Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part Six) 

鈴木 規夫

Chapter Seven: The Further Reaches of Human Nature

Chapter Six〜Chapter Eightでは、Ken Wilber(KW)は個人の発達段階を俯瞰する。Chapter SevenではVision-Logic段階を、そして、Chapter EightではPsychic・Subtle・Causal・Nondual段階を紹介する。

Interior Castle

Chapter Twoにおいて提示された進化の法則("the twenty tenets")は、意識進化の過程が"Outward Arc"(「外向化」)の段階から"Inward Arc"(「内向化」)の段階へと展開しても、そのまま機能しつづける。Chapter Six〜Chapter Sevenの議論を理解するために、とりわけ重要となるものとして、KWは下記のことを強調する。

進化とは内面性の深化にほかならない。進化とは、それまでのありかたを超越して、質的・量的により深く広く世界を包容することである。

これにより、個人は、それまで自己の外部にあるものとして経験されていた世界領域を自己の内部に包容することをとおして、外的世界の変化に過剰に影響・支配されることなく、高度の自律性を確立することができるのである。また、こうして質的に深く広い領域の世界が自己の内部に統合されることをとおして、それまでの段階においては、外部世界における実際の活動として表現されていた諸々の行動は段階的に自己の内部において精神的に執り行うことが可能となることになる(外部の刺激にたいする機械的な反応の克服)。

発達心理の調査・研究が示唆するように、内面性の深化は、この瞬間において自己にあたえられている体験の内容に束縛される行動体系を超克して、意識を可能性の領域に拡張することを可能とする。いうまでもなく、これは、自己の刹那的な視点を超越して世界を大局的にとらえる自己中心性の克服を意味する。意識の発達とは、自己の主観を対象化する内省力を段階的に深化することをとおして、自己中心性を減少する過程のことを意味するのである。

瞑想等の霊的実践(spiritual practice)とは、内面性深化の促進の活動と形容できるものである。それは、自己の段階的な対象化を促進することをとおして、それまでの限定的な視点を克服することを可能とする自己中心性克服の活動なのである。KWが指摘するように、自己中心性は必ず真実を歪曲する。その意味では、霊的実践とは、自己中心性がもたらす諸々の認知上の歪曲を減少・排除して、世界のより純粋な開示を可能とする「真実開示」("truth disclosure")能力の向上の実践ということができるのである。

また、こうした認識は、(とりわけEcologists等の活動家のあいだで共有されている)「霊的実践というものは、世界の現実と直面することを拒否して、自己の内的世界に逃避する行為にほかならない」という誤解を解決するうえで非常に重要な洞察をもたらしてくれるだろう(但し、AQALの枠組を欠如させたところで成立する霊性活動が実際に現実との乖離をもたらす傾向にあることは事実であり、こうした「誤解」はあながち的外れなものとはいえないのも確かである)。

Vision-Logic
Fulcrum 6
 *1

合理性段階において、個人は、自律的な意図的存在として自己を確立することをとおして、常に変化のただなかにある対象としての世界と対峙することになる。ここにおいて、個人は、多様な要素が相互に関係することにより成立する世界を客観的に観察する観察主体として自己を確立するのである。

しかし、こうした意識構造は、また、自己を観察主体として固着することをとおして、それを世界との有機的な関係性から乖離した状態に囚える危険性を内蔵している。世界のあらゆる現象は絶対化された観察主体の視野に浮遊する対象と見做されることになるのである。合理性段階の行動論理は、世界を多様な構成要素間の有機的な相互関係の網("holistic network")として認識することはできるが、しかし、そうした網のなかに自己の存在場所を見いだすことはできないのである。("solipsism")。ここにおいて、合理性の特徴である自律性は、肥大化して、主体を関係性から疎外することになるのである。

外部の干渉を排除して、観察主体として自己を純化することをとおして完成された合理性段階の認識主体は、こうした構造的な限界を経験することをとおして、Vision-Logic(VL)段階への成長を遂げていくことになる。

こうした成長の機軸となるのが、合理的観察者としての主体を自己のもうひとつの構成要素である身体との関係性のなかに位置づける内面性の確立である。KWが"Centaur"と形容するこうしたありかたは、「知性」(mind)と「身体」(body)のどちらとも排他的に同化するのではなく、むしろ、両方を対象化して、有機的に統合する構造であるということができるだろう("'mind and body are both experiences of an integrated self'")(p. 270)。そして、観察主体としての自己そのものが実際には諸々の内的・外的な要素との相互関係のなかで成立することを認識するこうした認識形態は、視点というものが構築物としての限界を内蔵せざるをえないものであることを前提として、それらを要素として統合する俯瞰的・包括的な視座を確立することになる。

こうした飛躍的な内面性の深化にもかかわらず、VL段階の意識構造も、また、それまでの段階と同様に特有の病理と対峙することになる。共同体の神話的世界観を脱却して確立された世界に対峙する自律した観察主体としての自己は、もはや存在基盤となりえない。ここにおいて、自己とは、多様な要素の相互関係のなかに立ち上がる構築物であり、それは根源的な虚構性と脆弱性を内蔵する空虚な存在として経験されることになるのである。VL段階において、個人は、こうした根源的な虚無(「実存的危機」)との対峙を要求されることになるのである。

The Transpersonal Domains

人類の歴史を俯瞰すると、霊性(spirituality)とは、99.9%(Joseph Campbell)の場合において、呪術性・神話性の段階を基盤として実践されてきたということができるだろう。しかし、過去の偉大な聖者・賢者により実践されてきた霊性とはそうしたものではない。それは、合理性を包含して、そして、合理性を超越しようとするものである。具体的には、それは下記の知識取得の三段階(3 strands of knowledge acquisition)にもとづいた実践であるといえる。

  1. 実験(injunction/experiment):具体的な方法にもとづく実験
  2. 経験(illumination/apprehension):情報の経験・取得
  3. 確認(confirmation):共同体による情報の正当性の判断

その意味では、霊性の実践とは、伝統等の権威的存在によりあたえられた「真実」を妄信することではなく、むしろ、広義の意味において、科学的な営みということができるものなのである。

但し、ここで下記のことに留意する必要がある:

あらゆる科学的探究活動がそうであるように、霊性という高次領域の探究活動においても、それを可能とする認知能力(あるいは、特定の意識状態を意図的に醸成する能力)の構築が必要となる。一般的な科学的探究活動においては合理性段階(Expert〜Achiever)が要求されることになるのにたいして、霊的探究活動においてはVL段階以降の認知能力が要求されることになる。こうした条件が確保されない場合、霊的探求の対象領域は、実践者の視野に感知されないために、必然的に存在しないものと見做されることになる。

また、認知構造という霊的領域の開示のための必要条件を確立していない人間にたいしては、どれほど詳細な説明を提供しても、それは実際の対象の本質について伝達することはできない。日常生活においても明らかなように、結局のところ、言葉は体験を完全にとらえることはできない。そうした不完全なものをどれほど積み重ねても、体験の本質に至ることはできないのである。あらゆる認知においてそうであるように、霊的領域の認知において重要となるのは、そうした領域を直截的に開示・体験することのできる認知構造(あるいは、意識状態の醸成能力)を確立することなのである。

知識とは具体的な実践をとおして開示される「世界空間」("worldspace")に立ちあらわれるものである。実践は、独自のAQALを開示・構築することをとおして、独自の主体(subject)と客体(object)を関係性のなかに構築することになるのである。従って、探求者に要求されるのは、そうした世界空間に参画できるための認知の枠組を持続的な構造として自己の内部に確立することである。

具体的には、これは「成熟」と「方法」を修得することを意味することになる。これらは常に具体的な実践(行動)により支えられた体験主体そのものの変容を志向するものであるということができるだろう。少なくとも、それは、例えば、New AgersやNew Paradigmersが主張するような、単なる思考や発想のありかたを変化するというものではないことに留意する必要があるだろう。

The Reconstruction of the Contemplative Path

発達心理の調査・研究がOutward Arc(〜VL段階)を構成する普遍的段階について照明したように、過去数十年のあいだに多数の研究者によりおこなわれてきたトランスパーソナル領域の調査・研究はInward Arcを構成する普遍的段階について貴重な洞察を提供している。KWは、それらの研究が、文化的・地域的な差異に起因する多様な表層的構造("surface structures"・"surface features")の背後に普遍的な構造("deep structures"・"deep features")の存在を示唆するものであることを指摘する。

これらの調査・研究を参考にして、KWはトランスパーソナル段階として下記をあげる:

  • Psychic
  • Subtle
  • Causal
  • Nondual

Chapter Eightにおいては、KWは、これらの各段階を代表する聖者・賢者(Ralph Wldo Emerson(1803-1882)・Saint Teresa of Avila(1515-1582)・Meister Eckhart(1260-1328)・Sri Ramana Mahashi(1879-1950))を紹介しながら、それらの概要を紹介する。 2

Chapter Eight: The Depth of the Divine

The Psychic Level
Fulcrum 7

先ず、KWはトランスパーソナル("transpersonal")ということばの意味を簡単につぎのように説明する:

transpersonal = personal plus (≠ personal minus)

具体的には、VL段階において、身体(Body)と意識(Mind)を俯瞰・統合する観察主体としての自己が確立されるときに個を超える意識構造の基礎が経験されることになる。ここにおいて、観察主体は既に個としての自己の存在そのものを対象化して、それに完全に束縛されない観照者として存在している。この観照者としての自己が世界を照明する光明の媒体として確立されるとき、そこにPsychic段階の意識構造が確立されるのである。

あなたのなかにある観察者――目撃者――は、あなたのなかにある孤立した個人としてのあなたを超越しており、そして、それは――Emersonに言うように、内奥から――広大な意識の平野にひろがっている。もはや個人的な存在に執着することもなく、もはや個を尊重・悪用することもなく、もはや孤独な自己の刹那的な歓びと悲しみに魅惑されることもなく、それは沈黙のなかに光明をもたらす空(openness or clearing)として存在している。われわれをとおして世界に光明が射すのである。自己――個――を観察するそれは、正にそれゆえに自己――個――から解放されている。そして、そうした空をとおして、魂(Soul)の力がもたらされるのである。(p. 289)

個としての自己構造との排他的な同一を克服することをとおして、Psychic段階の意識構造は、魂の「力と炎」(p. 289)に自己を開示する。そこにおいて、(時空間との接点として機能する)個という器をとおして表現されるものは、必然的に、魂により活性化された偉大なものとなる。

魂はいかなる個人・文化に・伝統にも束縛されるものではない。それは、あらゆる個人になかに――そして、また、あらゆる個人を超えて――新鮮に顕現する。それは、時間と空間と歴史に特徴づけられたこの世界のいかなるものにもへつらうことのない真実と栄光に支えられたものである。われわれは、「自己の光明」とならなければならないだけでなく、また、「自己の光明」となることしかできないのである。(p. 290)

尚、ここで留意するべきことは、Psychic段階においては、自然が、霊と同一視されるのではなく、あくまでも霊の象徴・顕現として認識されることである。上記のように、霊とは、あくまでも時空を超越したものとして、意識の内奥に感得されるものである。それは、無常の法則に支配される時空間を超えたものであり、その意味においては、時空間の一存在にすぎない自然に還元することはできない。KW(Emerson)が強調するように、五感により感得される対象物を霊と見做すことは、本質的には五感を超えた直感をとおしてのみ感得しえる「対象」("Over-Soul"・"World-Soul")からの乖離を醸成する危険を内蔵しているのである。

確かに、自然は、霊の象徴・顕現として存在するものであるが、それは必ずしも自然が霊そのものであるということ意味するものではない。霊の象徴・顕現としての自然とは、霊と混同されたものとしての自然ではなく("magical indissociation")、また、文化と対置されたものとしての自然ではなく("mythic dissociation")、むしろ、文化と自然を包含する顕現の全体性としての自然である。物質圏(Physiosphere)・生物圏(Biosphere)・意識圏(Noosphere)を包含する「全」("All")としての自然を包容する視野なしに、自然を賛美することは、文化により確立・保障される高次の価値(例:倫理性・合理性)を軽視・無視・拒絶する退行的なダイナミクスを醸成して、結果として、今日の生存状況の危機にたいする真の意味での対応能力を溶解・破壊することになる。「自然(nature)の賛美者は自然(Nature)の破壊者なのである」(p. 296)。

KWはこうした議論を下記のように総括する:

  1. 自然は、霊ではなく、霊の象徴、あるいは、顕現である(nature is not Spirit but a symbol of Spirit or a manifestation of Spirit)
  2. 感覚的意識は、それそのものとしては、霊を照明するのではなく、むしろ、覆い隠す(sensory awareness In itself does not reveal Spirit but obscures it)
  3. 霊の開示のためには、上昇的あるいは超越的な動きが必要とされる(an ascending or transcendental current is required to disclose Spirit)
  4. 霊は、自然が超越されるときに、初めて理解される――霊は自然に内在するが、また、自然の超越のなかにはじめて完全に開示される(Spirit is understood only as nature is transcended-Spirit is immanent in nature, but fully discloses itself only in a transcendence of nature)

また、Psychic段階における意識構造の確立は、倫理的発達の領域においても特徴的な変化をひきおこす。VL段階において世界中心主義(worldcentrism)の認識が確立されるが、Psychic段階においては、世界が包括的に霊の顕現として体験されることの結果、人間のみならず、あらゆる存在が共感のなかに包容されることになるのである。そこでは、あらゆる存在が自己として経験され、そして、その福利に貢献をすることが内発的な欲求と経験される。

こうした倫理性の形態は、自他の境界が明確に設定されていたそれまでの発達段階におけるそれと比較して、自他の根源的な同一性を基盤として成立するものであるという意味において、非常に異なるものであるといえるだろう。

The Subtle Level
Fulcrum 8

VL段階の確立時において構築された身体(Body)と意識(Mind)を俯瞰・統合する観察主体としての自己は、Psychic段階においては、個としての存在のみならず、現象世界(物質圏・生物圏・意識圏)を包括的に包含する霊性圏(theosphere)を基盤とする自己へと変容する。そこにおいては、現象世界は、自己の源泉である霊性の象徴・顕現として包容・賛美されるのである。

意識発達の基礎的段階から継続してきたこうした内面化("interiorization")のダイナミクスは、Psychic段階以降も継続して、いっそう深化した意識構造を生みだすことになる。"Over-Soul"・"World-Soul"というEmersonの表現が示唆するように、Psychic段階の意識構造は、顕現(manifestation)の基盤(Ground)として、世界との関係を密接に維持しつづけている。Subtle段階の意識構造は、
こうした世界との関係を超越して、世界の顕現の「前段階」(prior)である霊・神そのものと同一化することになる。そこにおいては、時空間に成立する世界そのものが超越されることになるのである。Psychic段階において開始された時空間の超越という内面化のダイナミクスは、Subtle段階において、こうしてより純化・成熟したかたちで完成されるのである。

KWは、この段階の代表的な作品であるSaint Teresa of Avillaの"the Interior Castle"について概説しながら、Subtle段階の深化過程について紹介する。この作品のなかで、Teresaは、魂の成長の7段階をあげている(第1段階〜第3段階はPersonal段階を構成する)。

  1. the First Mansion(Humility):世界の安楽に執着している段階であり、先ず、霊的探求の基礎である規律の確立が必要とされる
  2. the Second Mansion(Practice of Prayer):霊的探求の純化のために知的訓練と他者との交流が必要とされる段階
  3. the Third Mansion(Exemplary Life):規律と倫理性が確立される段階
  4. the Fourth Mansion(Prayer of Recollection & Prayer of Quiet):霊感の活性化・恩寵の降臨にともない、記憶・思考・五感等の現象領域の機能が低下・停滞する段階
  5. the Fifth Mansion(Prayer of Union):個としての機能が完全に停止することをとおして、自己の内奥に霊が息づいていることが直截的に感得される段階(Psychic段階)
  6. the Sixth Mansion(Lover and Beloved):霊との同化状態が長期的(例:数日間)に維持される段階で、ここでは、しばしば、ecstasy・illumination・rapture・trance・vision等の多様な非日常的な現象が経験されることになる(こうした同化状態が終息するときには、"Dark Night of Soul"(Saint John of the Cross)といわれる過酷な寂寥感に襲われる状態に陥ることなる)(Psychic段階〜Subtle段階)
  7. the Seventh Mansion(Spiritual Marriage):世界の基盤としての霊(Uncreate Spirit)との結合が成就される段階(Subtle段階)

こうした結合が成就されるとき、魂は、神との結合のなかに滅却・再生することになる。そして、こうした変容を経験した意識構造は、自己の存在の内奥に愛と歓びが横溢することを感得して、そこから現象世界のありとあらゆるものを包容することになるのである。

The Causal
Fulcrum 9

魂(Soul)と神(God)との結合により確立されたSubtle段階の意識は、魂と神の基盤である純粋な意識としてのGodheadが感得されるなかで超越されていくことになる。ここにおいて、魂(Soul・Atman)と神(God・Brahman)という最終的な境界は超越され、それらの「源」("Source")としての純粋な自己のなかに止揚されるのである。ここにCausal段階が確立されることになる。

魂(Soul)と神(God)の結合が存在するということは、即ち、それらのあいだに分離(duality)があるということである。そして、Meister Eckhartによれば、この分離は不可避的にそれらの基盤(God beyond God)を隠蔽することになるのである。

Godheadは「深淵」("Abyss")・「空」("Emptiness")・「無」("Nothingness")と形容されるが、KWが強調するように、それは、「詩的表現」ではなく、あらゆる分離が解消・排除されたところに成立する実際の「経験」である。そこでは、主体と客体という分離の存在を前提とする、普通の意味での経験ではなく、それと同化して、そして、それを「内部」から経験するという、いわば、「一」となる特殊な意味での経験が成立する("...one does not see the Godhead, for one is the Godhead, and knows it from within...")(p。312)。完全なる沈黙のなかに、あらゆる活動も知識も忘却され、純粋なる観想者となるのである。つまり、そこでは、根源的なレベルにおいて、(必然的に認知の対象としての他者を設定する行為ににほかならない)認知・認識にたいする執着が終息するのである("Divine Ignorance")。

……自己(the Self)とは、これでもなく、あれでもない。なぜなら、それは正にこれやあれの純粋な観察者であり、それゆえに、あらゆる場合において、これやあれを超越するからである。(p. 314)

[Sri Ramana] Maharshiは自己(the Self)を"I-I"と名付けているが、それは自己が日常的な自己("I")の純粋な観察者であるからである。Ramanaのいうように、われわれは誰もがこの"I-I"を完全に意識している。この瞬間、われわれは自己の観察能力を意識していることがその証拠である。しかし、われわれは、純粋なI-I(あるいは純粋な目撃者)を対象として目撃することのできるものであると錯覚する。そうしたものは、正にそれゆえに[正に対象として目撃するものであるゆえに]目撃者や真の自己であることはできない。それは、単なる記憶や映像や感覚や概念の一種でしかない。それはいずれも対象物であり、対象物の目撃者ではないのである。われわれはI-IをこのIやあのIと同一視する。こうして、それを単なる有限・刹那の対象として見做すことの結果として、われわれは有限の物体が内蔵する痛苦("slings and arrows")を背負うことになるのである。しかし、自己は常に時間を超え、生まれることなく、永遠であり、揺るぎなく、不滅であり、そこにありつづけるのである。(pp. 314-315)

The Nondual
Fulcrum 10

Causal段階においては、世界の源泉としての純粋な霊("pure unmanifest and unborn Spirit")との同化が実現される。Nondual段階においては、主体はこうした霊との埋没状態を脱却して、あらためて現象世界を霊の顕現として包容することになる。そこにおいては、それまでの段階を特徴づけていた霊と世界との分離は超越され、それらは非二元(Nondual)のものとして経験されるのである。「観察主体と観察対象は完全に結合して、完全なる意識だけがそこに君臨するのである」(p. 317)そこには、もはや、自己でないものは存在しないのである。主体と客体が滅却するとき、そこには、ただ、「それ」(this)だけがあるのである。

また、これは特定の状態ではない。それは、あらゆる瞬間の本質であるために、それは始まることも終わることもないのである。常に既にそうである("always already")存在の根源的条件としてあるものである。

世界とは幻影である。
Brahmanだけが真実である。
Brahmanは世界である。

KWは、このSri Ramana Maharshiのことばを引用して、そこにNondual段階の覚醒が体現されていることを主張するのである(p. 310)。

The End of History

進化の過程は最終的な終着点("Omega Point")に向けて展開しているのだろうか? これまでにも数々の識者により提示されてきたこの問いにたいして、KWは下記の解答を提供する。

……[Omega Point]は存在する。そして、われわれはそれにむけて進んではいない。また、われわれはそれから乖離しているわけでも、また、それから迂回しているわけでもない。霊(Uncreate Spirit)は、顕現の基盤(the causal unmanifest)としてのそれは、進化のあらゆる瞬間の本質であり条件であり、源泉であり基盤である。それは時間の流れの開始時や終結時にあらわれるというようなものではないのである。それは、いっさいの限定性を排して、全ての時間と全ての空間を支えるのであり、それは歴史の推進力あるいは牽引力と機能するものではないのである。
完全に形状をもたないもの("the Formless")として、それは、いかなる時点においても、形状の流れのなかにあらわれることはないのである。確かに、Ramanaが言うように、あらゆる有限な存在はこの永遠性のなかに解放されるまでは休息をすることはないという意味においては、それはOmega Point("the summum bonum")であるということもできるだろう。換言すれば、それは、実際に最終的な終着点であるが、しかし、それは絶対に形状の世界のなかでは辿り着くことのできないものである。形状はいつまでも留まることなく階層的に継続する(世界がそれまでの複雑化の過程を逆行するようにして自壊することがなければ――そのときにはあらためて最初から進化の過程が始まるだけのことである)。(pp. 323-324)

進化の過程は常に最終的な終着点に向けて展開する。それこそが、そして、それだけが進化の目的とするものなのである。しかし、進化の過程は、また、時空間において展開するものであるがゆえに、決してそれに辿り着くことはできない(それは、「地平線のあちら側」("the other side of the horizon")にあるのである)(p. 655)。それゆえに、進化は絶対に獲得することのできないものを求めて、果てしなく継続していくことになる。その意味において、時空間に展開するこの世界とは正に"Samsara"(悪夢・地獄)と形容しえるものなのである。

今日、惑星上に展開する進化のダイナミクスは、合理性段階の集合規模での確立へとむけて、人類を衝き動かしている。しかし、そうした集合的な課題が達成されるとき、そこには、合理性段階の意識構造が内蔵する自己否定・自己超越の機能が活性化することになり、結果として、合理性段階の成果として確立された社会構造を対象化・相対化して、その均衡状態を動揺させることになる。今後、人類を惑星規模で劇的に動揺させるダイナミクスが、こうした合理性の確立と超越を取り巻くそれとなることは確かであろう。

*1 Vision-Logic段階の詳細な検討については、鈴木(2006a)を参照していただきたい。
*2 尚、SESにおいて意識段階として紹介されているこれらトランスパーソナル領域は、Integral Spirituality(2006)においては、基本的にFulcrum 1~Fulcrum 6の全ての意識段階において体験可能な意識状態として紹介されている。詳細な検討については、鈴木(2006b)を参照していただきたい。

 

参考資料

Brad Reynolds (2006). Embracing reality: The integral vision of Ken Wilber. NY: Jeremy P. Tarcher.
Brad Reynolds (2006). Where's Wilber at?: Ken Wilber's integral vision in the new millennium. St. Paul, MN: Paragon House.
Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution (Second Edition). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (2006). Integral spirituality: A startling new role for religion in the modern and postmodern world. Boston: Shambhala.

鈴木 規夫(2006a)意識進化の先端:Individualist〜Strategist〜Alchemist〜Ironist Available at www.integraljapan.net
鈴木 規夫(2006b)インテグラル・スピリチュアリティの諸条件 Available at www.integraljapan.net