ベビーブーマー・ナルシシズム・ニューエイジ ―ケン・ウィルバーインタヴュー―

 

掲載の経緯

 この記事は「トランスパーソナル ヴィジョン 1 特集 ケン・ウィルバー」(雲母書房 1989年7月30日発行)からウィルバーのインタビュー記事部分を、版元である雲母書房様の了承を得て転載したものです。

ターン・オン/チューン・イン/ドロップ・アウト

吉福伸逸 解説 / 翻訳

 現在、アメリカでニューエイジの第二次ブームが起こっていることをご存知の方も多いかもしれない。第二次に比べると、ラディカルではあったが比較的小規模な形で――たとえばサイケデリックスや東洋体験のような、かぎられた共通の基盤をもつ人の間だけという意味――第一次ニューエイジ・ブームが起こったのは70年代後半であった。第一次ブームの中枢を形成していたのは、ニューエイジ母体もしくは温床ともいうべき、いわゆるヒッピー世代で、その大半が60年代に「ターン・オン/チューン・イン/ドロップ・アウト」を経験した筋金入りの確信犯であった。もちろん、この中枢を形成しているのは、60年代世代を中心とするいわゆるベビーブーマーで、その点、第一次ニューエイジ・ブームとも人的に重なり合う部分が多々あることはいうまでもない。

  ここに掲載する原稿は、現在ウィルバーが執筆中の単行本から抜粋したもので、インタヴューの形式になっているが、実際には、たとえば『眼には眼を』の第4章の場合と同様、ウィルバー自身が自問自答した自己インタヴューである。ウィルバーは一般にはニューエイジを推進するキレ味のいい理論家ととらえられているが、ニューエイジのサークルのなかではニューエイジ運動に対して忌憚なく厳しい批判を浴びせる要注意人物としてマークされている一面がある。事実、この原稿のなかでもウィルバーは、最近のニューエイジの動向に厳しい叱責を浴びせている。まずは、ウィルバーのニューエイジ批判に耳を傾けていきたい。



 Q: ニューエイジは存在しますか、ケン?

 A: もちろんです。ところが、ニューエイジにはその提唱者が考えている半分の意味もない。

 Q: 最近ではニューエイジを定義したり、描写することさえ、たいへん困難なようです。ニューエイジに同意する、しないは別にして、あなた自身のニューエイジの定義を提供していただけますか?

 A: 試してみましょう。しかし、この運動を定義するのが非常に難しい理由の一つは、この用語が驚くほど数多くの形で使われているからだということを理解する必要がある。「ニューエイジ」は、いわゆるチャンネルされた素材(たとえば、『セス・スピークス』や『奇蹟のコース』)から、クオーツ・クリスタル・ヒーリング、ピラミッド・パワー、神秘思想、禅、ヨーガ、est、ゲシュタルト、バック・フラワー・レムディ、シャーリー・マクレーン、『タオ自然学』、『アクエリアン革命』、向精神性物質、デザイナー・ドラッグ、東西研究、ニューパラダイム、フィンドホーン・コミュニティ、リンディスファーン、エドガー・ケイシー、ホリスティック医学、ESP、ウィンドスター、超常的リアリティ、変性意識状態、そして――一見不似合いに思うかもしれないが、実際にはそうでもない――たとえば、コンピュータやレーザーなどのハイテクに至るあらゆる人や物に対して使われてきました。

そのため、マスコミでさえ「ニューエイジ」に妥当かつ正確な定義を与えることができない。だからといって彼らを責めることはできません。最近読んだ定義の一つは、『ニューズウィーク』に載っていたもので、ニューエイジ思想は事実上、クオーツ・クリスタル・ヒーリング、東洋神秘思想、ハイテク哲学を組み合わせたものだ、とされてきました。これはこれまで見てきたほかのものと似たような定義ですが、その背景には「ニューエイジ」が実際、こういったことすべてに適用されてきたという事実があります。なんのことだかよくわからないのも当然です。

 Q: あなたはしばしば、ニューエイジの指導的理論家の一人だといわれます。そう呼ばれることに反発を感じますか?

 A: 少々反発があります。ほとんど同じような立場に置かれている学者のことを考えてみてください。好むと好まざるとのかかわらず、ニューエイジの理論家と呼ばれることの多い実に聡明な学者は何十人もいる――ウィリアム・アーウィン・トンプソン、ロジャー・ウォルシュ、チャールズ・タート、フランシスコ・ヴァレラ、フランシス・ヴォーン、それにデヴィッド・スパングラーを含めてもいいでしょう。彼らはぶしつけにシャーリー・マクレーン、アストラル・オーラ・クリーニング、サイキック・マッサージ、ラムサ、フィリピンの心霊手術、ラザリスなどと同じ扱いを受けてしまう。こういったことはそれほど喜ばしいことではない。つまり、ニューエイジ運動を定義することを困難にしているのは、良かれ悪しかれ、10いくつもの異なった運動、哲学、理論が無差別に同一視されてきたという事実があるからです。不幸なことに、こういった種類の無差別ないい加減さが、実際、ニューエイジ運動の唯一の定義になってきているわけです。

 Q: しかし、ニューエイジの「いい側面」、つまり、その正当かつ重要な側面やみずからをニューエイジと呼ぶ優れた哲学者たちのことに言及しているわけではないんでしょう?

 A: それが問題なんですよ。わたしはいかなる意味でも、自分自身を「ニューエイジ」と呼ぶ優れた理論家は一人も知りません。実際、わたしの知るかぎり、大半の優れた理論家――哲学者、心理学者など――は、「ニューエイジ」と呼ばれることやニューエイジの潮流に関連づけられることを忌み嫌っている。ニューエイジと呼ばれるあまりにも多くのものが浅薄だからです。これはニューエイジのいわゆる「いい側面」が、著者自身にしたがうかぎり、実はニューエイジではないことを意味しています。彼らの願いや権利は尊重されなければならない。彼らをニューエイジと考えてはならないわけです。彼らをその場面から差し引いてしまうと、残るのは浅薄で本来性のないナルシシスティックな側面だけになってしまう。少々厳しすぎるように聞こえるかもしれませんが、正直なところこれ以外現存するデータを解読する方法はありいません。

 Q: 少し厳しすぎるようですが、おっしゃることはわかります。しかし、その意見に同意できるかどうかはわかりません。ニューエイジ運動「全体」にはいい理論家や重要な側面があるにもかかわらず、浅薄でばかげた側面と入り混じってしまっている。ところが、いい理論家たちは全員みずからがニューエイジであることを否定し、その呼称さえも拒絶する。そうなると「ニューエイジ」という呼称のもとに残るのは、混乱した異様な要素だけになってしまう。

 A: まさにそのとおりです。

 Q: わかりました。では、いったいどうしてこういった動きがはじまったのでしょうか。ニューエイジ運動には、その中心をなす教義の一つとして、現在も進化が継続しており、その結果われわれはグローバルな霊的意識である高次の意識レベル――あなたが魂のレベルと呼んだものに近いのです――にさしかかりつつあって、これはアクエリアスの時代、グローバルな平和と霊的兄弟姉妹の時代である「ニューエイジ」につながるという考えがある。あなたもこの立場をとっているように思えますが、とすればどうしてこの運動に頭を悩ませているんですか? 

 A: 現在も進化が継続していて、その結果、何百年、何千年も先に高次の霊的成長と発達がもたらされる――わたしもそうなると思っていますが――という場合と、「数年以内に歴史をくつがえす記念碑的変容が起こる。そして自分自身がその変容に指導的立場で参加している」というのは、まったく別なことです。このニューエイジの立場は、きわめてナルシシスティックなものです。われわれが生きているうちにこうした偉大な変容が起こる可能性はほとんどないという事実に照らせば、これはとくに顕著になってきます。その点を差し引くと、ニューエイジの核心が残ります――「ナルシシスティックな自己中心主義」

 Q: しかし、現在目を見張るようなグローバルな変容が起こっていることは確かです。われわれは他のあらゆる文化とつながった一つの惑星文化を築きつつある。この点に不賛成だとは思えませんが。

 A: そうです。現在、きわめて重要な変容が進行しつつあることは確かです。しかし、それは霊的なものではなく、わたしが「知的」次元と呼ぶものの最後の大きな変容です。この変容は「情報革命」と呼ばれてきましたが、まったくそのとおりです。アルヴィン・トフラーはそれを人類史のなかで起こった第三の大きな変容という意味で「第三の波」と呼んでいます。第一は農業、第二は産業革命でした。これら最初の二つの革命は、おもに物質と身体にかかわるものでした。農業は余剰食物を生み出す方法の一つで、それによって人々は狩猟採集ばかりに時間を費やさなくてもよくなり、一つの階級の人々、とくに聖職者が解放されて、時間を他の探求に費やすことができるようになりました。それによって2000年ほどのあいだに、急速に数学、アルファベット、紙幣、銀行、書物などが発明された。重要なのは最初の二つの波や変容をとおして、人類が物理的次元から大幅に解放されたという点です。自分で食べ物を栽培しなくてもいいし、必需品を自分でつくる必要もない。そういったものは購入して、時間をほかのことに費やすことができる。つまり、これらの変容は物質レベルの超越の一部をなすもので、ヒンドゥー教でいわれるアンナマヤコーシャ、すなわち食物と物質の「鞘」からの相対的な解放だったわけです。

 Q: では、第3の波は?

 A: 人類の進化がつづくにつれ、その関心の中心が――霊性へ至る途上で――物質から心へ移行していった。われわれは現在、心のレベル、つまりマノーマヤコーシャのまっただなかにおり、情報の時代、心の時代に住んでいます。これまでの時代がおもに物質、食物、商品に取り組んでいたのに対し、われわれはおもに情報に取り組んでいる。そしてコンピュータは情報の「耕し方」の一つです。農業技術によって、耕すことからからだが解放されたように、コンピュータは重苦しい計算から心を解放してくれる。これが記念碑的変容であることは確かです。そしてあなたもわたしもその一翼を担っている。しかし、そこにはとくに霊的な要素はありません。

 Q: 来るべき霊的変容を予言していた理論家の多くは、最近、静かではあるが、ほぼ完全にその見解を取り消しているようですね。

 A: そう、そのとおりです。15年前、5年以内にスーパーマインドが出現するという予言で、ウィリアム・アーウィン・トンプソンが『タイム』誌に取り上げました。ジョージ・レナードの『ザ・トランスフォーメーション』、マリリン・ファーガソンの『アクエリアン革命』、その祖父ともいうべきチャールズ・ライヒの『緑色革命』をおぼえていますか?ところが、アメリカはいまでも茶色のままで、他の世界同様、数十年、もしくは数世紀、そのままにとどまるでしょう。魂の次元、ひいては霊的次元が出現してくる前に、われわれはまず心の次元を掘り起こし、「脱皮」する作業にとりかかったばかりです。ですから現代は心の時代の夜明けであり、それが何を意味するのであれ、アクエリアス時代の夜明けではありません。

 Q: つまり、多くの人が「グローバル」と「霊性」を混同しているというわけですか?

 A: いい指摘です。まさにそのとおりです。情報はグローバルなものですから、情報の時代はグローバルな時代です。情報に境界を設けるのはきわめてむずかしい。ソ連が市民にコンピュータを与えることに抵抗してきたのはそのためです。情報はイデオロギーに対して盲目ですから。しかし、「グローバル」ということが必ずしも、「霊性」を示唆しているわけではない。いあ、実際にはその逆のことが多い。

 Q: 最初の質問に戻りますが、なぜ、この運動がはじまったのでしょうか?

 A: 単純な答えを出すことはできます。つまり、ニューエイジはベビーブーマー現象、すなわち60年代世代の産物だということです。これはわたしと同世代で、悲しいことに益より害をもたらすことが多かった世代だと思います。

 Q: 実際、だれもが60年代世代は、実に理想主義的だったと考えています。そして、ベトナム反戦運動においては真に道徳的だった。その何がいけないんですか?

 A: ベトナム反戦運動は、徴兵制が終わった日に、突然みごとに終息してしまいました。心理学者のローレンス・コールバーグの研究が示しているように、戦争反対者の大多数――70%から80%――はその道徳性において、脱因習的(無自己もしくは普遍的)ではなく、前因習的(ナルシシスティックで自己中心的)でした。彼らはベトナム人のことを心配していたわけでなく、相手がだれであれ他人から命令されることを嫌っていただけです(「絶対に行かない」)。そして、これこそが――ナルシシズムという――ベビーブーマー最大の特徴の一つだったわけです。「だれであれわたしに命令などさせない」。仲間を裏切っているような気になりますが、われわれの世代は歴史上離婚率がもっとも高く、相手にコミットしたり関係を保つことができず、他人と仲良く安定した関係性を築くことができないということを、数多くの研究が一貫して指摘している点を忘れてはなりません。いいかえれば、われわれは先行するいかなる世代よりも、自己中心的で自己顕示欲が強いということです。「だれであれわたしに命令などさせない」(「きわめつけの愛は、自分に向けられたものだ」と流行歌で歌われています)。60年代のいわゆる理想主義の背後にあったのは、このナルシシスティックな姿勢だと思います。「わたしに命令を下したら喧嘩になる」――そして、その「喧嘩」が理想主義と呼ばれた。もちろん、そうした喧嘩のなかには、正当なものもありました――ベトナム戦争は道徳的混乱でした――が、それを支えていた本当の動機は、ナルシシスティックなものでした。

 「ミーイズムの時代」をしかるべく象徴するナルシシズムという特徴が、ニューエイジをもっとも具体的に表す特徴であることを、否定することはできません。この点ははっきり現れていると思います。

 Q: ベビーブーマー、つまり60年代の若者たちが、なぜヤッピーになったかまったく理解できないんですが、あなたの意見ではしっかりとした理由があるということになる。

 A: そうです。しかし、多くの人が考えているように、驚くほど理想主義的な世代が、突然まわれ右をして、その理想を捨て、冷酷な企業のヤッピーになったわけではない。だれもが良そうするようなまわれ右ではなく、「わたしに命令するな」世代が成功し、仕事に就き、以前と同じ自己顕示欲、競争心、攻撃性、ナルシシズムをマーケットに持ち込み、ヤッピーになったわけです。ウォール街のジェリ・ルービン――これに象徴されます。彼らのモットーは「わたしは自分を信じる」でしたし、現在でもそうです。ヤッピーたちは自分自身に焦点をあわせる方法の一つとして東洋宗教を取り上げ、その後それを捨て、コンピュータと仕事を手にしました。彼らが社会的にリベラルなのは、心から心配しているからではなく、ほかのだれからも命令されたくないからです。また、彼らが「健康狂い」なのは、驚くほど攻撃的で競争心が強いため、あらゆる点で仲間より優位に立ちたいと思っているからです。

 ヤッピーは60年代の心性をもった大人で、マーケットでもかつてと同じように「すべてを手に入れよう」としている。申し訳ありませんが、この結論は避けられないと思います。「ミーイズムの時代」が「わたしの時代」になってしまったわけです。代用品としての消費。BMW、5種類のラズベリー・ビネガー、ヘルス・クラブ、ナイキ、ペリエ、ローレックス――重要なのは「だれの命令も受けない」世代が、他人と同じように見られることを恐怖しているという点です。そのため彼らは取捨選択が激しく、だれももっていないものを探して、国際市場を買いつくす。彼らは強烈に競争心が強く、過度に個人主義的――「よりシャープなイメージ」――であるため、順応を恐怖している。皮肉なことに彼らは、順応しないことに順応した奴隷になっているわけです。この点に関してはリースマンの『孤独な群衆』、ロバート・ベラの『ハートの習癖』、クリストファー・ラッシュの『ナルシシズムの分化』を読めば、完璧に説明されています。これが60年代の産物です。『タイム』誌が指摘しているように、60年代とヤッピーは一見いかに違っていようと、実際には同じ心性の二つの側面なんです。

 Q: そして、あなたはそれをニューエイジ運動全般に結びつける。

 A: そうです。第一にナルシシズムと「即時的満足」という基本的な心理的セットがある。そこにいくつかの真理の種子を投げ込めば、少々歪んだ奇妙な木が生えてくる。
  真理の種子は基本的に3つもしくは4つあります。まず第一に、東洋宗教を投げ込む。すべての原点は鈴木大拙にあります。西洋における霊性の歴史のなかで、いずれ鈴木大拙は聖書の母国語への翻訳と同じ暗い重要な存在とみなされるようになるという点に関して、わたしはリン・ホワイトに同意します。とにかく、真正な神秘主義は、外部からはナルシシスティックな自己没頭に見える。高次の自己、魂、アートマンなどがいつも話題にされますから。それに、瞑想は一見引き篭もって自分自身に集中しているだけに見える。実際、神秘主義はナルシシスティックな目的に誤用される場合があります。やりたいことをやるいいわけに使われてしまうことがある(「愛せ、そして好きなことをやれ」と聖アウグスティヌスはいった)。実際には、そうではないのに、脱因習的だという口実で、前因習的行動の合理化に使われてしまう。これこそ、その世代全体に行き渡っているジャック・ケロアックとその仲間たちの「ダムマ・バム」のアプローチです。

 要するに、超合理的な神秘主義はいとも簡単に前合理的目的、ナルシシスティックで競争的なヤッピーのような目的にすり替えられてしまうわけです。実際に起こったのは、こういうことでした。60年代世代はロバート・ベラのいうように、東洋宗教に「カフェテリア・モデル」としてアプローチした――一つの商品や試みるべきものとしてアプローチしたわけです。そのため霊性をまったくくだらないものにしてしまった。

 第二にグローバルな進化という考えが投げ込まれる。これは現在、大きなグローバルな変容が起こりつつあるという考えです。もちろん、すでに述べたように、グローバルな変容が起こってはいますが、それは心的なもので霊的なものではありません。しかし、「グローバル」と「霊性」を取り違えてしまうと、神の軍団がやってくると思い込んでしまうことになる。

 Q: 三番目はなんでしょうか?

 A: 第三に投げ込まれるのは、パラダイムという考えです。パラダイムとは、近くと認識を支配する一種の「超理論」で、宇宙に関する超地図だといえます。パラダイムは定期的に大きな移行や革命を経て――コペルニクスやアインシュタイン――リアリティに関する(たとえば、地動説のような)まったく異なった概念が生まれてくる。そのためニューエイジャーは、変容が起こり、パラダイムがシフトして大きなパラダイム革命が起こると考えており、自分がその新たなパラダイムを手にしていると思っている。即時的満足、即時的変換、全世界的な地球をゆさぶる変化――そして、自分がその一翼を担っている。

 Q: わかりました。もしかすると、要素は四つあるといっていましたが、四番目の要素は何ですか?

 A: サイケデリックスを投げ込むこともできるでしょう。サイケデリックスによって、短時間のあいだに深遠な魂の変化を起こすことが可能であることが明らかになりました。そのうえ、ときに霊的なものを垣間見ることもある。そのため、サイケデリックスは神聖なオーラがつきまとっている。

 これら四つの要素を組み合わせたり、何らかの誤解が起こると、次のような見解が生まれてくる。現在、世界は大きな岐路にさしかかっており、重大な変容が起こる。この変容にはグローバルな霊性が含まれており、それは根本的に新しいホリスティックなパラダイムをも包含する。これはいま急速に起こりつつあり、自分、このわたしが、その一翼を担っている。じつに「このわたし」というナルシシズムが問題なんです。

 Q: つまり、「この現実がいやなら、ニューエイジにスイッチをいれればいい」ということですか?

 A: そう、そのとおりです。問題は、実際には「スイッチ」や変容はそう簡単に起こらないという点にあります。チャンネルを変えたり、ドラッグをやる以上のことをしなければならない。かつて、歴史そのものが即時的な満足に感動したことはなかった。

 Q: それがニューエイジだというわけですか?

 A: だいたいそんなところでしょう。

 Q: では、ニューエイジの「いい要素」とは何でしょうか?

 A: 彼らは、黙って堅実にその仕事をしています。彼らは「ニューエイジ」という名前やそれにまつわるものをすべて拒絶する。その名称のもとで、あまりにも多くの表面的な事柄が語られるからです。これらの「よい要素」は、自分を神や歴史の先がけだとは思っていない。ナルシシストではないからです。また、歴史は自分を中心にめぐっているわけではない。当然のことですが、彼らはこういった考えをはねのけます。

 これら真正な霊性に真剣に取り組んでいるわたしと同世代の数少ない人々は、ふつう何らかの瞑想マスターに就いて、実践と研究を行っています。これはすばらしいことです。わたしと同世代で黙想に熟練し、それを教えようとしている人のなかには、オゼル・テンジン、ケン・マクロード、シャーロン・シャルツバーグ、ジャック・コーンフィールド、サラ・ハーディンなどがいます。これは60年代が生み出した最善の要素で、わたしの年代から出てきた本当にいい唯一のものです。わたしの意見では、これによって他のすべてが救われます。だれも命令を下さなかったがために――これにはどの教会へ行くべきかだれからも命令を受けないことも含まれます――父親の教会へ行く代わりに、われわれは買い物に出かけ、幸運にも真正な黙想的霊性という本物に出くわしました。わたしの世代の相当数の人が、真剣にしかるべき変容的宗教や真正な瞑想を実践しています。これは何百、何千年後に開花し、ニューエイジ――もし本当にあるとすれば――へとつながる種蒔きだといえるでしょう。これは明日の午後、神が降臨するといったことほどおもしろくはないかもしれませんが、勇気づけられることではあります。自分たちの個人的な努力に何らかの意義があるわけですから。

 Q: つまり、あなたは本質的にニューエイジの一部はいいといっているわけですか?もちろん、その言葉は好きではなく、自分自身を「ニューエイジ」の理論家と考えてはいないということを前提としていますが。

 A: おそらく、そういったことだと思います。もちろん、わたしはニューエイジ運動全体を疎外するつもりはありません。すでにいったように、こういった人たちのハートは正しい場所にある。その考えが狂っているところに問題があるだけです。数多くの欠陥はありますが、ニューエイジ運動は全体として、アメリカ歴史上はじめて、存在の神秘的かつ超越的な、根本的に霊的な次元を取り上げた最初の大衆運動です。これは驚くべき業績です。一般にもっとも誤解されているのがこの次元だからです。ところが、ナルシシスティックな目標や理由にふけりすぎてしまい、そのためいろんな形で裏目に出てしまう。とはいえ、たとえばマーティン・ルーサー・キングのように、山頂に昇り、約束の地を見た人がいたことは事実です。そしてこの貢献が永遠であることに異論の余地はありません。