成熟した個であるとはどういうことか  ―ヴィジョン・ロジックについての考察―

鈴木 規夫

 意識発達の過程がトランスパーソナル段階に至るまえに、人はまず成熟した個としての意識構造を確立しなければならない――これは、トランスパーソナルという学問が発足した当初から、その代表的な理論家たちにより繰り返して主張されてきたことである。

 もちろん、近年においては、人間の意識の成長をあまりに単純な直線的な過程としてとらえることの問題も指摘されるようになったが、 しかし、この警句は、意識の変容という過程に内在する危険にわれわれの意識を喚起する価値ある洞察として、今もなお価値を失っていない。

 今日のように、内的世界の探索がますます刹那的な高揚状態に耽溺するための、いわば、快楽体験を獲得するための方途としてとらえらがちな時代において、こうした態度が維持されつづけていることは、トランスパーソナル・コミュニティーに参加する人々の思慮深さを証明するものとして、評価されるべきことであろう。

 確かに、多くの人が経験的に知るように、トランスパーソナル領域の体験は、意識成長のどの段階においても起こりえるものである。

 しかし、今、個人として成熟することのたいせつさが強調されるのは、決してそうした経験的事実が無視されているからではなく、むしろ、そのことがより意識的に認識されはじめているゆえだろう。

 もしトランスパーソナル領域の体験があらゆる成長の段階において日常的に起こりえるものであるならば、そうした体験を統合する役割を担う人格の統合機能としての自己(self)の重要性はますます大きなものとして認識されざるをえない。

 すべての実践者が言うように、トランスパーソナル領域の体験は、しばしば、われわれの存在を根底から揺さぶる、とても強烈なものとなる。そうした経験を統合していくためには、ほんとうの意味で成熟した自己というものがどうしても必要とされるのである。

 また、トランスパーソナル領域の体験は、体験者に倫理的な責任をもたらすものでもある。トランスパーソナル体験は、そこにおいて意識に開示されたもの(真・善・美)をこの世界に実現させていくための努力を営々と積みかさねていくことをわれわれに要求する。 そうした責任を担うためにまず必要とされるのは、個としての人格的な強さであることはいうまでもないだろう。

 その意味では、トランスパーソナル領域の体験とは、必ずしもわれわれを個としてあることの重圧から開放してくれるものではないのである。それは、また、われわれにより重い重圧をもたらすものであるということができるだろう。

 トランスパーソナルという学問の成熟とは、必ずしも研究者たちの研究活動の進展のみによって量られるのではない。むしろ、それは、そうした作業をとおして生みだされた洞察がコミュニティーの構成者の日常の実践を援助するものとして確立されることをとおして量られるものでもある。

 トランスパーソナル領域の探求が真にすこやかにおこなわれるためには成熟した人格構造が必要とされることを実践上の智慧として強調しようとするこのコミュニティーに横溢する意思は、その意味では、まぎれもなく、この学問の成熟を証明するものであるといえるだろう。

 ただ、ここであらためて問題になるのは、成熟した個であるということばで、われわれが果たして何を意味しているのかということである。

 成熟した自己構造を構築することのたいせつさがあらためて認識されはじめているときであればこそ、今、われわれはその意味するところを慎重に確認するべきであろう。そうした作業を怠れば、今日、ようやくこのコミュニティーにめばえはじめたこの貴重な問題意識も活かされないままになりかねない。

 この論文では、今日のこうしたトランスパーソナル・コミュニティーの状況を視野に入れながら、あらためて、成熟した個人であるとはいかなることであるのかということについて、ケン・ウィルバーのヴィジョン・ロジックということばをヒントにしながら、検討してみたい。


 ところで、ひろく知られているように、ウィルバーは、人間の意識の成長を大まかにプリパーソナル・パーソナル・トランスパーソナルという3つの段階を経て深化する過程であるととらえている。

 近年においては、人間の意識の成長というものが実際には複数の領域を持つ複雑な過程であるという認識のもと、こうしたとらえかたには大きな修正がくわえられている。

 ただ、ここで注意しておくべきことは、このあたらしいモデルが、存在する複数の発達領域の価値を単純に水平化しているわけではないということである。それは、人間には並存する複数の発達領域があることを認識すると同時に、それらをひとつの人格の構成要素として統合する主体としての自己というものがあることにも留意しているのである。

 たしかに、それは、数ある発達領域うちのひとつなのかもしれない。しかし、その人格の統合機能としての性格上、個人の成長段階を把握するうえで、それは最も重要なものということができるだろう。

 成熟した個としてあるとは果たしてどういうことを意味するのかという問題について考察していくにあたり、ここでは、この領域の成長のダイナミズムに着目して、議論をすすめていくことになる。



論理性段階の実現


 論文『危機の時代におけるトランスパーソナル』 のなかでも論じたように、今日においてまず必要とされているのは、ひとりでも多くの人が神話的論理性(Mythic-Rationality)段階から論理性(Rationality)段階への意識成長を遂げることである。大量消費型資本主義にもとづいた人類の経済活動がこの惑星の生命維持機能を急速に破壊しつつある現代において、われわれの集合意識を呪縛する時代精神を対象化して、その妥当性について検討・修正できないことは、必然的にわれわれの種としての存続にとり致命的になるであろう。

 こうした検証能力は、支配的な価値観の正当性を肯定することをとおして自らの存在に均衡をもたらそうとする神話的論理性段階においては、十全に発揮することはたいへん難しい。そのような能力をストレスフルな状況において継続的に発揮することができるためには、必要とあれば支配的な価値観に「造反」することもいとわない、論理性段階の意識構造がどうしても必要となるのである。

 成人の75%は論理性段階に完全には到達しないというひとつの研究結果 が示すように、この自律的な意識構造を確かなものとして構築することは決してやさしいことではない。

 それまでに自らの人格に均衡をあたえてくれた存在の基盤を対象化し、それについて、もしかしたらそれがもはや自己の存在のよりどころとするに値しないものであるかもしれないという可能性を意識したうえで、検討することは、われわれにとてつもない不安をもたらすものである。

 しかし、さいわいなことに、現代社会においてひとりの成熟した成人として機能するためには、われわれはこうした自律的な意識構造にもとづいて継続的に活動することができることを必要とされるようになりはじめている。

 ウィルバーのいうように、個人の意識の成長とは、常にそのひとの生きるコミュニティーとの関係性のなかで生起するものである。

 現代社会がようやくほんとうの意味において論理性構造を必要としだしていることは、そこに住むひとびとに大きな成長への圧力(incentive)をもたらすことになるだろう。

 論理性段階への人類の進化は実は今ようやくはじまろうとしているのである。


 しかし、ウィルバーによれば、この論理性段階は、成熟した個人であるための最初の段階にすぎない。われわれがトランスパーソナル領域の探求を真に健康的・創造的におこなっていくためには、ウィルバーがヴィジョン・ロジックと形容する意識構造が必要とされるのだという。

 それはなぜなのか。

 今、成熟した個人であることの意味を検証しようとするにあたり、このヴィジョン・ロジックという意識構造の性質についてあらためて確認しておくことは非常にたいせつなことであろう。

 ただ、このヴィジョン・ロジックという意識構造については、これまでにもウィルバーの著作のなかで繰り返して説明されているために、必ずしもすべての人がその意味することについてあらためて問いなおす必要を感じているわけではない。むしろ、ウィルバーの著作を読んできた人の多くは、自分はそのような「初歩的」な段階はすでに習得していると思っているのではないだろうか。

 しかし、ここで注意するべきことは、ひとつのあたらしい意識構造が個人のなかに確立されるためには、それを支えることのできる支持機構(support system)がコミュニティーのなかに十分に構築されねばならないということである。

 個人のなかにひとつのあたらしい意識構造が実現されるとは、最終的には、その視点から思考することができることではなく、その視点から生きることができるということでもある。

 しかし、実際にその視点から生きることができるためには、個人的な努力以上のものが必要とされる。そのようなあたらしい視点から自己と世界を経験することの価値を認識するあたらしい価値観にもとづいた文化・社会構造がその人の生きるコミュニティーに広範に構築される必要があるのである。

 そうした文化・社会構造の無いところでは、その意識構造はあくまでも個人の私的な領域において存在することを許されるにすぎない。

 すでに述べたように、公的なものとしての論理性の開発は、今、ようやくはじまろうとしているにすぎないのである。そうした現代の状況において、もしわれわれが自らはヴィジョン・ロジック段階にすでに到達していると思いこむならば、それは、個人の成長を常に世界との関係性のなかで生起するものととらえるインテグラル思想の基本原則を曲解した、きわめてひとりよがりな理解ということができるだろう。

 もちろん、これは、現代においてヴィジョン・ロジック段階への成長に取り組むことが無意味であるということではない。

 これから、われわれが集合的に論理性段階を確固としたものとして構築していこうとするうえで、より高い視野からその構造的限界を認識することのできる存在がそこにいてくれることはたいへん価値のあることとなるであろう。そして、そうした視野というのは、ヴィジョン・ロジック段階への成長をはじめた者にしか持ちえないものである。

 これからほんとうの意味において論理性というものが実現されようとしているときだからこそ、それが確立されるときに発生するであろうその構造そのものから発祥する問題を認識することのできる目をわれわれは養っておくべきなのである。

 その意味では、ヴィジョン・ロジックという意識構造を構築することは、われわれにとり必ずしも遠い未来に先のばしできる課題ではないのである。

 ただ、われわれの注意するべきことは、そのような個人的な精進をとおして開発されるヴィジョン・ロジック構造は、本質的に、集合的進化の支えを持たない脆弱なものにすぎないということである。

 ヴィジョン・ロジックという意識構造がほんとうに確立されるのは、それが人類の共同財産として広範に体現され、人間社会のありかたをあらゆる領域において定義するときでしかないのである。

 そのような瞬間が到来するまでは、ヴィジョン・ロジックというものは多くの意味においてミステリアスなものでありつづけるほかないのである。

このように考えると、成熟した個人としてあるということばの意味することを理解することが、今日においては、どれほど難しいことであるかわかるだろう。

 ヴィジョン・ロジックという意識構造が、これまでに存在しなかった真にあたらしいものであるためには、今、この時点においてわれわれの思い描くことのできるあらゆるものを凌駕するものでなければならない。真に革新的なものは、常にわれわれを驚かせるかたちであらわれるものである。

 その意味では、成熟した個人としてあることのたいせつな条件となるであろうヴィジョン・ロジック段階の意識がどのようなものであるのかをここで示そうとすることそのものがひどく非合理なことだということができるだろう。

 あらたな意識が人類の普遍的な内的構造として実現されるとき、そこに実際にどのような社会が出現するのかは、まさにそれが実現する瞬間までわからないものである。

 しかし、そのような不可知性にもかかわらず、ここであえてそれについての論述をこころみようとするのは、そのいくつかの要素については、おおよその描写が可能であると思われるからである。

 あらゆる領域においてそうであるように、意識の領域においても、新時代の常識となる革新的なありかたはまず少数の才能ある人々により予言的に体現される。

 そうした人々のありかたについて検討することをとおして、われわれは、人類意識がどのようなありかたへと進化を遂げようとしているのか、そのおおよその方向性を把握することはできるだろう。

 もしそうした方向性が人間存在のなかに普遍的に息づく成長への衝動を健全に反映するものであるならば、それは、われわれひとりひとりが自己のなかにも発見することができるはずのものである。

 ごくごく少数の類稀な才能をあたえられた人々のみに可能なものとしてではなく、人間として存在するそのことをとおしてわれわれひとりひとりに潜在能力としてあたえられているものとして認識されるとき、そうした革新的な意識構造は、われわれが、自らの人生をとおして、そして、自らの財産として、開発することのできるものとして立ちあらわれるであろう。

 もちろん、そうした能力開発というものが常にひとりひとりの個性との相互作用をとおしておこなわれることはいうまでもない。そのようにして個性の影響のもとに開発されることをとおして、潜在能力は、はじめて人類の普遍的な構造として共有されるようになるのである。

 多くの人々の個性をとおして実現されるなかで、そうした潜在能力が最終的にどのようなものとして顕現するのかは、誰にもわからない。また、そのようなことについてあれこれと想像しても、しかたのないことであろう。

 われわれにできることは、一部の人たちが体現しているすぐれた能力を、もしそれが人間として真にすこやかにあるためのたいせつな条件であると直感されるのであれば、われわれのなかにも息づく潜在能力としてとらえ、それを自らの個性をとおして実現するべく精進することである。



意識進化のダイナミズム


 これまでにも述べたように、インテグラル心理学は基本的に人間の成長というものを段階的発達のプロセスとしてとらえる。そして、その発達のプロセスがあたらしい段階に進もうとするとき、そこには、それまでの段階において築きあげられたものを何らかのかたちでひきつぐ再統合の作業がおこなわれる。

 初期の成長段階においては、こうした統合の作業はおうおうにして無意識のうちにおこなわれるようであるが、意識の成長という変容の過程そのものが個人の主体的な意図により主導されるようになる段階においては、この再統合の作業はより意識的になされるものとなる。

 これは、ヴィジョン・ロジック段階への意識成長を実現するためには特に重要なこととなる。つまり、人間があたらしい発達段階へと成長するとき、そこには、それまでの自らのありかたに対して、その瞬間に生まれつつあるより包括的な視野から、ひとつの対象として検証をくわえる内省の作業がおこなわれるのである。

 この作業をとおして、それまでは自らの主観そのものを構成していた意識構造が客観化され、意識的に関係を持つことのできる対象へと変じるのである。

 そのようにして対象化された自らの意識構造は、もはやわれわれを無意識的に拘束するものではなく、われわれが自らの“過去”として内省することができる対象となる。そして、こうした内省の作業をとおして、われわれは、自らの過去を、この瞬間においても自らのなかに生きつづける存在の構成要素のひとつとして再統合するのである。

 その意味では、あたらしい意識とは、決して過去を絶ち切るかたちで立ちあらわれるものではないのである。むしろ、それは、それまでの成長のプロセスをとおして追求されてきた主題をさらに深化させる、本質的に過去を尊重するかたちで実現されるものなのである。

 もちろん、それは、過去における自らのありかたを無批判に肯定するということではない。真にあたらしいものが生まれるとき、そこには必ずそれまでのありかたが内包していた問題を検証する作業がおこなわれるものである。

 しかし、そうした作業が過去からの遺産を必要なかたちでひきついでいこうとする尊重の意識に支えられたものであるとき、それはそれまでのありかたのなかにも何らかの限定的な正当性が存在していたことを認識するものである。

 たとえどれほど痛烈な批判となろうとも、それがほんとうにより成熟した意識構造から発せられるものであるならば、それは過去のありかたも何らかの真実をとらえるものであったことを認識する共感に支えられたものとなるはずである。

 そして、こうした認識対象のなかに存在する“真実”を共感的に認識する能力こそがヴィジョン・ロジック段階の意識構造の重要な要素となるのである。



自己中心性の克服


 人間の意識成長のプロセスをつらぬく主題としてはさまざまなものが挙げられるが、その核心的ものとして、ウィルバーは自己中心性の克服を挙げている。

 人間は、まず食欲をはじめとする肉体的欲求を満たすことを最高の関心事とする段階から成長をはじめる。それは、ある意味では、自らの肉体的な衝動の充足に腐心する最も原始的な状態ということができるだろう。

 しかし、その後、われわれは徐々にそうした段階を卒業していくことになる。

 自らの生きる共同体の文化規範を内面化し、その論理のなかで自己の充足を追及していくようになるのである。

 そこにおいては、われわれは、もはや自らの肉体的な欲求に完全に支配されているのではなく、共同体の価値観に基づいて自らの行動を統御するようになるのである。

 その意味では、文化とは、人間を自らの肉体的な衝動に支配された“動物的状態”から解放してくれる、人間性の解発の装置ということができるだろう。つまり、人間は、文化という個人の肉体的存在を超えた現実に意識を開くことをとおして、自らの自己中心性を克服していくのである。

 しかし、これまでにも見てきたように、今日において、われわれは、自らの所属する共同体の価値観を盲目的に信奉する意識構造(神話的論理性)をのりこえることを求められている。

 今日、異文化との活発な交流をとおして、これまで普遍的なものと見なされてきた共同体の価値観は、実は思いのほか普遍性を欠いたものであることが認識されつつある。そうした状況において、過去から伝えられた価値観を絶対的に正しいものとしてとらえることは、現代という時代がそのダイナミズムを通じて明らかにしている現実の複雑さを拒絶することにつながりかねない。

 今日においてわれわれに求められているのは、過去からひきつがれた価値観を対象化し、それが今日の状況のなかで果たして正当性を持つものであるかを主体的に思考する能力(成熟した論理性)なのである。

 主体的に思考するとは、決して、検証の対象の価値を否定することにつながるとは限らない。実際、“古い”ものが今日においてもすぐれた価値を有していることに気づかされることは珍しいことではない。

 ただ、そうした場合においても、それまでの評価のしかたと本質的に異なるのは、その価値観が一度しっかりと対象化されているということである。

 そこにおいては、それらの価値観は、絶対的に信奉されるものとしてではなく、いつの日か、もはやふさわしくないものとして否定されるかもしれない可能性を内包した、いわば、とりあえず妥当なものとして評価されるのである。

 そして、そうした瞬間が来たとき、成熟した論理性を獲得している者は、その状況にふさわしいあらたなるものを創造する作業に主体的に取り組むことができるのである。

 こうしたありかたは、自らが過去からの恩恵をひきついでいることを意識しつつも、それにかわるものを創造するためには、今、この瞬間に、自立した個人として主体性を発揮することに責任を負わねばならないことを認識する能力から生じるものである。

 今日において、そうした創造的態度を可能にする成熟した意識構造が、われわれひとりひとりに求められていることは、もはや疑いようのないところだろう。

 しかし、これからの時代において、われわれは、それよりもさらに成熟した意識構造を獲得することを求められている。

 確かに、個人として自らの価値観を構築し、それにもとづいて人生を生きていけることはすばらしいことである。

 そうしたありかたのなかには、自立した個人としてあることが本質的に内包する孤独を受けとめていこうとする並ならぬ精神的なつよさが息づいている。

 「個性的に生きる」という合いことばがもてはやされるようになりすでに久しいが、それがどれほどの不安をともなうものであるかということに気づいたうえで、なお、それを自らの生きかたとしていこうとする人は実際には決して多くはない。

 成熟した論理性に基づいて生きることがそれほどに難しいものであるとするなら、では、それよりさらに成熟した意識構造とは果たしていかなるものなのだろうか。

 ロバート・キーガンによれば、論理性の問題とは、まさにそれがたいへん統合性のあるひとつの価値体系を創造することできることに由来するものだという。 それがひとつの価値体系を自律的に創造することのできる主体としてあることにわれわれをあまりにも執着させるために、われわれの他者とのコミュニケイションはあくまでもその価値体系の統合性を保全することを目的としておこなわれることにならざるをえない。つまり、そこでは、他者とは、あくまでも自足したものとして存在する自己から本質的に異化された対象として見なされるのである。そして、そのように認識された対象とのコミュニケイションは、究極的には、自らの主体としての統合性を強化するためになされるものにならざるをえないのである。

 そこには、ひとつの価値体系に支えられた自己そのものが、ひとつの虚構(フィクション)であるという認識が根本的に欠如している。

 確かに、確固とした世界観に支えられた人は強力な主体性を発揮することができるだろう。しかし、そうしたありかたは構造的に自らの統合性の虜になる危険性を秘めている。

 それがすぐれた論理性に支えられたものであれば、あらゆる異論を論駁することができる。しかし、まさにそのすぐれた自己防衛の能力が、よりダイナミックなかたちでの他者とのコミュニケイションに参加することを不可能にさせてしまう危険性を宿しているのである。

 そのようなダイナミックなコミュニケイションとは、異なる価値体系をもつ他者存在が実は自らをあらしめるものであるという認識に支えられる営みである。

 つまり、そこでは、自らの存在のよりどころをひとつの自足した価値体系のなかにではなく、それをひとつの独自なものとしてあらしめる他の価値体系との関係性のなかに見いだすのである。

 こうした意識構造をとおしておこなわれるコミュニケイションは、それまでのものとくらべて、真の意味において他者への共感的理解に支えられたものになることができる。

 それまでは、自らの自律した存在としての統合性を守るために、それを動揺させるような異なる価値観に対して、構造上、どうしても防衛的にならざるをえなかった。

 たとえ他者に対して意識的に寛容であろうとするときにおいても、そうした態度は、論理性という意識構造の生命を守るために、避けられないものであったのである。

成熟した論理性を備えた人と対話をしているとき、たとえ、その人がどれほど真摯にわれわれのことを共感的に理解しようとつとめてくれても、どうしても彼らが、自らの価値観を脇において、われわれが言わんとすることを理解することができないことに気づく瞬間を経験する。それは、彼らが何も偏狭であるからなのではなく、論理性という意識構造そのものが内包している限界から生じるものなのである。

 そして、真の意味において成熟した個であるために求められるのは、まさに、この論理性という意識構造そのものをのりこえることなのである。

 どのような批判をも論駁することのできるような完璧な価値観(もちろん、実際にはそのようなものはありえないのだが)を構築して、その圧倒的な権威の下に人々と関係を築いていくことを最高のありかたとする発想はこれまでにも存在した。

 もちろん、すぐれた論理性を発揮して説得力のあるヴィジョンを構想する能力は、これからの時代においても必要とされつづけるだろう。あたらしい構造というのは、常にそれまでのものをひきつぐかたちであらわれるものである。

 ただ、ヴィジョン・ロジック段階においては、論理性にもとづく発想の絶対性が否定されるのである。それは、あくまでもそのあたらしい意識構造の一構成要素でしかないのである。

 ヴィジョン・ロジック段階において認識されるのは、あらゆる価値観というものが、その本質において、その人をとりまく生存環境に対応するために構築された「虚構」であるということである。

 そして、あらゆる価値観は自らの統合性を維持するために、どうしても、それに脅威をあたえるような情報を拒絶しようとしがちである。それは、論理性というものが内蔵する構造的な限界に根ざすものであるために、ほとんどの場合において、そうした防衛反応は無意識的に発動される。

 ヴィジョン・ロジック段階においては、ひとつの価値観と同一化することが、ほぼ必然的に自らをある種の現実に盲目にすることの認識がある。そして、そうした認識に基づいて、そこでは、この世界に並存する価値観が、それぞれどのような盲点を持つものであるのか、そして、それらがどのようなかたちでお互いを補うものであるのかという、ひとつひとつの価値観をむすびつける関係性に意識が向かうことになるのである。

 ただ、ここであらためて確認しておくべきことは、こうしたありかたが、決して価値観というものの価値そのものを否定するものではないということである。

 確かに、ひとつの価値観を排他的に信奉することには問題があるが、現実が絶え間なくつきつけてくる膨大な情報を整理・統合していくためには、何らかの価値観は必要である。ただ、ヴィジョン・ロジック段階において、われわれは、そうした価値観にとらえられるのではなく、逆に、それをとらえることができるようになるのである。



時代背景


 こうした包括的な意識構造が必要とされるようになる背景には、ますます多くの人が日常的に異文化体験をするようになるなかで、世界というものが、ひとつの価値観をもって把握するには、あまりにも複雑なものであるという事実に対する痛切な実感が生まれはじめているということがあげられるだろう。

 もちろん、ここでいう異文化体験とは、おうおうにして表面的なものに終わる「旅行者」としてのそれではなく、自己を崩壊の淵に追いこむほどに強烈な、他者の絶対的な他者性の経験をともなうものとしてのそれである。

 そうした体験は、いやおうなしに自己完結したシステムとして自らの価値観を構築することが不可能であることをわれわれに思い知らせるものである。

 あくまでもひとつの自己完結したシステムとしての自己を維持しながら統合しようとするには、世界に並存する価値観の他者性は、あまりに大きすぎるものであることに気づかされるのである。

 そうした現実をまえにしてわれわれにできることは、自らの価値観をしばしのあいだ離れて、他者がどのような主観をとおして生きているのかをとらえようとしてみることだけである。そして、そのためには、他者の価値観を主観的に経験することができなくてはならないのである。

 それまでに自らの存在を支えてきた価値観を、たとえつかの間のあいだであれ、相対化することは、文字どおり自己を崩壊させることにつながりかねない、たいへんな危険性をともなうことである。

 その意味では、ヴィジョン・ロジックとは、自己の存在を意図的に動揺させることができるほどに強靭な自己を必要とする意識構造である。

 しかし、そうしたもの無しには、ほんとうに共感的に他者を理解することはできない。どこまでも、それは自己の価値観に立脚した他者理解でしかないのである。

 ヴィジョン・ロジックとは、並存する価値観の間を縦横に往来することのできる、そして、そうした営みをとおして、それらの価値観がどのような関係にあるのかを認識する能力であるということができるだろう。

 たとえば、こうした意識構造をとおして発揮されるリーダーシップは、それまでに存在していたものとは本質的に異なるものになるであろう。それは、自らの信奉する価値観を意識的に横におき、他者の価値観を共感的に体験する。そして、そこにどのような方向性をもつ成長の衝動が息づいているのかを認識し、それを、それが内包する特性を尊重するかたちで促進しようとするのである。

 そこには、人間の成長というものが本質的には個人の特性を尊重するかたちでしか実現できないものであることの認識がある。あらゆる心理学者のいうように、成長とは決して強制できるものではない。それは支えることができるだけのものなのである。

 もちろん、ここで「個人の特性を尊重」というとき、それは、その人の「ありのまま」を肯定するということでは決してない。人間存在を発達という文脈のなかでとらえることそのものが、そうした安易な現状肯定を拒絶するものである。

 ここでいわれているのは、ヴィジョン・ロジック段階におけるリーダーシップというものが、あくまでも成長の主体がその人自身であることをこころえているということである。そうした「こころえ」とは、人間存在のなかに息づいているいのちが本質的に成長への衝動を宿しているということの認識と尊敬から立ちあがるものなのである。

 ただ、多くの発達心理学者がいうように、人間意識の構造的成長とは常に永い時間をかけて進むものである。

 過去に流行した「人材開発セミナー」がことごとく失敗したのは、こうした現実を無視して、ある種の高揚状態を参加者のなかに醸成することに腐心したからである。また、集中的に過激な衝撃を人格にあたえることは、しばしばトラウマをもたらす。それは、深刻な場合においては、人格破壊にもつながりかねない。

 その意味では、人間の成長にたずさわるためには、必ず、他者の長期的な福利を慮ることができなくてはならない。これは、ヴィジョン・ロジック段階のリーダーシップのひとつの大きな特徴である。

 もちろん、こうした態度は、ひとつのルールとして信奉されるのではなく、ヴィジョン・ロジックという構造そのものが構造的に内包しているものである。それは、いのちというものへの敬虔なまなざしからいやおうなしに立ちあがるものといえるだろう。

 しかし、こうしたあたらしい意識構造に根ざしたリーダーシップを個人が発揮することができるようになるためには、それを支えることのできる社会的・文化的構造ができあがらなければならない。

 そうした条件が整わない限り、そうした高度の意識を発揮しようとする者は、共同体の調和を乱すものとして攻撃され、淘汰されてしまうだろう。

 常にそうであるように、ひとつの意識構造が社会のなかに根づくことができるためには、それにふさわしい社会的・文化的構造が整わねばならないのである。

 その意味では、真の意識成長のこころみは、われわれが生活する共同体そのものの変革のこころみでもなければならない。つまり、真の意識成長とは、必ず内面的変革と外面的変革をともなうものでなければいけないのである。

 このように考えると、私が、ヴィジョン・ロジックというものを、現在においては、あくまでも可能性にすぎないものなのであると主張することの意味がおわかりいただけると思う。



「危機の時代」における共同体の使命


 これからの時代において、われわれが個人としてヴィジョン・ロジック段階へと真に成長することができるためには、われわれは、自らの所属する共同体の成長に主体的にたずさわることができなくてはならない。

 個人がいのちへの敬虔の念を基盤として日常の行動を組織することができるようになるためには、そうしたありかたを真に価値あるものとして評価する共同体がそこになくてはならないのである。つまり、そのような高度の意識構造をそなえた者の存在が共同体の成長につながるものであると価値づけることのできる価値観が共同体の文化として生きていなければならないのである。

 そして、今日、多くの人にとり、この共同体ということばが意味するのは、日常の大半を過ごすことになる企業組織であろう。

 しかし、東西帝国間の冷戦の終結後、ますます熾烈な経済競争に巻きこまれている企業組織にとって、そのような価値観を許容することは、自らの競争力を溶解させてしまいかねないものとして認識されることであろう。

 それがどれほどにすばらしいものであろうとも、現実には実行不可能である――すでに自己の内部にヴィジョン・ロジック段階への発達の衝動を実感している人でさえも、そのように結論しなければならないほどに、過酷な現実が存在しているのである。

 もしそのようなありかたを許容する時代が来るとすれば、それは企業組織をとりまく経済体制そのものが根本的に変わるときでしかない。 そして、そのような変化は、基本的に、それまでのありかたに基づいてはもはや生存していくことそのものが不可能であると意識されたときに起こるものなのである。

 ウィルバーは言う。「もしインテグラル(ヴィジョン・ロジック的)な社会が生まれるとすれば、それは、今ある神話的論理性を基盤とする社会が崩壊したときであろう。」

 しかし、問題は、現在の経済体制が崩壊するときには、人類の存在そのものが絶滅の脅威にさらされるときでもあるということだ。

 現在の経済体制の崩壊のあとにようやく再興の作業をはじめることができるのだといっても、そこにその作業をおこなう者が残らないとすれば、そのような主張は無意味である。

 多様な研究領域の識者たちが指摘するように、今日、人類は無限成長をテーゼとするその経済活動をとおして自らの生存の基盤そのものを溶解させている。 急速に深刻化する自然資源の枯渇と自然環境の破壊は、今世紀のうちに人類の生存そのものを脅かすことになるだろう。

 そうした「危機の時代」を目前に控えて、変容とは人々が自らの存在が存亡の危機にさらされていることを実感するときにはじめて起こりえるのだと達観しつづけることは、人類にとり致命的なことになりかねない。

 今、われわれに求められているのは、地球を、搾取の対象としてではなく、この惑星に住むすべての生物の共有財産としてとらえることである。そして、そのためには、ヴィジョン・ロジックに支えられた地球人としてのアイデンティティーがどうしても必要となるのである。

 そのようなアイデンティティーの広範な確立を実現するためには、われわれをとりかこむ共同体がそれを育む場としてはたらくことが必要である。

 そして、もし市場原理主義という破壊的思想にとらわれた企業社会がそのような役目を発揮しえないのであれば、われわれは、その破壊性を強制的に抑制する機能を発動することのできる共同体の創造に積極的に取り組むべきであろう。

 これからの時代において、われわれがどのようなかたちで共同体の再創造というこの歴史的使命を果たしていくかが、人類の運命を決することになるだろう。


次ページ


1 | 2