ウエブ・サイト紹介 第7回

鈴木 規夫

 あらゆる領域においてそうであるように、今日、トランスパーソナル研究の領域においても、インターネットの重要性は、ますます高まってきています。実際、数々のトランスパーソナル領域の関係者が、内容的に充実したウエブ・サイトを運営しています。そこには、この領域の代表的研究者たちによる、書きあげられたばかりの論文が多数掲載されており、わたしたちは、それらを無料で読むことができるのです。ここでは、そうしたウエブ・サイトをご紹介していきます。


ワールドウォッチ研究所(Worldwatch Institute)


http://www.worldwatch.org/(英語)
http://www.worldwatch-japan.org/(日本語)


今日、先進国を中心に展開している「こころの時代」を特徴づける基本思想は、「生命礼賛思想」と形容することができるだろう。ひところもてはやされた「癒し」という言葉が端的に象徴するように、そこでは、日々の生活のなかで失われた生命の脈動にたいする感覚を回復することをとおして、あらためて自己の存在にたいする根源的な肯定感を確立しようとするこころみが取り組まれる。


1960年代の「人間性回復運動」(Human Potential Movement)の発足以降、今日まで様々な形態をとおして推進されてきた内面探求を機軸とする思想運動は、基本的に、個人の内部にこうした主観的な充足感を醸成することをその活動目的としている。とりわけ、その「集大成」ともいえるトランスパーソナル心理学においては、多様な伝統文化において開発されてきた意識変容の技法(例:瞑想・薬物)を活用することをとおして、「癒し」の感覚を効果的・効率的に醸成することが志向される。実践者に劇的な蘇生感覚を経験することを可能とすることにより、トランスパーソナル心理学は、人間が存在することそのものをとおして体現する根源的価値を実感することができるように支援するのである。


こうした主観的感覚の経験をとおして、自らの存在を祝福されたものとして抱擁することを可能としようとする生命礼賛の発想は、人々に自己の内部に息づく生命の脈動を無条件に肯定するための「権利」をあたえる。「こころの時代」を一躍社会的な流行へとひきあげた動力が、生命礼賛思想のこうした卓越した寛容さにあることは間違いないだろう。とりわけ、日常、絶え間なく冷徹な評価の眼差に曝されている現代人にとり、こうして自らのありのままを許容・抱擁してくれる寛容な発想が、非常に魅力的なものとして経験されたことはいうまでもない。


しかし、ここで留意するべきことは、「こころの時代」の基盤を構成する生命礼賛思想が深刻な盲点を内蔵しているということである。生命礼賛思想は、主観的感覚尊重の発想を基盤として、諸々の癒しの技法を活用することをとおして、生命蘇生のとりくみを支援し、また、そこに醸成される歓びを祝福する。しかし、そこには、そうした過程をとおして実現される成果が、共同体の客観的な基準に照らし合わせて、「真」・「善」・「美」を体現するものとして評価できるのかという観点(問題意識)は欠落している。獲得された「癒し」の価値とは、あくまでも、個人の主観的な感覚にもとづいて判断されるのであり、そこにおいては、基本的には、その影響を被ることになる他者の視点は考慮されることはないのである。こうした主観的感覚を絶対化する傾向は、結果として、「こころの時代」を自己中心性の肥大化を容認・促進する文化的装置へと劣化させる危険を孕むことになる。


また、これにくわえて、個人の自己実現のとりくみの文脈となる現代社会という生存環境は、生命礼賛思想のこうした問題をさらに悪化させる破壊的影響をもたらす傾向にある。現代社会の支配的価値体系である「数値崇拝」――貨幣等、数値化することができるものだけを評価しようとする発想(Ken Wilberは、これを"Flatland"と形容している)――は、個人の自己実現活動をこうした価値体系にもとづいて展開するよう様々な圧力をかけてくる。


例えば、現代社会に蔓延する破壊的思想として林 道義博士が指摘する「働けイデオロギー」は、あくまでも、貨幣的報酬をもたらす経済活動だけを自己実現のための妥当な活動として絶対化する思想である。こうした発想は、結果として、育児に代表される家庭内労働等、貨幣的報酬に直結しない活動を軽視・蔑視する歪な発想を醸成することになる。


いうまでもなく、生命礼賛思想において重視されるのは、あくまでも個人が自己の生命衝動を擁護・蘇生することをとおして内的に体験することできる主観的充足感である。生命礼賛思想そのものは、必ずしも、生命衝動をどのような価値体系をとおして解釈・実現するべきかという問題については視点をあたえてくれないのである。


しかし、他者との関係性という視点をとおして検討する場合、生命衝動の実現は、必ずしも、それがそれそのものとして善であることを保障してくれない。むしろ、それが、結果として、他者にたいする責任を全うすることを困難にするとき、それがたとえどれほど価値あるものとして主観的に経験されていようとも、その自己実現は深刻な問題を内包するものとならざるをえない。つまり、そこでは、自己の主観的な充足感を追求する自由は行使されているが、他者にたいする責任は蔑にされているのである。


「こころの時代」を特徴づける生命礼賛思想の問題とは、つまり、主観的感覚にたいする拘泥をとおして、人間の自己中心性を増幅する危険性を潜在させているということなのである。今日、国内において、生命礼賛思想を背景として声高に提唱されている「個性尊重」や「多様性尊重」が、結果として、個人の主観的真実にたいする執着を許容することをとおして、共同体の秩序感覚の溶解を促しているのは、こうした問題の危険性を端的に象徴しているといえるだろう。個人が主観的に幸福感を体験することができていれば、そうした個人の行動は必然的に他者の福利を向上するものとなるのだという発想は、あまりにも未熟な呪術的発想ということができるものである。


しかし、関係性の論理からの乖離に起因する、こうした自己中心性肥大化の傾向は、先進国で流行している「こころの時代」の信奉者だけでなく、今日、人類が集合的に罹患している病でもある。エコロジストが指摘するように、人類文明は、物理的(physical)・生物的(biological)な存在としては、あくまでも生態系(ecosystem)の部分として存在している。つまり、文明が存続することができるためには、生態系との関係性を規定する規範(「礼儀」)を尊重することができなければならないのである。そうした規範を逸脱するとき、文明は、必然的に、生態系との関係性から阻害・排除されることになる(即ち、それは、文明の崩壊(collapse)――人類の大量減少(die-off)、あるいは、絶滅(die-out)――として結実する)。実際、生態系にたいする人類文明の影響は、19世紀以降、化石燃料の大規模実用化を契機として、劇的に増化しつづけており、今日においては、惑星規模で顕在化している気候変動(climate change)に象徴されるように、生態系の均衡を根本的に動揺させるほどのものへと拡大している。


人類は、資源消費者(consumer)として、生態系に依存している。生態系は、人類に生存のために必要な自然資源を提供し、また、人類が排泄する廃棄物を浄化する。生物が存在するために必要とされるこれらの根本的な機能について、人類は完全に生態系に依存しているのである。その意味では、生態系は、正に人類の生存基盤なのである。


人間の生存が可能となるためには――つまり、人類社会の人口収容能力(carrying capacity)が維持されるためには――生態系に諸々の条件が整うことが必要となる(例:必要量の水資源が確保されること・気温が一定範囲に維持されること)。これらの必要条件が整わないとき、必然的に、人類は絶滅することになる。生態系の均衡を動揺させるとは、つまり、敢えてそうした危険を冒すことを意味するのである。


今日、人類がそうした危機的状況を迎えている背景には、多数の識者が指摘するように、人類が、自らの活動を展開するうえで、世界との関係についてひとつの致命的な誤ちを犯している事実が存在する。その誤ちとは、地球が閉鎖系(closed system)であるということの無視・拒絶である。


地球に賦与されている資源は、基本的に、増えることはない。隕石等の落下を除いて、外部から資源がもたらされることはないのである。地球の生態系は、植物等の生産者(producer)による光合成を基盤として、あくまでも地球上に存在する有限の資源を再生することをとおして維持されている。従って、こうした生態系の再生機能の容量と速度を上回るかたちで資源が消費されつづけるとき、地球上の利用可能な資源の絶対量は確実に減少することになる。また、生態系の浄化機能の容量と速度を上回るかたちで排泄される廃棄物は、浄化されることなく、生態系に蓄積されることになる。つまり、これらの有限性に特徴づけられた生存条件のなかで、継続的に生存することができるためには、生物は自己の消費・排泄活動を生態系を規定する拘束条件に対応させることができなければならないのである。 *1


今日、人類が集合的に犯している誤ちとは、生態系という人類文明をとりまく生存環境がつきつけるこうした要求を認識することなく、自己の内的な衝動にもとづいて行動を展開していることである。大量消費主義という思想の影響のもと、極端に肥大化した人間の消費欲求は、生態系の拘束条件を大幅に逸脱する破壊的な資源消費活動へと人類を駆り立てつづけているのである。


そこでは、大量消費主義思想という絶対的教義の実践を正当化とするために、現実とは乖離した無限の容量を擁する世界(生態系)が想定され、飽くことのない消費活動が称揚される。つまり、そこでは、生態系との関係性が内包する要求を認識したうえで、自己の行動を構想するのではなく、あくまでも、果てしない経済成長という共同幻想(主観的充足感)をもたらしてくれる内的論理(大量消費主義思想)にもとづいて行動することが選択されているのである。*2 いうまでもなく、そうした思想への帰依が人類にどれほどの主観的な充足感をもたらしてくれようとも、それは、人類の生態系との関係が持続可能なものであることを保障するものではない。物理的(physical)・生物的(biological)な存在として、人類が自己の持続可能性について現実的に検討するためには、主観的感覚を判断の機軸とする態度そのものを克服する必要があるのである。


一般的には、「人間性回復運動」の発足以降、世界的に展開した「こころの時代」は、大量消費主義の興隆のなかで荒廃した人類の精神を治癒するためにこころみられた思想運動であると理解されている。しかし、こうしてあらためて検討をしてみると、それは、実際には、「主観的感覚の絶対化」、あるいは、「関係性からの乖離」という病理に特徴づけられたものであるという意味において、大量消費主義と同質のものとして理解されるべきものであることが了解されるであろう。これらの思想には、他者との関係を規定する規範にもとづいて、自己の行動を律するという発想が致命的に欠落している。そこにあるのは、あくまでも、肥大化した欲望を追及することをとおして――欲望の対象が物質的対象であるか、精神的対象であるかという違いこそあるが――主観的な充足感を獲得しようとする壮絶な枯渇感なのである。


自然資源の枯渇と生態系の破壊の影響は、既に様々な形態で人類の日常生活に深刻な影響を落としはじめている。そうした状況のなかで、種としての生存の方途を模索するために、世界的にもエコロジーにたいする関心が高まりつづけていることは、あまりに遅過ぎるとはいえ、評価するべきことだろう。今日、人類が集合的に直面している課題は、こうして広範囲で醸成しつつある問題意識を建設的な変革の構想と戦略へと育んでいくことである。


今後、人類の生存条件が加速度的に悪化することが確実視されるなかで、われわれが重視するべきは、何よりも、自己の主観的な感情・希望等を投影することなく、世界の現実と客観的に対峙することであろう。もちろん、これからの時代において、それをすることは「業」と形容することができるほどに過酷な作業となるだろう。しかし、客観的な事実の把握にもとづかない対応は、「楽観主義」か「悲観主義」に彩られたものとならざるをえない。そうした態度は、いずれも誠実に世界と対峙する責任を放棄したところに成立するものであるという意味において、本質的に無責任なものである。いかなる建設的な対応も同時代の集合的な現実との対峙という作業から始められなければならないのである。


今回、御紹介するワールドウォッチ研究所のHPは、そうした作業を開始するうえで参照することのできる最も優れた情報源であるということができるだろう。*3 研究所が発行する持続可能性に関する諸々の報告書は、世界的にも権威的資料として認識されている。とりわけ毎年末に発刊される『地球白書』(State of the World)は、これからの時代において、現代人としての責任を果たすためには必読の資料ということができるものである。また、トランスパーソナル思想を研究・実践するということが、必然的に、いかにして時代にたいする責任を全うするかという命題と真摯に対峙することを意味することを鑑みると、トランスパーソナリストにとり、こうした資料のもつ価値は計り知れないだろう。


いずれにしても、こうした良質の資料に触れることをとおして、ひとりでもたくさんの人々が21世紀を生きるということがいかなることであるのかについて透徹した洞察を得ることを祈念してやまない。


*1 確かに、19世紀後半に実現された化石燃料の大規模の実用化は、束の間のあいだ、人類にそうした有限性を超越することが可能であるかのような希望を抱かせることに成功した。しかし、実際には、惑星に賦与されている化石燃料は有限であり、そうした希望は、これらの資源の枯渇局面("Peak-Oil")の到来とともに、雲散霧消することにならざるをえない。この問題の詳細については、例えば、Richard Heinberg(2003)を御参照いただきたい。


*2環境経済学(Ecological Economics)の創設者であるHerman Dalyは、著書のなかで、こうした共同幻想にもとづいて展開する今日の人類の経済活動を「自閉症的」("autistic":主観的世界への過度の埋没)なものと形容している(Daly & Farley, 2004, p. xxi)。


*3 いうまでもなく、ワールドウォッチ研究所そのものは、トランスパーソナル思想の研究・実践を目的とする組織ではない。研究所の活動目的は、あくまでも環境・政治・経済等の集合的(collective)な領域において展開している時代の趨勢について客観的な分析を提供することである。しかし、惑星的な観点から同時代の状況を理解・変革しようとする研究所の姿勢が体現する価値(成熟度)は、ある意味では、トランスパーソナル思想を標榜する多くの研究・実践機関のそれを遥かに凌駕するものであるといえるだろう

参考資料

Herman Daly & Joshua Farley (2004). Ecological Economics: Principles and Applications. Washington: Island Press.
Richard Heinberg (2003). The party's over: Oil, war, and the fate of industrial civilization. Gabriola Island, Canada: New Society.