Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part One) 

鈴木 規夫

はじめに

1995年に出版されたSex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(SES)は、Ken Wilber(KW)の存在を現代におけるインテグラル思想の最大の擁護者として確立した記念碑的作品である。Spectrum of Consciousness(1977)により開始されたKWの思想活動は、この作品をとおして、トランスパーソナル思想の枠組を完全に超克するものとして確立されることになるのである。


SESの出版後、Integral Institute(I-I)を機軸として世界的に展開している「インテグラル・ムーブメント」と形容される「思想運動」の特徴が端的に示唆するように、インテグラル思想は、本質的に、研究と実践を相補的なものとして抱擁したうえで世界の変容に戦略的に参画することを企図する、中期・後期Vision Logic段階の意識構造を基盤とする普遍志向の思想活動である。これは、多様性と階層性の統合という重要課題のまえに麻痺状態に陥る前期Vision Logic段階の意識構造を基盤として発想される諸々の思想運動と本質的・決定的に異なるものである。


SESの改訂版の出版に際してあらたに執筆した文章のなかで、KW(1995/2000)は、SESという作品が、本質的には、Deconstructive Postmodernismの支配のもと、共同体の対話空間から完全に排除された階層性(価値判断)を復権(rehabilitate)することを目的として執筆された作品であることを述べている。 多くの識者が指摘するように、Deconstructive Postmodernismは、本質的に、破壊衝動に特徴づけられた思想である。それは、既存の価値体系にたいする破壊衝動の無軌道な発露を正当化することをとおして、共同体から価値と創造という豊さと潤いの源泉を剥奪する破壊的行為を積極的に擁護するのである。SESの執筆のために、KWは、Deconstructive Postmodernismの研究書を網羅的に調査するが、その過程において、そうした作品を共通して特徴づけている性質が、怨念・悪辣・傲慢・攻撃性であることを痛感することになる。KWは、「わたしにとり、Sex, Ecology, Spiritualityは、間違いなく、怒りと嘆きの叫びである」と告白しているが、正に、それはこうした破壊衝動が集合規模で表現されるときに必然的に蔓延する深刻な荒廃にたいする危機意識を反映したものであるといえるだろう。


価値の破壊は、人間の人格成長を阻害することをとおして、必然的に、自己中心性の制限のない肥大化を称揚することになる。そして、それは、人間の意識を自己の生理的衝動に絡めとることをとおして、普遍的価値の志向と実現という意味の体験の可能性を人間から剥奪することになる。結果として、そこに成立するものが意味にたいする感性の喪失に起因する虚無主義(価値にたいする嘲笑)であることは、今日の先進国の状況が厳然と証明しているところである。


今日の思想文化を特徴づけるこうした虚無主義と自己中心主義と対峙する過程のなかで、KWは、それらを克服するための方途を模索する。SESという作品は、そうした思索活動の結実なのである。


SESという作品を理解するうえで――そして、ひいては、インテグラル思想という思想運動を理解するうえで――非常に重要となることは、この作品の創造過程においてKWを突き動かした根源的な問題意識がいかなるものであるのかを正確に把握することである。つまり、インテグラル思想を理解・実践するうえで、Deconstructive Postmodernismの支配的影響のもとに達成された共同体の包括的な破壊と荒廃という同時代の危機的状況と対峙することができることは、必須の条件となるのである。こうした条件が欠如するとき、その研究活動は、同時代という文脈との対話に根ざした実践へと昇華されることのない純粋な知的探求――知的自慰――へと貶められることになるのである。


KWは、SESの核にある洞察をつぎのようにまとめる。


"The Universe is composed of holons, all the way up, all the way down." (p. xii)


KWは階層性(価値判断)の復権という命題をHolon(whole/part)という概念を基盤として世界をとらえなおすことをとおして解決しようとする。階層性を意味する"Hierarchy"は、本来、"Sacred Governance"(神聖なる秩序にもとづいた統治)を意味する概念であるが、Holonとは、現代という文脈において妥当性をもつことのできる神聖なる秩序を構想するために提唱された概念であるということができるだろう。


人間の存在についての探求は、窮極的には、可視領域の背後に息づく秩序を探求する行為とならざるをえない。そして、そうした秩序を模索することをとおして、人間は治癒と救済へとつながる暗黒("the Dark")と深淵("the Deep")を経験することができるのである。


SESにおいて探求される問題として、KWは、例えば、下記のものをあげる(p. 6)。

  • いかにしてわれわれはより完全に人間になることができるのか? また、いかにしてわれわれは人間でしかないことの宿命から救済されえるのか?
    (How can we become more fully human and at the same time be saved from the fate of being merely human?)
  • 神と女神に見離されたこの現代という時代において、霊はどこに存在しているのか?
    (Where is Spirit in this God-forsaken, Goddess-forsaken world of modernity?)
  • なぜわれわれは、自己の生活を向上しようとすることをとおして、地球を破壊しているのか?
    (Why are destroying Gaia in the very attempt to improve our own condition?)
  • なぜあまりにも多くの救済へのこころみは破壊的なのか?
    (Why are so many attempts at salvation suicidal?)
  • いかにしてわれわれはこのコスモスに適合することができるのか?
    (How can we actually fit into this larger Kosmos?)
  • いかにしてわれわれは個人として全体であるだけでなく、また、部分であることができるのか?
    (How are we whole individuals who are also parts of something Larger?)

いうまでもなく、これらの問題は、21世紀という危機の時代を生きることをとおして、われわれが対峙することを要求される暗黒("the Dark")と深淵("the Deep")の根幹に存在するものである。今日、惑星を覆いつくす暗黒("the Dark")と深淵("the Deep")を人類が治癒と救済へとつながるものとして抱擁することができるために、SESは、神聖なる秩序の探求が必要であることを主張するのである。


KWは、現代の危機をつぎのように洞察する。


この現代という時代において、暗黒の脅威がわれわれの頭上にたちこめているという発言をしばしば耳にする。しかし、わたしの見解は必ずしもそのようなものではない。暗黒("the Dark")と深淵("the Deep")のなかには、治癒をもたらしてくれる真実が常に存在するものである。あらゆるところで真・善・美を脅かしているのは、暗黒の脅威ではなく、むしろ、浅薄さの脅威である。そして、それは、皮肉にも、自己を深遠なものとして喧伝する。現代の危機と脅威とは、世界に蔓延する旺盛で臆面のない浅薄さである。そして、それは、われわれに自らを救世主として仕立てあげて語りかけてくる。


われわれは光明("the Light")と崇高さ("the Height")を喪失したかもしれない。しかし、さらに恐ろしいことは、われわれが神秘("the Mystery")と深淵("the Deep")を、そして、空("the Emptiness")と闇("the Abyss")を喪失したことである。われわれは、上面と影、そして、外面と殻に魅惑された世界のなかで、それらを喪失しているのである。そして、世界の預言者たちは、われわれに、愛情ある口調でこの浅薄な水溜りにあたまから飛び込むように鼓舞するのである。(p. 7)


KWがSESという作品をとおしてこころみているのは、今日、無数の「知識人」により主張されている価値観が本質的にこうした自傷・自殺行為を称揚するものであることを明らかにすることをとおして、その呪縛から人間を解放することであるということができるだろう。



Chapter One: The Web of Life


Holarchy


生物種としての人類の進化の歴史を俯瞰するとき、今日の人類の状況を特徴づける最も不思議な事象は、進化の過程において獲得した能力を発揮することをとおして、人類が自己の絶滅を着実に推進しているということである。実際、KWが指摘するように、今日、人類は、歴史上はじめて、自己の集合的な活動をとおして、人類の生物種としての絶滅をもたらしかねない生存条件の破局的状況を生みだそうとしているのである。人類は、生態系の破壊をとおして、緩慢で凄惨な自殺行為にとりくんでいるのである(p. 12)。


KWは、こうした集合的状況にたいする対応として構想された諸々の思想活動(例:ecofeminism・deep ecology)の共通の特徴を存在間の動的な相互関係にたいする認識にあることを指摘する。また、こうした存在間の相互関係を高度の統合性を志向して自己組織化をする進化の力学の観点から再構築するEvolutionary Systems Scienceの成果の概要を紹介することをとおして、進化の法則が物質領域(the physiosphere)・生物領域(the biosphere)・意識領域(the noosphere)という階層領域を横断して機能していることを指摘する。つまり、KWは、自然科学の領域においては、世界を成立させている構造的な法則が階層性(hierarchy)にあることが立証・受容されていることを確認したうえで、SESの議論を構築していくのである。


こうした議論構築の方向性は、今日、自然環境破壊の危機の克服を意図して研究・実践活動を展開する多数の思想活動が、階層性にたいして非常に批判的な態度を堅持していることを考慮したものである。KWが指摘するように、それらの思想活動は、しばしば、今日の危機の原因を階層性に求める傾向にある。これらの思想において、階層性とは、基本的に、価値判断をすることをとおして、支配と抑圧をもたらすものとして認識される。つまり、これらの思想の信奉者にとって、階層性とは、あくまでも破壊的・抑圧的なものであり、それは、関係性と平等性を重視するHeterarchyにより克服されるべきものなのである。Heterarchyを基盤とする発想において、共同体(生態系)に所属するあらゆる存在は、同等の重要性(高度)を所有するのであり、共同体(生態系)の統治とは、これら並存する複数の存在の相互関係をとおして決定されるものであると主張される。つまり、Heterarchyを基盤とする発想は、包括性・統合性(wholeness)とは、あらゆる価値判断を「留保」(suspend)することにより獲得される「平等性」を基盤とする関係性を構築することをとおして実現されると主張するのである。


しかし、KWの指摘するように(また、Systems Scienceが指摘するように)、こうした発想は関係性というものにたいする深刻な誤解にもとづいたものである。実際には、関係者間の「共振」(resonance)(意思疎通と相互理解)を基盤とする包括的・統合的な関係性とは、固体としての関係者を超越する法則により組織化されるものである。こうした法則が尊重・共有されるときに、関係は、はじめて、関係者間に相互共振(連帯)を醸成することができるのである。関係者間のこうした有機的な関係性を醸成する法則――そして、そうした関係性をとおして創造される総和としての全体――は、固体としての関係者を超越するものである。こうした意味において、階層性とは、包括的・統合的な関係性の必須要素といえるものなのである("'Hierarchy' and 'wholeness'...are two names for the same thing, and if you destroy one, you completely destroy the other.")(p. 24)。


上記のように、階層性を意味する"Hierarchy"は、本来、"Sacred Governance"(神聖なる秩序にもとづいた統治)を意味する概念である。現代の諸々の発達理論においては、階層性は、統合能力にもとづいた序列化として定義される。発達理論では、ある段階において全体を構成していたものは、高次の段階において、全体の部分を構成するものとして抱擁・統合されるのである("...a hierarchy is simply a ranking of orders of events according to their holistic capacity. In any developmental sequence, what is whole at one stage becomes a part of a larger whole at the next stage.")(p. 25)。


部分を自己の構成要素として抱擁・統合するためには、全体は、全体を組織する法則を確立することができなければならない。こうした法則が確立されるときに、各部分は、はじめて、自己を超越する全体へと参画することができるのである。こうした過程をとおして、断片("Heap")は、はじめて、有機的な相互関係に参画することができるのである。


例えば、原子⇒細胞⇒臓器⇒生物、あるいは、文字⇒単語⇒文章⇒段落という進化の過程が示唆するように、包括性・統合性の進化の過程は、段階的に展開する。つまり、さらなる統合能力を所有する高次の発達段階は、時系列上、低次の発達段階が確立されたあとに出現するのである。こうした不可逆的な順序性("asymmetry"・"not vice versa")に特徴づけられる過程が存在するとき、それは、「階層的」と形容されることになるのである。


高次の階層は、低次の階層の能力と機能を継承するとともに、また、自己の独自の能力と機能を追加する。つまり、階層的発達とは、低次の階層に存在する能力と機能の総和ではなく、それらを自己の構成要素として統合する質的に高次元の能力と機能を創発させるのである。この意味において、紛れもなく、高次の段階は低次の段階よりも価値があるといえるのである("...each stage is adequate and valuable, but each deeper or higher stage is more adequate and...more valuable (which always means more holistic, or capable of a wider response).")(p. 29)。


このように階層性の本質が統合能力("integrative capacity")の質的向上にあることを指摘したうえで、KWは、Arthur Koestlerに倣い、階層性を "Holarchy"と形容する。"Hierarchy"ということばが、事実上、有機的な相互関係の構築のための必須要素である「神聖なる秩序」を象徴することばとしての意味を喪失した今日の状況において、Holarchyは、その真意を継承するために提唱されるのである。


Pathology


階層的な構造において機能する代表的なダイナミズムとして、KWは、下記のものをあげている。

  • Upward-causation:高次の階層にたいする低次の階層の垂直的影響
  • Downward-causation:低次の階層にたいする高次の階層の垂直的影響
  • Heterarchy:各階層内に存在する要素間の水平的相互作用

Holarchyという構造においてこうした垂直的ダイナミズムと水平的ダイナミズムが機能しているという事実は、構成要素内の病理が容易に構造全体へと波及する可能性を秘めていることを示唆する。こうした視野から、KWは、Holarchy構造の病理にたいして常に慎重な対応が必要とされることを主張する。

上記のように、今日、Holarchy構造の病理にたいする対応法としてしばしば主張されるのは、階層性そのものを溶解することである。しかし、こうした対応は、包括性・統合性(wholeness)を溶解することをとおして、 構成要素間の関係性を破壊してしまうことになる。包括性・統合性の法則が喪失される状況において、固体は必然的に相互から疎外された断片(Heap)と化してしまう。


従って、Holarchy構造の病理にたいする対応法として必要とされるのは、階層性を否定することではなく、むしろ、病的な構成要素を排除することにより、構造全体を調和状態へと蘇生することである。一般的には、構造の病理とは、特定の病的な構成要素が、自己の影響力を肥大化することをとおして、構造全体の均衡を崩すことを意味する。治癒とは、構造全体の均衡を恢復することを志向するのである。


いずれにしても、留意するべきは、病理の治癒が階層性の否定をとおしては達成しえないということである。むしろ、病理の治癒のために必要とされるのは、階層性には、健全なもの(actualization hierarchy)と病的なもの(domination hierarchy)の二種類があることを認識したうえで、病的な階層構造(domination hierarchy)から健全な階層構造(actualization hierarchy)への移行を促進することである。こうした対応が必要とされる状況において、Hierarchyを否定して、Heterarchyを擁護することは、構造全体の溶解を助長するだけでなく、また、Heterarchyの過剰な美化を蔓延させることをとおして、その両面性(Heterarchyにも、また、健全なものと病的なものがあるということ)にたいする無知を助長することになる。

  • 病的なHierarchy:階層間の関係性の崩壊(特定の構成要素が抑圧的・支配的な役割を奪取すること。特定の構成要素が、自らがHolon(whole/part)であることを放擲して、wholeとして排他的に機能しようとすること。)(pathological agency; pathology of dominance)
  • 病的なHeterarchy:階層内の関係性の崩壊(特定の構成要素が自己をとりまく外部環境と融即状態に陥ることにより、自己の同一性を喪失すること。特定の構成要素が、自らがHolon(whole/part)であることを放擲して、partとして排他的に機能しようとすること。)(pathological communion; pathology of fusion)

われわれは、Holarchyということばには、健全なHierarchyと健全なHeterarchyを統合するものとしての意味がこめられていることを留意する必要があるだろう。



Qualitative Distinctions


今日、世界には、病的なHierarchyと病的なHeterarchyが蔓延している。しかし、治癒は、病的なHierarchyにたいして、病的なHeterarchyを強調することをとおしては、また、病的なHeterarchyにたいして、病的なHierarchyを強調することをとおしては達成されない。真の治癒をもたらすために必要とされるのは、健全なHierarchyと健全なHeterarchyの統合なのである。


しかし、Deconstructive Postmodernismの影響により支配される今日の対話空間において、こうした統合的な発想の必要性を主張することは必ずしも容易なことではない。階層性にもとづいた秩序が世界の構造的性質であることを主張するHolarchyという概念は、表面上、あらゆる価値判断を留保することを救済の方途として設定するDeconstructive Postmodernismの判断基準に照らし合わせると、受け容れられないものとして見做されるのである。


上述のように、こうした階層性(価値判断)にたいする攻撃性は、窮極的には、虚無主義と自己中心性の蔓延をもたらす病的態度である。また、こうした病理が、人間の人格的成熟を阻害することをとおして、同時代の危機的状況にたいする人類の集合的な責任能力を溶解することを鑑みると、こうした発想を克服することは必須の責務であるといえるだろう。


こうした問題意識のもと、KWは、今日の対話空間に蔓延する(Hierarchy批判とHeterarchy信仰に代表される)Deconstructive Postmodernism的発想の構造的な欺瞞に批判をくわえる。SES以降のKWの思想活動の重要主題となる"Boomeritis"("Mean Green vMeme")の批判的考察がここではじめて展開されるのである。


KWは、先ず、Hierarchy批判とHeterarchy信仰に代表されるDeconstructive Postmodernism的発想が、実際には、自らが批判をしているはずの階層的な価値判断を自らもしていることを指摘する。


彼らが認識していないことは、Heterarchyの価値を擁護することをとおして、彼らも階層的な判断をしているということである。彼らはHeterarchyを重視する。彼らはHeterarchyがより正義と共感と礼儀を体現するものであると信じる。彼らは、Hierarchyを支配的・侮辱的なものと設定したうえで、Heterarchyをそれと比較しているのである。つまり、彼らはこれら二つの視点を順序づけしたうえで、ひとつを他方よりも確実に良いものであると主張しているのである。つまり、彼らは、彼ら自身のHierarchyと彼ら自身の価値判断を主張しているのである。


しかし、彼らは表面上はHierarchyを完全に否定しているために、彼らは自己のHierarchyを隠蔽することを必要とされることになる。彼らは自らのHierarchyがHierarchyでないと装わねばならない。彼らの価値判断は否認・隠蔽されるのである。また、彼らのHierarchyは、隠蔽されたものであるだけでなく、また、自己矛盾を内包したものである。彼らは自らが否定しているものを前提としている。彼らは自らの実際の立場が前提とするものを意識上では否定しているのである。


Hierarchyを意識することさえをも拒絶することをとおして――同時に、あからさまな価値判断をしているにもかかわらず――彼らは非常に稚拙で粗雑な価値判断に絡めとられることになる。残念なことに、こうしたことは、しばしば、彼らの立場に紛れもない偽善的な臭気を漂わせることになる。熱烈な義憤に駆られて、彼らは階層的に階層性を批判する。彼らは、他者の価値判断行為を非難しながら、自らは正にそのことをしているのである。価値判断を嫌悪することをとおして、そして、自己の価値判断を隠蔽することをとおして、彼らは自己嫌悪を他者にたいする義憤へと転化しているのである。(p. 33)


確かに、人間は、価値判断を表面的に拒絶することをとおして、価値判断についての探求を放棄することはできるだろう。しかし、こうした自己矛盾を機軸とする姿勢を堅持しつづける限り、人間がそもそも価値判断という行為をする構造的な理由を探求・把握することはできない。そうした姿勢は、人間が真・善・美の基準にもとづいて価値判断をせざるをえない存在であるという事実の不思議と対峙することができないのである。


Charles Taylorの業績を紹介しながら、KWは、こうした自己矛盾を機軸とする主張を展開する発言者を「怪物」("monster")(あらゆるものが平等であるべき世界において、自己を倫理的に優れた存在として位置づける姿勢)、あるいは、「寄生的」("parasitic")(自己の思想活動を規定する矛盾にたいして無意識であるにもかかわらず、自己の価値判断にたいして意識的であることのできる他者の思想活動を非難することによって自己の存在を確保する姿勢)と形容して、その危険性にたいして警鐘を鳴らす。自己の基盤を構成する倫理的な価値基準を表明することを拒絶するこうした主張は、必然的に、自己の存在意義を他者にたいする攻撃性の発露をとおしてしか確立することができない。こうした発言者の存立基盤とは、無軌道な激怒と怨念であり、そうした行為を支えている倫理的核(行動論理)は、そうした激怒と怨念のなかに推測されることができるだけなのである。


いずれにしても、KWの指摘するように、Deconstructive Postmodernismの信奉者との対話のむずかしさとは、本質的には、価値判断という人間存在の本質的な活動にたいして意識的に無意識であろうとする根源的な自己矛盾に発祥するものである。そこでは、自己の価値判断が準拠する判断基準を認識・表明するという対話(意思疎通)の必要条件が共有されないために、対話が成立しない。こうした発想の蔓延は、必然的に、共同体の統合の必須要素である価値観の創造と共有を志向する構成員間の対話を麻痺させることをとおして、共同体を溶解することになる。Holarchy(階層性にもとづいた価値判断)を擁護するとは、溶解の危機に曝されている今日の共同体の対話空間を健全なものへと復権することを意味するのである。


Heterarchyの擁護者たちが自己の世界観を"Holistic"(全体的・統合的)と形容しつづける限り、統合を志向するこころみは阻害されることになる。Heterarchyの擁護者たちは現実とは非階層的なものであると主張するが、"Holism"(全体性・統合性)に関する科学研究は現実が決してそうではないことを主張する。しかし、Holarchyをとおしてのみ"Holism"(全体性・統合性)を獲得することができることを理解するときに、われわれは、はじめて、事実と価値を穏やかな抱擁のなかに統合することができるのである。科学と協調することをとおして――科学と反目することをとおしてではなく――真に統合的な世界観を構築することができるのである。(p. 39)


参考資料

Brad Reynolds (2006). Where's Wilber at?: Ken Wilber's integral vision in the new millennium. St. Paul, MN: Paragon House.
Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution (Second Edition). Boston: Shambhala.