「不健全なグリーン・ミーム」



WIE: ベック博士、私の「中心的ミーム」がグリーンであることは確かだと思います。また、そう思うのは私だけではないでしょう。グリーン・ミームは、現在の西洋文化の先端でもあり、私ばかりではなく、多くの人にとっても主要な概念的・心理的パラダイムなのでしょう。ここまでのお話では、グリーンも含み、それぞれのミームは、肯定と否定の両方の側面をもっているとのこと。そこでお聞きしたいのですが、現在、グリーン・ミームは、どのようなライフコンディションの諸問題(これが私たちをさらなるスパイラルの上昇へ導くわけですが)を生み出しているのでしょうか。


ドン・ベック: 既にお話しましたように、グリーンは、イエロー、すなわちセカンドティアー(第二層)へ向かうために不可欠なステップなのです。ただ、これは非常に「高くつくもの」であり、「貢献する」というよりも「奪い取ってしまう」ものでもあります。


WIE:「高くつく」とおっしゃるのは、なぜですか。


ドン・ベック: 全ての人を救うためといいつつ、ただ訴えるためだけにそこにいるという以外、何の貢献も必要としない。これが「高くつく」という意味です。高貴なる「偉大な社会の実現」という計画のほとんどはうまくいかず、たとえば、グリーン的な試みとしての「社会主義」も、「これもまた答えではない」ということに気づいたわけです。


WIE:「貢献する」というよりも「奪い取ってしまう」とおっしゃるのは、どういう意味ですか。


ドン・ベック: オレンジが築いた資源などを使用しながら、他方では、オレンジを嫌い(オレンジ的な価値としての)成長にも背を向けているということです。グリーンにとって(オレンジ的な)成長と消費は悪なのです。既にある資源を使用して再分配し、皆が同じレベルに到達するということこそをグリーンは好むわけです。グリーンは素晴らしいシステムではあります。ただ皮肉をいえば、グリーンは、全ての人が自分たちグリーンと同じレベルの裕福さを享受することを当然だと考えているのです。


WIE:確かに、それは私自身の経験からも理解できます。物質的に高い私の生活水準は、非常に自己満足的であると同時に、非常に平等主義的さえあろうとしています。


ドン・ベック: そうなのです。オレンジにおいて成功した人々のみ、すなわち、銀行口座に十分な貯金があり、生存に関する保証もあり、扉の向こうに狼がいるような危険と無縁の人々のみが、グリーンを考え始めるのです。しかし不幸なことには、ブルーやオレンジのミームレベル(支配者に従順な修道女たちやオフィスにたむろする太ったおばさんたちなど)へグリーンが攻撃を仕掛けるとき、これは言ってみれば、屋根に登っておいて、ここまで登ってきたハシゴを投げ捨てるようなものなのです。


WIE:グリーン・ミームの否定的な面としては、どのような影響があげられるでしょうか。


ドン・ベック: グリーンの否定的な面が行なうことは、自分が見出した「格差」を解決しようとするあまり、不幸にも、オレンジやブルーの社会的・経済的システムの能力までも破壊してしまうことです。グリーンは、オレンジの経済機構を破壊します。また、レッドを抑えておくために必要であったブルーの権威主義をも破壊します。こういった例は、今日のジンバブエの惨状からも容易に理解できます。いわゆる生産性そのものを否定してしまうわけです。こうして物事は悪い方向へと向かうのです。「レッドはブルー・オレンジから規範と目的を学ぶべき」という責任をグリーンは免除させてしまいます。グリーンは土着的な人々を愛するのですが、彼らをとりわけ「高貴なる野蛮人」と呼び、そこに必要以上に偉大で複雑なものを読み取ろうとする傾向があります。権威主義を破壊したりして、ブルーやオレンジのシステムを清めようとした結果、個人や社会の双方において、レッドの無軌道や自己中心的・衝動的な行動がグリーンの領域へ侵入してきます。これは、レッドとグリーンの不健全な編み合わせであります。そこでは、強力な自己中心的ナルシズムが、「人間性や平等について威張り散らす行為」となって組み合わされるのです。こういったことが、ケン・ウィルバー氏や私が「不健全なグリーン・ミーム」あるいは「ブーマリティス」と呼ばれるもの(ブーマー世代が、初めて全体としてグリーン・ミームに至ったところからこう呼ばれています)を蔓延らせる土壌をつくってしまうのです。


WIE:ケン・ウィルバー氏の著書『Boomeritis』を読んで、確かに私自身も、実際このようなポストモダン「ウィルス」に侵されていることを認識させられましたね。


ドン・ベック: そうでしょう。「不健全なグリーン・ミーム」という考え方自体が、一つのレトリック的な戦略なのです。「どうすれば、グリーンから枷をはずして、さらに上昇し続けることができるのか」とケンと私は問うわけです。われわれからは、グリーンにおける極めて多くのものが「澱んだ池」のように見えます。ですから、「不健全なグリーン・ミーム」という言葉をあえて使うわけです。われわれは多少とも恥じるべきなのでしょう。自分に鏡をかざして何をしているのか見極めるべきなのでしょう。真に健全なグリーンから不健全グリーン・ミームが離れていくという願いを込めてね。政治的正当性における(不健全グリーン的)信念の自己中心的な性質、不誠実さ、不自然さというものを人々の目にさらすことです。そうすることで最終的には、「このグリーンを越えたものがある」ということを明らかにすることができます。こうした思い切った処置やレトリック的な戦略が、「彼らが行なっていることは、実際、彼らが本当に到達したいものを破壊しているのだということを理解してほしい」ということの象徴となるわけです。


WIE:不健全グリーン・ミームは、霊的・心理的にはどのようなことがいえるでしょうか。


ドン・ベック: グリーンは、「私は自分自身について知りたい。自分の中に秘められた幼児性について知りたい。平和を実現したい。安らぎを求めたい」という「自分さがし」から始めるのです。「だから私は感性トレーニングセッションに参加し、そこでフィードバックを得て、深い内面に到達し、自分の経験の全てを見つめ、そして罪悪感を拭い去るのだ」と。グリーンは、罪悪感を嫌います。そして、起こってしまったことに対し被害者ヅラをしていつも憤慨しています。しかし、グリーンは相対的なシステムでもあります。グリーンの多くは、あまりにもナイーブに「全ての人々は善人であり、社会が彼らを悪人にしているのだ。悪人などいない。悪などない。そんなのは全て神話に過ぎない。全ての人々が私たちを愛するようになるのだ」と考えているのです。そこで、たとえば、「9月11日の出来事」などは、これらの考えに対する一つの警告ともなりました。初めてグリーンがレッド・ブルーの醜い面を見ることができたのです。以来この点から、より多くの人々がわれわれのしていることに興味を抱き始めてくれました。



母は、私の人生における超越的瞬間というものに少なからぬ影響を与えました。それはたいてい音楽やダンスに関連していました。母は、ロシア人ダンサーのナタリア・ナカロバなどの舞台芸術を見るため、私をよくニューヨークのリンカーンセンターへ連れて行ってくれました。バレエの名作がナカロバの手にかかると、すばらしく崇高で超越的なものとなり、感動の涙を誘ったものです。「ロミオとジュリエット」の最後の場面などは、特に並外れた演技であり、恐らく四千人におよぶ観客全員が揃って畏敬の念を抱きつつ総立ちになったものです。それは一つのスピリチュアルな体験に他ならないものでした。私の方を振り向きながら、母はこう言ったものです。「ジェス、いまだかつてなくまたこれからもないであろう最も偉大なダンスを、あなたは目の当たりにしているのよ」と。


しかし、私が受け継いだ「グリーンの不完全なる躾」は、一つの矛盾でもありました。高度に美的でスピリチュアルな感受性が、感情的主張や安心に関するナルシスティックな要求と結ばれたというわけです。これは、自分を一種の不自然な状態に置いておくものであり、しかも自分ではなぜそうなのか分からないのです。14歳か15歳の頃までには、激しい渇望がしばし私の体験の中を漂い、それは私の外部のもの、すなわち異性への関心となりました。恋愛関係は、究極的な満足をもたらしてくれるものなのでしょうか。確かにそのように望んでいました。そして、こういった望みに一つの狙いを定めたわけです。いえ、実際は、たくさんの狙いを定めていました。


30歳になってまもなく、私は最初の師に出会いました。仏教の韓国人僧侶です。ある午後、師は私にこう言われました。「ジェシカ、あなたに関する全てのものは素晴らしい。ただ、男性を見る目は例外ですね」と。私の恋愛関係に関する長い裏づけの後では、この言葉の後半部分について真実であると認めざるを得ませんでしたが、前半部分についても私に訴えてくるものがありました。瞑想の実践者として、師は、非凡なる癒しと直観の能力を備えていました(パープル)。「私は、あなたが持ち得る最善の健康保険でしょう」と私を安心させてくれました。「あなたのいかなるものも治してあげましょう。」 安心についてのお話。これこそ、私が求めていたものでした。加えて、どのように座禅を組み、霊性へと到るかについても学ぶことができました。完璧な組み合わせです。ある早朝、韓国の山中で、師が授けてくれた座禅技法を実践していたところ、突然、私のあらゆる思念が消えてなくなり、残ったものは、ただ、あらゆるものについての無条件なる「一体感」だけとなりました。しばらくして、師は私に韓国へ移住し、彼の僧院にて長期間の修行を始めることを薦めてくださいました……、そして尼僧(ブルー)。尼僧? 「一体感」に関するこういった体験は、物事の真なる本質を明らかにしてくれました。韓国は、魅力的で彩り豊かな国でした。師の非凡なる才能にも惹かれていました。ただそれでも、尼僧になるということは、一大決心でした。私はおじけづいてしまったのです。私の中の「不完全なるリベラルな躾(グリーン)」と「ナルシスティックな衝動(レッド)」とが、こういった「生涯のコミットメント(ブルー)」を前にして、たとえそれがスピリチュアルであったとしても、息苦しいものと感じてさせてしまったのでしょうか。自分にも分かりません。ただ、ソウルにおけるある運命的な日、魂への長い探求の末、私は、セカンドティアー(第二層)の道程への探求をどこか別のところでするという決心に到ったのでしょう。



ライフコンディション


WIE: 「新しい知性(新しいミーム・レベル)というものは、ライフコンディションに応じて形成されていく」ということをおっしゃいました。今日、「地球規模の人類共同体」というレベルで直面せざるを得ないライフコンディションが、歴史上かつてないほどに、より挑戦的かつ危険なものとなってきていることは、誰も否定できないでしょう。このようなライフコンディションや、これが次の進化の段階において果たす役割などについてお話していただけますでしょうか。


ドン・ベック: 良きにつけ悪しきにつけ、人生における出来事とは、「人生についての基本的な規範や規律を学ぶ」ということにつきるようです。周りの自然環境を変えていくことから遺伝子操作まで、様々な科学的方法を駆使して人間経験を変えていく――そういった全てのことにおいて、われわれは驚くべき選択肢に晒されているわけです。ただ、「このことが何を意味していくのか」について誰もが承知しているとは、私は思っていません。ですから、現在われわれが置かれているポジションは次のようなものです。すなわち、われわれは神々のように振舞っており、未来を変えることができる。これは、種族としても、いまだかつて持ち得なかった能力です。ですから、再び、失敗からではなく成功から、「自分たちが極めて危険なコンディションに直面している」ということを、われわれは見出して始めているのです。

そしてさらに言えば、複雑なオレンジ・ミームで開発され、かつてはブルー・コードの影響を抑える役割を果たしていた「核兵器などの力」が、いま、レッドにコントロールされようとしています。当のレッドは、ブルーの影響を受けていないため、規範や義務や責任を負わず、オレンジの技術力によって現れた「相互破壊の脅威」への責任さえ持ち合わせていません。レッドは、権力について近視眼的であり、これが問題の最悪な部分なのです。こういったことが、われわれが種族として直面する最初の危機であるといってよいでしょうね。


WIE:このようなプレッシャーにさらに付け加えるならば、「生活が、その勢いを増しながらどんどん変化している」という事実でしょう。ここで一つ引用文を読み上げてみます。これは、発明家・未来学者のレイ・カズウェル氏によるものですが、われわれ人類が急激に貶められ同時に適応しようともしている「圧倒的な変化」について語っています。

数世紀前、人々は「世界が変化している」などとは全く考えていなかった。彼らの祖父祖母は自分たちと同じ生活を営んでいたのであり、また自分たちの孫も、また同じ生活を営むだろうと予想していた。そしてその予想は大方裏切られることはなかった…。ただ十分に認識されていなかったことは、変化のペース自体が加速しているということだった。過去の20年間は、これからの20年間にとってのよき道案内とはならないのである。パラダイムシフトの速度や進歩の速度などが10年度ごとに倍加しているのである。現時点までずっと加速してきているゆえ、この加速は、われわれが20世紀全般に渡って成し遂げた発展の量にも対応するだろう。20世紀は、今日の変化速度における25年のようなものなのである。次の25年は、20世紀の発展の4倍分を成し遂げるだろう。そして21世紀には、2万年分に匹敵する発展を成し遂げるだろう。これは、20世紀での技術的変化のほぼ千倍分に匹敵する。


ドン・ベック: これはすごい引用ですね。しかし、生物学的遺伝システムが、そのような変化量や速度に対応できる複雑なコードを内包していると、この引用は見なしているわけですね。免疫システムを研究している人々の間からは、われわれが実際、肉体面での要求さえ伴うそういった複雑性に対応できる能力があるのかどうかについては疑問もあがってきています。ですから、その引用は、「生命体がそのような変化にも同化できる」ということを前提としてはいます。実際どうなのかは私には分かりません。ただ、「今日われわれは驚異的な変化に晒されている」ということだけは分かります。なぜなら、何十億という人々が、スパイラルの異なった層やレベルを同時に行き来しているように私には見えるからです。ですから、「われわれの種族が一本の水平線に沿って前進している」というよりはむしろ、「複数の変化がスパイラルを上下しながら生じている」ということなのでしょう。多くの人々が、われわれが300年前に退いた領域に入って行こうとしています。

そして、マイクロチップが与えた影響なども他に付け加えています。もっと言えば、分子生物学の研究からより多くを学びながら、われわれは、いわゆる「遺伝子の神秘」をも明らかにしてきています。クローンや遺伝子操作も可能となりました。ただ、これをメチャメチャにしてしまったらどうでしょうか。有機生命体の全てに襲い掛かる遺伝的悪影響やミスなどが解き放たれてしまったらどうなるでしょうか。生態の最も深いコードを操作し始めたとき、カオス理論でいう「バタフライ効果」*1として、実際に何が引き起こされてしまうか誰も予想することはできません。このため、大きなストレスがわれわれに圧しかかってきているのです。これはまた、人々がより多く共同できるような「新しい組織形態」を探すことも意味するでしょう。というのは、こういった全ての事柄を把握しておくことができる一個人などあり得ないからです。


WIE: 進化生物学者のエリサベット・サトゥリス氏は、「ストレスが、唯一、進化を引き起こすものである」と述べていました。今日のライフコンディションで経験している非常に強いストレスと、スパイラルを進化・上昇する速度の潜在性との間には、何らかの関係性があるのでしょうか。


ドン・ベック: そうですねえ、進化とは危機を伴うものです。一つの警告を伴うわけです。しかし、それ自体の中、あるいはそれ自体に関しては、上昇して行くことを保証するものはありません。もし門の外に立っているフン族が文字通り人々に襲いかかるのであれば、あるいは、突然、規模縮小や経済破綻によって失業の恐怖に脅かされるならば、複雑な思考をつかさどる能力や活力といったものが衰え始め、初期の低い優先順位がいきなり支配することになります。

ですから、「危機」に加えて、基本的なミーム・システムには「安定」も必要なのです。さらに、「新しい概念システムを生み出す能力」も必要となります。なぜなら、問題に晒されるだけでは、その社会全体が退行してしまうかもしれないからです。これが、まさにジンバブエで起こったことなのです。ここは、かつては十分な援助がなされた場所だったのですが。現在、事実上ここには、数百万人もの餓死者が発生しています。ですから、ストレスだけが、それ自体として(進化の)鍵とはならないわけです。ノーベル賞受賞者、イリヤ・プリゴジン氏が次のように述べていました。「過去のシステムが消耗し始めたとき、われわれは、より複雑なシステムへ上昇するか、より単純なシステムへ下降するか、いずれかの領域へ到達することになる」と。こういったことが、危機的な領域、決定的場面において起こるわけです。たしかに、ストレスによる危機は、ミームのパラダイムを突破するためにも必要なことではあります。しかし、それ自体の中やそれ自体に関しては、そこに必要とされる「出現」が成し遂げられることを保証するものはないわけです。いまのところは。


*1「バタフライ効果」とは、カオス理論の本質を言い表しているものです。蝶一匹の羽ばたきが、大気の混沌とした運動によって増幅され、一つの妨害を引き起こし、結果的に大規模な天候の変化につながり、このため、長期間の規模での行動に関する予想が不可能になる、という考え方です。



ミーム:世界観と現実


 

ターコイズ・ミーム

連動する力が優雅にバランスを保つシステム

 

イエロー・ミーム

差異と変化によって洗練された混沌的有機体

 

グリーン・ミーム

生活経験を共有する人間環境

 

オレンジ・ミーム

可能性と機会に満ちた市場

 

ブルー・ミーム

究極的真理の支配により命令される存在

 

レッド・ミーム

最も強く狡猾なものが生き残るジャングル

 

パープル・ミーム

精霊的存在と神秘的兆しが生きている呪術的な場所

 

ベージュ・ミーム

人間本能で生存する自然環境



スパイラルダイナミクスの実践


1981年から1999年までの間に60回以上は、私は、南アフリカを訪れたでしょうか。「戦略的発展」という計画を南アフリカで実行するためでした。その間、私の基本的な役割は、社会の様々な領域でステレオタイプ的に使用されている定義を作り直すことであり、日常での人種・民族差別的なカテゴリーを、ミーム的差異による価値システムの理解へと置き換えることでした。これらはすべてこのグローバルな小宇宙において生々しく見出されるものであります。南アフリカの現状における複雑さは、人種的な線引きによる道徳的善悪というものに簡略化されてしまっていました。もちろん、これは重大な間違いであります。多くの同情が、黒人たちの「苦闘」へと注がれましたし、それは正しいことです。しかし、彼らが欲していないもの(アパルトヘイト)を取り除くことは、彼らが欲しているもの(公平で裕福な社会)を得るということとは同じではなかったのです。最終的な分析の結果として、空想的な国家主義による黒人の一党独裁(今日のジンバブエのような)は、アフリカーナ(ヨーロッパ系の南アフリカ人)たちによるそれよりもマシというわけではないのです。


ですから、アフリカーナフォルク(ヨーロッパ系の南アフリカ人)やそういった人々の人種に関する排他的で硬直した信仰に対して攻撃を行なうのではなく、むしろ、私は単純にアフリカにおける技術や農業の発展というものを促しました。これらこそが彼らの使命であると。アメリカの南アフリカ大使であるフランクリン・ソン氏は、次のように言ってくれました。私の仕事が、「白人たちに教育を施し、生活、溢れるばかりの生活が、アパルトヘイトを超えたところに存在するということを彼らに分からせてくれた」と。このメッセージを広めるため、私は、テレビやラジオに出演し、全国各地の学会や公開講座にも足を運びました。続き物として私が書いた6編の記事は、1989年4月に南アフリカの新聞の全てに掲載され、プレトリアのアフリカーナ政治家たちを説得し、ネルソン・マンデラの釈放と和平プロセスの開始に影響を与えることとなりました。


しかし、私は重い対価をも払うことにもなりました。この仕事のため、南アフリカにおいて吊るし上げをくらうことにもなりました。この南アフリカにおいてさえ、「白人、人種差別主義者、アパルトヘイト制度に迎合するのか」と叫ぶグリーンの平等主義者的システムからの攻撃に気をつけるようにと、クレア・グレイブス氏は忠告してくれました。私は、ただ、グリーンが望むものとは異なる解決法を主張したに過ぎなかったのです。グリーンが望むものとは、権力の再分配を即座に行なうことだったのです。なぜなら、グリーンは、ヨーロッパとアフリカとの間の発展に関する格差は、あからさまな人種差別のみに起因すると考えていたからです。グリーン的平等主義の不健全な主張は、ブルーやオレンジの社会的・経済的・政治的建築物を「脱構築」するということでした。これらの構築物のみが、人間の苦難を生み出していると考えていたのです。しかし、「苦悩する産業」でのそうした人々は、負の投資に対する戦略や制裁、西洋の孤立による成功、そういったものを受け継ぐことによる焦土化がいかなるものかについて全く考えが及ばなかったのです。事実、制裁は双方を傷つけることとなりました。職は失われ、二度と戻ってくることはありませんでした。医療制度は、ほとんど機能しなくなりました。主要なインフラ設備も崩壊してしまいました。高い技術レベルを備えた多くの優れた人々が国を去っていきました。そして、エイズの蔓延です。社会全体を健全に変容させていくためのよりよい方法がもっと他にたくさんあると私は思います。南アフリカで制裁を支持していた多くの人々も、私にこう言ってくれました。深いダメージがこの国に永久に与えられてしまったことに気がついた、と。


もしもう一度やり直しするのであれば、南アフリカの人々は、多くの事柄を違った方法で行なうことができるだろうと私は信じております。むろん、実際、内戦や内乱がなくして社会が現われるのであれば、それは単純に素晴らしいことです。ただ、私にとって、アパルトヘイトは問題ではないのです。これは、ヨーロッパ的な様式や思想とアフリカ的な様式や思想が、南アフリカ的な織物へとうまく編み合わせできていないことからくる兆候に過ぎないのです。私が南アフリカへ赴いたのは、公平かつ民主的でありながらも何か全く異なったものが発見され、それが、新しいより複合的な考え方のレベルの出現によって運営され、われわれが共に直面するライフコンディションによって推し進められるであろうことを信じているからなのです。もしモザイク的な社会の断片が、共通の善のために共にうまく働くことができたならば、南アフリカは、地球全体における真の統合のための道筋を指し示すことができるだろうと私は信じております。もし深い対立についての本質を見出すことができたならば、おそらく、私は、彼らの大きな分裂に対する架け橋として陰ながら働くことができるでしょう。非常にたくさんの南アフリカ人が英雄的に関わってくれています。私は、単に先駆者、地図製作者、チアリーダーであるに過ぎません。ズールー族の人々が私に「Amizimuthi」という名を与えてくれました。これは、「よく効く薬を持つ者」という意味だそうです。




安心に関するファーストティアー(第一層)的要求、その全てに同時に答えてくれるような「完全なるグリーン」というものが、もし存在するならば、私の場合、40歳のときにそれを見つけたことになります。「緑の山の州」とよばれるバーモンド州において、有機農場やそこの親切な人々に少なからず恵まれたことです。「理想の地」を求めて4万マイルもの距離を車でひた走り、文字通り州全体を十ヶ月間も巡りまわった末、私とパートナーはその地を購入したのです。幻想的で絵葉書のような全く申し分のないニューイングランドの農場であり、田舎の農家や納戸、カエデ蜜の砂糖小屋、池、野原、そして180度前面に広がるバーモンドの広大な山々の眺め。大地は肥沃で、あらゆるものが肥料としてしっかり定着していました。1940年代に撮影された一枚の写真には、15フィートにも伸びたトウモロコシ畑と共に、小屋の傍らで立つ農夫が写っています。私たちの計画は、生活の中に天国を作りだすため、小さな有機農業を始めることでした。私のパートナーの遺産があるのにそれさえも十分でなかったかのように、「これで経済的なことや生計には一切心配しなくてよくなるだろう」など考えていたわけです。それ以上に何を望むことできたのでしょう。


それは、霊的成長(スピリチュアル・トランスフォーメーション)というものでした。私自身の霊的成長でした。私たちの新しい農地の魅力が色あせてくるに従い、このことにとらわれてしまったのです。実際、この農地を購入するずっと以前からとらわれていたのですが、ただ、あからさまに気づくことがなかっただけなのです(ファーストティアーはしぶといのです)。私はまだ、さがし求めているものは、個人的な恋愛関係の中にこそ見出せると、考えていたのです――上述のような、「自我主導型の夢」というものによって思想的に正当化された「決心」(つまり、グリーンと恋愛関係が一つのきっかけと掴んだというわけです)。だから私は、かき集め、刈り取って、抜きとり、自分のパートナーとの関係における「究極的な意味」というものを見つけようと試みました。しかしそれでも、私の中の不安がなくなることはありませんでした。


ある日の午後、スピリチュアル・ティーチャーとして知られるアンドリュー・コーヘンの話を聞くため、私はボストンへと車を走らせました。私の中でとらわれ落ち着きを欠いていた部分が、その日に現れたもの――より高位の目的と何とも言えぬ可能性というものによって満足させられたのです。ただ、農場にもどると、私はもっと落ち着かなくなっていました。ある朝、私は、カエデ・シロップの缶が置いてある側のキッチンに立ちながら、一つの情景を目にしました。純粋なるエネルギーが吹き出し、私を頭から真っ直ぐにその情景へと引き込んで行きました。私は、木々を眺めていました。私たちの住むこの新しい農場、これ以上に美しいものは何もありません。ただ、私の居るこの「天国の片隅」がどれだけ素朴であり、私が自分自身のために作り上げたこの「個人的なライフコンディション」がどれだけ素晴らしいものであったとしても、もっと大きなライフコンディションが「否応なしに与えられる使命」や「より高位の目的」を生み出しつつ、世界は、熱心にそのかたちを作り上げようとしているのです。これらは、私のグリーン的な考えをずっと超えたところからくるもの、私の恋愛関係やカエデの木々や山々などというものをずっと超えたところから来ているのです。この地がどんなに美しくとも(確かに美しいわけですが)、単にそれだけでは不十分なのです。40歳にさしかかり、私のミッドライフ・クライシスは、「内からの命令」というかたちで現れました。生きることそれ自体のためにも、この使命に従う必要がありました。一ヶ月後、本物の霊的成長(スピリチュアル・トランスフォーメーション)の追求のため、ここを立ち去る決心をしたとき、父は、驚きのあまり腰を抜かさんばかりでした。哲学の教授を長らく勤めている父は、愛情をこめてこのように言ってくれました。「ジェス、私の子供たちの中でも、特にお前は、私が哲学者であるということを嬉しく思わせてくれる子だよ」と。さらにもっと何か言ってくれて、それを聞いたとしてならば、それは、セカンドティアー(第二層)への飛躍へ踏み出すことの少しばかりの手助けになっていたことでしょう。



セカンドティアー(第二層)への飛躍


WIE: 博士の仕事仲間でもあった故クレア・グレイブス氏は、私たちが導かれる進化の方向性について、一つの予言的感覚をお持ちでした。30年前、氏は次のように述べておれました。「人類は、一つの重要なる飛躍に備えなければならない…。それは、生存の次なるレベルへの単なる移行ではなく、人類の歴史のシンフォニーにおける新しい“動き”である」と。現在のライフコンディションの中で生き残り、そしてセカンドティアー(第二層)へ進化していくため、私たちに必要とされる「変容」についてお話いただけますでしょうか。


ドン・ベック: 1970年代後期、グレイブス氏は、自身の研究と観察を通して彼も説明できなかった「思考のパターン」というものに気づき始めていました。彼がテストする一定の人々の中で、意思決定やその他の認識に関する局面において並外れた資質と複合性を有する者がいることに気づき始めたのです。どうも、彼らは異なった種類の心を持っているようなのです。彼らは、より多くの解決法をより素早く見つけることができました。どうも、彼らは地位によって動かされているようでもないようなのです。恐れを抱くこともないのです。たぶんここがとりわけ注目すべき点でしょう。「恐れ」というものが消えてなくっているようなのです。「用心」は残っているものの、「恐れ」がなくなっているのです。部族的安全(パープル)、あからさまな権力志向(レッド)、永遠性への救済(ブルー)、個人的成功(オレンジ)、受容の必要性(グリーン)といった全てのものが、驚くべきことに彼らの中では消えてなくなっているのです。その代わり、「広大なる宇宙で生きているということのみ」についての好奇心がどんどん大きくなっているのです。


WIE: 確かに、「恐れが取り除かれる」ということは、人間存在を形成するための動機づけや人間の意識において、非常に大きな変換点を表わすことにはなりますね。このような「進化の移行への接近」に関して、クレア・グレイブス氏は、それ以外にどのような指標に気づいておられたのでしょうか。


ドン・ベック: 今日われわれが直面している諸問題について、これらがわれわれの眼前に明らかになるずっと以前、これらについて既に気づいていた「心」が存在し、このことに関する初期の証拠を彼は掴んでいたと私は信じております。彼は私にこう述べていたものでした。「恐らく一万に一つの割合で、異なった生態的特徴と周波数を備えた脳が作り出されていると感じるのです」と。そしてこう言われるのです。「これらの個人は、社会の規範に適合しなかった。なぜなら、その『心』は既に異なったパラダイムに向けてられていたからだ」と。そうして、彼はついに次のような結論に到りました。「ここで起こった独特な事柄は、単にグリーンの次の段階を準備するために現れたわけではない。どうも一つの新しいカテゴリーではないか」というのです。新しい考え方と複合性を必要とするライフコンディション(彼はこれに30年前から気づいていたわけですが)がついに現実に現れてきました。しかし彼は、マイクロチップよりも、冷戦終結よりも、DNAや分子生物学の発見よりもずっと以前に、このことに気づいていたのです。

ですから、深い本質的な変化が起こりつつあり、それはミーム・システムの最初の6つを組み合わせただけの総計ではなく、それを超えたものであるということ。ここにグレイブス氏は気づいておられたのです。もちろん、これは一つの理論でしかありません。しかし、われわれが直面している並外れた複雑性に目を向けるとき、この理論が、ますます信憑性を得つつあるようにも見えます。なぜなら、いま、われわれは地球を月から見ることができ、その表面下を貫くができる素晴らしい分析装置や人工衛星をも手に入れ、初めてわれわれは、かつては全く不可能であったこういった方法によって地球自体を「一つの全体的な生態系」として理解し始めることができたからです。それと同時に、他方では、われわれが住む世界がミーム的文化表現の全てを一度に出現させようともがいてもいます――民族的な部族集団、自己中心的な軍事指導者、危険でもあり贖罪的でもある諸々の「主義」、日和見主義者や物質主義者たちのお皿一杯の成功物語、ポストモダン的平等主義者としての政治的、宗教的、職業的な構造の受け入れ。これでは、いい大人も泣きたくなるというものです。どうすればよいのでしょう。


WIE: 確かに。これは大きな問いかけです。セカンドティアー(第二層)への飛躍が、どのようにしてこの問いかけに答えることになるのでしょうか。


ドン・ベック: この時点において古いミーム・システムの全てがバランスよく組み合わされ、消失してしまったかのようになります。セカンドティアー(第二層)の最初のミームであるイエロー・ミームが完全に現れることが、これからの数年に起こり得る一方で、次のことも覚えておくことです。すなわち、この次なるミームレベルの究極的な様相および能力は、直面するライフコンディションの複雑性に十分対応するものであると同時に、それを越えるものに違いないという点です。それは、大きな全体像および全ての相互関係を把握し得るものに違いないのです。ですから、イエローは、以前に来たものに価値をおきながらそれを超えて含み、そしてこれから訪れるであろうものに期待をよせるという能力をもち、「より優れた垂直の視点」を兼ね備えているのです。

8つめのミーム・コードであるターコイズは、7つめのイエローとともに立ち上がってくるであろうと私は信じております。イエローを「感性の伴う左脳」と考え得るならば、ターコイズは「情報を伴う右脳」とも考えられます。ターコイズは、より大きな振幅およびエネルギーの流れというものに焦点を合わせ、地球上の様々な顕現において「生命のエネルギー」それ自体の代わりとして働くことになります。セカンドティアー(第二層)の思考構造は、複雑な諸問題を扱うことができる「思考の深さと質」を求めるための、イエローとターコイズの要素の組み合わせとなるでしょう。これと共に、スパイラルの全体それ自体が「霊的(スピリチュアル)」であり、われわれは「人間的なるものの出現」というハシゴを登っているのであるという認識を得ることになるでしょう。このことが、「霊性(スピリチュアリティー)」なのです。

しかし、ミームとは、人々のタイプを示すものではなく、人々における「適応するための知性」のかたちを示すものです。この時代に生きる誰においても「イエローとターコイズが十分な範囲で存在している」というのは極めて稀なことです。異なった人々が、それぞれに異なった断片や部分や所見を有しており、そしてこのことが、私が「創造的脳の共同組織」と呼ぶものにおいて、洞察的な対話と相互作用による形成を、さらに重要なものとしているわけです。ですから、真剣な会話が初めて必要となってきたのです。その真剣な会話とは、皆がそれぞれに自分のことのみを行なうといった「孤立した会議」ではなく、「深い対話」を必要とするものです。このような難局において如何なる処置をとるか、再びこのようなことが、この時代の「実存的問い」となってきているのです。



 

セカンドティアー(第二層)への飛躍

 

 

「現時点においてわれわれの社会は、人類が今まで直面した中でも最も困難なしかし同時に最もエキサイティングな変化に立ち向かおうとしています。それは、新しい存在のレベルに向かうという単なる変化ではなく、人類の歴史というシンフォニーにおける新しい“動き”の始まりなのです。」

クレア・グレイブス


「われわれを取り巻くあらゆるものがそうであるように、われわれは、絶え間ない動きという状態の中に身をおいています。われわれは、スパイラルのコードによってかたちづくられていくのです。つまり、われわれは、自分の心理を変えることができるというわけです。脳はそれ自体において配線変更が可能なのです。社会は、スタティック(静的)ではないのです。今日の問題は昨日の解決法でした。発展や改革は、われわれの性質の一部なのです。われわれは、心の永遠なる道程を歩んでいるのです。われわれは、いま、重大なる変容、大きなターニングポイント、歴史的変換期といった中を通り抜けているのだと、多くの人々が信じています。新しく全く異なったパターンの考え方が、世界規模で人間活動の様々な分野において現れ始めています。

このようなセカンドティアーへのうねりは、完全に新しい次元での考え方や、新しい概念秩序への変化というものを伴います。最も大きな問題は、世界の回復です。つまり、それにより、生命(人命に限らず、あらゆる生命それ自体)が継続し得るということです。というのは、初めて人は、動物的・社会的な必要によってもたらされた妄想ではなく、宇宙の真実と知識に真に根ざした価値システムを基礎としたところから、あらゆる次元において存在そのものへと向かい合うことができるようになったからです。人類全体のタペストリーを眺めながら進化のスパイラルを上昇していくという認識の歩みに、心が突然ひらかれたというわけです。」

ドン・ベック & グラハム・リンスコット

The Crucible: Forging South Africa's Future

「試練:アフリカの未来を見据えて」



私の一連の生活が、目の前で駆け巡りました。私が、バーモンド州の農場をあきらめ、スピリチュアル・ティーチャーの下で学ぶ者となり、霊的成長(スピリチュアル・トランスフォーメーション)に専心するコミュニティーに参加したという、このことはさほど重要ではありませんでした。私の中のグリーン的なるものは、いまだ消え去ってはいないでしょう(そのほか全てのファーストティアー・ミームも、その意味では同じです)。ある日、友人のテリーがこう言ってくれました。「ジェシカ、あなたは、私たちがグループとして十分に環境保護的でないということに不満があるようね。でも、ちょっとあなた自身の生活も振り返ってみるといいわ。エコロジー的なイメージにもかかわらず、あなたがバーモンド州に居たときの方が、いまよりもずっと、たくさんのものを消費していたわよね。」 たしかにその通りでした。自家用車のアウディーは家の前に駐車されたまま、無駄なショッピングに出かけることもほとんどなくなりました。多くの人たちと暮らし働き、電気・ガス・ガソリン・水道などもほとんど無駄に使うことはありません。もし私がほんのひと時でも、私の中の独善的で高慢なるグリーン的なるものを弱めたらならば、客観的に言っても、実際、いまの私の方がバーモンド州にいたときよりも、ずっと環境保護的であることは認めざるを得ません。こんな風に明らかになるなんて何という皮肉でしょうか。そして、私の中で長らく保持されたグリーン的アイデンティティーと共に、他のあらゆる種類の考え方や理想が暴き出され、ファーストティアー・ミームのそれぞれが、まるでトランプの束のようにせめぎあうわけです。


より高い見地のこうした新しい見方からすると、いかに私が自分自身と調和していなかったということに気づかされます。私の中のグリーン的な環境保護の意識は、いつも私の中のオレンジ的な物質主義と対立していました。私の中のレッド的な独立心は、いつも私の中のグリーン的な受容と総意一致の必要性との間で対立していました。そして、「不健全なグリーン」は、それ自体が、セカンドティアー(第二層)に対立するものとして醜く歪んでいました。高潔な理想主義やナルシスティックな要求に誘惑され、そのため、「信頼」や「委ねて恐れをなくすこと」や「成長としての変容(トンラスフォーメーション)」といったものへの発展的チャレンジを回避していたのです。


さて、ここで「エンライティンメント」に話を戻すならば、今まで見てきたように「誰しも悟りを得たい。しかしながら、誰しも変わることを望まない」といえるでしょう。ただ、正直にいえば、このことは自分には当てはまらないと考えていたのです。つまり、私は、自分はスピリチュアル(霊的)であると思っていたのです。私は、誠実であり、自己犠牲をものともしませんでした。しかし、より深いところでは、進化は、私の見方をも導いていき、こう理解するに到ったのです。すなわち、セカンドティアー(第二層)への飛躍は、「重大な瞬間」であるという意味で、クレア・クレーブス氏は正しかった、と。なぜなら、それは、内的葛藤と深遠なる内的解決との間の差異、つまり、私自身の中の全ての部分、全てのミームとの間の差異を指摘することに他ならないからです。ドン・ベック氏も指摘するように、それは「恐れがなくなること」でもあります。そしてこれは小さなことではないのです。つまり、完全に宇宙の只中でのことなのです。

そして、視点のこのような変化において、私はさらに次のことを見出しました。「全てのスパイラルは必要である」ということです。というのは、このことが、私が今日いるところに導いてくれたからです。すなわち、ドン・ベック氏がいうところの「自分が“限りなく上昇する探求”の一部であると気づくことによる少しばかりの謙虚さ」へ導いてくれたものなのですから。そして「これは単に始まりに過ぎない」ということです。恐れや優柔不断から自由になること、人間性出現のスパイラルが絶えず上昇していくこと、その奇跡的なことへの畏敬の念をいだく自由を得ることをも意味します。そして、それを生み出した宇宙的な秩序への畏敬の念をいだく自由でもあります。洞察の深みと意識の広大なる領域とが、スパイラルの高みからきらめき、本当の可能性が始まるのです。



引用・参考文献

Excerpts and supporting material used with author's permission from Beck, Don E. and Cowan, Christopher, Spiral Dynamics: Mastering Values, Leadership and Change (Malden, MA: Blackwell Inc., 1996); Beck, Don E., "The Search for Cohesion in the Age of Fragmentation," (article written for the 1999 State of the World Forum); Beck, Don and Linscott, Graham, The Crucible: Forging South Africa's Future (Denton, TX: New Paradigm Press, 1991). Richard Dawkins quote from Dawkins, Richard, The Selfish Gene (Oxford University Press, 1989), taken from the website, www.unblinkingeye.com; Clare Graves quotes from Graves, Clare, "Human Nature Prepares for a Momentous Leap," The Futurist (1974); Ray Kurzweil quote taken from the website, www.edge.org; Elisabet Sahtouris quote as told to WIE editor, Carter Phipps, Spring, 2002.

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