Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(Part Eight) 

鈴木 規夫

Christianityの勃興以降、西欧の歴史は、上昇主義と下降主義の対立を機軸として展開することになる。そして、大局的には、それは、上昇主義が支配したRenaissance〜Enlightenment以前と下降主義が支配したRenaissance〜Enlightenment以後とに分轄することができる。Ken Wilber(KW)によれば、こうした歴史的転換をひきおこした最大の要因("the catalyst")は、合理性段階の意識構造("Reason")の集合規模での確立であるという。

21世紀においても、人類はこの集合的進化によりもたらされた遺産の影響のもとにあるということができる。これからの人類の進化の方向性を展望するうえで、現在、集合的な文脈として、人類の「日常」(normality)を規定している諸々の条件の本質を認識することは非常に重要となる。Chapter 11以降において、KWは、人類の歴史という大局的文脈のなかでModernity/Postmodernityと形容される時代がいかなる性質に特徴づけられるものであるかを概説する。

Chapter 11: Brave New World

Modernityを特徴づける2つの志向性として、KWは下記をあげる:

  • "No more myths!" (Good News・Dignity)

合理性段の意識構造は、自己の認識の前提条件を対象化して、それらを検証・修正することのできる意識構造である。必然的に、それは、共同体によりあたえられる諸々の価値体系を無謬のものとして信奉するのではなく、先ず、それが批判的検証に耐え得るものであることを確認しようとする。

また、合理性段の意識構造は、自己を共同体によりあたえられる役割に束縛されるのではなく(rule/role identity)、自律的な批判・判断能力を有する主体として経験する。こうした意識構造をもとに成立する行動論理は、個人を1)法のもとに自由と平等を保障された存在として2)倫理的に自由な主体として3)民主的共同体における政治的に自由な主体として規定するようになる。

  • "No more Ascent" (Disaster・Bad News)

こうした合理性段階の行動論理は、神話的合理性段階の行動論理が構築・維持してきた神話を解体することになるが、その過程において、それらの神話が擁護してきた垂直性(上昇主義的志向性)を放擲することになる。真実の証拠・根拠を要求する合理性段階の行動論理は、往々にして、AQALの右側領域(Right Hand Quadrants)において観察可能な証拠を排他的に絶対化する視野狭窄に傾斜することになる(あらゆる現象は右側領域の要素を内蔵しているために、こうした発想が妥当性を有するものであると思われてしまうのである)。

右側領域は、基本的には、意識の変容と成熟を必要としない、全ての人間にひらかれた観察対象であるということができる。全ての人間の平等を志向する合理性段階の世界中心主義(worldcentrism)は、ここにおいて、平等性にたいする脅威である垂直性を拒絶することになるのである。

合理性段階は、構造的には神話的合理性段階よりも高度の成熟度(深度)を体現する意識構造である。しかし、合理性段階は、自己の主張する世界中心主義(平等性)という志向性のもと垂直性を忌避するために、結果として、世界から深層性を排除することになる。必然的に、こうして確立された世界観は、神話的合理性段階の行動論理が確立するあらゆる世界観に比較して、格段に浅薄なものとなるのである。

The Age of Reason

発達心理学の調査・研究が示唆するように、発達は、ある段階が十分に尊重されたときに、初めて健全な形態で高次の段階にむけた深化を遂げることができる。KWが指摘するように、こうした条件が整わないとき、発達の過程は、基盤の段階にたいする忌避の感覚(Phobos)に特徴づけられた歪なものとならざるをえない。こうした認識にもとづいて、Vision Logic段階にむけた集合的な進化の可能性を探求するうえで、KWは、先ず合理性段階の尊厳(dignity)を明確化する。

発達(transformation)とは、常に存在する段階の構造的な限界を克服するために発生する現象である。それは、基本的に内的領域(Left-Hand Quadrants)と外的領域(Right-Hand Quadrants)の関係性に存在する均衡状態(equilibrium)を破壊して展開する過程である。KWの説明するように、そうした過程は主体の存在を深刻な混乱状態に陥れる実存的危機をともなうものである。その意味では、発達とは、本質的に、こうした過酷な危機を受容しても完遂することが必要とされる已むに已まれぬものということができるのである。つまり、そこには、既存の意識構造が内蔵する限界(課題・問題)を洞察して、それを克服することを意図する叡智(Eros/Wisdom)が作用するのである。各発達段階の尊厳を認識するとき、そうした叡智にもとづいて成立した問題意識の価値を理解することが非常に重要となる。

1. Rationality is hypothetico-deductive or experimental

神話的合理性段階の世界空間において、真実性とはあくまでも自己の主張が権威的神話と合致するものであることを証明することをとおして確立されるものである。合理性段階の世界空間において、真実性とは自己の主張が権威的神話により支配される閉鎖的な世界空間の外部においても成立する「普遍的」・「客観的」な判断基準にもとづいて立証可能なものであることを証明することをとおして確立されるものである。こうした行動論理は、合理性段階の意識構造が自己の認識(世界観)を対象化する能力――自己の認識(世界観)の前提条件を検証・修正する能力――を有していることに起因する。必然的に、こうした行動論理は、継続的に自己の世界観の向上に取り組み、認識と行動を変化させていくことができる。

2. Rationality is highly reflexive and introspective

合理性段階において、個人は自己を明確に峻別された内面性を所有する自律的な主体として認識することになる。神話性段階において共同体によりあたえられた役割を機軸としてidentityが構築されたのにたいして、ここにおいては、個人は、自己の内面にidentityの機軸を見出そうとする。つまり、ここにおいて、自己は探求の対象領域となるのである(心理学の興隆)。

3. Rationality grasps multiple perspectives

こうした内面的・自律的な主体としてのidentityは、個人を独自の視点(perspective)(あるいは、感性・思想・信条等)をとおして世界(時空間)と対峙する存在として認識するようになる。結果として、こうした発想は、個人を自己の信条にもとづいて意思の決定をする権利を有する存在として尊重する政治的思潮を生みだすことになる。

4. Rationality brings forth an ego identity from the previous role identity

個人の自律的な主体としての確立はrule/role identityからの解放を可能とする。しかし、それは、また、個人に自律性(autonomy)の重荷をもたらすことになる。合理性段階の意識構造を基盤として成立する行動論理は世界中心主義(worldcentrism)という倫理的責任を個人につきつけることになるために、個人は自己の成熟がもたらす権利(agency)と責任(communion)を抱擁することを要求されることになるのである。

5. Rationality is ecological or relational

こうした世界空間においては、合理性段階の行動論理の集合規模での確立(権利と責任の抱擁)が全体としての調和をもたらすことになるという発想が共有されることになる。神話的合理性段階においては、世界は、神という超越的存在により敷設された静的(static)な秩序にもとづくものとして構想されるのにたいして、合理性段階においては、個人という自律的存在が相互関係のなかで醸成する動的(dynamic)な秩序にもとづくものとして構想される。つまり、そこにおいては、個体間の軋轢や衝突までもが大局的な調和の要素として許容されることになるのである。

6. Rationality is nonanthropocentric

自己の視点を対象化(相対化)する合理性段階の行動論理は、自己が人間であることをとおして有することになる特性にたいして問題意識を経験することができるようになる。結果として、こうした自己対象化能力は、自己の視点が世界に存在する多様な生物の視点のひとつにすぎないことを認識することができるようになる。神話的合理性段階では、自己の所属する共同体の価値体系の権威のもとに自己の視点が絶対化されるのにたいして、合理性段階においては、自己の視点が非常に根本的なレベルにおいて相対化されることに留意する必要があるだろう。

7. Rationality brings a new space of deeper feeling and greater passion

合理性段階の行動論理は人間の自律的な意思決定能力を重視する。こうした姿勢は、目前に展開する世界のありかたを所与のものとして受容するのではなく、主体的にはたらきかけることをとおして、変革可能なものであると認識する。こうした行動論理において、基本的に、世界とは無数の可能性のただなかにあるものとして認識されるのである。こうした可能性を機軸とする発想は、必然的に、合理性段階の意識構造に強靭な夢想と情熱をもたらすことになる。

The Big Three

神話的合理性段階の世界空間においては、科学(science:Its)と倫理(morality:We)と藝術(art:I)は共同体を支配する権威的価値体系(神話)のもとに「融合」・「統合」される。各領域の探求行為は独自の基準と規範にもとづいて遂行されるのではなく、あくまでも権威的価値体系(神話)を尊重するかたちで遂行される。しかし、合理性段階の世界空間においては、権威的価値体系(神話)はこうした統合機能の基盤としての正当性を喪失して、上記の三領域は独自の潜在的可能性を自律的に追求することを許容されることになる。つまり、各領域の主張の真実性は、それぞれの領域の基準にもとづいて判断されることになるのである。

  • UL(I):主張が誠意にうらづけられたものであること(sincerity)
  • LL(We):主張が関係の維持・向上に寄与する正義と関心にうらづけられたものであること(justness・care・concern)
  • UR & LR(It/s):主張が客観的現実と対応するものであること(truth)

こうした各領域の峻別化(differentiation)が達成された結果、合理性段階の世界空間においては、例えば下記のような認識が確立されることになる:

  • 個人は共同体の規範や規則に完全に束縛される必要がないことが保障される
  • 個人の主観的な希望は客観的な世界を支配するものではないことが認識される
  • 権威的な道徳体系は客観的な世界の真実を規定するものではないことが認識される

Plenitude as a Research Program

発達心理学の調査・研究が示唆するように、高次の段階の創発は既存の段階にたいする高度の問題意識にもとづいて発生するために、高次の段階の確立過程において、成長主体は往々にして既存の段階にたいする攻撃衝動にとらわれることになる。KWの洞察するように、合理性段階の確立過程において、こうした発達の法則は神話的合理性段階にたいする攻撃衝動として集合的規模で発揮されることになる。具体的には、神話的合理性段階の行動論理が正当性を喪失するなかで、神話的合理性段階が象徴していたあらゆるものが拒絶・解体されることになるのである。結果として、神話的合理性段階の世界空間を特徴づけていた垂直性(上昇性)は拒絶され、それと対峙するものとして水平性(下降性)が絶対化されることになる。 *1

「自然の法則」は「神の意識」(あるいは、神のアイデア)のなかにある。そして、同じ意識が人間を創造したのであるから、われわれはそれらの法則を理解・体系化することができるはずである。
人々がこのように信じたことは紛れもない事実である。しかし、ことの本質はさらに具体的なところにある。Lovejoyが説明するように……RenaissanceからEnlightenmentにかけての多数の「科学的発見」は、純粋な実験にもとづいた「発見」ではなく、むしろ、PlatoとPlotinusの思想の2つの重要な法則から直截的に(そして、意識的に)導きだした先験的な前提なのである。それらの前提とは、自然は階層的に構成された存在であるということ、そして、それらの階層間には欠落は存在しないということである。換言すれば、非二元体系の下降性(Descending)あるいは多様性(Plenitude)の側面――Middle Ageにおいては抑圧されていた側面――が分離・強調され、実際の調査活動の主題として実践されることになったのである。そして、この主題こそが、その後、この時代を特徴づける……多数の科学的発見を生みだすことになるのである。(Wilber, 1995/2000, p. 410)

神話的合理性段階において世界空間を支配した上昇主義は、Oneの窮極的な経験の可能性を剥奪する病的なものであるために、集合意識を慢性的な飢餓状態に絡めとることになる。こうした状態に長期的に置かれることは、必然的に、上昇主義にたいする深刻な猜疑を集合意識のなかに根付かせることになる。合理性段階の創発は、それまでに抑圧されてきた下降主義の正統性を回復するのみならず、上昇主義の熾烈な拒絶と下降主義の絶対化の契機として働くことになる。結果として、合理性段階の世界観は、世界の源泉(Source)・基盤(Ground)としてのOneを「喪失」したものとなるのである。ここにおいて、統合的・包括的であるとは、あくまでも顕現世界を有機的な相互関係(Systems Theory)として包括的に把握することであり、顕現世界のOneとの関係性は完全に排除・忘却されることになるのである。

Chapter 12: The Collapse of the Kosmos

Chapter 11において合理性段階の成果・尊厳(dignity)を確認したあと、Chapter 12においては、KWは合理性段階のもたらした問題(disaster)を確認する。

The Collapse of the Kosmos

KWは合理性段階の世界空間を特徴づける中心主題("agendas")を"No more myths!"(Good News)と"No more Ascent!"(Bad News)と要約する。上述のように、これらは歴史的には上昇主義が保障していた高次の可能性そのものにたいする包括的な拒絶感として結実することになる。結果として、それまで、神秘思想において、意識の変容をとおして人間の経験可能な領域として設定されていたGreat Chain of Beingの高次領域を志向することは、むしろ、傲慢(pride)であるとして否定されることになる。下降主義的な思潮に支配された合理性段階の世界空間においては、人間が垂直的な成長をとおして自然というSystemのなかで自己にあたえられた立位置を超越・逸脱することは神・霊にたいする冒涜であると認識されることになるのである。つまり、ここにおいては、自己の目前に展開する顕現世界こそが神・霊であり、人間の義務とは、意識を集中して、それを凝視することであると見做されるのである。合理的思考にもとづいて、感覚(五感)を活用することをとおして獲得することのできる顕現世界――人間の探求・洞察するべき対象領域はこうした世界に限定されることになるのである(世界のFlatland化)。

The Great Interlocking Order

内面領域(Left-Hand Quadrants)と外面領域(Right-Hand Quadrants)を所有するものとしてのKosmosは、こうした合理性段階のFlatland志向の確立を契機として、外面領域に限定されたものとして貧困化されていくことになる。

KWが説明するように、確かに、こうした世界観においても、階層的に存在する構成要素間の有機的な相互関係に留意する複雑性の視点は維持されている。しかし、そこには、内面領域(とりわけ、合理性段階以降の領域)にたいする認識と尊重が欠落している。必然的に、こうした文脈においては、「統合的」("integrative")、あるいは、「包括的」("holistic")であるとは、あくまでも、全体の構成要素としての各存在の機能的な価値(functionality)を重視することに終始することになる。その意味では、歴史的に展開した合理性段階の世界空間とは、「統合性」・「包括性」という大儀のもとに、真の「統合性」・「包括性」を侵食・駆逐したものであるということができるのである。

上述のように、合理性段階の集合規模での確立は"the Big Three"の峻別化を可能とした。しかし、実際には、神話的合理性段階の世界空間にたいする反動として展開した合理性段階の世界空間は、上昇主義にたいする集合的な拒絶感のもと、外面領域の絶対化をとおして、最終的には"the Big Three"の侵略を推進することになる。結果として、こうした状況は、外面領域の探求の価値基準となる
「量」(quantity)の価値判断(quantitative distinction)を絶対化することになる。そして、対象の深層性を解釈をとおして判断する「質」(quality)の価値判断(qualitative distinctions)は、存在価値を喪失して、量化の支配のもとに埋没していくことになるのである(Big ThreeのBig Oneへの倒壊)。

……質と価値は善・悪の発想にもとづいて測定されるのにたいして……客観的な規模は、善・悪の問題ではなく、単に大きいか小さいかの問題である……。従って、感覚的表層と外的形態に特徴づけられる巨大な相互関係の秩序体系は――世界を客観化・対象化の濾過器で処理したときに得られる最終的な帰結である――必然的に質を喪失した世界なのである。
正にKosmosは過去の自己の影と成り果てたのである。垂直的・内面的な階層性(IとWe)は、単なる水平的・外面的な階層性の偏愛のもとに、放棄されたのである。質的判断は、単なる量的判断と技術的測定に取って替わられたのである。「それは何を意味するのか?」("What does it mean?")は、「それは何をするのか?」("What does it do?")に取って替わられた。「その価値は?」("What worth?")は、「その値段は?」("How much?")に取って替わられた。「偉大であること」("greater")は、「大きいこと」("bigger")に取って替わられた。文化の意味体系は、機能的適応と表層的相互関係に傾斜した。倫理はシステム理論のなかに溶解した。
Erosは道具・機能としての有用性(efficacy)に転換され、そして、Agapeはありきたりの生活の肯定のなかにに溶解した。
要するに、解釈を必要とする深層性は、観察可能な表層性にたいする偏愛のもと、殆ど無視されたのである。客観化・対象化の濾過器で処理されたとき、世界は単なる感覚的表層と客観的な形態と過程により構成される巨大な相互関係の秩序体系として見做されるのである。(Wilber, 1995/2000, p. 428)

A Calculus of Pleasure

内面性の否定は必然的に主体の本質的な価値(intrinsic value)の否定として帰結することになる。Flatlandとして構想された世界空間において、個的存在とは、あくまでも全体の構成部分であり、その存在価値は全体の福利にたいする貢献度(extrinsic value・instrumental value)にうらづけられたものとなる。換言すれば、個的存在の価値とは、全体の福利を維持・向上するための機能・道具として、効果的・効率的に参与する活動のなかに見出されるのである。必然的に、こうした世界空間において、人間の価値、そして、人間の救済とは、顕現世界の全体的調和に貢献する能力と行動のなかに確立されるものとして見做されることになるのである。

Charles Taylorが説明するように、こうした質的価値の道具としての機能と行動への転換は時代を全面的に特徴づけることになる。「このことは、世界にたいする機能的姿勢にあたらしい重要な霊的な意味があたえられたことを意味する。ものごとを機能化・道具化することは、霊的に非常に重要な行為となったのである…」機能化・道具化するとは、全てを完全に下降化された網(web)のなかの繊維(strand)に転換することである。これをとおして、全ては巨大な表層的世界体系("the great universal system")のなかで機能・道具としての役目をあてがわれることになるのである。(Wilber, 1995/2000, p. 434)

量的価値の絶対化のもと達成された人間存在の機能化・道具化は、また、範囲(span)の絶対化をもたらすことになる。人間の価値とは、純粋に最大の範囲に貢献をすることによりもたらされると発想されることになる("the greatest good for the greatest numbers")。しかし、質的価値の溶解した世界空間において、世界に提供される価値の高低は問題にされることはない。むしろ、最大の範囲に貢献をするという大儀は、全ての人間が受容者となることのできる価値――認識するために、人格的成熟を要求することのない価値――を特権化することにつながることになる。最大数の人間に受容してもらうためには、それは人格的成熟度の差異をバイパスする全ての人間に共通する項目("the lowest common denominator")を体現するものである必要があるのである。そうした条件を満たすものとは、いうまでもなく、感覚的な快楽("hedonic happiness")にほかならない。

Flatlandの世界空間において多様な意識構造を基盤として成立する多様な価値観・幸福感は、感覚的快楽に還元され、均質化される。Flatlandの世界空間における救済とは、そうして均質化された価値を水平的に展開していくことに終始するのである。

KWの洞察するように、内面性排除のこころみは、窮極的には、成功することはない。完全にFlatland化された世界といえども、何らかの内的衝動を設定することなしには、そこに展開する運動を説明することはできないのである。こうした要請にもとづいて導入されるのが、感覚的快楽(Pleasure/Pain)である。あらゆる種類の内的衝動を感覚的快楽に還元することをとおして、Kosmosは、ひとつの共通した内的衝動にもとづいて活動する構成要素(個的存在)間の相互関係として簡潔に理解される。そして、こうした世界の簡潔化は世界を量化するための基盤を提供することになるのである。

あらゆる深層性を拒絶・破壊することをとおして獲得される凡庸性(mediocrity)を絶対的価値として包容して、それを世界の隅々に展開していくことを善(救済の方途)とする価値体系――あらゆる内面性(深層的価値)を排除することを自己の命題とするFlatlandの世界空間においては、こうした価値体系だけが許容されたのである。

皮肉にも、合理性段階の行動論理の主要命題である世界中心主義は、全ての生命体に通低する共通事項に着目して、その充足を志向するこうした価値体系のなかに自己の完全なる実現を見出すことになる。しかし、実際には、「平等性」・「普遍性」の大儀(慈悲)のもと、深層性を経験するための必須条件である成長(意識の変容)のための取り組みから人間を解放することをとおして、Flatlandの価値体系は世界空間にThanatosという破壊の脅威を蔓延させることになるのである。

自己陶冶の必要性を完全に否定して、あらゆる存在に普遍的にあたえられた感覚性(sensuality)に自己の存在を埋没させること――こうした時代精神のもと、深層性の破壊は人類の集合的な課題として位置づけられることになるのである。

*1 また、こうした時代状況のなかで、神話的合理性段階の世界空間の文脈のなかで蓄積されてきた神秘思想の叡智は――それらは本質的には合理性段階以降の意識構造にもとづくものであるにもかかわらず――神話的合理性段階の言語体系をとおして表現されているために、全否定されることになるのである。

 

参考資料

Brad Reynolds (2006). Embracing reality: The integral vision of Ken Wilber. NY: Jeremy P. Tarcher.
Brad Reynolds (2006). Where's Wilber at?: Ken Wilber's integral vision in the new millennium. St. Paul, MN: Paragon House.
Ken Wilber (1995/2000). Sex, ecology, spirituality: The spirit of evolution (Second Edition). Boston: Shambhala.
Ken Wilber (2006). Integral spirituality: A startling new role for religion in the modern and postmodern world. Boston: Shambhala.