個人に課されているもの


 この論文では、これまで、ひとつのあたらしい意識構造が確固としたものとして定着するためには、常に、他領域においても、それを維持することのできる本質的にあたらしい構造が確立されねばならないことを強調してきた。

 このことは、いやおうなしに、意識成長をたいへん困難なものとする。

 それにもかかわらず、自らのなかに息づく成長への衝動に存在を開こうとするとき、われわれは、この成長という課題に個人として果敢に挑んでいくことにならざるをえない。

 もちろん、これまでにも見てきたように、われわれは、個人としての成長に取り組むことをとおして、他者の成長にも積極的に参加することができるようにならなくてはならない。

 しかし、われわれがまず責任を持つべきは、われわれ自身についてである。

 これは、成長が他者との関係性とのなかで実現されるものであることを無視することではない。むしろ、これは、そうした関係性に参加する者として、それをすこしでも向上させるために、個人として最低限の責任を果たそうとすることであるといえる。

 では、ヴィジョン・ロジックを自らのなかに養うために、われわれは個人としてどのような努力を重ねていけばよいのだろうか。

 最後に、フランスの思想家エドガール・モラン(Edgar Morin)の著作“Seven Complex Lessons in Education for the Future” を参照しながら、この問題について考えてみよう。


1. 誤謬と幻想を認識すること


 これまでにも述べてきたように、論理性段階の意識構造は、それがひとつの正合性のある世界観を創造・維持することに執着するために、しばしば、それを動揺させる情報を拒絶してしまいがちになるという構造的問題を抱えている。

 こうした“異物”への恐怖は、本来であれば、この世界に開かれたものであるべき意識をいつのまにか現実から乖離した神話的世界のなかに閉塞させてしまう。

 このような論理性構造の問題に対処するためには、われわれは、それが本質的に誤謬と幻想にとらわれてしまう危険性を内包していることを認識することができなくてはならない。

 こうした認識能力を育むためには、真の意味における知性と感情の統合が必要とされるとモランは言う。

 ウィルバーも述べるように、ヴィジョン・ロジック段階の意識構造は、感情生活の展開する中心的領域となる“からだ”をそれまでにはない包括的なかたちで意識構造に統合するかたちで実現する。 そこでは、思考活動が、からだの内蔵する智慧を積極的に開放し、統合することをとおして深められるのである。

 真に成熟した知性とは、いかなる批判もはねかえすことのできる完璧な整合性を備えた世界観を創造することのできる能力を意味するのではない。むしろ、そうした観念を操作することをとおして構築された世界観をすりぬけてしまう現実というものが常に存在していること、つまり、人間が常に神秘にさらされながら生きていかざるをえない存在であることを認識する能力であるといえるだろう。

 そうした能力があればこそ、人間は、気づかないうちにいつのまにか固定した世界観のなかに安住しようとする自らの性向を絶えず観察し、それを克服することができるのである。

 ヴィジョン・ロジックを開発するにあたり、われわれがまずなすべきことは、こうした自己観察作業を自らに課すことである。

そうした作業をとおして、自らの意識のなかに透明性を育むことが、ヴィジョン・ロジック段階に進むための必要条件となるのである。


2. 真に意味のある知識への感性


 ある意味で、成熟した論理性を発達させるとは、この世界が絶え間なくつきつけてくる膨大な情報を咀嚼するためのフレイムワークを主体的に創造することである。 

 しかし、これまでにも見てきたように、そうしたフレイムワークにもとづいて生きることがわれわれの存在にもたらしてくれる統合の感覚は、おうおうにして、それを動揺させる情報を拒絶するようにわれわれをうながす防衛機能のよりどころともなる。そして、そのために、われわれの「世界」は、膨大な領域を排除した、きわめて偏狭なものとなるのである。

 われわれは、自らの世界観が世界の一領域をとらえることができるだけのものであるにもかかわらず、それがそのすべてを説明できるものであるかのように信じこんでしまいがちである。

 こうした論理性段階の意識構造の問題を克服するためには、われわれは、自らの構築した世界観がいかなる限界を持つものであるかということについて積極的に思考することができなくてはならない。

 つまり、それは自らの世界観がこの世界を照明するひとつの観点としていかなる文脈のなかに存在しているのかということについて思考することができるということである。そして、それは、必然的に、自らの世界観が他の並存する世界観とどのような関係にあるのかを思考することにもつながる。

 モランの言うように、ひとつの領域において専門性を確立し、その基盤のうえに真に効果的に行動していくためには、逆に、自らの専門性がとらえられない膨大な領域が存在することを認識する能力が必要とされる。それは、その限界の範囲のなかで、自らの専門性が全体のためにどのように貢献することができるのか、また、そうした貢献が全体に、そして、そこに参加する構成員にどのような影響をあたえるのかを想像する能力ということもできるだろう。

 ひとつひとつの専門領域(世界観)を超えるものがあるということ、そして、実は、それとの緊密な関係のなかでひとつひとつの専門領域が存在していること、このことの認識なしには、個人は真の意味おいての責任感と団結感を体験することはできない。

 今日において、個人の責任とは、あくまでも専門を共有する共同体に対するものへと矮小化されたものであり、そこでは、時代を共有するすべての人々への責任などというものは、ほとんど無意味なものとなる。

 論理性段階の病として今日ますます深刻化する過度の専門化は、全体という文脈を視野に入れたときにはじめて正確にとらえることのできるようになる問題からわれわれの意識を遠ざける。

 時代の対峙する問題がますますグローバル化するなかで、このような視野の偏狭化は、われわれをますます無力化することだろう。

 今日においてわれわれに求められているのは、ひとつの専門性に準拠して行動しようとするときに、それがこの惑星という文脈にどのような影響をもたらすのかを想像することのできる能力である。

 自らの専門性(世界観)のなかに閉鎖するのではなく、むしろ、それをこえる文脈を絶えず意識しようとする態度のなかにこそヴィジョン・ロジックの発現の可能性があるのである。


3. 人類の状況について学ぶこと


 こうした文脈への感性を育むためには、われわれは、人間の置かれた状況を理解する必要がある。

 すでに述べたように、真に主体的に生きようとするとき、われわれは、この瞬間に自らがどのような状況(文脈)に置かれているのかを絶えず認識しようとこころみつづけなければならない。世界の状況は常に変化しつづけるものであるために、われわれは、過去に獲得した理解に頼りつづけることはできないのである。

 絶え間ない時間の流れのなかで起こる世界の変化を見すえながら、常に自己の存在を定義しなおしていく能力――まさにこれこそがヴィジョン・ロジック段階のありかたの特徴なのである。

 われわれが個性を持った個人であるということは、決してこの世界から乖離したものとして存在するということではなく、むしろ、それを受けとめながら存在しているということである。

 そこでは、個人としての特殊性を確立する個性化のプロセスは、自己のこの世界との緊密な関係をより深く認識する内省能力の深化をとおして追求されるものとしてとらえられる。

 個性とは、ある意味で、この世界に存在することをとおして必然的にわれわれにつきつけられるこの世界のすべてを抱擁し、そして、それに対して責任を発揮していく、その主体的なたずさわりのなかに生起するものであるといえるだろう。

 20世紀をとおして、人類は高度の大量破壊兵器を開発し、はじめて自らの手で生命そのものをこの惑星から抹殺する能力を獲得した。

 ここにおいて産みだされた死は、それまでの歴史を通じて人類が親しんできた、潜在的に意味のよりどころとして対峙することのできるそれとは本質的に異なるものである。それまで、人間にとって、死は、悲劇をもたらすものであるだけでなく、それとひるまずに対峙することをとおして、われわれによりよく生きるように鼓舞してくれる敬虔なものでもあった。しかし、瞬間のうちに都市を蒸発させる大量殺戮の可能性にさらされる状況においては、そのような意味はことごとく剥奪されてしまう。

 今、われわれの目のまえには、意味そのものの可能性を破壊してしまう死が横たわっているのである。

 さらに今世紀において、人類の大量消費型の経済活動をとおして、この惑星の生態系が広範に破壊されるなかで、われわれの種としての存在の危うさはますます痛切に意識されつつある。

 モランの指摘するように、現代という時代は、人類の正気と狂気が、種の存在を賭けてせめぎあう時代である。

 今日において、われわれが真に個性的に生きようとするとき、われわれは必然的に自らの存在の文脈であるこの時代の葛藤と対峙することを強いられる。

 個性ということばがもてはやされるようになって久しいが、ヴィジョン・ロジック段階において、個性的に生きるとは、必ずしも世界との関係を断絶して、思いのままに行動をすることではなく、むしろ、世界がわれわれにつきつけてくる生存条件に創造的に対応することをとおして実現されるものなのである。

 ヴィジョン・ロジック段階への成長に取り組むにあたり、われわれは、自らの意識がほんとうに人間の状況に開かれているかを内省することができなければならない。

 そうした内省作業に取り組みながら自らのなすべきことを模索することができることこそがヴィジョン・ロジック的な意識の実現に必要とされるのである。


4. 地球人としてのアイデンティティー


 人間のアイデンティティーは重層的なものである。

 家族や職場などの比較的にちいさな共同体の一員としてのそれだけでなく、われわれはまた民族や国家の一員としてのアイデンティティーも合わせ持つ存在である。

 しかし、今日、われわれは、それらをこえる地球人としてのアイデンティティーを構築することを求められている。

ある特定の限定的な共同体に基盤をおくアイデンティティーは(特にそれに排他的にとらえられているときには)、おうおうにして、われわれを他の共同体に所属する人間との衝突に巻きこむことになる。

 ヴィジョン・ロジック段階においては、われわれは、必要に応じて、そうした限定的なアイデンティティーを離れて、地球人としての視野から状況をとらえなおそうとする。

 現実には、われわれはひとりひとり異なる共同体に所属しているわけで、それらが対立関係にあるときに、個人としてのわれわれも、いやおうなしに、それに巻きこまれることになる。

 それは、ある意味では、この世界に生きることが必然的にともなう現実といえるだろう。

 しかし、もしそのような対立関係における衝突を闘争的な論理にしたがって解決しようとするのであれば、それは、どこまでいっても、怨恨を生みだしつづける弱肉強食的関係を温存することにしかならない。

 また、そこには、その衝突の影響をこうむることになるであろう、その衝突に直截に関わらない人々を慮るこころが欠落している。

 今日のように、ひとつの衝突(たとえば、国際紛争)のゆくえが人類社会そのものに影響をもたらす状況においては、そうした全体の福利への無関心は深刻な悪影響をもたらしかねない。

 そのような危険を回避するためには、どうしても地球人としてのアイデンティティーが必要とされるのである。

 それは、われわれにこの惑星という共同体の一員としてこの世界を見つめることを可能にする。

 そこでは、日常生活における活動が、自らの個人的・組織的な利益のためだけではなく、同時代を生きるすべての存在、そして、これからの時代を担うことになる世代の福利を見すえたうえで良心的に決定されるのである。

 あたらしい段階の意識構造が確立されるとき、われわれは全人格的な変容を遂げる。

 それは、決して思考構造だけを変えるのではない。

 それは、われわれの価値観――つまり、何を最もたいせつなものとして認識するかを決定するフレイムワークそのものを変えてしまうのである。

 そして、ヴィジョン・ロジック段階においては、そのフレイムワークは地球そのものを視野に入れたものになるのである。

 ヴィジョン・ロジック段階への成長をめざすにあたり、今、この惑星の福利に責任を持つものとして、われわれはいかに生きることができるのかを真摯に問うことができなくてはならない。


5. 不確実性との対峙


 ウィルバーの指摘するように、ヴィジョン・ロジック段階の意識のひとつの特徴は、人間というものが構造的にたいへん異なる“存在の段階”を経験しながら成長する存在であることを認識することができることである。

 より高度の意識構造が発現するとき、確かに、そこにはそれまでの意識構造のたいせつな要素をひきつぐ作業がおこなわれる。

 しかし、それは、あくまでも、それまでの意識構造を破壊する過程のなかでおこなわれるものである。

 そうしたなかで、われわれは、必ず、それまでに存在のよりどころとしていたものを失う喪失の体験をすることになる。

 成長とは、そうした喪失のただなかにおいて、あたらしい自己を構築する作業のうえに実現されるものにほかならない。

 その意味では、成長とは、それまでの認識構造では把握することのできない構造的に異なる世界観をつぎつぎと体験していく過程そのものということができるだろう。

 そして、ヴィジョン・ロジック段階において、われわれは、そうした過程を歩んできた者として――つまり、ひとつひとつの成長の段階の価値を経験的に知る者として――はじめて、そのことを俯瞰的に認識することができるようになるのである。

 こうした認識は、あらゆる段階の世界観が、われわれがより高度の段階に向けてふみだすときに、もろくも崩壊するものであることをこころえている。

 自らの世界観の絶対性をどうしても最終的には疑うことのできないそれまでの段階にくらべて、ヴィジョン・ロジック段階の意識構造はより本質的に認識という行為の不確実性に開かれているのである。

 不確実性ということばが日常語として使われるようになって、すでに久しい。

 それは、今日のような激動の時代においては、ごく自然なことであったのだろう。

 しかし、ここで注目するべきは、この不確実性ということばが、果たしてどの意識段階からとらえられているのかということである。

 確かに、不確実性ということばの意味そのものはヴィジョン・ロジック段階以前の段階においても理解することはできるだろう。

 しかし、そこでは、不確実性ということばは、あくまでもすでに存在する世界観を予期せぬ動揺から防御するためのひとつの知的な道具として利用されるにすぎない。

 つまり、そこでは、われわれは、不確実性ということばを用いて、実は、それを排除しようとするのである。

 真の意味において、不確実性ということばをとらえるためには、不確実性というものを世界観の本質的な構成要素として内包するヴィジョン・ロジック段階の意識構造がどうしても必要とされる。

 モランは言う。「……不確実性を溶解しようとする願いは、われわれのこころの病であることにわれわれは気づくべきである……」(p. 75)

 もちろん、これは、この世界の成り立ちを認識して、主体性を発揮していく努力を放棄することを意味するものではない。

 われわれは、この世界がつきつける不確実性を認識したうえで、そのただなかに果敢に参加することをとおして、生きるべきなのである。

 それは、世界を再び確実性に満たされたものに回復するためになされるのではない。むしろ、それは、われわれの参加がこの世界の生起に――たとえごく些細なものであれ――影響をもちえることを認識した人間の尊厳を守るためになされるものである。

 不確実性という現実をまえにして、自ら主体的にこの世界に参加することをとおして、生きつづけてしていく能力――ヴィジョン・ロジック段階への成長をこころみるにあたり、われわれは日常のなかでこうした努力を重ねていくべきであろう。


6. 相互理解


 今日において進行するグローバライゼイションの流れは、確実に、われわれに異なる世界観に触れる機会をもたらしてくれてる。

 しかし、そのことは、必ずしも、われわれをヴィジョン・ロジック段階へとひきあげてくれるわけではない。

 むしろ、そうした経験があまりにも深い不快感をともなうとき、それは、むしろ、われわれを異なる世界観により閉鎖的にさせることもある。

 こちらが共感的に相手を理解しようとしてこころを開いても、それが同じような態度により応えられない可能性は常にある。

 また、そうした態度というのは、ときには、いいように食物にされる危険性すらある。

 他者を理解するとは、必ずしも相手のことを共感的な相互理解の可能な存在として見なすことではない。

 実際、こうした寛容に根ざした関係を構築するに値しない人間というのは存在する。そうした人間をまえにして必要とされるのは、むしろ、その人の存在を支える世界観がいかなるものであるのかを理解することである。そして、そのうえで、共感的な相互理解が可能であるのかを慎重に判断することなのである。

 たとえば、原理主義宗教などの本質的に閉鎖的な思想は、基本的にその思想を信奉しない人々のことを、共感的理解をするための努力を払うに値する存在であるとは見なさない。必要とあれば、彼らは、あらゆる手段を用いて、他者を思想的に教化しようとするだろう。そして、そうしたこころみが成功しない場合には、彼らは、“救済”の名のもとに、われわれの命を奪うことすらいとわない。

 そうした人との関係においては、ヴィジョン・ロジック段階に到達した者がお互いにするような共感的な対話をすることなどできるはずはないのである。

 しかし、そのような場合においても、われわれは他者を非人間化することは避けなければならない。

 われわれを非人間化することもいとわない者のなかにも人間性を見いだそうとすること――これは、あまりにも報われない営みである。

 しかし、この報われることのない営みにコミットすることこそが、ヴィジョン・ロジック段階のありかたのひとつの特徴なのである。

 それは、どのような場合においても、他者を人間として理解しようとすることそのものに価値を見いだす。そうすることによって、ヴィジョン・ロジック段階の人間は、人間性というものをあらゆる人間をつらぬく現実として守りぬこうとするのである。

 交通・通信技術の発達にともない、異なる世界観を信奉する他者と遭遇する機会はこれからもますます増えるだろう。

 しかし、そうした機会を、あらゆる人のなかに人間性を認識する意識構造を確立するためのものとして利用できないことは、あまりにも残念である。

 また、それが場合によっては逆に他者に対する閉鎖性を増幅させかねないことを考えると、そうした意識を涵養することなしにいたずらに交通・通信の技術ばかりが発展してしまうことは危険なことでもある。

 これまでの歴史において多くの思想運動が証明してきたように、思想(世界観)というものは、おうおうにして、その信奉者を盲目にしてしまう。

 今日のグローバリゼイションの動きが、潜在的にそうした世界観の束縛からわれわれを解放するための契機をあたえてくれるものであることはまちがいないだろう。

しかし、そうした状況を真に創造的に活用するためには、われわれは、それにふさわしいより成熟した他者理解能力(それは、あらゆる文化的差異を超越するものとしての人間性を認識する能力である)を発達させることを意図しなければならない。

 ヴィジョン・ロジック段階への成長をめざすにあたり、これは、われわれの重大な課題となることだろう。


7. 人類種のための倫理


 これまでにも述べてきたように、われわれの個人としての存在は常に共同体との関係のなかで生起している。

 そして、今日においては、われわれは、地域的な共同体のみならず、それを超える人類種という共同体に参加するものとして自己をとらえなおすことを求められている。

 文明の崩壊という惑星的危機に直面するこの時代において、自己の意識を地域的な共同体のなかに限定してしまうことは、現代人として生きるうえで必要とされる包括的視野とそれに根ざす責任を自ら放棄することにほかならない。

 ヴィジョン・ロジック段階の意識のひとつの特徴は、個というものが常に絶え間なく変化する環境との関係のなかで瞬間、瞬間に生起するものであることを認識していることであろう。

 われわれの存在の文脈が地域的な共同体から惑星的な共同体へと拡大するなかで、われわれの個としての存在も変わらざるをえないのである。

 そこでは、不可避的に個人というものが地球の福利に対して責任を負うものとして定義しなおされる。

 そして、地域的な共同体だけでなく、惑星的な共同体に対しても責任を担う存在として自らをとらえなおすことは必然的にわれわれの意識を変容させることになる。

 ある対象を認識することをとおして、われわれは、それをとらえるだけではなく、また、それにとらえられるのである。

 地球人としてあることの本質とは、地球というものを真にリアルなものとして意識にとらえ、それが文字どおり自己の存在の構成要素であるかのように、その健康に関心を抱くことである。つまり、地球人としてあるとは、この危機的状況に責任を持つものとして自らをとらえ、そして、それを表現していくことにこころをくだくことを意味するのである。

 これからの時代のなかで、われわれは、このような責務をすべての現代人に課されるものとして確立し、そして、その基盤のうえに人類の多様性を尊重していかねばならないのである。

 ひとつの特異性が真に尊重に値するものであるためには、それがただ単に特異なものであるからではなく、地球人としての意識を広範に確立するというこの危機の時代の課題を達成するために、どのような貢献をすることができるのかという視点からも検討される必要があるのである。

 ヴィジョン・ロジック段階においては、確かに、人類を統合するものとしての地球人としての意識の実現が志向される。しかし、そうした統一を志向する動きは、同時に多様性を尊重する動きによりともなわれることになる。

 そうした複雑な集合的な意識進化の過程がはじまろうとするなかで、特異性というものについて“質”の観点から検討することができることはたいへん重要なこととなるであろう。

 いずれにしても、これからヴィジョン・ロジック段階への成長をこころみるにあたり、われわれは、自らが惑星という文脈を常に意識しなければならない時代に生きていることに気づかねばならない。

 もちろん、それが単なる物理的なひろがりとしての地球を意識することでないことはいうまでもない。

 それは、われわれ人間がこの惑星の生命維持機能そのものの存続に決定的な影響を持つ者としてひとつの運命を共有している事実を認識するということである。

 人類が種として生存するために必要とされる智慧の深化に貢献しようとする已むに已まれぬ良心のはたらき――ヴィジョン・ロジック段階の人間とはこうしたはたらきに衝き動かされる存在であるということができるだろう。



まとめ

 こうして見てみると、真に成熟した個としてあるということが実際にはどれほど難しいことであるか解るだろう。

 ウィルバーのインテグラル心理学においていわれる意識の成長は“頭”だけのものでない。

 実際には、それは、思考と感情をむすびつけ、そして、その両方のはたらきに価値という方向性をあたえる人格機能の原理そのものの変容をさすのである。

 たしかに、インテグラル心理学においては、意識の成長は、しばしば、認知能力(cognitive capacity)の発達の過程として説明される。そして、このことは、ときとして、成長というものがあたかも(たとえば数学の問題を解くときにつかわれる)論理的な思考能力の向上により定義されるものであるかのような印象をあたえ、人々を困惑させる。

 しかし、このような懸念は、認知ということばをあまりにも狭くとらえたためにもたらされるものであり、インテグラル心理学において認知能力ということばによって意味されるものとは、まるでかけ離れたものである。 

 しかし、そうした懸念が、真の人間の成長というものは全人格的なものとしてとらえられるべきだとするこの時代のすぐれた問題意識を反映するものであることは認められるべきであろう。

 ハワード・ガードナーのマルティプル・インテリジェンス理論(The Theory of Multiple Intelligences)の熱心な歓迎にも示されるように、人間の成長というものを多面的なものとしてとらえなおそうというこころみは、今日において、人類の重要な課題として認識されている。

 インテグラル心理学にたずさわる者として、われわれは、この思想運動がそうした時代の課題に積極的に取り組むこころみであることを明らかにするべきであろう。

 ただ、人間の成長が全人格的なものであることを認めることは、また、成長というものの困難を認めることでもある。なぜなら、そこにおいては、人格の一側面を向上させることはもはやほんとうの意味での成長とは見なされないからである。それが真の意味において成長として見なされるためには、それが包括的な人格の変容をもたらすものであるときだけなのである。

 しかし、そのように成長というものを厳格な視野からとらえなおすことは、やはり、このトランスパーソナルという運動にとって価値のあることであるといえるだろう。

 そうした視野が確固としたものとして構築されるなかで、一時的な高揚状態を成長そのものとして誤解する今もこの運動を蝕む問題は解決に向かうことになるかもしれない。

 そして、成長というものにまつわる幻想がとりのぞかれるなかで、われわれは、はじめてほんとうの意味で成長という課題に取り組むことができるようになるのだろう。


 いずれにしても、これまで、このコミュニティーの参加者には比較的に容易に実現可能なものとしてとらえられてきたヴィジョン・ロジック段階の意識構造も、その特質についてあらためて考察してみると、それが実に高度なものであることが認識されるのではないだろうか。

 これまでにもくりかえして述べてきたように、われわれ人類にとり、ヴィジョン・ロジック構造というものは、まだまだ未知なるものなのである。

 ヴィジョン・ロジックがひとつの意識構造として確立されるのは、今はじまろうとしている論理性の時代が成熟してからのことになるだろう(今日、人類の直面する危機的状況を鑑みれば、われわれがそのような時代を迎えることができる可能性は必ずしも高いものではないが)。

 それまでは、成熟した個であろうとする個人のこころみは、常に、そのための文化的・社会的な支援を得ることのできないたいへん過酷な営みとならざるをえないだろう。

 今日、トランスパーソナル・コミュニティーの参加者たちが想いをあらたに取り組みはじめた成熟した個の追及は、実際には、時代の支配的な価値観を大きく“逸脱”する、そして、それゆえに同時代の不理解に恒常的にさらされる営みとならざるをえないだろう。

 また、この営みは、それがこれまでにこのコスモスに種の共同財産として存在することのなかった意識構造を生みだそうとする本質的に実験的なこころみであるゆえに、自らのなかに息づく創造性だけを頼りにして“いきあたりばったり”に実現の方法を模索していく、常に不安にさらされる過酷な営みとなるだろう。

 しかし、同時に、成熟した個としてあるということが、実は、先達によりすでに完成された意識構造を会得するのではなく、まだその具体的なすがたについはほとんど決定されていない本質的に未完成の意識構造の生成に参加することであることを認識することは、われわれに不思議な高揚感と責任感をもたらしてくれる。

 それは、このコスモスに真にあたらしいものが生起する瞬間にいあわせるものだけが体験することのできる特権といえるかもしれない。

 今日、われわれは自らのなかに息づく成長への衝動に自らの存在を開くことをとおして、そうした瞬間に生まれあわせたことがつきつける責任に応えていかねばならないのである。

 もしわれわれがこの危機の時代を生き残ることができるとすれば、それは、種として成熟した論理性段階への成長を遂げることをとおしてだろう。

 しかし、そうした成長が論理性という意識構造が構造的に内蔵する問題にとらわれずに進行することができるためには、さらに包括的な視野を備えた者の智慧に支えられる必要があるだろう。

 その意味では、今、ひとりでも多くの人がヴィジョン・ロジック段階への成長をはじめることは、これからはじまろうとする論理性段階の意識への集合的進化にとり、たいへん価値のあるものとなるということができる。

 モランのいうように、現代は、人類の正気と狂気が、種の存在を賭けてせめぎあう時代である。

 成熟した個であることに取り組むことをとおして、論理性段階の実現に貢献をすることは、そのまま、人類の正気の増幅に貢献することにつながるだろう。

 それは、この時代において真のトランスパーソナル領域の探求者であろうとすることが不可避的にもたらす巡りあわせなのかもしれない。



Endnotes


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2003年7月にコロラド州ボウルダーにおいて開催されたJFK University主催のセミナーにおける発言

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Monbiot, George (2003). Manifesto for a new world order. NY: The New Press.

Morin, Edgar (2001). Seven Complex Lessons in Education for the Future. Paris: UNESCO Publishing.

ヴィジョン・ロジック的な意識は、これまで、トランスパーソナル心理学をはじめとする、成人期における心理成長の可能性について探求する領域の専門家により研究されてきた。しかし、そうした世界の複雑性を尊重する認識のフレイムワークを確立しようとするこころみは、実際には、トランスパーソナルという領域においてのみならず、他のざまざまな学問領域においても重要な課題として追求されてきた問題でもあった。二十世紀後半における人類の思想活動の重要な潮流を代表する思想家のひとりであるエドガール・モランが、長年の研究をふまえて、現代人がこの危機の時代を真に成熟した人間として生きていくために必要とされるだろう智慧をまとめたこの著作は、われわれがこれからヴィジョン・ロジックという意識構造を構築していこうとするにあたり、貴重な示唆をあたえてくれるものである。

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Wyschogrod, Edith (1985). Spirit in ashes: Hegel, Heidegger, and man-made mass death. New Haven, CT: Yale University Press.

もちろん、必要に応じて、われわれは自己を理不尽な攻撃から守ることができなければならない。モランは言う。「寛容はアイデアに対しては有効である。しかし、冒涜・攻撃・殺人的行為に対してはそうではない」(p. 84)。寛容を必要としない状況というのは、確かに存在するのである。

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