トランスパーソナルからインテグラルへ ―ボウルダー・セミナーを終えて―

鈴木 規夫

思想のなかにひそむ魂の息づきを感じとろうとする意識的なこころみなしには、われわれは、その核となるものを決して明らかにすることはできない。それは、思想というものが、常に、人間によって産みだされる、人間の営みにほかならないからであろう。そして、そうした認識をみずからのなかに保ちつづけることができればこそ、われわれは、ひとつひとつのアイデアにいのちをあたえているものに、みずからのこころを重ねあわせようとすることができるのだと思う。

それがいかなるものであれ、対象と真にであおうとする開かれた感性をみずからのなかに養うことは、ことに偉大なものをまえにして、なお、そのすばらしさを認めることができるためには、決して欠かすことのできないものである。

偉大なものをまえにしたときに、それをどうにかして貶めたいと感じるこころのはたらきは、もしかたら人間という存在の最奥から発する性(さが)なのかもしれない。しかし、そうしたみずからの卑しさをのりこえようとする努力なしには、われわれは、真に優れたものがいかなるものであるのかということをいささかも知ることなしに、死んでいくことになりかねない。

人間というものが偉大なものでありえることを信ずることがますます難しくなる現代という時代において、みずからのなかに巣食うそうした性をまぎれもなく卑しいものとして断ちきろうとする気概を育むことは決してかんたんなことではない。しかし、そうした気概なしには、偉大なものと真にであうことができないのも、また、まぎれもない真実なのである。


去る7月の18日から20日にかけて、コロラド州のボウルダーにおいておこなわれたケン・ウィルバーとの対話をとおして、あらためて痛切に感じさせられたのは、なによりも、その思想活動を支える、彼の実在としてのとてつもない大きさであった。

もちろん、彼の思想の背後に、そのようなものが存在するであろうことは、これまでに、それなりに開かれた感性をもって、その著作に接してきた多くのひとが予想していたことであろう。しかし、それが、それまでに、みずからが想像してきたものを凌駕するほどのものであることに、誰もが、ここちよい驚きと歓びを感じることができたのではないだろうか。

今回の訪問のメンバーは、サン・フランシスコ・ベイ・エリアの大学院に所属する大学院生を中心に構成されていた60人ほど。

思想というものが、あくまでも、人間により産みだされる、人間の営みであるという、このあまりにもあたりまえのことがしばしば置きざりにされてしまうアカデミアという環境のなかで研鑚の日々をおくるわれわれにとり、このような経験は、みずからのとりくみを、より大きな視野から、あらためて見つめなおすためのすばらしい機会をあたえてくれるものであった。

また、時として、スピリチュアリティーというものが、その本質において、あらゆる平穏をうち破るほどの烈しいダイナミズムを秘めたものであることが忘れられがちな、去勢された空気が蔓延するなかで、ケン・ウィルバーという人間のなかに息づく圧倒的なエネルギーは、スピリチュアリティ―という営みが、時として、われわれをすくませるほどの畏怖をもたらすものであることにあらためて気づかせてくれるものでもあった。

作家の宮内 勝典氏がいう「虎のような人物」*1とは、まさにこのようなひとのことなのではないだろうか、そんなことを考えながら、私は彼のことを見つめていた。(もちろん、すばらしいユーモアの感覚の持ち主である彼のことを、まるでロビン・ウイリアムズのような人物と評するひとも少なからずいたことも、ここで報告しておかなくてはならないだろう。)


デイヴィッド・レイ・グリフィンは、近代という時代を建設的に乗りこえていこうとする、コンストラクティヴ・ポストモダニズムといわれるムーヴメントを支えるものが、もし「近代という時代がこのまま続くとすれば、それは、この惑星における生命の生存そのものを脅かすことになるだろうという意識」であることを述べている。 *2

ここ数年のあいだに、こころあるひとたちのなかで、そうした危機の意識がとりわけ強いものになりつつあることは、あらためていうまでもないことであるが、このたびボウルダーに造りだされた空間のなかにも、それは確かに流れていたように思う。

合わせて12時間ほどにもおよんだウィルバーとの対話の内容をここでまとめることはできないが、ぜひ書きとめておきたいのは、何よりも、そこに生みだされたものが、そうした時代のつきつける課題に対する問題意識を共有したコミュニティーであったということである。

そうした問題意識をみずからのなかに育むことのできなかった者にとっては、そこでおこなわれた対話は、最もかんたんな意味での情報のやりとりとしての意味しか持ちえなかっただろう。しかし、そうした意識をたずさえて、そこにいあわせることのできた者にとっては、それは、この危機の時代において、なお希望を失うことなく生きていくことができるかもしれないことに気づかせてくれる、そんな体験だったのではないだろうか。

いよいよ動きだそうとしているインテグラル・インスティテュート *3の構想に耳をかたむけながら、多くのひとたちが、そのこころみに何らかのかたちで参加したいという衝動にとらわれずにおれなかったのは、何よりも、そこに真にみずからの存在を賭けるに値するヴィジョンを見たからなのだろう。



ウィルバーもくりかえして漏らしていたことであるが、このところ定期的に行なわれているこのボウルダーにおけるセミナーの聴衆のレベルは、確実に向上しているようである。

もちろん、それにはいくつかの理由があるのだろうが、そのひとつとして、かれらの多くが、トランスパーソナル・スタディーズといわれるものが、すでに終焉しようとしている学問であることを、そのただなかにいながら、気づきはじめていることのなかにあることは、明らかである。

そして、そんなかれらが、ウィルバーの構想するインテグラル・ヴィジョンのなかに、ほんとうに納得のできるものを見いだしているという、この事実は、よく考えてみるに値するものだと思う。


トランスパーソナル・スタディーズといわれるものが、すでに衰退へのプロセスをたどりつつあるということは、ここアメリカにおいては、すくなくとも、その研究にとりくむひとたちのあいだでは、コンセンサスとなりつつあるが、しかし、その理由については、まだ、つきつめて考えられているわけではないようである。 *4

そのことについては、これから議論がはじまろうとしているわけだが、もしこの時点でいえることがあるとすれば、それは、この現代文明があからさまなかたちで綻びを露にしはじめた、ここ数年のあいだに、トランスパーソナル・コミュニティーが、そうした危機をのりこえるための、普遍的な説得力をもつ活動を展開することができなかったということなのではないだろうか。

つまり、そこには、生命そのものの存在さえをも脅かそうとしている、この現代文明の破壊性に畏怖する感覚が、根本的に欠けていたということである。

もしそうした感覚が息づいていたならば、トランスパーソナリストたちは、みずからがその研究領域のなかで育んだ成果を、いかにすれば人類の生存のために役だてることができるのかという視点から発想することができたはずなのである。そして、そのような発想をすることができていたならば、他の研究領域の研究者たちとの協働作業がどれほどにたいせつなものであるのかということに気づくことができたはずなのである。

あらためていうまでもないことであるが、協働とは、みずからの専門分野が、このコスモスが蔵している膨大な真実のなかのごくひとかけらを照らしだすものにすぎないことを認める謙虚な精神のうえにのみ成立しえるものである。みずからがとらえた真実がほんとうに価値のあるものであることを信ずるのであれば、それを同時代をともにするひとたちに伝えようとするときに、そうした精神は、どうしても欠かすことのできないものとなるのである。
学際的なこころみであることを謳いながら、その理想を体現するためのフレイムワークを確立することができなかったことに、トランスパーソナル・コミュニティーの衰退の大きな原因があったのだと思う。


いずれにしても、トランスパーソナル・スタディーズが、トランスパーソナルな領域のみをその研究領域として成りたちえる時代は、すでに終わろうとしている。現代において、トランスパーソナル・スタディーズが価値ある営みとして成立するためには、逆説的ないいかたになるかもしれないが、このコスモスのなかに立ちあがるありとあらゆるものを、まさにそれがそこに存在しているというそのことをもって、それらの全てを抱きしめようとする、最も包括的な態度をみずからのなかに養うことが必要とされるのではないだろうか。 *5
それに、人間というものが、それほどに大きなものとなりえることを、誰よりもよくこころえているのが、トランスパー ソナリストというものであるはずである。

ウィルバーのインテグラル・ヴィジョンが、誰よりもトランスパーソナル・スタディーズというものの限界を知りつくしたひとたちにより歓迎されているのは、それが、そうした包括的な視野から発せられた思想であるからなのだろう。


このようなトランスパーソナリズムからインテグラリズムへの動きがはじまりつつある背景には、やはり、これまでトランスパーソナル・ムーヴメントにとりくんできたひとたちのなかに、これまでにないほどの危機意識が生まれてきていることがあるだろう。
 人類を絶滅のふちにまで追いこんだ東西二大帝国による対立が解消したあとに醸成された楽観的な雰囲気のなかで、大量消費型資本主義社会の病理は、今日、この惑星の生命維持機構そのものまでをも破壊しようとしている。そして、トランスパーソナリストたちは、これまでのフレイムワークのなかでは、もはや、みずからがこのような問題に対応することができないことを痛感しはじめているのである。

この二日間にわたるセミナーのなかで、ウィルバーの発した最も衝撃的なことばは、つぎのようなものであった。
「もしわれわれがこのまま時代がつきつける問題に創造性を発揮してとりくむことを怠るならば、専門家たちが推測するように、確かにこの現代文明は二十年ほどのうちに壊滅することになるだろう。ただ、われわれが常にこころに留めておかねばならないのは、人間というものが、全く思いもつかないようなかたちで、創造的に道を切りひらいていくことのできる存在であるということである。その意味では、われわれにこれからいかなる未来が待ちうけているのかということをいいあてるなどということは、ほとんど不可能なことである。ただ、これまでの歴史をふりかえると、危機をまえにして、人類が、ほんとうに創造性を発揮して、それを回避することができたということはほとんどないのだ。いかなる場合においても、根本的な方向転換が可能となるのは、残念ながら、あらゆるものが崩壊してからなのである。そして、もしインテグラリズムが、ほんとうにこの世界のなかに根づくときが来るとすれば、それは、これからはじまろうとしている危機の時代のなかで、多くのものが破壊されつくされてからのことになるだろう。そのまえに、われわれがまず目撃することになるであろうことは、巨大な危機にみまわれた人類が退行するすがたであろう。」

果たして、あらゆるものが崩壊されたときに、そこに人類がまだ存在しているのかということは、誰にもわからない。

しかし、このことばのなかに確かに感じられるのは、それがみずからの存在そのものさえをも脅かすことになろうとも、なお成長することを拒もうとする人間の性を見つめるウィルバーの透徹したまなざしであろう。そして、そうしたリアリズムが、人間の進化の可能性を明らかにしようとするとりくみであるインテグラリズムにおいてこそ、何よりもたいせつなものであることは、それにたずさわろうとする者にとって、あまりにも明らかなことであろう。


いずれにしても、これからはじまろうとしている未曾有の危機の時代において、人類の生存へのただひとつのライフラインとなるであろう創造性を育むための基盤としてのコミュニティーの役割は、これまでにないほどに重要なものになるだろう。そのような状況においても、絶望にとらわれることなく、このコスモスがつきつける現実にひるまずに向きあいつづけることができるためには、どうしても、われわれひとりひとりが、みずからのなかでとらえている真実を統合するための空間が必要とされるのである。
 ケン・ウィルバーのリーダーシップのもと、そうした叡智の統合のためのコミュニティーとして生まれでようとしているインテグラル・ムーヴメントというこころみから、われわれが学びえることは、まさにはかりしれないものだと思う。

たしかに、このコスモスにおけるあらゆるものがそうであるように、インテグラル・ヴィジョンというものも、また、それが存在する時代の束縛から逃れるものではない。このインテグラル・ヴィジョンというものも、また、よりすぐれたものにのりこえられるべきものでしかないのである。


しかし、あまり時間が残されていないなかで、いま、トランスパーソナリストたちに求められていることは、そうした、いかんともしがたい時代性にとらえられてあるものが、まさにそれゆえに浮き彫りにすることのできる真実をとらえることではないのだろうか。
 みずからの思想を、まぎれもないみずからの魂の発露として創造しようとするとき、われわれは、そこに、時代がつきつける問題と格闘するみずからのすがたが焼きつけられていることに気づくことができるだろう。そして、そうしたものをとらえることのできる感性こそが、われわれにインテグラル・ヴィジョンのなかにひそむ人間の魂の息づきを感じることを可能にしてくれるものにほかならないのである。


それは、また、真に偉大なものと同時代をともにすることがあたえてくれる歓びがいかなるものであるのかということを知るためのただひとつの方法といえるかもしれない。


*1 宮内 勝典 (2003) インターヴュー「虎のような人物を放ちたい」 (Available at http://pws.prserv.net/umigame/)

*2 Griffin, David Ray (1989). God and religion in the postmodern world: Essays in postmodern theology. Albany, NY: State University of New York Press.
The…most decisive difference [that distinguishes constructive postmodernism from deconstructive postmodernism] is that…[it is] based on the awareness that the continuation of modernity threatens the very survival of life on our planet. This awareness, combined with the growing knowledge of the interdependence of the modern worldview and the militarism, nuclearism, and ecological devastation of the modern world, is providing an unprecedented impetus for people to see the evidence for a postmodern worldview and to envisage postmodern way of relating to each other, the rest of nature, and the cosmos as a whole. (pp. xi-xii)

*3 Go to http://www.integralinstitute.org/

*4 For a preliminary discussion on the demise of transpersonal psychology, see Wilber, Ken. On critics, integral institute, my recent writing, and other matters of little consequence: A Shambhala interview with Ken Wilber. Available at http://wilber.shambhala.com/

*5 Wilber, Ken. Excerpt B: The many ways we touch: Three principles helpful for any integrative approach. Available at http://wilber.shambhala.com/