Integral Japan Mail Magazine Vol.69

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          Integral Japan Mail Magazine
             No. 69 (2013/8/7)
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【1】映画紹介:宮崎 駿監督『もののけ姫』(1997)
〜Vision Logicの光と闇〜 鈴木 規夫

【2】9月のケン・ウィルバー研究会のご案内

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皆様、こんにちは。暑い日々が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

今号では、宮崎 駿監督の代表作のひとつ『もののけ姫』を題材にして、Vision
Logic段階の意識構造の特性について解説をこころみた「映画紹介:もののけ姫
〜Vision Logicの光と闇〜」(鈴木 規夫)をお届けします。誰もが知っている
娯楽映画をとりあげて、Vision Logicという難解な話題について説明をしていま
す。どうぞおたのしみください。

また、9月のケン・ウィルバー研究会についてもお知らせいたします。皆さん
のご参加をお待ちしております。

 

【1】映画紹介:宮崎 駿監督『もののけ姫』(1997)
〜Vision Logicの光と闇〜 鈴木 規夫


インテグラル思想の重要な要素である「意識の発達」について説明をするとき、
わたしはしばしば映画の登場人物をとりあげて、その思考や行動を分析すると
いう方法を利用している。

今日、発達心理学――とりわけ、構造主義的発達心理学(constructive
developmentalism)――は、Harvard Graduate School of Educationをはじめ
とする諸機関の研究者の牽引のもと、着実な進歩を続けているが、その難解さ
は、意識の発達というこの重要な概念を理解しようとする人々の前に大きく立
ちはだかることになる。

とりわけ、高次の発達段階に関しては、現代社会においても、いまだ非常に例
外的なものとして存在しているために――そのために、日常生活の中でほとん
ど実例に触れることができないために――それがどのような行動論理を備えた
ものであるのかを想像することは非常に難しい。

そうしたときに、映画の登場人物は、論文中の概念的な説明を躍動する人間存
在として肉付けてくれる非常にありがたい教材である。

周知のように、インテグラル思想においては、いわゆる「統合的」な意識を確
立する発達段階としてVision Logic段階(以下VL段階と記載)といわれる意識
構造が呈示されている。そして、このVL段階について説明するときに、参考に
なるのが、宮崎 駿の『もののけ姫』(1997)に登場する主人公・アシタカな
のである。

物語をとおしてアシタカが直面する葛藤とは、彼がVL的な意識をとおして世界
を認識しているからこそ成立しえるものであるように思われる。

また、それらの解決に向けて逡巡し、苦悩し、格闘していくその強靭な行動は
VL的な意識をとおして展開されているところが多々あるといえる。

たとえば下記のことに注目して映画を鑑賞してみると、VL的な意識の体現者と
してのアシタカの特徴的な行動パタンに気づくことができるだろう。

**マクロとミクロの統合

物語は、アシタカの暮らす里を怨念に憑かれた巨大な猪神が襲撃するところか
らはじまる。平穏な日常の中に突如侵入してきたこの非日常的な出来事の意味
をアシタカは瞬時に洞察するわけだが、ここに示されているのは、ある具体的
な出来事(ミクロ)の中に同時代の中で展開しているマクロ的な変化を察知す
る能力である。

そのときに直観的に洞察されるのは、この世界の秩序が大きく動揺しはじめた
ことであり、また、それがもたらすことになる混沌の大きさである。また、そ
れは、そうした時代の蠢きが、この世界の全てを巻き込んで展開していく真に
コスモロジカルなものであることにたいする洞察でもある。

われわれの周囲では日々無数のイベントが発生しているが、それらの中から、
時代の深層的な変化を象徴する真に重要なものを見極めて、それについて探求
をしようとする態度は、マクロとミクロという対極的な視点を統合的にとらえ
ようとするVL的な発想の特徴を端的にあらわしているといえる。

また、そうした探求は、単なる傍観者的な立場をとおして行われるのではなく、
自己の全存在を巻き込んだ行為としてとりくまれることになる(物語をとおし
て、アシタカは正に己の全存在を賭して探求をすることになる)。それは、あ
るひとつの時代に生まれあわせることをとおして、そこで集合規模で展開する
マクロ的な動きに己が強制的に巻き込まれることを自覚する実存的な態度に裏
付けられたものといえる。

マクロ的なものは、その巨大な奔流の中に個人を無慈悲に巻き込んでいくが、
主人公は、そのことに無力感を覚えて絶望するのではなく、あえてそこに能動
的に参与していこうとする。それは、実存的段階とも形容されるVL段階のひと
きわ秀でた責任能力(response-ability)をあらわすものといえるだろう。

**「呪い」にたいする感性

『もののけ姫』という作品がそれまでの宮崎 駿作品と比較して特異であるの
は、人間というものが、この世に生きるために、殺めることを宿命づけられた
呪われた存在であることを主人公が認識しているところにある。そして、彼は、
この世界が楽園ではなく、怨念や陰謀や衝突や殺戮に溢れた場所であることを
認識しているだけではなく、ひとりの武人としてそうした世界を生きるための
術を卓越したレベルで体得している。

インテグラル思想の言葉を借りるなら、それは、世界が内包する暴力性や破壊
性を否認しようとする潔癖症的な恐怖(phobia)を超克したところに成立する
ありのままの世界を受容する覚悟に裏付けられたものといえるかもしれない。

アシタカは、村を襲撃した猪神を殺めたことにより、死の呪いをかけられるこ
とになるわけだが、これは、「愛」(同胞を守ろうとする愛)というものが、
人間を半ば強制的に攻撃や殺戮に衝き動かす攻撃性を内包したものであるとい
う厳然たる事実も示している(こうした攻撃性は、特定の意識段階だけに診ら
れるものではなく、人間存在の根源に刻印されているものである)。

いうまでもなく、将来的に里の長となるべきアシタカには、傍観者として猪神
の襲撃を眺めていることは許されていない。彼に求められているのは、己の命
を賭して事にあたることであり、また、それがもたらすことになるあらゆる結
果を引受けることである。アシタカの苦悩とは、そうした役割をあたえられた
ことをとおして、あまりにも理不尽にもたらされる呪いと対話をする中に生ま
れる。

時代や社会の中で自己に宛がわれた宿命を抱擁し、その中に立ちあがる根源的
な問題を探求しようとする態度は、「自由という幻想」を超克したところに成
立する、きわめてVL的なものといえるだろう。


**複数の文脈の間の移動

作品は、複数の勢力がそれぞれの思惑を実現しようと複雑にいり乱れながら展
開していく。こうした中におけるアシタカの行動は非常に印象的である。

彼は、それら緊張関係にあるそれぞれの勢力が実際に生活を営んでいる環境
(文脈)に赴き、尊重の念をもってそれらを体験しようとするのである。そし
て、そうした訪問をとおして、彼は、それぞれの文脈に生きる者の目に映る光
景(真実)を内側から理解しようとするのである。

もちろん、それは、決して全ての者が正しいと陳腐な価値相対主義的な態度に
落ち着くことを目的としたものではない。それぞれの文脈に息づく意識に共感
をしつつも、彼は、それぞれの文脈の中に成立する思考形態や価値体系にたい
する批判的な態度を崩すことはない。むしろ、そうした作業をとおして、彼は、
窮極的には、そのどれにも完全に所属しえない質的にもうひとつ高い地平に己
がいることを自覚することになるのである。

それは、ある意味では、己には、もはやひとつの文脈に安住することがもたら
してくれる「確信」という安逸を享受することができないことを諦念と共に自
覚することでもあろう。そして、当然のことながら、そのことは、彼の孤独と
絶望を深めることになる(しかし、正にその苦悩こそが彼の霊的探求を支える
力となるのである)。

真実というものは、常に文脈に依存したものである。そして、われわれは、世
界の豊饒な真実に自己を開こうとするならば、それらの真実を生みだしている
異なる文脈に実際に自己を投じてみなければならない。

VL段階の特徴とは、真実というもののそうした特性(限定性)を心得ているこ
とである。そして、その認識にもとづいて、多様な文脈に参与しようとする意
志と能力を発揮するところにあるのである。

いうまでもなく、そうした行動は、往々にして、関係者の不信を招くことにな
り、身を危険にさらすことになる(あまりにも自由に文脈間を行き来する者は、
忠誠心の無い者とみなされる)。そのために、実際にそうした行動ができるた
めには、人間社会を渡るための狡知と技術が必要となる。

その意味では、アシタカの発言と行動は、観客を鼻白ませるほどに青臭いとこ
ろがあり、その点では、VL段階のサンプルとしては問題があるのだが、ここで
重要なことは、この人物の中に少なくとも、そうした統合的な意識を構成する
重要な要素が体現されていることであろう(たとえば、発達心理学者のRobert
Keganは、VL段階の意識は中年期以前に確立されることはないと主張している
が、そのひとつの理由は、それが、認知構造の複雑さにくわえて、一定量の社
会経験を必要とするものであるからなのだろう)。

**世界に浸透するものとしての霊性

いうまでもなく、『もののけ姫』の重要な主題は、「神殺し」である。

日本の工業化の黎明期において、人間が自然世界の支配権を神から剥奪したと
き、そこに生きた人々がいかなる精神的な死と再生を経験したのかということ
を作品は描こうとしているのだ。

タタラ場を率いるエボシ御前の発想に示されているように、人間は、徹底的な
合理精神をもって、それまでの時代を呪縛していた神秘的な世界観を解体した。

もちろん、物語中には、そうした新興精神とは隔け離れたところで、不老不死
をもたらすとされるシシ神の首を巡る争いも描かれるが、朝廷の勅命を受けて
暗躍する師匠連を率いる「宗教者」そのものが既にそうした神話的世界観にた
いして醒めていることが示唆されるほどで、作品中の時代はもはや抗うことの
できない力で脱神話的な方向に動いている。

こうした歴史的文脈における主人公アシタカの霊的な探求は非常に興味深く感
じられる。

タタラ場で銃撃を受けて、瀕死の重傷を負い生死の間を彷徨うとき、アシタカ
は、シシ神に命を救われるが、それは「呪いからの解放」という彼の窮極的な
課題を解決してくれない。それどころか、シシ神は、死という安易な解決を否
定することをとおして、アシタカの退路を断つのである。

こうした神とは、特定の対象に恩寵を施す人格化された存在ではなく――ある
意味では、非常に無慈悲に――人間に自己の実存的な問題と格闘することを強
いる存在に思える。

アシタカは、この神との出遭いを通じて、己の個人的な救済にたいする甘い期
待を断ちきり、今正に目の前で展開する修羅場の中に身を投じることを決意す
る。

インテグラル思想を堤唱するケン・ウィルバーは、各発達段階は、それぞれに
独自の形態で霊的な営みを展開すると述べているが、こうしたアシタカの霊的
探求を眺めてみると、それが作品中の他のどの登場人物のそれとも異なること
に気づくだろう。

そこには敬虔の念が息づいているが、それは、あくまでも客観的(impersonal)
な働きとしての神にたいするものであり、自己に向けて都合よく恩寵や救済を
もたらしてくれる存在にたいする帰依ではない。敢えて言えば、それは、自己
につきつけられた実存的条件(宿命)と逃げることなく格闘できるように、わ
れわれに必要な治癒と活力をあたえてくれる慈悲と残酷さをそなえた神である
ように思える。

アシタカの確信とは、霊的な救済というものが、この世界において自己に宛が
われた役割(宿命)を果たすことの中にしか見出しえないことにたいするもの
であろう。そして、それは、とりもなおさず、この世界そのものが――汚濁に
塗れた人間の世界を含めて――霊的な営みの舞台であることにたいする認識に
つながる。

VL段階に近づくと、観想者としての意識の中で自我構造は徐々に対象化・相対
化され、また、その境界は浸透性を高め、神聖なものとの対話を恒常化させて
いく。それは、この泡沫のような自己の内にも霊的なものが息づいていること
を自覚することであり、また、己の目の前に展開する世界そのものが、霊的な
ものに満たされた場所であるという認識を深めることにつながる。

物語の結末において、人間は、シシ神を殺してしまうが、そこでアシタカは次
のようにヒロインのサンを慰める。

「シシ神さまは死にはしないよ。生命そのものだから……生と死とふたつとも
持っているもの……わたしに生きろといってくれた」

この言葉は、世界に浸透するものとしての霊性を認識するVL的な意識を的確に
あらわしていると言えるだろう。

**反証

もちろん、アシタカの行動には、必ずしもVL的とはいえないところがあるのも
事実である。

たとえば、先述のように、彼は、互いに反目しあう複数の共同体の視点を内側
から理解しようとするが、同時にそれらを俯瞰して、(その背景に存在してい
る文脈も含めて)ひとつの「体系」(システム)として把握しようとすること
はない。

それらの衝突の只中に身を置きながら、彼は、「争わずに共存する道はないの
か?」という問いは発するが、そもそもそうした衝突をもたらしているマクロ
的な要因については探求しようとはしない。

アシタカの発想とは、窮極的には、それぞれの関係者が平和を決意して対話を
すれば、それで衝突が回避されえるという単純な対話主義的なものに堕する可
能性を孕んでいるのである。

その意味では、それは、時代や世界のマクロ的な不可抗力の前に為す術もなく
押し流されていく人間の限界を冷厳に見つめようとする醒めを欠いたものであ
る。

そうした状況において、人間の自己浄化能力を信頼して、それぞれの関係者に
内省と対話を求めれば、果たして状況は解決するのだろうか……?

少なくとも、アシタカの発言や行動を診ている限りでは、そうした問いかけを
しようという兆候はない。

正にそれゆえに、彼は、同時代の中で巨大なマクロの変化が展開していること
を直観しても、それを客観的にとらえようとすることはないのである。

そうした意味では、アシタカのありかたは、認知というひとつの重要な側面に
おいては、真にVL的な要素を欠いたものといえる。

即ち、それは、少々残酷な言い方をすれば、「戦略」を欠いたものと言えるの
である。


意識構造というものは、常に個人をとりまく文脈(環境)に影響されて変化し
ている。異なる文脈において、われわれは異なる発達段階の行動論理に立脚し
て行動するのである。

その意味では、ひとりの人物をある特定の発達段階の特徴を挙げて説明しよう
とするこのような解説は、対象が物語中の虚構の存在であるからこそ可能なの
である。生身の人間は、このようにあるひとつの発達段階の特徴だけで説明で
きるほどに単純なものではない。

その点については、読者の方々には誤解のないように御願いしたい。

ともあれ、長年にわたり宮崎 駿監督の作品を観てきて実感するのは、作品の
中に宮崎氏の精神の深化の軌跡が刻印されていることの凄さである。世界には、
職人として優れた作品を量産しつづける優秀な映画作家はたくさんいるが、宮
崎氏の場合には、作品の中に常に自己の生々しい精神の葛藤と深化の道程を刻
みつける。それらの作品は、正に宮崎 駿という表現者の人格と精神と不可分の
ものとして存在しているのである。

とりわけ、この『もののけ姫』という作品には、宮崎氏が「彼岸」に精神の拠
を移すまえに――その後、間もなくして、宮崎氏は、古典的な娯楽作品の物語
文法に則って作品を構築することを辞めてしまうことになるが、それは、時間
性と空間性に支配されたこの世界を舞台にして物語ることにたいする諦めをあ
らわしているように思える――最後に個として対峙した行き場のない焦燥と慟
哭がもののみごとに表現されている。

そして、そこには、窮極的には「彼岸」に旅立つことをとおしてしか救われる
ことのないVL的な精神のありようが結晶化されて表されているように思うので
ある。

 

【2】9月のケン・ウィルバー研究会のご案内

2013年9月のケン・ウィルバー研究会の開催情報を御案内します。本研究会は、
インテグラル理論を話題にして、自由に議論をおこなうためのものです。参加
を予定している方々は、議題としてとりあげたい話題や質問を2〜3準備のうえ
御参加ください。

尚、9月の研究会より、下記の2つの論文を参考にして、Harvard Graduate
School of EducationのKurt Fischerの提唱するDynamic Skill Theoryに関する
理解を深めながら、他の発達理論(例:Robert KeganやSusanne Cook-Greuter)
との比較検討を行っていきます。


Dynamic Development of Action and Thought

By KURT W. FISCHER and THOMAS R. BIDELL

http://www.gse.harvard.edu/~ddl/articlesCopy/FischerBidellProofsCorrected.0706.pdf

The Dynamic Development of Thinking, Feeling, and Acting over the Life Span

By MICHAEL F. MASCOLO and KURT W. FISCHER

http://www.gse.harvard.edu/~ddl/articlesCopy/Mascolo_Fischer_2010_pp149-194.pdf

付属参考資料

加藤 洋平 & 鈴木 規夫

加藤 洋平インタビュー第1回〜第5回

http://integraljapan.net/articles/kato/index.htm

後藤 友洋(著)

連載・インテグラル・エデュケーション〜フラットランドを越えて (1)

連載・インテグラル・エデュケーション〜フラットランドを越えて (2)

連載・インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(1)

連載・インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(2)

連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(1)

連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(2)

http://integraljapan.net/articles.htm


開催日:2013年9月15日(日曜日)13:30〜16:45

開催場:和泉橋区民館

東京都千代田区神田佐久間町1-11

http://www.city.chiyoda.lg.jp/shisetsu/kuyakusho/011.html

アクセス方法

JR秋葉原駅昭和通り口から徒歩2分

都営新宿線岩本町駅から徒歩3分

東京メトロ日比谷線秋葉原駅から徒歩1分

参加費用:2,000円


参加条件:特にありません(事前予約の必要はありませんので、当日 会場に
御越しください)


主催:インテグラル・ジャパン

URL:http://integraljapan.net/

連絡先:info@integraljapan.net/

*ご意見、ご感想などはお気軽にどうぞ! inquiry@integraljapan.net
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インテグラル・ジャパン・メールマガジン No. 69
配信日:2013年8月7日
発 行:インテグラル・ジャパン総合研究所
http://www.integraljapan.net/
発行人:鈴木 規夫
編 集:後藤 友洋
*無断複製・転載を禁止します

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