あたえること 〜実践提供という実践〜 

鈴木 規夫

今日、先進国において、多数の人々により取り組まれている「自己探求」・「自己実現」の問題が、そうしたこころみが往々にして自己を物化(reify)することにあることは、つとに指摘されているところである(例えば、Chogyam Trungpaが、「霊的物質主義」("Spiritual Materialism")という概念で指摘した問題はこうしたものである)。自己を「獲得」の対象として設定することをとおして、個人をあてどない内的探求に執着させるこうした思想的態度は、しばしば、自己というものがあたかも所有可能なものであるかのような幻想を醸成して、個人を飢餓感に絡めとることになる。New Age Movementに代表される「こころの時代」の関係者が発散する特有の貪欲さとは、こうした発想が必然的に醸成することになる飢餓感を克服しようとする態度の副産物であるといえるだろう。

自己を充足してくれるものが自己の内面の純粋な探求をとおして見出されるという前提は、往々にして、個人を世界との関係性から阻害して閉塞させていく。自己に誠実であることにたいする脅迫的な執着を基盤として立ち上がるこうしたありかたは、探求者の世界にたいする関心を減少させて、結果として、その自己中心性を肥大化させていくのである。

しかし、発達心理学の調査・研究が指摘するように、自己実現とは、実際には、自己にたいする執着を克服して、自己の個人としての存在を超越する普遍的価値に覚醒していく自己中心性の減少の過程のことを意味する。それは、ある意味では、自己を肯定することではなく、むしろ、自己を否定していく自己陶冶の過程であるということができるだろう。そこには、今日、「こころの時代」の扇動者により称揚される自己にたいする臆面のない執着と閉塞ではなく、むしろ、自己の「外部」に自己を超越・増幅するものを探求する自己忘却・自己解放のダイナミクスが機能するのである。つまり、実際には、自己実現とは、自己が決して自己完結することのできない存在であること、つまり、普遍性との関係に積極的に参画することをとおして、自己を忘却しようとする根源的な自己超越の欲求を内蔵した存在であることを認識・尊重する叡智にもとづいた過程と形容することができるのである。

Ken Wilber(KW)は、今日、先進国を中心にして大量消費されている自己閉塞と自己肥大に傾斜する霊性(spirituality)を"Boomeritis Spirituality"と形容して、その克服の重要性を強調している。周知のように、霊的探求がこうした病的ありかたに傾斜する危険性を内蔵していることは、人類の歴史を通じて賢明な実践者により認識されてきたところである。しかし、今日においては、大量消費主義社会が成熟するなかで人間の欲望が過度に肥大化した結果、「自己発見」や「自己実現」等の高次の精神的欲求までもが大衆の消費活動の対象として確立されたために、その危険性は急激に増幅している。その意味では、集合領域の発達により増幅された霊性の歪曲の危険にたいして、今日、われわれはさらに透徹した警戒の目を確立する必要がある。KWのBoomeritis Spirituality批判は、こうした同時代の構造的病理を克服するうえで、非常に重要な洞察をあたえてくれるものである。

今日、Boomeritis Spiritualityを発祥原因として蔓延する症状のひとつに「体験主義」("experientialism")がある。これは、霊的成熟を非日常経験の蓄積をとおして獲得するべきもとして見做して、鮮烈な非日常的体験を数多く経験することを最高の目的とする発想のことである。体験を獲得(消費)することを目的化することをとおして探求者の内的な飢餓感を温存・増幅するこうした霊的探求のありかたは、しばしば、外的要因(非日常体験、あるいは、非日常体験の提供者としての指導者)にたいする依存を醸成して、個人の枯渇感を増幅することになる。霊的探求を自己の内的な欠乏感を充たすための方法として道具化するこうしたありかたは、実践者を底無しの空虚に絡めとることをとおして、「霊的体験」という刺激を絶え間なく追求する消費行動に急き立てるのである。

いうまでもなく、今日、「こころの時代」を経済的に支える構造とは、それが解消されることのない欠乏状態のなかに消費者を絡めとる効果的な装置を確立することに成功したからである。そこでは、「癒し」の提供者として自己を権威づけすることに成功した人間が、決して解消されることのない枯渇感の自己増幅の悪循環のなかに他者を巻き取ることをとおして、他者を経済的に収奪しているのである。

Boomeritis Spiritualityについての論述のなかで、KWは、それが霊性にたいする今日の最大の脅威であることを強調する。Boomeritis Spiritualityというものが、窮極的には、霊性の本質である自己陶冶を疎外して、人間を絶え間のない飢餓状態に陥れることを鑑みるとき、こうした問題意識が妥当なものであることが理解されるであろう。そして、今日において、真にインテグラルな実践に取り組もうとするとき、われわれは、同時代の集合的な問題として蔓延するこうした問題と対峙することを要求されることになるのである。

George LeonardとMichael Murphy(1995)が説明するように、統合的な自己変容の実践(Integral Transformative Practice・ITP、あるいは、Integral Life Practice・ILP)は、1人称・2人称・3人称の実践(個人としての実践と集合としての実践)を相補的関係にあるものとして認識して、それらに並行して取り組む営みである。そこでは、霊的実践というものが常に関係性という文脈のなかで営まれるものであることが認識される。つまり、そこでは、自己の成長のみならず、また、慈愛にもとづいて他者の成長に参与することが包括的な成長のための必要要素として認識されるのである。

いうまでもなく、こうした共同実践者(共同体)にたいする関心(care)を実践の必須要素として位置づける実践形態は、これまでの霊性の歴史において、あらゆる賢明な実践者が認識してきたものである。

David Loy(1996)が喝破するように、個とは構造的に欠乏感("the sense of lack")に特徴づけられた存在形態である。人間の日々の活動とは、自己の内部に発見されるこうした根源的な欠乏の感覚を解決しようとするこころみなのである。真の霊的探求("Transformative Spirituality")とは、こうした欠乏感にたいする根本的な治癒を志向するこころみである。それは、欠乏感として経験される構造的な空虚を充たすことではなく、むしろ、そうした欠乏感に構造的に絡めとられて、恒常的にその解決に追い捲られている個という存在そのものを克服することを志向するのである。自己の構造的な空虚の解決をもたらす治癒を彼方に見出して、その獲得のために絶え間なく自己を奮い立たせていく構造的な衝動――霊的探求とは、こうした自己のありのままと対峙するのである。

その意味では、個としてあることをとおして自らが内蔵しているこうした宿業を意識することができることは、霊的実践が「変容志向」("transformative")なものとして確立されるための必須条件であるといえるかもしれない。そして、自らがこうした救済への執着にとらわれた存在であることを認識するとき、われわれは、はじめて、自己を忘却するための実践として、奉仕の活動のありがたさを実感することができるようになるのである。そこに自己の存在を奉げることのできる他者が存在するということ――そうした貢献の機会をあたえられてあることのなかに世界の慈しみを実感することが、霊的探求を変容志向のものへと転換するための必要要素となるのである。

しかし、上述のように、今日、先進国において大量消費される霊性は、自己の構造的な宿業との対峙という霊性を霊性たらしめる重要課題を看過したところに成立する、体験主義的なありかたに終始している。また、そうした視野狭窄は、「こころ時代」という曖昧模糊とした時代精神のもと、人為的に増幅された「癒し」といわれる快楽体験にたいする飢餓感に促されて、益々、悪化している。KWが指摘するように、今日においては、変容志向の霊性は正に駆逐されようとしているのである。

インテグラル思想を基盤とする統合的実践(ITP・ILP)は、いうまでもなく、こうした変容志向の霊性の復権を意図するこころみである。必然的に、そこでは、参加者にたいして、共同実践者にたいする貢献の活動に積極的にとりくむことが求められることになる。基本にあるのは傾聴の精神と実践であるが *1 、しかし、実践の視野を共同体の参加者だけでなく、また、自己の所属する地域共同体を包含するものへと深化させていくために、参加者は共通の興味をもつ仲間と共同して、実践の構築に取り組むことを求められる。つまり、そこでは、権威者により供給される実践を消費するのではなく、むしろ、実践の構築という価値の創造者としての責任を担うことをとおとして、他者の福利に寄与することが求められるのである。

霊性の商品化が完成したこの時代に生活することをとおして、われわれは往々にして霊的探求とは権威者により提供される実践を消費することであるという前提に絡めとられることになる。人間を消費者として位置づけることをとおして、その内的空虚を増幅する時代精神は、われわれは「癒し」という刺激にたいする恒常的な飢餓状態に陥れることになるのである。

しかし、重要なことは、こうした時代の陥穽を認識することが、必ずしも、それからの解放を保障するものではないということである。確かに、実践者として、われわれは同時代の困難を認識するべきであるが、しかし、そうした認識とは、窮極的には、自己の「癒し」にたいする執着を克服するための奉仕の実践として昇華されるときにはじめて意味をもつものである。

今日、人類社会を惑星規模で席巻する大量消費主義の精神は、片時も休むことなく人間の潜在的な欲望を開拓して、貪欲であることを救済の方途として聖化しつづける。好むと好まざるに関らず、人間を消費欲求の肥大化の悪循環に絡めとることになるこの圧倒的な時代精神から自己を解放するためには、そうした状況にたいする認識だけではなく、価値の創造者として自己を確立するための研鑽と協働の実践が必要となるのである。ITPの共同活動において、実践の構築が重要な実践となる理由とは正にこうしたところにあるのである。

KWが繰り返して説明するように、インテグラルな実践とは普遍性と時代性を統合する複眼的な視野にもとづいて取り組まれるものである。換言すれば、インテグラルな実践とは、霊的探求を同時代の集合的現実から逃避するための方法として利用するのではなく、むしろ、AQALとして展開する内的・外的な世界をありのままに抱擁するところ成立する実践である。つまり、それは、眼前に展開する時代状況のなかで人間が経験する条件を洞察しようとする問題意識にもとづいて取り組まれる、徹底した現実主義的にもとづいた実践活動なのである。

それゆえにインテグラルな実践の視野は三人称の課題にひらかれたものとならざるをえない。つまり、実践者は、人類の集合的な営みにたいして――あるいは、生命の連鎖をとおして間接的に関係することになるあらゆる生命体の福利にたいして――いかなる貢献をすることができるのかという問題意識を経験することにならざるをえないのである。

インテグラル思想においては、個人としての行動は人類の集合的共有物として継承される歴史的意味を所有するものとして見做される。個人のあらゆる内的・外的な行動が、将来にいかなる世界を継承するのかという集合的な問題に寄与するものとして見做されるのである。*2 必然的に、ITPにおいても、実践者は自己の歴史的な責任を主体的に抱擁することを求められることになる。惑星・文明・国家・組織・家族等、様々な共同体に所属する存在として、それらの福利と発展にいかなる貢献ができるのかという時間的・空間的な関係性の発想にもとづいた実践が求められることになるのである。

ITPにおいて実践の共同構築という実践に取り組むことは、今日、集合的な飢餓状態にある人間の状況にたいして、自己のありかたを価値創造者としてのそれに変容することをとおして、治癒をもたらそうとすることを意味する。また、実践者は、そうした作業に取り組むことをとおして、癒しというものが、窮極的には、他者によりあたえられるものではないことにはじめて気づくことができる。癒しを獲得しようとする飢餓感とは、実際には、あたえることに自己を傾注するなかで、そこに他者だけが存在するという瞬間に巡り合うときに自己と一緒に解消されるものでしかない。

飢餓感というものが個という存在形態そのものが構造的に内蔵しているものであること――つまり、それが、「自己探求」や「自己実現」等、個としてあることへの執着を増幅する取り組みをとおしては解決することができないものであることを感得するためには、世界があたえてくれる貢献の機会のなかに自己を忘却することしかないのである。

個の成熟は最終的に個の超越を可能とする。しかし、自己の放擲を意志することができるほどに強靭な自己の構築をすることが長年の人格陶冶を必要とする課題であることはいうまでもない。実際、他者の存在に自己の精神を傾注することができるためには、先ず、自己が抱える諸々の課題や問題と真摯に対峙して、その解決と治療にとりくむことのできる勇気と慈愛を自らにたいして発揮することができねばならない。そうした過程をとおして、自己を受容することができたとき、われわれは、漸く、自らの病理にそれほど煩わされることなく、他者の福利を慮ることができるようになるのである。その意味では、あたえることに自己を傾注することができるためには、先ず、自己というこの生得的にあたえられている贈物にたいする責任を誠実に果たすことが重要となるのである(また、実際のところ、そうした過程をとおして、自己の内部に存在する人間の宿業と格闘することなしには、世界をありのままに抱擁して、その変革に参画することなどできるはずもない)。

しかし、ITPにおいては、そうした段階においても、実践者の視野が常に世界にひらかれたものであることを保障するための文脈が維持されることになる。自己探求の取り組みが、内的な飢餓感に拘泥する自己閉塞したものではなく、最終的には世界への貢献を志向するものへと昇華されるためには、実践の大局的な方向性を継続的に照明してくれる共同体の存在が不可欠となる。ITPの実践共同体においてこころみられる実践構築という実践とは、そうした共同体の機能を実現するための機構のひとつということができるだろう。

人間は、鍛錬を積み重ねて、知識と経験を充分に蓄積することができたときにあたえることができるようになるのではない。自己の内部にあたえるに価するものが存在しないことの空虚感を痛感しながら、尚、あたえられた機会に自己を放擲するときに、初めてわれわれはあたえることの無形の報酬を実感することができるのである。ITPの共同体とは、そうした体験を積み重ねるための支援空間なのである。


参考文献

George Leonard & Michael Murphy (1995). The life we are given: A long-term program for realizing the potential of body, mind, heart, and soul. NY: Jeremy P. Tarcher.
David Loy (1996). Lack and transcendence: The problem of death and life in psychotherapy, existentialism, and Buddhism. Amherst, NY: Humanity Books.
Chogyam Trungpa (1973). Cutting through spiritual materialism. Boston: Shambhala.
Ken Wilber. (1999). One taste: The journals of Ken Wilber. Boston: Shambhala.
Wilber, Ken (2001). A spirituality that transforms. Available at http://www.wie.org/j20/wilber.asp?ifr=srch
Ken Wilber (2002a). Sidebar H: Boomeritis Buddhism. Available at http://wilber.shambhala.com/html/books/boomeritis/sidebar_h/index.cfm/
Ken Wilber (2002b). Excerpt A: An integral age at the leading edge. http://wilber.shambhala.com/html/books/kosmos/excerptA/intro.cfm/

鈴木 規夫(2006)統合的変容のための実践(Integral Transformative Practice):トランスパーソナル思想の統合的実践のための理論的枠組 Available at http://www.integraljapan.net/articles/for_itp_1.htm
千葉 絵里(2007)全てを携え全てを明け渡して聴く:一参加者のMeditative Dialogue体験 Available at http://www.integraljapan.net/activities/itp_essay3.htm

*1 詳細については、千葉(2007)を参照していただきたい。
*2 詳細については、Wilber(2002b)を参照していただきたい。