Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part Five) 

鈴木 規夫

Chapter Six: Magic, Mythic and Beyond

Chapter Six〜Chapter Eightでは、Ken Wilber(KW)は個人の発達段階を俯瞰する。Chapter Sixでは、「意識のスペクトラム」("Spectrum of Consciousness")の基盤段階である合理性段階までの各発達段階を紹介する。尚、Chapter Six〜Chapter EightにおけるKWの議論を読み進めていくうえで、読者は下記の事項について了解する必要があるだろう。

KW(2006)が指摘するように、個人の内面(UL)を探求するための方法には、基本的に2種類のものが存在する。

  • Zone One Approach:ULの内部を主観的に探求する方法
  • Zone Two Approach:ULの外部を客観的に探求する方法

個人の発達段階を把握するための方法として重要となるのは後者である。


個人の発達段階を把握するとは、個人が自己と他者を認知するときに使用する「レンズ」の構造的性質を把握することを意味する。つまり、発達段階を把握するとは、認識主体を構成している「目」を把握することを意味するのである。ULの内部(Zone One)が内省をとおして把握することができるものであるのにたいして、ULの外部(Zone Two)は、自己の意図的な内省をとおしては把握することはできない。そうした内省作業そのものが意識構造の統制のもとに行われるものであるために、意識に対象物としてあらわれることはないのである。


発達心理研究とは、構造解析をとおして、こうした意識の構造を照明することを目的とする研究活動であるが、人間の認識が必然的に構造的な組織法則により統制(限定)されることを認識する発達論の視野は、人間の意識発達を俯瞰するうえで、非常に重要な洞察を提供することになる。


人類が個人的・集合的に経験した発達段階を検証するという作業は、必然的に作業に取り組む検証者の認識の枠組を規定する意識構造の影響を受けることにならざるをえない。とりわけ、合理性段階以降の意識構造に顕著に観察されるように、そうした意識構造が「成熟の重荷」と形容できる構造的な脆弱性を背負うものであるとき、そこには、しばしば、発達にたいする否定的な情念が醸成されることになる。


基本的には、VL段階以前の各意識構造は、自己を発達という文脈のなかで構築されたものとしてではなく、あくまでも排他的な妥当性をもつものとしてとらえる傾向にあるために、必然的に、個人は、自己の構造が構築する「物語」を絶対化して、それを機軸として世界を解釈しようとすることになる。こうした構造的な偏向性が、発達段階特有の情念をとおして増幅されるとき、そこに認識される世界は非常に歪曲されたものとならざるをえない。


インテグラル思想においては、先ず、探求者の問題意識そのものが実際には探求者の意識構造から発祥している可能性があることを考慮したうえで、大局的な立場から、全ての段階の物語を統合することのできる物語(meta-story)を構想することが企図される。こうした姿勢は、トランスパーソナル研究をはじめとして、これまでに実践されてきた人間意識の調査・研究が、こうした大局的な視野を欠如していたがために、「前後の混同」の陥穽に陥ったことをKWが問題視するためである。


THE PRE/TRANS FALLACY


こうした歪曲の陥穽を回避して、人間意識の高次の可能性を把握するために、「絶対的に重要」("absolutely crucial")となる概念として、KWは「前後の混同」("Pre/Trans Fallacy"あるいは"Pre/Post Confusion")をあげる。


「前後の混同」の本質は単純である。前合理的段階の意識と後合理的段階の意識は共に非合理的であるために、訓練を受けていない観察者の視点には、それらは似たものとして、あるいは、同じものとして映ることになる。「前」と「後」が混同されると、下記のうちどちらかの誤解が発生することになる。(pp. 211-212)

  1. 還元主義的混同(reductionism):全ての後合理的段階の意識が前合理的段階に還元されることになる。こうした誤解が発生する場合、例えば、高次の意識構造を基盤とする神秘体験は幼児的な自他融即状態への退嬰として解釈されることになる。こうした発想においては、合理性段階が人間の発達の頂点として想定される。必然的に、非合理的な現象は自動的に前合理性の範疇にあるものとして見做されることになるのである。
  1. 上昇主義的混同(elevationism):全ての前合理的段階の意識が後合理的段階に高格されることになる。こうした誤解が発生する場合、例えば、幼児的な自他融即状態は自他の境界を超越する霊的叡智を内包するものとして解釈されることになる。こうした発想においては、合理性段階は人間を阻害状態に呪縛する「罪」あるいは「病」として想定される。必然的に、非合理的な現象は自動的に人間をこうした呪縛から解放するものとして賛美されることになるのである。

KWの指摘するように、20世紀は上記の2種類の混同が自己の正当性を主張して闘争をくりひろげた時代であった。総じて、還元主義的思潮が世界を支配したわけだが、しかし、1960時代以降には、そうした状況に対抗するかたちで、上昇主義的思潮が伸張することになる。ただ、こうした上昇主義的運動は、諸々のNew Age運動の発想に典型的に体現されるように、合理性にたいする忌避を基盤として、あらゆる非合理的な発想を後合理的なものとして無防備に称揚する倒錯した発想を蔓延させる傾向にある。


こうした混乱した思想状況において、人間の発達を包括的に検討するときに重要となるのは、あらためて人間の発達の基礎段階を理解することである。こうした作業をすることにより、後合理的段階についての理解を着実にすることが可能となるのである。


COGNITIVE EVOLUTION


ここでは、KWは、主にJean Piagetに発祥する人間の認知能力(cognitive capacity)の発達過程の調査・研究を参照して、議論を展開していく。尚、SESの出版後の著作において繰り返して説明されるように(cf. The Eye of Spirit・Integral Psychology)、インテグラル思想においては、人間の人格は下記の複数の要素により構成されるものとして認識される:

  • 段階(Stages、あるいは、Waves)
  • 能力(Lines、あるいは、Streams)
  • 状態(States)
  • 自己(Self)

読者は、ここで主題となる認知能力の発達が人間存在の多様な構成要素のひとつにすぎないことを理解する必要がある。


しかし、同時に重要となるのは、認知能力が、こうした多様な要素を内包する人格構造のなかで、いかなる位置にあるのかを理解することである。個人の意識発達を俯瞰する際、並存する多数の能力から敢えて認知能力の発達過程に焦点を絞ることの意味を理解することなしには、ここでの議論を適切な文脈のなかに位置づけることはできないだろう。これについてKWは下記のような説明をする。


認知機能とは、認識主体としての個人が認知することのできる情報の量と質を規定する機能を司る機構である。人間は自己の意識に対象として開示されるものにたいしてのみ働きかけることができる。必然的に、認知機能は、個人が操作の対象として意識化することのできる世界の範囲を規定するという非常に重要な役割を果たすことになるのである。その意味では、インテグラル思想においては、認知機能とは、必ずしも論理的分析能力("Logical-Mathematical Intelligence")という限定的な能力のことを意味するのではなく、真・善・美の領域において人間の意識の範囲を規定する能力のことを意味する概念として理解される必要があるだろう。


……倫理の発達・自己の発達・共感の発達等、具体的な発達領域の調査が実施されるとき、殆どの場合、それらの発達のためには、認知の発達が必要であることが確認されている(しかし、それだけでは充分ではない)。つまり、倫理を発達することができるまえに、あるいは、自己の認識や幸福の概念を構築することができるまえに、人間は先ずそれらの要素を意識することができなければならないのである。それら他領域の発達のためには、意識は、充分ではないが、必要なのである。(Wilber, 1999, pp. 452-453)


実際、認知という概念にたいするこうした包括的な見解は、Robert KeganやSusanne Cook-Greuter等、Jean Piagetの業績を発展的に展開した先端的な発達心理学者の共通認識として徐々に定着しはじめている。例えば、Robert Keganは、著書のなかで、人間の認知機能を「思考」と「感情」を有機的に関連させる横断的な機能として説明する。そこでは、これまで上昇主義の「反合理主義」・「反知性主義」の影響のもとに流布されてきた「思考」と「感情」を対置する情緒的倒錯が超克されているのである。


KWの主張は、今日、発達心理学の領域で展開している、歴史的な反目を解消しようとする治癒の文脈のなかでとらえられる必要があるだろう。


SENSORIMOTOR (ARCHAIC AND ARCHAIC-MAGIC)
THE FIRST FULCRUM


誕生後の数年間、人間が経験する課題は、自己の内部に存在する物質圏(physiosphere)と生物圏(biosphere)を統合することである。この時期において、幼児は主体と客体を区別する明確な境界をもたないために、事実上の物理的・心理的な融即状態("a state of primitive nondifferentiation or indissociation")にある。


生後4〜9箇月頃になると、幼児は個体化(differentiation)の第1の段階("the first fulcrum of development")を迎えることになる。ここで幼児は物質的存在としての自己の境界を確立するのである。物質的生存環境から峻別された存在として自己を経験することをとおして、幼児は「個」としての基礎的な感覚を経験するようになる。こうした境界の確立に失敗するとき、人間は「自己」と「他者」という基礎的な秩序感覚を構築することができないために、恒常的な自己と環境の混同(fusion)・混乱(confusion)状態に停滞することになる(統合失調症・psychosis)。


物質的存在としての自己の境界を確立するというこの段階における発達課題は、普通、生後2年頃までに克服される。これにより、幼児は物質的対象物が自己の主観的な経験の内容にかかわらず独立して存在するものであることを認識することになる(例:対象が視界になくても、存在していることを認識することができる)("object permanence")。自己の主観的な希望に影響されることなく、世界が存在するものであることを認識するという、この段階の発達課題を克服することをとおして、人間は自己中心性の克服という発達過程を通じて機能する法則を基礎的な形態で実現するのである。


しかし、この段階において、内部(interior)と外部(exterior)の融即状態が克服されるということは、必ずしも、それらが明確に峻別されるということを意味しない。内部と外部の混同と混乱を克服することをとおして確立された精神的主体としての自己は、しばらくのあいだは、世界を自己の内的世界の延長にあるものとして経験する。いまだ、世界は自己の欲求に対応して自己のために展開する「意図」や「傾向」を有するものとして経験されるのである(例:諸々の自然現象は「わたし」との意図的な関係にあるものとして経験される)。必然的に、こうした発想は、物質世界を「わたし」のために存在・活動しようとする意思と意図を有するものとして見做すAnimismやAnthropocentrismを顕現させることになる。世界があくまでも自己の欲求の従属下にあると思い込むこうした発想は、世界に独自の法則性をもつことを許容することができないという意味においては、非常に自己中心的なものであるということができるだろう。


こうした自己中心性は、徐々に、自己の生理的・直截的な経験を絶対化する傾向を超越して、多様な視野を統合的に考慮することにより導きだされる客観的な事実が存在することが発見されるなかで克服されていくことになる(例えば、屋根の付近に浮遊する小規模の円体として経験される月は、実際には、彼方に存在する巨大な物体であることが認識される)。世界が主観的視野にどう経験されるかということは、必ずしも、世界の事実を照明するものではなく、むしろ、それは、自己の主観的視野を共有しない多様な他者との対話をとおして到達されるものであることが認識されるのである。


PREOPERATIONAL (MAGIC AND MAGIC-MYTHIC)
THE SECOND FULCRUM


人間の個体化の過程は、物理的な境界の構築が完成すると、生理的・精神的な境界の構築に重心を移行していくことになる。それまでの段階において、幼児の感情活動は「対象」("emotional object")――普通は母親――との融即状態のなかで営まれる(必然的に、この段階において、幼児は対象の感情状態を自己の感情状態として経験することになる)。しかし、生後18箇月頃には、幼児は徐々に自己の感情を他者の感情から区別するようになる("the second fulcrum of development")。ここにおいて、人間は自己の独自の感情生活を有した精神的存在として確立されていくのである。


こうした感情的境界の構築に失敗するとき、必然的に、個人は自己の感情生活を自律的なものとして統合することができなくなる。こうした場合、個人は、他者の感情に過剰に影響・支配されてしまうことになるか(Borderline Syndrome)、あるいは、自己の感情を肥大化させて、それを世界に投影することになる(Narcissistic Condition)。生物圏(感情の領域)において、内部(inside)と外部(outside)の境界の構築という秩序構築の課題に失敗することになるのである。


尚、対象との別離が必然的にもたらすことになる不安感・罪悪感と交渉をすることが課題となるこの時期において、感情的な基盤としての母親とのあいだに双方向の感情的交流が持続的に維持されることが非常に重要となる。こうした条件が確保されない場合、人格構造は、個としてあることにたいする根源的な不全感を抱え込むことになるために、結果として、その基盤において非常に脆弱なものとならざるをえない("separation anxiety")。いうまでもなく、感情的境界の確立とは、対象との関係の喪失(希薄化)ではなく、対象との有機的な相互関係が保障されるときにはじめて可能となるものなのである。


物質圏・生物圏における個体化は、生後3歳頃(24〜36箇月)までの中心的な発達課題となるが、こうした課題が順調に克服されるなかで、徐々に意識圏の進化である言語能力が解発されてくる。


言語能力発達の初期段階においては、認知機能は、KWが「魔術的」・「呪術的」("magic")と形容する形態をとることになる。この段階では、自己の具体的な行動(例:思考・発声・動作)が世界にたいして直截的に働きかける効果をもつと信じられるのである。例えば、ある呪文を唱えることにより、特定の危険を回避することができるという発想においては、危険をもたらす主体である他者の視点のなかで、その呪文が意味をもつのかということは勘慮されない。そこで前提とされているのは、あくまでも自己が自己の行動に恣意的にあたえた象徴的意味がそのまま世界に影響をもたらすことになるということである。呪術性段階においては、自己と他者は「有機的」な関係性のなかにあることが受容されるのだが、そうした関係性は、第三者に検証可能なものではなく、あくまでも個人が恣意的に構想(妄想)した関係にすぎないのである。


THE SHIFT FROM MAGIC TO MYTHIC
THE THIRD FULCRUM


自らが世界にたいして恣意的な影響力を発揮することができると発想する魔術的・呪術的な段階の行動論理は、実際の日常体験を積み重ねるなかで、そうした発想が維持をすることができないものであることが認識されるなかで、徐々に変容していくことになる(5〜6歳)。具体的には、ここでは、魔術的・呪術的な能力は、自己ではなく、両親・精霊・神等の権威的存在に投影されることになるのである。必然的に、こうした変容をとおして、個人の関心の焦点は、必然的に、世界の直截的な変化を可能とする呪文を習得することではなく、むしろ、世界に変化をもたらす全能者である権威的存在に影響をあたえる儀式(ritual)や祈祷(prayer)を習得することに絞られることになる。この段階の世界観は、しばしば、奇蹟等を恣意的にひきおこすことができる全能の存在を前提とした神話的世界観と形容することのできるものである。

REPRESSION


意識圏の潜在的可能性を最も先鋭的に象徴するのが"No"である。人間は、"No"を発することをとおして、はじめて自己の明確な意志を表明することができる。"No"を発することをとおして、われわれは、自己の生理的な衝動に完全に支配されることを拒絶して、逆に、それを意識的に統御することができるようになる(例えば、これにより、われわれは自己の排泄機能を意識的に統御することができるようになる)。また、こうした意識圏の内的領域における創発は、自己の意志的主体としての個体化を促進することをとおして、われわれに養育者にたいする拒絶の意志を表明することを可能とすることになる。その意味では、言語機能の確立は、人間を世界と対峙する意識的・意図的な存在にひきあげる必須の要素ということができるだろう("the third fulcrum of development")。

しかし、物質圏・生物圏を超越する能力をもつ意識圏は、また、それらを抑圧する能力を有するものでもある。意識圏は、言語を用いて生理的衝動を拒絶することができるが、また、そうした拒絶はしばしば抱擁をともなわない抑圧として結実して、われわれを物質圏・生物圏の豊饒から乖離することになってしまう(Psychoneurosis)。


CONCRETE OPERATIONAL (MYTHIC AND MYTHIC-RATIONAL)
THE FOURTH FULCRUM


意識的・意図的な存在としての人格構造が確立されるとき、その行動論理は基本的には自己の視点を絶対化する非常に自己中心的なものである。これは、Jane Loevinger/Susanne Cook-GreuterがOpportunist段階と形容するもので、他者とは、あくまでも、自己の生理的衝動を充足するために利用あるいは抵抗するべき存在として見做される。


しかし、こうした行動論理は、親子関係という保護者と非保護者により構成される関係だけでなく、学校等における同年齢の仲間との交友関係を経験するなかで、徐々に克服されていく。そこでは、自己の利益のみに執着するありかたの妥当性が否定され、集団のなかで相互関係を維持するための責任を果たすことが要求されることになる。この段階において、関心となるのは、集団の構成員として(他者にたいして)自己の信頼性を確立することであり、また、そうした役割を全うすることをとおして仲間との一体感を体験することである。そして、こうした関心の変容をとおして、個人は、集団の成立の必須条件である自己犠牲の能力を発揮することができるようになるのである(例:集団競技への参加)。


換言すれば、そこでは、生理的衝動の充足に邁進しようとする「自己」が規範の擁護者としての「自己」との関係に置かれることになるのである。こうした過程をとおして、個人は自己の視野との排他的な同化を克服して、自己の内部に他者の視野を抱擁することができるようになるのである。

こうした意識の進化は、自己のありかたを他者との関係性のなかで期待されることを察知して構築する「役割」(rule/role identity)を基盤としたものへと変容させることになる("a role identity supplements a natural identity")。これにより個人の行動論理の焦点は生理的衝動から社会的役割へと進化することになる("the fourth fulcrum of development")。


この段階の潜在的な病理は、内面化された価値体系が諸々の病理を惹起する要素を内包するものであるときに発生する「脚本の病理」(Script Pathology)といわれるものである。この段階においては、「自己」(rule/role identity)に妥当性をあたえる価値体系(世界観)はあくまでも正当なものとして、あるいは、正当化されるべきものとして擁護される。結果として、内面化された価値体系が病的な要素を内包していたとしても、個人はそれを批判的に検証することができないために、それにより束縛されることになるのである。


こうした行動論理が共同体の組織法則として確立されるときには、共同体は、自己の主張する価値体系を客観的・普遍的な基準に照らして検証することができないために、「集団中心主義」(ethnocentrism)に陥ることになる。そうした共同体は、対外的な関係においては、武力等の強制力にもとづいて自己の価値体系を強要する「覇権主義的」な行動傾向に陥ることに、また、対内的な関係においては、共同体の価値体系を受容することを拒絶する構成員にたいして、共同体からの離脱を強要する「排斥主義的」な行動傾向に陥ることになる(神話性段階、あるいは、神話的合理性段階)。


FORMAL OPERATIONAL
THE FIFTH FULCRUM


神話性段階と神話的合理性段階を特徴づける上記の構造的限界は、合理性段階の確立をとおして克服されていくことになる。合理性段階とは、普遍的な視点から局在的な現実を検証する能力を有する段階であるが、そこでは常に目前に展開する現象が多様な可能性のひとつのあらわれ方に過ぎないものであることが認識される。即ち、そこでは世界というものが(肉眼では認知することのできない)法則の具象として存在するものであること――そして、そうした法則を解明・尊重することをとおして、人間の意志にもとづいて操作することのできるものであることが基本的な前提とされるのである。


それまでの段階においては、個人の行動論理は本質的には自己の感覚にあたえられる現象に囚われることになる。例えば、神話的合理性段階においては、個人はあくまでも所与のものとしてあたえられた世界観のなかで自己に割り当てられた役割を果たすことをとおして幸福を追及することになる。そこでは、そうした世界観が絶対化され、あくまでもその範囲内において可能性が探求されるのである。また、そうした世界観にもとづいてあたえられる役割を機軸とするアイデンティティは、時代的・地域的な局在性を超克する普遍的な視野からあらためて検討・構築されることはない。


合理性段階の行動論理は、こうした神話的合理性段階以前と異なり、抽象領域を視野に収めることをとおして可能性の積極的な探求能力を確立することになる。こうした行動論理は、必然的に、個としての実存的真実を内省的に探求する自己実現志向の態度として結実することになる。そこにおいて重要となるのは、共同体によりあたえられる役割ではなく、自己の内部に発見される自己を自己たらしめる内的真実となる。


しかし、同時に、こうした衝動は、しばしば、個人の自己にたいする執着を肥大化させるだけでなく、また、こうした探求が成功しない可能性にたいする恐怖を醸成することをとおして、個人を恒常的な不安状態に置くことにもなる。ここにおいて、個人は、共同体に適応することの困難ではなく、個としてありながら共同体に適応することの困難と対峙しはじめることになるのである。


尚、KWは合理性段階の特徴として下記の3つをあげている:

  • formal operational = ecological

合理性段階の認知構造が可能性の視野に立つということは、即ち、ひとつの現象が常に様々な要素の影響のもとに顕現しているものであることが認識されるということである。ひとつの要素は常に並存する要素との関係性のなかに存在しており、また、ひとつの要素の変化が他要素の変化を惹き起こすことが認識されるのである。合理性段階において、構成要素間の相互関係を認識するこうした視野は、自己を(自己に影響をあたえることになる、また、自己が影響をあたえることになる)様々な要素との相互関係にあることの認識を可能とすることになる。

  • formal operational = understanding of relativity

神話性段階とは、ある意味では、自己の内部に他者の視野を抱擁することをとおして確立されるものであるということができるだろう(「内なる声」)。自己の視点を相対化するこうした意識の深化の過程は、合理性段階において、自己の所属する共同体ばかりでなく、時代性・地域性に限定されない不特定多数の人間の視野が配慮されるようになるなかで、一層進行することになる。


  • formal operational = non-anthropocentric

自己の視点を相対化するということは、異文化に所属する人間との関係において自己の視点を相対化するということだけではなく、また、他の生物との関係において、自己の人類という生物種としての視点を相対化するということも意味する。


THE BATTLE OF WORLDVIEWS


KWは、意識の進化の過程において、下記の2つの要素が機能することを指摘する。

  • Basic Structures
  • Exclusivity Structures

意識発達の各段階において確立される機能は発達過程が上位の段階に展開するなかで継承されることになる。KWはこうした要素を「基礎的構造」(Basic Structure)と形容する。例えば、成長の各分岐点(fulcrum)において確立された内部と外部を区別する境界は持続的な機能として継承されることになる。物質圏において確立された内部と外部の境界は、生物圏・意識圏へと意識構造の重心が移行するなかでも維持されるのである。


しかし、意識発達の各段階において経験される「眺望」(view)は発達過程が上位の段階に展開するなかで放棄されることになる。KWはこうした要素を「排他的構造」(Exclusivity Structure)と形容する。例えば、Opportunist段階において、自己の生理的衝動の充足のための純粋な利用対象として見做されていた他者は、Diplomat段階において、自己の視野の絶対性が相対化されることをとおして、共通の神話的世界観に参加する構成員として見做されることになる。各段階を特徴づける特有の眺望は行動論理が変容するなかで放棄されていくことになるのである。


意識の発達段階の差異は必然的に世界観(眺望)の差異をもたらすことになる。それは、自己と世界をどう認識するかという主体としての最も根本的な活動において相容れない枠組のなかに人間を束縛することになるのである。その意味では、世界観同士の闘争とは、生得的に発達のダイナミズムに絡めとられた人間の構造的な宿命に起因するものであるということができるだろう。そうした闘争は、人間のこれまでの歴史を強力に特徴づけてきたものであり、また、不可避的に、これからの歴史を強力に特徴づけるものとならざるをえない。


REASON RELEASES MYTH


尚、Chapter Sixを通じて、KWは「神話」(myth)について詳細な議論を展開している。この背景には、合衆国における霊性運動(Spirituality)が(Joseph Campbellに代表される)Carl Gustav Jungの思想の潮流をくむ神話学者の多大な影響のもとにあることが醸成する混乱にたいするKWの問題意識がある。具体的には、KWの問題意識とは下記の2つにまとめることができるだろう。

  • 神話は、合理性に照明されることをとおして、はじめて価値をもつこと
  • 集合的であるということは、必ずしも、トランスパーソナルであるということではないこと

上記のように、厳密な意味において、神話とは、個人が共同体の構成員として自己のアイデンティティを確立するときに、それを可能とする文化的装置である。それは、人間が生得的な自己中心性を克服して、自己を特定の世界観を基盤として成立する有機的な空間において役割をになう存在として確立するための必須の装置である。つまり、神話が純粋に神話として機能するこの段階においては、神話とは、あくまでも、絶対化されて、個人を非寛容な部族中心主義的な世界観に絡めとるものなのである。その意味では、神話とは――少なくとも、それそのものとしては――今日の霊性探求者が主張するような本質的に神秘的なものではないのである。


しかし、KWの説明するように、神話は、また、合理性の内省的空間のなかで観照・照明されるとき、自己の源流の統合を可能とする比喩として機能する潜在的可能性を内蔵するものでもある。それは、人類の歴史を通じて、「複合的存在」("Compound Individuality")としての構造的特性にもとづいて多様な地域において踏襲されてきたパタンを結晶化したものである。そうしたものについて瞑想をすることをとおして、人間が人間としてあることをとおしてあたえられている諸々の条件の意味を探求することが、人類が生物種として紡いできた生命の潮流につながる感覚をもたらしてくれるであろうことは疑問のないところであろう。


例えば、昔話のなかに見出される諸々の主題は、生物種として人間が経験してきた普遍的な葛藤を結晶化したものである。そうした人類が集合的に経験してきた主題を自己の個人としての人生になかに息づく主題として認識・体験することは、自らが人類の集合的な叡智を無意識のうちに受継いでいることを実感させてくれる。それは、しばしば、自己の生命が人類の悠久の生命の大河のなかにあることを実感させてくれるのである。


しかし、ここで留意するべきことは次のことである。すなわち、神話が人類が歴史的に踏襲・継承してきた傾向を結晶化したものであるということは、それが、必ずしも、高次の段階(Psychic段階以降)の認知構造にもとづく叡智を体現することを意味するものではないということである。


実際、複合的存在としての人間の構造と行動の多くは自らの集合的歴史のなかで確立・継承・洗練されてきたものにほかならない(例:肉体の構造・精神の構造、あるいは、育児活動の基本形態)。個人の日常の活動がそうした集合的・普遍的なパタンを体現するものであるということは、生物としてあたりまえのことであり、それを殊更に霊的と形容する必要はないのである。


また、基本的には、そうした人類の集合的・普遍的な活動のパタンを意識化して、それが体現する叡智を観照することができるためには、それが内包する世界にたいする洞察を抽出するための高度の認知能力が必要とされる(合理性段階)。その意味では、神話が霊的な探求の方途となりえるのは、実際には、地域的・時代的な局在性に束縛されている神話が内蔵する真実を照明して、それを時代を超える叡智として再構築することのできる合理性段階以降の意識構造が必要とされるのである。神話とは、そうした意識構造のなかで照明されるときに、初めて(今日の霊性運動において主張されているところの)叡智の源泉となりえるのである。


その意味では、今日、先進国において展開している神話を基盤とする霊性探求は、基本的には、合理性段階の認知機能を駆使する合理性段階の霊性ということができるものである。また、基本的には、そうした活動において観照の対象となる元型(Archetype)とは、あくまでも神話性段階の認知構造に発祥するものであり、Psychic段階以降の認知構造により照明されるそれではないのである。


今日、先進国で展開する霊性運動において、神話探求がこれほどまでに多大な支持を集めていることの背景には、本質的には、それが、合理性段階という既存構造を動揺させることなく、あくまでも過去の回顧的な探求を志向するものであるという事実があるといえるだろう。そこには、少なくとも中心主題としては、Psychic段階以降の発達段階を目指して、合理性段階の意識構造の変容を志向する「変容志向」("transformative")の過酷なダイナミクスは存在しない。そこにあるのは、あくまでも、神話(元型)という存在基盤を回顧的に探求・統合することをとおして合理性という意識構造を補強しようとするダイナミクスなのである。そして、正にこうした寛容な現状肯定のダイナミクスのなかにこうした「霊性」の魅力があるのである。


しかし、KWの説明するように、こうした霊性を実践するうえで、われわれが慎重に注意するべきことは、そうした霊性に治癒の可能性をもたらしているのが、神話そのものではなく、あくまでも合理性であるということである。そのことを看過するとき、実践者は、自己の実践の存立基盤である合理性の重要性を見失い、ひいては霊性が大局的に志向するべき真の元型を見失うことになるのである。



KWの指摘するように、合理性は、非常に高度の抽象化能力を有するために、しばしば、複合的存在としての人間の基盤の疎外に傾斜する潜在的危険性を内蔵している。実際、そうした病理は、今日において、生態系の惑星規模の破壊を惹き起こし、人類の生存可能性に未曾有の危機を衝きつけている。


しかし、重要なことは、そうした病理の存在が合理性という集合的な進化の成果の否定を正当化するものではないということである。そうした発想には、人類の集合的な歴史を俯瞰して、合理性の創発を必要とした要因に関する認識が致命的に欠如している。また、たとえそうした否定をしようとしても、そうした行為を動機づける合理性にたいする問題意識そのものが、実際には、惑星の長期的な福利を配慮するという合理性を基盤として発露するものにほかならない。その意味では、そうした発想とは、世界中心主義的発想(worldcentrism)という合理性がもたらす高度の倫理性の恩恵を享受しながら、敢えてそのことに無意識であることをとおして成立する自己欺瞞にもとづくものといえるのである。


今日、合理性の病的側面が惑星規模で蔓延するなかで、合理性の正当性を否定しようとする回顧的発想が先進国を席巻していることにたいしてKWは警鐘を鳴らしている("Deconstructive Postmodernism")。上記のように、そうした発想は本質的には自己の存立基盤を隠匿する欺瞞にもとづいたものである。また、Chapter Fiveにおいて論述されるように、そうした発想にもとづいて主張・擁護される変革は往々にして神話性と呪術性の活性化をもたらすものに終始する。その意味では、そうした発想は、本質的な健全性という世界における生存のための必須条件を満たさないものであるために、最終的には淘汰されることになるであろう。しかし、また、そうした発想の蔓延の結果として急速に昂進する合理性の解体は、今日、惑星規模で展開する生存の危機にたいする人類の対応能力を深刻に溶解している。その意味では、合理性の擁護という課題は緊急の課題といえるのである。

参考資料

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