Integral Japan Mail Magazine Vol.68

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          Integral Japan Mail Magazine
            No. 68 (2013/5/15)
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【1】連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習段階の教育(2)
後藤 友洋

【2】5月のケン・ウィルバー研究会のご案内

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みなさん、こんにちは。今回の連載は、慣習的段階の教育の後編をお届けします。
この論文は、次回のケン・ウィルバー研究会でも取り上げますので、ご興味のある
方はぜひ研究会にお越しください。

【1】連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(2)
後藤 友洋

**慣習的段階における教育実践:読み書きを中心とした教育

これまで述べてきた問題を、より実践的な側面から記述するならば、それは、
次のように説明することができます。書き言葉の本質は、話し言葉によって伝
達されることになる情報の地域性を越えて、より普遍的な価値を伝達すること
にあります。換言するなら、話し言葉の持つ意味が、それが発せられた具体的
な状況に大きく依存するのに比べて、書き言葉によって表現された内容は、時
代や地域を越えて解釈されることができるということができます。言葉がそう
した普遍性を帯びることができてはじめて、その言葉は、高次の知的価値、あ
るいは、倫理的な価値を担いうるものになります。そうした普遍語によって、
学問の体系が組み立てられ、様々な専門領域が組織されることになったのです。
それゆえ、そのような高次の精神活動に取り組むことができるためには、「普
遍語」としての書き言葉を習得する必要があります。

学校教育が、日常生活において使用される言葉とは質的に異なるものである「
学習言語」を、自在に使いこなすことができるようになることを重んじるのも
そのためです。また、そうした教育的な意義が受験学力の獲得のための詰め込
み教育によって歪められることなく尊重されるならば、子ども達は、自然と学
ぶことの意味を理解することができるようになるはずです。

これまで、日本においては、学校教育が「知識偏重」型の教育を行ってきたこ
とに対する批判が盛んに行われてきました。しかし、それはあくまでも知識の
習得の方法に対して向けられた批判であって、必ずしも知識そのものの価値を
軽んじるものではないということに注意する必要があります。受験やテストが
要求する知識量があまりにも膨大なものであるために、子ども達が、必ずしも
その言葉に対する真の理解を伴うことのないままに、大量の言葉をただひたす
らに覚えることに終始してしまうことが問題なのです。

たとえば、鎌倉幕府が成立した年号を正しく答えることができたところで、「
幕府」という概念について理解したことにはなりません。また、何をもって幕
府の「成立」と見做すかによって、実はその年号も変動し得るものであるとい
うことは、子ども達には基本的には教えられません。そのような物事の本質に
迫る議論は全て捨象されて、ただひたすらに1192年という年号を暗記させられ
ることが問題なのです(注1)。

大切なことは、あらゆる教科の学習を下支えする基本的な読み書きの能力を獲
得した上で、各教科の学習に取り組むために必要とされる諸々の概念体系を、
理解を伴いながら、効率的に習得していくことであるといえるでしょう。ここ
では、そうした知識の習得のあり方について、2つのことを指摘しておきたい
と思います。

第1に、言葉を身体と対立するものとしてではなく、むしろ身体の延長として
捉えることが重要です。私たちの身体が正常に機能することで、はじめて、物
理的な現実を知覚することができるのと同じように、言葉を自らの身体のよう
に使いこなすことができるようになることによって、はじめて、私たちはある
特定の概念を「掴む」ことができます。言語とは、諸々の概念体系によって構
成されるところの<図書館>に出入りするための身体なのです。つまり、私た
ちは、言葉という身体によって抽象世界にアクセスしているということになり
ます。

ところが、私たちは、しばしば、言葉というものを、現実を知覚するための道
具としてではなく、現実を歪めるものとして考える傾向にあります。震災以降、
御用学者と呼ばれる人々の存在が広く知られるようになり、マスメディアの伝
える情報が、必ずしも事実をありのままに反映したものではないということを
多くの人が実感することによって、そうした傾向はますます強くなっているよ
うに思われます。このことは、大衆に向けて言葉を発信する立場にある「知識
人」の側に責任があることは明らかです。

私たちは、もはや、専門家と呼ばれる人々を、高度な知的価値を担い、その価
値を体現する人々として、素直に尊敬することができなくなっています。むし
ろ、彼(彼女)らは、自らの利益のために情報を操作するかもしれず、彼(彼
女)らに向けられた不信は、そのまま「言葉」に対する不信となって、私たち
日本人の「反知性主義」的な立場を強化することになります。そして、そのこ
とが、学ぶことの意味を見失わせ、子ども達が学びから逃走することの一因と
なってしまっています。

しかし、言葉を「思考の身体」として捉えるインテグラル理論の立場からは、
そのように言葉と身体を対立的に捉える反知性主義的な発想にこそ、むしろ警
戒しなければならないということができます。そうした反知性主義的な発想は、
言葉によって表現される抽象的、あるいは観念的な事柄をすべて非現実的なも
のとして否定しようとするために、具体的、あるいは感覚的に知覚できる世界
のみを唯一のリアリティであると考える傾向にあります。その結果、抽象的な
思考によってはじめて知覚することのできるリアリティがあるということに目
が閉ざされてしまうのです。言葉が時として現実を歪めるものであることは確
かだとしても、それを理由に言葉と向き合うことを放棄しようとすることは、
言葉によって構築された高次の価値の領域にアクセスすることをも放棄するこ
とにつながります。発達論的には、それは一種の退行であって、決して健全な
スタンスであるとは言えません。

言葉を現実を歪めるものとして否定的に扱うことは、必ずしも言葉というもの
の本質的な価値を正しく理解しているとはいえません。言葉が不適切な仕方で
使用された場合にのみ、言葉は現実を歪めてしまうのです。つまり、言葉が現
実に対する知覚を歪めてしまうことがあるのだとすれば、それは言葉が身体に
対立するものであるからではなく、言葉を自分の手足のように自在に使いこな
すことができていないために起こることであると考えられます。言葉の身体性
が十全に機能していないために、現実を捉え損ねてしまうのです。そのように
して紡がれた言葉は、地に足が着いておらず、現実から遊離しているがゆえに
不自然なものになります。しかし、そうした言葉と現実の不一致は、言語の身
体性が正しく機能していないことの結果であり、言語の性質そのものに原因が
あるわけではありません。

慣習的段階における教育は、このことを十分に意識した上で行われる必要があ
ります。学習言語の習得は、できるだけ学習者の身体的な体験を伴って行われ
るべきであり、そうすることによってのみ、言葉は真の理解を伴った、柔軟な
身体性を発揮することができます。知識の習得が、純粋に抽象化された言葉の
みをひたすらに暗記させるようなものである限り、そこで獲得された言葉は決
して身体化されたものとはならず、活用可能な言葉として学習者のなかに血肉
化されることはありません。したがって、教師は、子ども達の体験と地続きの
ものとして知識を扱い、子ども達が自らの具体的な体験を概念的に整理してい
くことができるように学習活動をデザインしていく必要があります。

そのためには、子ども達の学習活動は、あまりにも膨大な知識を扱うものであ
ってはなりません。これが、第2のポイントです。

教育哲学者の苫野一徳は、義務教育段階において育成されるべき力能を、「共
通基礎教養」と呼び、それを「すべての子どもたちに共通に獲得を保障すべき
基礎教養」であり、「将来どのような職業に就いても、一定程度共通に必要と
される教養」として定義しています。確かに、そうした教養を獲得することは、
慣習的段階の意識構造を確立する上で欠くことのできないものであるといえま
す。そうした教養があってこそ、個人は、共同体の構成員として、必要な情報
にアクセスすることができるのであり、社会に参加することが可能になるので
す。

苫野は、さらに、そうした教養を獲得するために必要とされる学力の本質とは、
「諸基礎知識」と「学び(探求)の方法」を得ることにあるとしています。

これまで、日本の教育が批判されてきたのは、獲得すべきであるとされている
「諸基礎知識」の量があまりにも膨大であるために、限られた授業時間のなか
で、教師はどうしても知識を詰め込むことに終始してしまい、「学びの方法」
を学ぶための時間を確保することができないという問題を抱えているからでし
た。そのような状況のなかでは、ただひたすらに算数の公式を暗記するといっ
たように、現実の世界とは切り離された、抽象的な観念のみを扱うことしかで
きなくなります。そのように細切れにされた知識は、もはや生気を失っており、
子ども達にとっては、無理をして覚えなければならないものでしかありません。

苫野の指摘しているように、ここで必要なことは、「諸基礎知識」の量を必要
最小限の量に抑え、代わりに「学びの方法」の育成に力を注ぐことであるとい
えるでしょう。そうすることによって、子ども達に与えられることになる「諸
基礎知識」の内実は、本質的なものだけが残され、系統立ったものになり、よ
り確実にその知識の獲得が保障されるようになります。また、子ども達自身が
「学びの方法」を身につけていれば、限られた授業時間のなかで、教師によっ
て膨大な「諸基礎知識」を詰め込まれるということをしなくても、子ども自身
の自発的な学びによって、適宜、必要な知識を補っていくことができます。そ
のようにして子ども自身の自発性に委ねてしまうことで、子どもは探究心を失
うことなく、自らの身体的な実感に基いて学習活動に取り組むことができるの
であり、それが結果的には学習の効率を上げることにもなるはずです。

実際、テストのために覚えた知識が、テストが終わった途端に忘れ去られてし
まったということを、みなさんは頻繁に経験されているのではないでしょうか。
そのようにして詰め込まれた知識は定着しないものであるということは、私た
ちの実感としても正しいように思われます。しかし、自発的に探求し、自らの
感覚によって掴み取った知識は、個人の身体にしっかりと血肉化されているた
めに、多様な文脈に合わせて応用していくことができるものとなります。

したがって、義務教育段階においてどれだけ高い知識到達度に達することがで
きたかということは、学力の本質を問う上で本来は問題にはならないはずです。
そうしたことを問題にしなければならないというのは、受験という子どもの選
別作業のために、ある特定の時期における子どもの知識量を一律に測定しなけ
ればならないという、大人の事情でしかありません。義務教育が真に問題にし
なければならないのは、そのようなことではなく、一人ひとりの子どもが、今
後の人生において、その都度、自らにとって有用な知識を獲得していくための
潜在的な能力を、いかに引き出していくのかということであるべきなのです。

そして、そのためには、最低限必要とされる基礎知識を、すべての子どもにで
きるだけ確実に獲得させるとともに、「学びの方法」を与えることによって、
子ども達自身の手に学びの責任を委ねていくことが必要です。そのとき、教師
は、「知識の伝達者」としての役割に徹するのみではなく、教師自身がひとり
の学習者として、子ども達に「学ぶ」ということの手本を示していくのでなく
てはなりません。教師は、教えることのプロであるだけではなく、学ぶことの
プロでなくてはならず、学びの方法を子ども達にわかりやすく語ることができ
る必要があります。言い換えれば、教師には、学びを行っているときに、自ら
の思考がどのように活動しているのかということに自覚的になることができ、
それを子どもにも実践できる「型」として示す技量が求められることになるの
です。教育の世界では、そうした指導法を、しばしば「考え聞かせ」という言
葉で表現します。最後に、そうした思考の型について、考えていきたいと思い
ます。

**指導の型:考え聞かせ

衝動的段階の子どもに対する指導の方法として、教師が具体的な行為を実際に
やってみせることが有効であるということをすでにお話しました。そうするこ
とによって、子どもは、適切な身体の動かし方を教師から学ぶことができたの
でした。

この「提示」の考え方は、慣習的段階の子どもへの指導においても引き継がれ
ます。ただし、そこで扱われる内容が高度な思考を要求する抽象的な学習内容
である場合には、教師は身振りによってではなく、言葉によって提示を行うこ
とになります。具体的な行為ではなく、精神的な行為として、思考活動を提示
していくことになるのです。これを、個人の内的な思考内容を言葉にして外に
示すという意味で、「考え聞かせ」といいます。

ルドルフ・シュタイナーは、この段階において、大人が権威を持って語る事柄
が、子どものその後の人生における思考内容に大きな影響を与えることを指摘
しています。すでに確認したように、慣習的段階とは、他者の思考を内面化す
ることで、自らの思考を拡張させていく段階であることを考えれば、シュタイ
ナーのこの洞察は妥当なものであることがわかります。

考えるという行為は、基本的には、自らに問い、自らそれに答えていくことで
成立しているということができるでしょう。しかし、思考することに慣れてい
ない子どもは、そもそもどのような問いを投げかけるべきかが分からない場合
があります。そのようなときに、教師が子どもに適切な問いを投げかけてあげ
ることで、子どもの思考が問題解決に向けて前進していくことが、教育の場で
はしばしば起こります。教師は、子どもに発問をすることによって、「考える」
ということの半分を肩代りしてあげているのです。多くの教師は、ほとんど無
意識的にそうした発問を子どもに投げかけていることと思いますが、教師自身
が、自らの思考の過程に注意を払い、それを生徒に「考え聞かせ」ることに意
識的に取り組むことで、その教師の授業内容は、より効率的に生徒のなかに沁
みこんでいくことになるでしょう。

考え聞かせを続けていくことで、子どもは、ある特定の事柄に対してどのよう
に問いを立て、考えを進めていくべきであるのかを理解します。そして、少し
ずつ、教師のサポートなしに自分自身で思考を進めていくことができるように
なります。教師が「考え聞かせ」によって示してきた思考の型が子どものなか
に内面化されていくのです。

このことは、自転車に乗る練習をすることに似ています。子どもは、初歩の段
階では自力で自転車を走らせることができないので、補助輪をつけて、あるい
は、大人の手に支えられながら、自転車に乗ることを覚えていきます。そして、
慣れてきたら、補助輪を外し、大人が少しずつ手を離していきながら、だんだ
んと子どもが自分自身の力で自転車を漕ぐことができる状態に近づいていくの
です。

「考え聞かせ」によって教師が子どもの思考を導いていくことは、補助輪つき
で、大人の手を借りながら、自転車を乗りこなしていくことと同じであるとい
えます。子どもが、最後にはすっかり自分自身の力で自転車に乗ることができ
るようになるのと同じように、「考え聞かせ」を行うことで、子どもは、最後
にはすっかり自分自身の力だけで考えることができるようになります。このよ
うに、少しずつ教師から子どもへと責任を移転していくことが、教育の基本で
あり、同時に「考え聞かせ」の基本であるといえます。

このように、「考え聞かせ」を通して具体的な思考の過程に触れることで、知
識はもっとも効率的に習得できます。その意味では、読書は非常に優れた学習
法であり、考え聞かせであるといえます。

ところが、受験学力が重視される日本においては、読書が子どもの学習活動に
与える影響について、どうしても軽視される傾向にあるように思います。実際、
私は高校時代に、国語の教師から「本を読むくらいなら受験勉強をしろ」と言
われたことがありますが、そうした発想は、受験を目の前にした教師や保護者
にとってはむしろ当然のものとして受け取られているのではないでしょうか?

しかし、スティーブン・クラッシェンの調査によれば、読書を行うことが、知
識を定着させる上で非常に効果的な方法であることが明らかになっています。
たとえば、語彙の習得などは、教師が細かく言葉の指導をするよりも、本を読
む方がはるかに効果的であることがわかっています。文脈から切り離された言
葉をいくら頭に詰め込んでも、そうして得た知識はなかなか個人のなかに定着
せず、自由に使いこなせるものにならないのです。

慣習的段階においては、知的な学習に取り組むための基本的な概念を習得する
ことが重要な課題となりますが、それは、このように具体的な思考に触れるこ
とを通して達成されるべきでしょう。

まとめ

慣習的段階は、個人が、はじめて世界を知的に探求し始める段階です。衝動的
段階における成長が、身体が外的環境に適応していく過程であったように、慣
習的段階における成長は、言語を一種の「思考の身体」として用いることで、
文化的・社会的に構成された概念世界に適応していく過程として捉えることが
できます。個人の言語能力の発達によって、より抽象的な現実を認識すること
が可能になるのです。言い換えれば、それは、自らの所属する共同体の慣習に
適応していくことであり、したがって、義務教育の意義は、社会的に規定され
た慣習の総体を学ぶことによって、すべての子どもに社会の一員として生きて
いくための「教養」の獲得を保障することであるといえるでしょう。そうした
教養は、「諸基礎知識」と「学びの方法」を獲得することによって具体的なも
のとなります。また、そうした教養を持つことによって、個人は、共同体の内
部に蓄積された叡智=<図書館>にアクセスすることができ、さらには、次なる
段階である合理性段階への発達によって、慣習そのものを変えていくことので
きる主体として目覚めることになるのです。慣習的段階の子どもにとり、保護
者や教師は、そうした社会的な慣習を体現する存在として認識されることにな
ります。多くの発達心理学者が指摘するように、発達というものが、他者の視
点を取り込むことで進行していくものであるとすれば、慣習的段階において、
具体的な慣習のあり方を提示してくれる身近な大人の存在は、子どもの発達に
欠かすことのできない「重要な他者」であるということができるでしょう。

【注】
(1)ただし、現在の歴史教科書の多くは鎌倉幕府の成立を1185年に設定してい
るようです。

 

参考文献

・ウォルター・J.・オング、林 正寛・糟谷 啓介・桜井 直文訳(1991)『声の
文化と文字の文化』
・加賀野井 秀一(2002)『日本語は進化する 情意表現から論理表現へ』日本放
送出版協会
・工藤 順一(2010)『文書術』中央公論新社
・ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(T・U)春秋社
・相良 敦子(1999)『幼児期には2度チャンスがある』講談社
・ジャン・ピアジェ、滝沢 武久訳(1968)『思考の心理学』みすず書房
・スティーブン・クラッシェン、長倉 美恵子・塚原 博・黒澤浩訳(1996)『読
書はパワー』金の星社
・苫野 一徳(2011)『どのような教育が「よい」教育か』講談社
・丸山 圭三郎(2007)『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』
講談社
・水村 美苗(2008)『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』筑摩書房
・リタ・デブリーズ&ローレンス・コールバーグ(1992)『ピアジェ理論と幼
児教育の実践 モンテッソーリ、自由保育との比較研究 上巻』北大路書房
・ルドルフ・シュタイナー、高橋 巌訳(2003)『子どもの教育』(シュタイ
ナーコレクション)筑摩書房
・吉田新一郎(2010)『「読む力」はこうしてつける』新評論

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後藤 友洋 プロフィール
1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。
大学時代より、民間の教育機関において言語教育に携わる。同時に、インテグ
ラル思想の探求に取り組み、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法
の開発を目指している。
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【2】イベントのご案内

2013年5月のケン・ウィルバー研究会の開催情報を御案内します。本研究会は、
インテグラル理論を話題にして、自由に議論をおこなうためのものです。参加
を予定している方々は、議題としてとりあげたい話題や質問を2〜3を準備のう
え御参加ください。

課題資料
加藤 洋平 & 鈴木 規夫
加藤 洋平インタビュー第1回〜第4回
http://integraljapan.net/articles/kato/index.htm

後藤 友洋(著)
連載・インテグラル・エデュケーション〜フラットランドを越えて (1)
連載・インテグラル・エデュケーション〜フラットランドを越えて (2)
連載・インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(1)
連載・インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(2)
連載・インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(1)
連載・インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(2)
http://integraljapan.net/articles.htm

開催日:2013年5月18日(土曜日)13:30〜17:00
開催場:
〒101-0051
東京都千代田区神田神保町2-40
神保町区民館 洋室B
http://www.city.chiyoda.lg.jp/shisetsu/kuyakusho/007.html

交通
JR・都営三田線水道橋駅から徒歩10分
東京メトロ半蔵門線・都営三田線・新宿線神保町駅から徒歩5分

参加費用:2,000円

参加条件:特にありません(事前予約の必要はありませんので、当日
会場に御越しください)

主催:インテグラル・ジャパン
URL:http://integraljapan.net/
連絡先:info@integraljapan.net/

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インテグラル・ジャパン・メールマガジン No. 68
配信日:2013年5月15日
発 行:インテグラル・ジャパン総合研究所
http://www.integraljapan.net/
発行人:鈴木 規夫
編 集:後藤 友洋
*無断複製・転載を禁止します

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