいしてのみ責任を負うことができるのであり、また、そうした責任を放棄しようとする自己の内部に蠢く衝動と徹底して対峙しつづけなければならない。ITPという共同空間が、こうした責任放棄の衝動を擁護するための装置として機能しはじめるとき、それは、寂寥感という、人間が絶対的に孤独であることをとおしてあたえられている、救済のための条件を剥奪することになる。つまり、寂寥感こそが、エロスの発現の源泉であることを考慮すれば、それは、窮極的には、成長という人間の生得的な権利を侵害することであるとさえいうことができるのである。


共同空間における二人称・三人称の実践を、あくまでも、自己との対峙という、一人称の実践に基礎づけられるものとして確立することを志向する上記の規則には、こうした智慧が内蔵されていることを確認する必要があるだろう。非常に常識的なものであるように思えるこれらの規則は、参加者の意識の質的変容を促進するための適切な文化をITPという共同空間に確立するためには、必須のものなのである。


重要なことは、こうした文化が存在するときに、はじめて、われわれは、他者を絶対的な他者性のなかに尊重・抱擁することができることに留意することである。われわれは、自己を個人として規定する構造的な拘束条件を放棄しようとしつづける限り、自己の内部に巣食う疎外感を克服することはできない。むしろ、疎外感とは、われわれが自己を絶対的な孤独のなかに規定する構造的な拘束条件を抱擁することができるときに克服できるのである。

自己の個人としての構造的条件を積極的に受容するこうしたありかたを参加者が共有することができるとき、共同空間には、人間存在の構造的条件にとらえられた、つまり、人間存在としての普遍的な宿命にとらえられた同胞としての連帯感覚(Sense of Communion)が醸成される。そして、その瞬間において、自己の孤独は、人間としてあることの歓びと哀しみをわれわれにもたらすものとして再発見される。そのとき、われわれは、克服するべき対象として自己の内部で経験されていた疎外感そのものが解消していることに気づくことになるのである。

 

 

いずれにしても、ITPという実践活動の醍醐味のひとつが、こうしたかたちで他者と邂逅することができることにあることは確かだろう。これは、共同空間の信頼性の確保にたいして主体的に責任をとることをとおして、他者の福利に自己を投資することによりあたえられる贈り物と形容することのできるものである。こうして、他者の存在を変容の実践の不可欠な要素として抱擁することをとおして、われわれは、はじめて、一人称の実践が構造的に内蔵する限界を克服することができるのである。


その意味では、ITPにおいて、他者とは、いわゆる自己犠牲としての奉仕の対象ではなく、むしろ、自己という虚構を実在化することをとおして自己完結しようとする個であることの根源的な病理からわれわれを解放してくれる必須の存在として理解されるのである。こうした認識が欠如するとき、一人称・二人称・三人称というそれぞれの実践は相互に有機的な関係性を確立することができず、断片化されてしまうことになる。


ある意味では、ITPという実践活動の価値を理解することの難しさとは、こうした各実践形態間に息づく相補的な相互関係を体験的に理解することの難しさに起因するものであるということができるだろう。また、それにくわえて、今日、先進国では、二人称と三人称のスピリチュアリティの実践を可能とする持続的な空間が物理的に欠乏しているために、多くの人々は、ITPのような包括的な実践活動を実際に体験する機会をもたないまま、結果的に、一人称の実践の限界に絡め取られているのも事実である。


問題を問題として認識するためには、先ず、現在の状況を適切に把握・分析するための認識の枠組が必要とされる。とりわけ、自己の精神的な探究活動のありかたそのものを対象化して、その問題を克服することができるためには、知的枠組のみならず、現在の自己の存在を検証するための感性的枠組が必要となる。これは、既存の均衡状態を否定して、新たな均衡状態を創造しようとする生命の本能的叡智に発祥する感性と形容できるものであるが、こうしたものは、実際には、共同空間における具体的な学習体験を積み重ねることによって解発されるものである。今日、先進国において、そうした学習体験を可能とする共同空間が圧倒的に不足しているという状況は、スピリチュアリティの成熟に深刻な困難を投げかけているのである。


いずれにしても、少数の例外をのぞいて(例:Donald RothbergのSocially Engaged Spirituality)、インテグラル思想のこうした包括的志向が、今日、先進国において展開しているスピリチュアリティの実践活動に体現されていない背景には、上記のように、二人称と三人称のスピリチュアリティの実践のために必要とされる持続的な共同空間という文化的装置が物理的に欠乏しているという問題があることをわれわれは深刻にとらえる必要があるだろう。今日、スピリチュアリティと形容されるものが、総じて、自己の内的領域の探求に終始する退嬰的な営みとして固着していることは、必然的に、実践者の視野の狭窄化と生命力の減退を促進して、結果として、共同体の活力の源泉としてのスピリチュアリティの存在意義を溶解することになる。つまり、一人称の実践形態により排他的に規定されるようになるとき、スピリチュアリティは、人々を同時代の歴史的な展開から疎外して、知的自慰行為へと埋没させていく装置へと転化することになるのである。実際、先進国を中心として、未曾有の物質的繁栄を基盤として成立した「こころの時代」が、本質的には、「癒し」と形容される快楽体験にたいする飢餓感覚を集合規模で増幅する以上の成果を生み出すことができなかったことは、そうした危険性を端的に示すものであるといえるだろう。


21世紀という文脈のなかで、インテグラル思想を実践するということが、少なくとも必須要素のひとつとして、共同体の構築・維持・発展という二人称と三人称の実践にたいして主体的に責任を負うことを意味するのは間違いないだろう。この三形態において、探求と実践という相補的な活動に取り組むことができるとき、われわれは、はじめて、ITPに従事しているということができるのである。


いうまでもなく、これは、継続的に実践することのなかに生成する価値を志向する果てしない営みである。しかし、そうした営みは、他者との邂逅という至福の体験により支えられている。



*1 実践の三形態の詳細については、鈴木 規夫(2006)を御参照いただきたい。
*2 支配的意思疎通形態("Dominant Mode of Discourse")については、鈴木 規夫(2007)を御参照いただきたい。

参考資料

鈴木 規夫(2006)統合的変容のための実践:トランスパーソナル思想の統合的実践のための理論的枠組 Available at http://www.integraljapan.net/
鈴木 規夫(2007)Individual HolonとSocial Holon:Agapeの二形態 Available at http://www.integraljapan.net/
Jim Collins (2001). Good to great: Why some companies make the leap…and others don't. NY: HarperBusiness.
Ken Wilber (2006). Road Rules for Transformation: Guidelines for Integral Institute Forums. Available at http://www.kenwilber.com/blog/post/85?page=60