Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part Nine) 

鈴木 規夫

Chapter 12: The Collapse of the Kosmos
(Continued)

合理性段階の意識構造は、こうして世界を個的存在間の有機的な相互関係により構成されるSystemとして構想することになる。外的影響の支配を克服した自律的な存在として自己を規定した主体は、こうして対象化されたSystemとしての世界と対峙する存在として、自己を確立することになるのである。

しかし、Ken Wilber(KW)の説明するように、外的存在として世界が排他的に規定されるとき、それを観察する主体は自己の存在をそこに見出すことに失敗することになる。世界とはあくまでも右側領域(Right-Hand quadrants)のことばをとおして説明しつくすことができるものであるという前提が設定されるとき、人間の意識経験を特徴づける主観性に妥当性を保障することができなくなるのである。つまり、あらゆるものを包括的に内包するものとして構想された世界は、皮肉にも、そうした世界を構想・観察する主体を疎外することになるのである。こうして、観察主体としての自己の世界との関係性の探求は、Flatlandをその構造的性質とするModernityとPostmodernityの中心的問題として位置づけられることになるのである。

尚、Flatlandの世界空間においては、垂直性・上昇性の可能性は完全に否定されるために、問題解決の可能性は、合理性段階の行動論理が歴史的に確立した下降主義的世界観の範囲のなかに排他的に探求されることになる。具体的には、それは、自律性(Agency)と関係性(Communion)という合理性段階の二極のうち、ひとつを選択することに帰結することになる。

…これは高次の段階を志向する変容をめぐる闘争ではない(これは両方の勢力により排除されている)。むしろ、これは翻訳をめぐる闘争である。合理的な主体にとり、善なる人生とは:(1)自己の判断と満足にもとづく倫理と希望を創造するために、合理的な自己の自律的な主体性を尊重することにあるのか、あるいは、(2)自己を自然界に存在する関係性という基盤に結びつけることをとおして、孤立した自己をこえる何物かを発見することにあるのかという2つの形態を採ることになる。
今日においても継続して展開するこの闘争をわたしはEGOとECOの闘争と形容する。両者とも本質的にFlatlandに特徴づけられている。それゆえに、両者は高次の統合をすることができない(垂直的な階層性を拒絶しつづける限り、両者は垂直的に統合されることはできない)。むしろ、Flatlandの世界において、ひとつが大きくなれば、もうひとつが小さくなることになる。結果として、EGO CampとECO Campは宿敵として相互に対峙することになるのである。それぞれは、他方を悪の本質として責めることになるのである。(KW, 1995/2000, P. 442)

THE EGO AND THE ECO

Flatlandの世界空間における闘争をEGOとECOの闘争と定義したうえで、KWは、それぞれの肯定的側面と否定的側面について説明する。

Ego-positive: Freedom

EGO Campの肯定的側面は、合理性段階の行動論理である自律的主体性と説明することができるだろう。神話的合理性段階の行動論理が共同体の権威的世界観により規定される自己(rule/role identity)であるのにたいして、合理性段階の行動論理は、自己をそれらの束縛からの自由を保障された主体として位置づける。EGO Campは、こうした自己の意思にもとづいて自己の運命を決定するという自己決定権を個人の生得的な権利として主張することをとおして、共同体の世界観の支配から個人の尊厳を保護することを志向するのである。

その意味では、EGO Campの肯定的側面とは、歴史的に合理性段階の行動論理の集合的規模での確立を可能とした決定的な要素を体現するものということができるだろう。神話的合理性段階の行動論理は、個人を自己(あるいは、自己の所属する共同体)との排他的な融即状態に絡め獲り、その利害を確保することに従属させることになる。合理性段階の行動論理は、こうした利己主義的、あるいは、部族主義的な内的・外的な傾向を問題として認識して、世界中心主義の立場から、それに抵抗することができるのである。

こうした行動論理において、自然(自己の合理的・自律的な活動を束縛する低次の衝動)とは、あくまでも、こうした自己の尊厳を損傷する脅威として位置づけられることになる。個人の尊厳が合理性の機能をとおしてのみ保障されるものであると信じられるとき、自然は対峙の対象となるのである。

Ego-negative: Repression

自然を自己の尊厳にたいする潜在的な脅威として規定することをとおして、EGOは必然的に自然にたいするphobosを抱え込むことになる。結果として、これは、自然を主体による観察(reflection paradigm)と操作(production paradigm)の対象とすることにより、それからの自由を確保しようとする態度に結実することになる。そこにおいて、自然とは、あくまでも内面性をもたない対象として客観的に把握されるべきものであり、解釈(相互理解)を必要とするものではないのである。ここにおいて、自然とは本来的(intrinsic)な意味・価値・意識を剥奪された存在と成り果てるのである。

また、18世紀頃には、こうした客観化の発想は、自然のみならず、人間にも向けられることになる。ここにおいて、人間は、客観的存在として("the object of information, never the subject in communication")、Systemの構成要素に還元され、探求・操作・搾取の対象と見做されることになるのである(c. f. Kosmic Karma and Creativity)。

人間の尊厳の確立を命題として展開した合理性段階の行動論理は、こうして人間をふくめた全世界を絶対化・肥大化された観察主体の観察と操作の対象とすることをとおして、結果として、あらたな束縛と搾取の苦悩のもとにつきおとすことになる。自己を絶対化して、客観的存在として完全に対象化された世界のうえに支配しようとする合理性段階の行動論理の権力衝動は、自己のそうした衝動を巧妙に隠蔽しながら、人間の非人間化(Systemへの従属化)を推進することになるのである。 *1

Eco-positive: Wholeness

ECO Campは、観察主体としての自己が絶対化されることをとおして醸成される自己の自然世界との関係性からの乖離を克服することをその目的とする。上述のように、客観的存在として対象化された世界と対峙する主体として自己を規定することをとおして、合理性段階の行動論理を基盤として成立する自己は、世界との有機的な相互関係から排除されることになる。そして、これは、自己が慢性的な生命との乖離状態にあることが醸成する枯渇感と疎外感という苦悩をもたらすことになる。ECO Campは、こうした状況を内的・外的な生命にたいする暴力として認識して、それを治癒することを目的とするのである。

必然的に、こうしたとりくみにおいては、EGO Campが重視する自己の自律性を機軸として成立する思考形態は忌避されることになる。それは、観察主体と観察対象を分断する破壊的思考であると見做されるのである。こうした思考を克服するために、ECO Campは、世界を対象化するのではなく、むしろ、自己をとおして世界・自然に参加し、また、それを表現することを重視する。具体的には、これは人間の存在の基盤にある衝動(impulse)を(主として、芸術的活動をとおして)表現することを意味する。つまり、ECO Campは、自己が世界と峻別されたものではなく、むしろ、世界と有機的に結びつけられている存在であることを主張して、自己を超越する偉大なる生命の息づきと調和・共振することを強調するのである。

Eco-negative: Regression

生命(世界・自然)との乖離という問題の克服を志向するECO Campのとりくみは、しかし、合理性段階が確立・保障する個人の尊厳という歴史的成果を犠牲にする危険性を内蔵することになる。合理性段階の意識構造を基盤として成立する自律的存在としての自己を否定するとき、それは、また、それが維持する世界中心主義という高度の精神性に特徴づけられる世界空間を破壊・溶解する危険性を内蔵することになるのである。合理性段階の行動論理の問題を克服するためのとりくみは、合理性に批判的に対峙するものとして自己を規定するために、非合理性を礼賛するとりくみに変質することになるのである。

KWの説明するように、確かに、ECO Campの最良の思想家・実践家は、真の意味での自然(NATURE = SPIRIT)の経験のためには合理性段階を垂直的に超越することが必要であることを洞察する。しかし、Flatlandの世界空間では、こうした洞察は往々にして垂直性を排除する限定的な思想的枠組をとおして解釈されることになるために、超合理性(transrational)ではなく、非合理性(nonrational)を志向する発想として歪曲されることになるのである。つまり、Flatlandの世界空間においては、自然の抱擁という主題は、Physiosphere・Biosphere・Noosphere・Theosphereという全階層領域を包含する自然("NATURE")ではなく、感覚により感得される右側領域に限定された自然("Nature")を抱擁することとして構想されるために、必然的に、合理性段階の行動論理を溶解する退行主義へと傾斜することになるのである("Pre/Post confusion")。

ECO Campの思想的枠組において、世界と峻別された存在としてあることは(differentiation)、世界と乖離・疎外された存在としてあること(dissociation・alienation)と同一視される。それらは、いずれも、世界に同化・調和するというECO Campの志向性に対峙する病理として認識されるのである。

合理性段階の意識構造は、個人に世界中心主義という世界観の維持にたいする主体的責任という重荷を背負うことを要求するために、潜在的に自律的主体であることを放擲することを希求する退行欲求を醸成することになる。そして、Flatlandの世界空間において、ECO Campの主張は、こうした欲求を正当化するための思想的基盤を提供することになる。

合理性段階の意識構造は、それまでの発達段階の意識構造に比較して、高度の自律性を有する意識構造である。しかし、自律性(differentiation)が乖離・疎外(dissociation・alienation)と混同されるとき、こうした成熟は、必然的に、進化の成果としてではなく、むしろ、病理として認識されることになる。それは、あくまでも、あやまちなのであり、人類は過去に遡ることをとおしてそれを解決しなければならない――過去に楽園を夢想するこうした発想が擁護されることになるのである。こうして、自然の抱擁という主題は、垂直性を喪失したFlatlandの世界空間においては、非合理性の回復を救済の方途に祭り上げる懐古主義を醸成して、信奉者を「生命」(実際には感覚と衝動)への執着という自己中心性肥大化の循環に絡め獲ることになるのである。 *2

Chapter 13: The Dominance of the Descenders

合理性段階の集合的展開の過程において、神話的世界観の克服という大儀のもと、上昇主義的な要素が排除されることをとおして、世界は外的存在に狭隘化されることになる。ここにおいて、世界とは、Physiosphere・Biosphere・Noosphere・Theosphereという階層領域により構成されるものではなく、感覚をとおして認識しえる対象物に還元されることになるのである。世界中心主義の発想にもとづき、真実とは本質的に全ての人間が公平に共有する能力――感覚――をとおして把握することのできるものであると信じられたのである。

KWの洞察するように、こうしたFlatlandの世界空間において、EGO CampとECO Campは、人間の救済という課題にたいする解決策を模索するうえで、本質的には、共にそうした世界空間をもたらした合理性という意識構造を前提とすることになる。そして、そのために、そこにおいて主張される解決策は、必然的に、問題を醸成する構造的条件を温存することにならざるをえないのである。

EGO (Unity/Uniformitarianism)

人間の救済の方法として、EGO Campは、外的世界を観察・支配する自律的主体として人間を確立することを志向した。感覚という普遍的に共有される能力を機軸として人間と世界を再構築することをとおして、EGO Campは、それまでの時代を強力に特徴づけていた地域的な差異を超越する集合的に共有可能な救済の方法を創出することに成功したのである。換言すれば、世界を感覚を基盤に客観化・対象化することをとおして、EGO Campは人類を「統合」することに成功したのである。

しかし、KWの指摘するように、EGO Campのこうした普遍主義は、しばしば、過度なものとなり、多様性を駆逐する方向で展開することになる。こうした世界空間においては、普遍性を志向する世界中心主義を基盤とする発想は、しばしば、自己の普遍主義的志向の盲点に絡め獲られ、差異性の価値を否定するかたちで展開する傾向を内蔵しているのである。

また、世界の外的領域への客観化・対象化(狭隘化)は、普遍的言語である数値による世界の「包括的」な支配を可能とする。世界の観察者・支配者としての主体としての人間の確立は、必然的に、自己の肥大化をもたらし、そして、自己完結の隘路に追い詰めていくことになる。 *3

ECO Camp (Diversity/Diversitarianism)

合理性段階の意識構造の特徴のひとつは、自己の視点を相対化する能力にある。合理性段階において、個人は、自己の視野が世界に並存する多様な視野のひとつにすぎないことを認識するのである。こうした認識は、個人に自己の視野を対象化して、他者の視野に共感的に参加することを可能とすることになる。その意味では、合理性段階とは、自己中心性の減少化が劇的に進展する段階であるということができるだろう。

ECO Campは、合理性段階の行動論理のこうした特徴を先鋭的に体現して、多様性を志向することになる。ここでは、EGO Campの発想の機軸となる関係性の影響下にない中立的な観察主体としての自己の妥当性にたいして批判が投げかけられることになる。EGO Campが擁護する観察対象との距離を確保する認識形態は、世界の真実を照明するのではなく、むしろ、本質的には、世界と人間の乖離をもたらすものであると主張されるのである。こうした問題意識にもとづいて、ECO Campは、自己の観察主体としての視野を放擲して、観察対象との直截的・共感的な関係性に参与することを認識の方法として擁護するのである。

KWの説明するように、あらゆる意識構造は、自律性(agency)と関係性(communion)という対極性を内包しているが、こうしたECO Campの志向性は、普遍性を志向するEGO Campに対応するものであるということができるだろう。EGO Campが普遍的法則を追求するのとは対照的に、ECO Campの探求活動の目的とは、世界に存在する多様性を鑑賞・礼賛することであるといえる。多様な存在に独自性をもたらしている個性を普遍的な要素に抽象化するのではなく、むしろ、ありのままに肯定することを意図するのである。その意味では、ECO Campの使命とは、個々の存在が真の自己に回帰することであるということができるのである("Divine Egoism")。

本質的には、世界中心主義とは、(自己を慢性的な不自由状態に絡め獲る)自己の衝動性にたいして批判的に対峙する内省能力を基盤とするものである。神話的合理性段階の世界空間においては、こうした衝動性は、共同体の権威的価値体系の抱擁をとおして、自己の保全を追及する行動論理として顕現する。世界中心主義とは、こうした自己の社会的存在としての衝動性を克服することをとおして確立されるものなのである。

しかし、こうした世界中心主義が、多様性礼賛主義として表現されるとき、自己の歴史的な成果である衝動性の克服という基盤を溶解することになる。今日、先進国の状況が先鋭的に象徴するように、「多様性尊重」の大儀のもとに擁護される自己の礼賛は、個人を慢性的な自己肯定と自己耽溺に腐心させることをとおして、結果として、個人を相互関係から疎外することになる。関係性の回復を意図して展開するECO Campは、皮肉にも、その対極に位置する関係性からの疎外に収斂することになるのである。

A DENATURED NATURE

KWの説明するように、18世紀以降、今日まで継続して展開するECO Movementは、特殊な狭隘化された自然観にもとづくものである。Flatlandの世界空間において、自然とは、Physiosphere・Biosphere・Noosphere・Theosphereを包含するNATUREとしてではなく、感覚という低次の認識媒体をとおして経験することのできる狭隘化・外面化されたNature/natureとして理解されることになるのである。

今日、合理性段階の集合的病理として惑星規模で顕現するModernityの危機を治癒することを目的して展開するECO Campの主導によるEcology運動は、人間の存在を超越する生命の潮流につらなることを意図する(例えば、Deep Ecologyという名称で知られるSpirituality)。しかし、Flatlandの世界空間においては、こうしたとりくみは、しばしば、感覚性に絡め獲られることになる傾向にある。つまり、KWの喝破するように、こうしたとりくみにおいて、自然とは、あくまでも、体験者の感覚・感傷(「生命感」・「充足感」)を増幅するための道具として利用されるのである。そこでは、Flatlandの世界空間を特徴づける救済の方途として感覚を絶対化する感覚主義が忠実に信奉され、関係者を「こうしたとりくみこそが自己を生命の潮流に結びつける」という幻想に絡め獲りつづけるのである。

むしろ、自然とは、何よりも、自己中心的な感傷の源と化したのである。自然は、「わたしの感情を喚起するものとしての自然」に成り果てたのである。
もちろん、これは「霊性」(spirituality)と称されたが――文化の束縛から解放された場所での「純粋・無垢」な自然の霊性との出逢い――多くの場合、それらは単なる自己中心的な自己耽溺を目的とする自然鑑賞に過ぎなかった。自己愛の増幅装置としての自然……(Wilber, 1995/2000, p. 488)

世界の垂直性(Holarchy)が拒絶されるとき、主体の視野は必然的に顕現領域("Nature")に排他的に狭隘化されることになる。こうした世界空間において、自然は、霊の顕現ではなく、霊そのものであると誤解されるのである。

また、さらに状況を複雑化する問題は、ECO Campの発想にとらわれた状態において、顕現世界の人工的部分は、自然の要素としてではなく、自然を抑圧・破壊するものであると見做されるために、垂直性を喪失した世界はさらに狭隘化・限定化されることにならざるをえないということである。ここにおいて、NATUREは、文明という文化(Noosphere)の産物を排除することをとおして、純粋に物理的存在としてのnatureに還元されることになるのである。こうした文脈において、自然礼賛は、霊の賛美につながるものでなく、むしろ、霊の影の礼賛に閉じ込められていくのである。換言すれば、NATUREがnatureに還元されるとき、救済を希求する人間の衝動は排他的にnatureのなかに探求されることになるのである(c. f. 性にたいする執着の肥大化)。

*1 歴史的に神聖視されてきた「人権」という概念にたいする批判的検討が開始されている背景には、こうした問題意識があることはいうまでもない。詳細については、例えば、八木(2001)を参照していただきたい。
*2今日、国内において、こうした「生命礼賛思想」がもたらしている深刻な問題の考察については、林(1996)を参照していただきたい。
*3 尚、個人の尊厳の尊重を至上命題として展開するEGO Campが、Flatlandの世界空間においては、「普遍主義」という個性の否定と関係性への埋没に収斂することに留意していただきたい。

参考資料

Brad Reynolds (2004). Embracing reality: The integral vision of Ken Wilber. NY: Jeremy P. Tarcher.
Brad Reynolds (2006). Where's Wilber at?: Ken Wilber's integral vision in the new millennium. St. Paul, MN: Paragon House.
Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution (Second Edition). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (2006). Integral spirituality: A startling new role for religion in the modern and postmodern world. Boston: Shambhala.

林 道義(1996)『父性の復権』中公新書
八木 秀次(2001)『反「人権」宣言』筑摩書房