Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part Four) 

鈴木 規夫

Chapter Five: The Emergence of Human Nature


Chapter Fiveでは、Ken Wilber(KW)は、これまでに展開してきた人類の集合的な進化の過程を省察する。ここでの議論の主題となるのは、生物圏(biosphere)と意識圏(noosphere)の分化(differentiation)という人類(Homo Sapiens)の集合的進化をとおして達成された成果の性質と意義である。また、ここでは、KWは、こうした垂直的な意識進化が、AQALに展開・定着するなかで、SexualityとGenderをめぐる男女間の関係性をどのように変化させたのかという主題についても言及をしている。


尚、ここで展開される議論を理解するうえで、読者は下記のことを留意する必要がある。KWの説明するように、人間集団の集合的な進化について検討をするとき、そうした検討作業は、各進化段階(歴史段階)に存在する平均的な意識形態と先駆的な意識形態の両方に着目することが重要となる。あらゆる歴史段階において、人間の成長は最も原初的な段階(Stage 0)を起点として展開する過程である。そして、共同体の内的・外的な機構(LLとLR)は、個人の成長を促進する支援機構として機能する。しかし、個人の成長が、そうした外的な要素だけでなく、また、個人・個人の内的な素質の影響のもとに展開するものである以上、必然的に、あらゆる共同体は集合的意識の重心的段階の下位段階に留まる個人と上位段階に達する個人の両方を内包することになる。


共同体が特定の進化段階の意識形態に規定されるのではなく、常にこうした垂直的多様性を内包するものであることに留意する複眼的な視点を維持することは、人間の共同体が内包する構造的なダイナミクスを理解するうえで必須の洞察となることをKWは強調する。ここで展開される議論は、こうしたことを留意したうえで、議論の便宜上、各進化段階(歴史段階)("epoch")の平均的な意識段階(重心)を素描したものである。


The Emergence of Homo Sapiens


Anthropoid(類人猿)とHominids(原人)の社会形態を峻別する要素として、KWは、Jurgen Habermasの研究を参照して、経済(economy)の存在を指摘する。Hominidsの社会においては、成人男性は、狩猟に従事する部隊を形成した。具体的には、彼らは:

  • 武器等の狩猟道具を開発・使用した
  • 狩猟活動を構成する諸々の機能を補完するために、役割分担をした
  • 狩猟活動の成果を分配した

狩猟活動を機軸とするこうした生存形態は、Hominidsの社会において、狩猟活動に従事する成人男性と採集活動と育児活動に従事する成人女性という男女間の役割分担をもたらした。こうした共同体の構成員間の戦略的な共同作業と成果分配は、Hominidsの社会をAnthropoidの社会から峻別する独自の特性である。


Homo Sapiens(現生人類)の進化は、Hominidsにより獲得されたこうした基盤のうえに、家族(具体的には、単婚型核家族)という構造(Social Holon)を構築することにより達成された。即ち、この段階では、それまでにも存在していた育児活動の責任者としての母親という持続的役割にくわえて、家族という小規模のSocial Holonを集団という大規模のSocial Holonに統合する仲介者としての父親という持続的役割が発明されることにより、育児と狩猟という異なる価値領域(value spheres)を統合することが可能となったのである。 1


Magic


Homo Sapiensの登場により、人類種の意識進化はArchaic段階からMagic(呪術性)段階へと進展する。この段階では、生物圏(biosphere)と意識圏(noosphere)が未分化の状態にあるために、認知活動は、いまだ概念や規則として体系化されない断片的なイメージ・シンボル等に支配されている。これらのイメージ・シンボルは、外的世界の具体的な対象物に対応するものであり、それらを機軸として展開する認知活動は密接に身体的な感覚と結びついている。結果として、行動論理(Action Logic)は、共同体の規則や価値にたいして、あくまでも自己の利己的(生理的・感覚的)な観点から把握して、対応しようとする。


知性と身体の融側状態は、しばしば、イメージ・シンボルとそれらが象徴する物理的対象との混同・混乱を醸成する。結果として、こうした段階においては、思考が「魔術的」に物理的世界に働きかけるという呪術的発想が擁護される。また、知性と身体の融側状態は、しばしば、物体が独自の生命と意志を有しているという錯覚(animism)を醸成することにもなる。


尚、この発達段階を特徴づける認識構造は、社会領域(Social World)と自然領域(Natural World)の融側状態を醸成することにもなる。KWが"Romantics"と形容する諸々の懐古主義的な自然主義者は、しばしば、こうした両領域の境界が曖昧である融側状態のなかに生活した呪術性段階の意識構造を美化する。しかし、これは、"Pre/Post Confusion"(「前後の混同」)の典型的な症例といえるもので、生物圏と意識圏の未分化を生物圏と意識圏の統合と誤認するものである。実際、多数の研究者により証明されているように、Romanticsにより美化されるこうした発達段階の共同体が生態系の持続性の保全にたいする叡智を発揮していたという主張にたいしては疑問が投じられている。そうした懐古主義的な解釈が信奉されるのは、必ずしも、それらの共同体が、生態系保全のための叡智を所有していたからではなく、むしろ、生態系破壊のための方法を所有していなかったからなのではないか――今日、研究者により提出されている多数の物理的証拠が示唆するのは、こうした結論なのである。


換言すれば、正しい結論は、原始的・部族的な構造は、それそのものとしては、必ずしもエコロジカルな叡智を体現するものではなく、むしろ、単に、自らの無知を発揮して、惑星的な福利に脅威をあたえるための方法を所有していなかったということなのである。部族的な生態系破壊と現代の生態系破壊の最大の違いは、叡智の有無ではなく、むしろ、より破壊的な方法(技術)の有無なのである。現代においては、同様の無知が破滅的規模で展開しえるのである。巨大化したわれわれの方法(技術)は、歴史上未曾有の巨大な意識圏と生物圏の疎外をもたらした。必要とされる治癒は、部族的な無知を活性化することではないし(技術の放棄)、また、現代的な無知を維持することでもない(自由主義経済が人類を救済する)。必要とされる治癒は、歴史上、初めて生物圏と意識圏をより高く深い結合のなかに統合するであろう統合的な意識へと進化・成長することなのである。(Wilber, 1995/2000, p. 173)


Mythological


生物圏と意識圏の分化が達成されていない呪術性段階の共同体の統合原理は血脈的な絆となる。そこでは、生物学的な意味での祖先を共有することが共同体に所属するための権利として機能することになるのである。また、部族間の関係も同様の原理により統御されることになる。各共同体の結束を保障する祖先同士の血脈的な関係を確認することをとおして、相互関係が確立されることになるのである。


しかし、こうした統合原理は、生物学的な範囲をこえるものではないために、必然的に、複数の共同体を統合するための原理としては限界をもつものとならざるをえない。相互のあいだに存在する距離が血脈的な論理によって解消することができないときには、共同体は共生関係を構築することができないのである。


Mythological(神話性)段階の共同体は、こうした生物学的な統合原理の限界をのりこえるために発生した発達段階である。この段階では、共通の地域に共生しているという事実が統合原理として抱擁される。こうした地域は神話(myth)という抽象的な物語により権威づけられた統治者により統括されている空間であり(普通、こうした統治者は、神話のなかで設定される「神」と特別の関係を所有する存在として権威づけられる)、そこに所属するためには、血族的関係という生物的な条件ではなく、そうした神話を受容するという精神的な条件が確保されることが必要とされるのである。こうした抽象的な統合原理を確立することをとおして、神話性段階の共同体は、多様な人間集団を自己の内部に統合することに成功するのである。


Mythic-Rational


神話性段階において創発した多様性統合のための統合原理としての抽象性は、それ以降の段階において、合理性の確立を志向して継続的に先鋭化していくことになる。


発達心理学の調査・研究が示唆するように、合理性("rationality")とは、自己の思考活動を内省することができる意味構築構造のことを意味する。この発達段階では、個人は、自らが内部で展開する思考活動を対象化して、その妥当性について検討することができるようになるのである(人間が責任能力を発揮することができるのは、対象化された対象にたいしてだけである)。


つまり、こうした内省的な検討活動をとおして、個人は、自己の思考活動により構築されている諸々の意味が、自らが信奉する神話的世界観を基盤として成立するだけの限定的なものにすぎない可能性を意識(危惧)することができるようになるのである。自己の思考活動が実際には非常に少数の人間にとり妥当性をもつだけの限定的な真実を生み出すだけのものにすぎない可能性を意識するとき、初めてそこに普遍的な妥当性を志向する行動論理が創発するのである。統合の範囲を部族から地域へと拡張した共同体の統合論理は、ここにおいて、普遍、即ち、世界を包含するものへと進化するのである。


異なる神話的世界観を基盤として成立している複数の共同体が接触するとき――宗教間の衝突が証明するように――そこでは、基本的には、それぞれが自己の神話的世界観のなかに他者を呑み込もうとする闘争が展開することになる。合理性段階とは、こうした神話性構造の限界を超克するために創発した人類の集合的進化の成果なのである。合理性段階が確立されるときに、それまでは衝突的関係のなかで並存していた、異なる神話的世界観を基盤とする共同体が並存することができるための条件が整うのである。その意味では、合理性段階とは、惑星規模において、初めて多様性尊重を可能とする意識構造であるといえるのである。


しかし、歴史的には、神話性段階から合理性段階への移行は順調に展開してきたわけではない。Harvard Graduate School of EducationのRobert Kegan(1994)が推計するように、今日、集合的な意識進化の先進国のひとつである合衆国においても、人口の75%は完全に合理性段階に到達することのないという。自己の思考活動を対象化することをとおして、それまでの自己の存在基盤であった神話的世界観を離脱することは、いうまでもなく、深刻な精神的危機を醸成する契機となりかねない。その意味では、合理性段階確立という課題は、今日においても、人類にとり、非常に困難な課題として存在しつづけているのである。


こうした発達上の困難に影響されて、人類の集合的進化は神話性段階と合理性段階の融合である神話的合理性段階(Mythic-Rational)を神話性段階と合理性段階のあいだの中間的段階として確立するかたちで展開してきた。


この段階では、普遍的妥当性を志向する合理性段階の認知能力が神話的世界観の妥当性を正当化・普遍化するために適用されることになる。結果として――例えば、原理主義的宗教運動における神学的論争(神話的世界観の成立を可能としている基礎的教義の批判的検討ではなく、あくまでもそれらの正当化の活動としての議論)に観察されるように――それまでは無謬のものとして抱擁されてきた神話的世界観は、論理的な正当化を必要とする思想体系として認識しなおされることをとおして、外部の共同体にたいして積極的に擁護(宣教)されることになるのである。


周知のように、こうしたダイナミクスは、歴史的には、宗教的布教活動と軍事的侵略活動を相補的方法とする帝国主義として展開してきた。確かに、そこでは、帝国の占領下にある共同体の構成員には(帝国の範囲内においては普遍的な権利として確立された)諸々の権利が平等に供与されることになるが、しかし、そうした権利は、あくまでも帝国が擁護する神話的世界観の受容とひきかえにあたえられるものでもあった。地域的な神話的世界観を強制力を行使して普遍化することを統合の論理とする神話的合理性段階は、こうした意味においては、真の普遍性を所有する統治形態であることはできなかったのである。


Rational


合理性段階への移行は、共同体(帝国)の基盤としてある神話的世界観の絶対性(無謬性)にたいする内省的("reflective")な姿勢が徐々に確立されるなかで進展することになる。ここにおいて、人間の精神活動(例:科学的探究・倫理的/実務的な判断)は、神話的世界観により所与の前提とされていた秩序(神話体系)の束縛から解放され、合理性という法則を基準とする自律的な活動を展開することが可能となるのである。それまで、共同体(帝国)の構成員により絶対的な真実として受容されていた神話的世界観は対象化されて、合理性という普遍的な基準にもとづいて、その妥当性を問われることになるのである。


個人の領域においては、こうした行動論理の変容は、自己の思考を対象化して、それが客観的・普遍的な基準に照合して妥当性をもつことができるのかを懐疑する自己内省能力の深化として顕現することになる。ここでは、内面性そのものが意識的操作の対象として確立されることになるのである。つまり、世界を観察する自己そのものが探求の対象として確立され、個人はそうした内省的な探求活動をとおして選択(発見)された自己を実現することを追及するのである。必然的に、それまでの発達段階において機能していた役割を基盤とする人格形態(rule/role mind)の妥当性は喪失して、個人は自己の責任のもとに自己の幸福を追求する「自由な主体」("free subject")として定義されなおすことになる。


Liberation in the Noosphere


集合的な意識進化をとおして達成された生物圏と意識圏の明確な分化は、共同体における男性と女性の立場に変化をもたらすことになる。


生物圏と意識圏の分化は、個人を生物圏の拘束条件に完全(排他的)に規定されることのない自由な主体として定義しなおすことになる。共同体は「公的主体」("public agency")の相互関係の空間として確立され、そこでは、生物圏の能力(例:肉体的な敏捷性)ではなく、意識圏の能力(例:言語的な意思疎通能力)が個人の文化的主体としての「力」("public power")を主に規定することになるのである。共同体規模で実現された生物圏と意識圏の分化は、個人を生物学的条件の絶対性から解放することになり、結果として、男性と女性をそれぞれの構造的な特性を保持したまま平等化することを可能としたのである。


重要なことは、KWが指摘するように、生物圏と意識圏の分化は、個人を生物圏の拘束条件から完全に解放することを意味するのではないということである。複合的存在("compound being")として、人間は、自己の内部に物理圏・生物圏・意識圏を包含する存在であり、それらは上昇影響("upward causation")と下降影響("downward causation")のダイナミクスをとおして常に相互に影響しあっている。その意味では、生物圏と意識圏の分化が、個人を自己の生得的な条件として賦与されている生物圏の拘束条件から完全に解放することを可能とするものであるとする発想は、自己の基盤を拒絶する自己疎外(dissociation)を助長する病的発想でしかない(つまり、生物圏と意識圏の分化は男性と女性の中性化を志向するものではないのである)。むしろ、ここで主張されていることは、生物圏と意識圏の分化が、共同体における構成員の存在の重心を生物圏から意識圏に移行することをとおして、個人を生物学的な要素を最大の要因とする参画形態から解放したということなのである。


しかし、合理性段階の意識構造は、歴史的に神話的合理性以前の行動論理との対峙という文脈のなかで成熟してきた結果、それらの発達段階が体現していた諸々の行動論理を全否定する傾向に陥ることになる。そこでは、しばしば、意識圏が、生物圏に依拠するものとしてではなく、むしろ、生物圏に相反するものとして構想されることになるのである。生物圏との有機的な関係性から阻害されたものとして自己を設定した合理性は、必然的に、肥大化して、純粋な観念的な構想(妄想)にもとづいて世界を再構築しようとすることになる。今日において、こうした合理性の構造的病理は多様な形態をとり惑星規模で蔓延をしているが、それらの根本的な解決策は生物圏と意識圏の統合を志向するVision-Logic段階を必要とすることになる。


Vision-Logic


合理性段階において確立された普遍的妥当性を志向する「理性」("reasonableness")を基盤とする行動論理は、KWがVision-Logic(VL)と形容する認知構造へと成熟していく。VL段階とは、簡略化すれば、合理性構造により創出された多様な洞察を統合してひとつの全体性(totality)にまとめあげる能力を所有する認知構造であるということができる。平面上においては相互に相容れない複数の洞察を多元的な視野からとらえなおすことをとおして、それらの関連性を照明するVLは、合理性段階を自己の構成要素として内包する上位のHolonということができる意識構造である。


KWによれば、合理性の確立を契機として発足した惑星を全体的に包含しようとする普遍志向の行動論理は、VLの確立をとおして成熟するという。今日において、「自由な主体」として確立された個人は、相互に潜在的な衝突関係にある国家共同体(Nation State)の構成員としての立場にあることを要求される。しかし、合理性段階の意識構造が内蔵する普遍志向は、窮極的には、国家共同体の枠組をこえて、「世界市民」("world citizen")としての個人を確立するための潜在的可能性を所有しているという。国家共同体というSocial Holonが構造的に内蔵している限界を克服することができるためには、こうした行動論理の集合規模での確立が必要とされるのである。


The Centaur


上記のように、合理性段階の意識構造は、その確立が生物圏と意識圏の分化という進化の画期を構成するものであるという歴史的・構造的な性質の影響のもと、しばしば、自己を生物圏に依存するものとしてではなく、むしろ、生物圏に相反するものとして構想する傾向にある。こうした発想は、必然的に、合理性を生物圏との有機的な関係性から阻害されたものとして確立して、純粋な観念的な構想(妄想)にもとづいて世界を再構築しようとする病的な行動論理を発現させることになる。


今日、こうした行動論理は様々な領域で深刻な病理を生みだしているが、最も緊急・重要な問題として惑星規模で顕現しているのは、いうまでもなく、生態系の惑星規模での破壊である。生態系という存在基盤から疎外された合理性段階の意識構造は、生態系を決定的に特徴づける有限性という惑星の生存条件を看過して、無限成長という長期的には持続不可能な神話にもとづいた世界観と行動体系を称揚しつづけている(Daley & Farley, 2004)。今日、人類の内的な疎外状況を基盤として展開する集合的な行動が、惑星の生態系の均衡を深刻に破壊していることは周知のところである。実際、多数の調査・研究が示唆するように、21世紀において、惑星規模で展開する生態系破壊は、人類の生物種としての生存可能性(survivability)を溶解する極限的局面を迎えることは確実であろうといわれる。


インテグラル思想において、VLとは、こうした合理性段階の意識構造の構造的な限界を克服することを潜在的に可能とする意識構造として構想されているものである。そこでは、これまでの進化の過程において段階的に出現した各発達段階の行動論理が俯瞰・統合されることになる(また、いうまでもなく、そこでは、そうした統合活動を実施している主体も、進化の過程への参画者として変化・変容を継続する存在として内省されることになる)。

こうした高次の統合能力に特徴づけられる意識構造の創発により、それまで対峙するべき存在として見做されていた神話的合理性段階以前の諸段階の行動論理が内包していた諸々の智慧が認識・統合されることになる。つまり、人間存在において、生物圏と意識圏という歴史的に対立していた要素が有機的な相互関係性のなかに統合されることになるのである。


Ernest Becker(1973)の指摘するように、人間にとり、身体性とは、常に自己の脆弱性を想起させる実存的条件として経験されるものである。それが生物としての根源的な恐怖を喚起するものとしての意味を有するという意味において、人間は身体性を克服するべき対象として経験してきたのである。しかし、VL段階の成立にともない、人間の自己の構造的な宿命にたいする姿勢は、逃避的なものから、受容的なものへと変容を遂げることになる。そこでは、「死の拒絶」("Denial of Death")という個としての根源的な衝動が対象化され、その衝動のもとに展開されてきた世界再構築という集合的活動にたいする洞察が獲得されることになるのである。


VLの行動論理の機軸である死(有限性)の受容を基盤とする精神的耐性(resiliency)は、意識を自己の個人としての有限性を超越した――世代を超越する――時間枠へと拡大して、その行動を大局的・長期的な責任を考慮するものへと変容する。自己の個人としての存在を大河の一滴としてとらえる謙虚と自己の個人としての責任を受容するところに立ち上がる創造と貢献への執着の並存は、Susanne Cook-Greuter(2005a, 2005b)がVL段階の行動論理の特徴として指摘しているところである。


The World in Transformation


惑星(人類種)の統合を志向する集合的とりくみの失敗例として、KWは、MarxismとGreen Movementをあげる。人種・信条・国籍・神話・性別をこえた共通項を設定して、それを機軸として人類の統合を志向したこれらのとりくみは、歴史的に一定の成果をあげることに成功した。しかし、その還元主義的な特質に起因する限界のために、行き詰まりを経験することになったのである。


労働活動をとおして生存のための糧を得なければならないという共通項を機軸として設定したMarxismは、人類を労働者として位置づけることをとおして統合しようとした。しかし、こうした視点は、経済的・物質的な交換という物質圏の交換関係に焦点を設定することにより、生物圏・意識圏という高次の段階に発露する人間性を尊重することに失敗することになる。結果として、Marxismの影響のもとに成立・展開してきた数々の共同体が例証するように、歴史的に継承されてきた共同体の伝統的・垂直的な価値体系は溶解され、また、生態系の保全の領域においては壊滅的な破壊がなされることになる。KWの喝破するように、こうした還元主義にもとづく発想は、人間の複合性という構造的な特質を看過するものであるために、必然的に、妥当性を体現する思想としてKosmosの支持を獲得することに失敗することになる。歴史が証明するように、そうした思想は、強圧的権力を背景として、人々に信奉を強要する神話へと変貌していくことになるのである。


生存のために生態系との交換関係に参画しなければならないという共通項を機軸として設定したGreen Movementは、人類を生態系資源の消費者として位置づけることをとおして統合しようとした。しかし、こうした視点は、物質圏・生物圏の交換関係に排他的に焦点を設定することにより、意識圏という高次の段階に発露する人間性を尊重することに失敗することになる。結果として、Green Movementは、窮極的には、生物としての生存という限定的な目的に関心を狭隘化することにより、人間存在の高次段階に潜在する創造性を喚起することに失敗することになるのである。


上記の思想運動は、物質圏、そして、生物圏との交換関係への参画という人類の共通項を結節軸として設定することをとおして、惑星を統合しようとこころみた画期的なとりくみである。しかし、それらは、人間の複合的存在が内包する全領域を包括的に尊重するという課題の克服に失敗した還元主義的思想運動である。こうした限定性のために、これらの思想運動は、意識圏特有の諸々の課題・問題――即ち、深度の探求としての人格陶冶の課題・問題――にたいする解決策を提示することに失敗しているのである。



尚、今日、上記の思想運動の限界を克服するものとして、先進国を中心に展開している諸々のNew Age運動についてもKWは否定的な評価をくだしている。こうした問題意識は、SESの発表後、"Boomeritis Spirituality"にたいする批判活動として発展していくことになる。そこでは、こうしたNew Age運動の基軸的存在であるトランスパーソナル思想をはじめとする諸々の霊性活動、あるいは、自己実現活動が、しばしば、自己中心性の肥大化を幇助する活動に退行する傾向にあることが指摘されている。


……殆どのNew Age運動は、それ(合理的世界観)を超越・包含するかたちで、合理的世界観と向き合うことをしない。むしろ、多くは、最終的には、様々な形態の神話的帝国主義("mythic-imperialism")、あるいは、部族的魔術主義("tribal magic")に収束することになる。これらの運動は自己実現を強調するが、それはあまりにも頻繁に魔術的な自己中心主義に退行する。こうした魔術的な自己中心主義は世界変容の神話により正当化されるが、そうした神話は帝国主義的な志向性を隠そうともしないようなものである。(p. 609)


Transnationalism


今日、惑星規模の変容を牽引している代表的なダイナミクスとして、KWは3つをあげている。

  • 生態系に代表される惑星的共有財産の保全の必要性の増大(これらは特定の国家・民族・部族・信条に所属するものではない)
  • 世界経済の統御機構の必要性の増大(これらにたいして国家共同体は効果的な統制能力をはっきすることができない)
  • 国際的な安全保障の要求の増大(今後、化石燃料の枯渇局面の到来を契機として、国家間の資源獲得戦略の衝突の激化が確実視されるなかで、そうした独立国家間の関係を統制する機構が必要されることになる)

いうまでもなく、これらの課題・問題は、超国家的("transnational")な性格のものであり、国家レベルの対応では本質的な解決をすることができないものである。これらの解決のためには、超国家的("transnational")・世界中心的("worldcentric")な対応が必要とされるのである。そして、それは、いうまでもなく、内面と外面の変容に支えられた包括的対応であることが要求されるのである。


Multiculturalism


上記のように、今日、人類は、自己の生物種としての存亡という歴史的な危機と対峙するなかで、VL構造を集合規模で確立するという課題にとりくむことを要求されている。しかし、実際には、人類の大部分は、呪術性段階・神話性段階・神話的合理性段階という合理性段階以前の発達段階にとらわれた状況のなかにいる。むしろ、第二次世界大戦後に展開していた冷戦の終焉後、辛うじて神話的合理性段階を重心として世界を維持していた東西の帝国を機軸とする思想・権力構造が崩壊するなかで、世界は呪術性段階・神話性段階を志向する大規模の退行状態にあるといえるだろう。


KWが的確に指摘するように、こうした状況において必要とされるのは、先ず惑星規模で合理性段階を確立するという課題に効果的に応えることである。その意味では、今日、緊急に必要とされているのは、決してトランスパーソナル段階の意識構造を確立することでもなく、また、VL段階の意識構造を確立することでもないのである。


自己の所属する血族的・神話的な共同体の世界観へと人々が退行的に埋没していくなかで、必然的に、共同体間の関係は軋轢を増すことになる。また、他方、惑星規模で加速度的に昂進する生態系の劣化と自然資源の枯渇は、人類の物理的な生存条件を悪化させ、各共同体を防衛的・攻撃的な状態に恒常的に置くことになる。21世紀を特徴づけるこうした内的・外的な状況は、今日、人類を集合的な退行の悪循環のなかに絡めとろうとしているのである。 2


こうした状況を認識するとき、「多様性尊重」の大儀のもとに同時代に並存する多様な文化形態を無批判に容認するMulticulturalismの発想が非常に危険なものであることは明らかであろう。


KWが説明するように、多様性尊重能力とは、合理性段階の意識構造を基盤とするものである。合理性段階において、人間は、自己の思考を批判的に検討して、自己の主張の妥当性・普遍性を確認することができるようになる。共同体の領域においては、こうした内省能力は、関係者が擁護するあらゆる主張を普遍的な判断基準にもとづいて検討する公正な対話を共同体統合の規範として確立することになる。合理性段階の共同体においては、全ての関係者が自己の主張を表明・証明する権利をあたえられ、また、他者に同様の権利を行使することを許容する義務を負うのである。


こうした相互尊重の理念に根ざした意思疎通は、基本的には、自己の主張を対象化する能力――つまり、自己の主張とは、無謬のものではなく、対話空間において要求される証明責任を果たすことができたときに初めてその妥当性が証明される虚構に過ぎないものであることを自覚する能力――を全ての関係者が発揮することができるときに成立するものである。換言すれば、相互尊重とは、対話に参画する全ての関係者が内省能力という人格的成熟を確立することができるときに成立するものなのである。


今日、「多様性尊重」の大儀のもとに展開されるMulticulturalismの発想の危険性とは、こうした発達条件の必要性を看過したうえで、全ての関係者に自己主張の権利をあたえてしまうことであるとえるだろう。結果として、そこに結実するのは、自己対象化という必須責任の履行を放棄したところに立ち上がる臆面もない暴力的な自己主張である。


「多様性尊重主義者」("Multicults")はしばしば自己の姿勢を下記のような論旨をとおして擁護する。自己の姿勢は人間を構造的な視野をとおして分析する知的態度を排除して、人間を無条件の共感をとおして抱擁する感情的態度にもとづくものである。しかし、KWの指摘するように、こうした自己の主観的経験(情緒・感情)への拘泥は、そうしたものにもとづいて展開する行動が関係性の領域(LL・LR)において顕現するときにもつことになる長期的・社会的な影響を看過する傾向にある。実際に、多数の多様性尊重主義者の行動が示唆するように、こうした自己の主観的経験への過度の埋没は、共同体に深刻な災禍をもたらす情緒主義として結実することになる(これについては、KWは、SES以降の著作において、"Boomeritis"という概念を紹介して、詳細な議論を展開している)。

その意味では、多様性尊重主義者の主張は、人類の集合的重心を合理性段階、そして、VL段階へと牽引するという同時代の緊急課題に応えるうえで、全く建設的な貢献をするものではないのである。



いずれにしても、今日、人類が経験する時代状況を鑑みるとき、VL段階の意識構造を集合規模で確立するためのとりくみは、あまりにもたくさんの障害に面しているといえるだろう。実際、KWをはじめとする多数の識者が的確に洞察するように、今世紀において発生するであろう諸々の惑星規模の危機を成功裡に克服するために必要とされる合理性という必須基盤そのものが、今、人類の目前で急速に溶解している。3 その意味では、VL段階を基盤とする新時代の到来は決して保障されているものではないのである。


(Gebser, Wilber, Murphy, Habermas等)進化主義者は、誰ひとりとして「世界中心主義」("aperspectival worldcentric")構造の創発を確実に保障されたものとして見做してはいない。Michael Murphyの指摘するように、進化とは、前進するよりは、むしろ、紆余曲折するものである。また、たとえ前進するときにおいても、常にそれは「発展の両義性」("dialectic of progress")の重荷を背負うことになる。それにくわえて、全てが破滅するという可能性も常に潜在している。また、進化は(短期的には)誤った展開を遂げるかもしれない――もちろん、そのときには、われわれもそれに巻き込まれることになる。また、意識圏と生物圏の分化によりもたらされた負担は、惑星の全システムを持続不可能なものとするかもしれない。これまでにも充分に観察されてきたように、進化とは、予測不可能なものなのである。それは、実際にそれが発生したあとに、確認することができるものなのである。
インテグラルな構造が統合的であるということは、必ずしも、実際に必要とされる統合が達成されるということを保障するものではない。主張されているのは、あくまでもインテグラルな構造は物質圏・生物圏・意識圏を統合できるということである――つまり、統合する潜在的能力を有しているということである。そうした潜在的可能性が実際のものとなるのかという問題はあなたとわたし次第である。それは、われわれが選択する具体的な行動に拠るのである。常にそうであるように、われわれは自らの将来を創造しなければならないのである。(Wilber, 1995/2000, pp. 196-197)


*1 人間の人格成長を促進する重要機構としての家族の機能についての考察は、林 道義(1996・1999・2002)を参照されたい。

*2 今日、惑星規模で展開している化石燃料をめぐる資源争奪戦争は、総量が有限な資源をめぐる争いであるために、基本的に、価値創出型("Win-Win")ではなく、分配型("Win-Lose")の発想を基調とする意思疎通を発生させる傾向にある。意識圏と異なり、物質圏・生物権は有限性に特徴づけられた領域である。必然的に、そこでは、一方の「収益」が一方の「損失」を生み出すことになるのである。

*3 例えば、F William Engdahl(2007)は、残存する化石燃料資源をめぐり、合衆国とロシアのあいだで「新たな冷戦」("the New Cold War")が展開し始めていることを指摘している。こうした同時代の状況は、合理性段階の集合規模の確立という課題の克服にたいして主体的な責任をになえる先進諸国が、実際には、物理理的な生存条件の圧力のもと、神話的合理性段階に急速に重心を収斂させていることを示唆している。
しかし、同時に留意するべきことは、こうした苛烈化する状況において、国家共同体としての利害をないがしろにする無防備な「国際協調主義」を機軸として活動することは、また、自己の衰退・壊滅をもたらしかねない行為であるということである。神話的合理性段階(あるいは、呪術性段階・神話性段階)の行動論理が世界的に活性化する時代状況のなかでは、各共同体は、自己のSocial Holonとしての統合性を維持するために、そうした階層の行動論理を戦略的に表現しながら、関係性に参画することができる必要がある。少なくとも、合理性段階(そして、VL段階)の集合的確立という時代の要請にたいする対応を急ぐあまり、実際に展開する目前の状況の意味を看過することは、共同体にとり自殺行為となりかねない行為であるといえるだろう。


参考資料

Ernest Becker (1973). Denial of death. NY: Free Press.
F William Engdahl (2007). Putin and the geopolitics of the New Cold War: Or what happens when cowboys don't shoot straight like they used to... Available at http://www.engdahl.oilgeopolitics.net/Geopolitics___Eurasia/Putin/putin.html
Susanne Cook-Greuter (2005a). Ego development: 9 levels of increasing embrace. Available at http://www.cook-greuter.com/
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林 道義(1999)母性の復権(中公新書1497)中央公論社
林 道義(2002)家族の復権(中公新書1675)中央公論社