統合的変容のための実践 (Integral Transformative Practice)
トランスパーソナル思想の統合的実践のための理論的枠組
 

鈴木 規夫

[目次]

  概要

  トランスパーソナル思想の発展段階

   ・第1段階
   ・第2段階
   ・第3段階

  超越と継承(transcend and include)

  インテグラル段階における実践

  3種類の「統合的変容のための実践」

   ・統合的変容のための実践(1人称)
   ・統合的変容のための実践(2人称)
   ・統合的変容のための実践(3人称)
   ・重心の移行

  具体的な活動としての実践

  態度としての実践

  2種類の実践の相補的価値

  自己の成長への責任能力

  実践計画構築のための方法

  ・将来像の創造
  ・現状確認
  ・インバランスの明確化
  ・新しい実践活動の付けくわえ
  ・共同体の構築

  まとめ

  参考文献

  Notes


概要 


トランスパーソナル研究は、これまでの歴史のなかで、その基本的な「ありかた」(orientation)を段階的に発展させてきたが、その過程のなかで、必然的に、この研究領域における重要主題である実践というものについての認識を変化させてきた。とりわけ、現在の「インテグラル段階」においては、実践についての認識は、これまでの段階におけるものとくらべて、飛躍的に深化している。それは、人間の体験するすべての領域を包括的に統合したうえで、真に持続的な変容を志向する統合的変容のための実践と形容することができるものである。この論文では、トランスパーソナル研究のこれまでの段階的発展の歴史を俯瞰しながら、こうした統合的変容のための実践の特徴、そして、その今後の展開への可能性について検討する。



人間の高次の可能性を探求するこころみとして、トランスパーソナル研究が1960年代に確立されてから、すでに40年の時間が経過しようとしている。*1 その間、トランスパーソナル研究も、あらゆる有機的な人間の営為がそうであるように、その基本的な「ありかた」(orientation)を段階的に発展させてきている(Rothberg, 1999)。トランスパーソナルというこころみが、意識の深層に潜在する高次の可能性を実現しようとする「垂直的」な方向性のみならず、同時代を共有する生命を慈愛のなかに抱擁しようとする「水平的」な方向性を内包するこころみであることを考慮すると、1960年代以降、人間の生存状況(life conditions)が劇的に変化するなかで、このトランスパーソナル研究が、そのありかたを変化させてきたことは当然のことであるといえるだろう。

いうまでもなく、トランスパーソナル研究は、実際の人間の癒しに建設的に携ることを意図するこころみである。このことは、必然的に、トランスパーソナル研究が、癒しの源泉となる「体験」を効果的に醸成(経験・解釈・統合)することを可能とする「実践」(practice)について、建設的・実用的な洞察を提供する責任を負っていることを意味する。

実践とは、常に、個人的な要素と集合的な要素を併せもつ営みである。それらの要素は、相互に関連しながら、「意識の変容」(transformation of consciousness)という窮極の「癒し」を実現するために必要とされる主要な活動領域に生命をあたえる。そこでは、個人の実践は、常に、そのひとの個人的な課題に対する取り組むとしてだけでなく、同時代を共有する人間の集合的な癒しへの取り組みとしての意義をもつことになる。つまり、個人の実践は――本人が意識するしないにかかわらず――現在という瞬間を共有する集合としての人類による、そこに存在する課題への対応としての意義をもつのである。その意味で、実践というものについて考察する際、個人の実践に集合的な意義をあたえる時代性という文脈の重要性を認識することが重要になる。

トランスパーソナル研究は、これまで、人間存在の構成要素(Body・Mind・Soul・Spirit)を包括的に認識する、統合的な視野から実践についての研究をしてきた。そして、そうした研究は、必然的に、刻々と変化する人間の生存状況の要求に建設的に対応するための智慧を創出することを同時代への責任として受けとめるなかで、段階的に発展させてきた研究領域としての基本的な「ありかた」の変化を反映するものである。その意味で、実践というトランスパーソナル研究における「要素」を真に理解することができるためには、トランスパーソナル研究の全体的なありかたを把握する必要があるといえるだろう。実践についての議論にはいるまえに、まず、その背景を構成するトランスパーソナル研究の全体的なありかたの歴史的な変遷を簡潔にまとめておきたい。



トランスパーソナル思想の発展段階


ドナルド・ロスバーグ(1999)は、これまでのトランスパーソナル思想の歴史を3つの段階に区分けしている。第1段階は、化学物質等の使用による意識拡張を強調した段階。第2段階は、集中的・継続的な実践による意識変容を実践した段階。そして、今日、統合的段階といわれる第3段階がはじまろうとしている、という。 *2



第1段階


トランスパーソナル研究は、まず、トランスパーソナル体験の「状態」(state)としての側面に注目をして、その研究活動を展開した。「状態」とは、普通、幸福感に満たされた一時的な高揚状態として経験されるもので、こうした体験は、日常の意識状態において知覚されるものとは質的に異なる現実へとわれわれの認識を拡張してくれる。そして、トランスパーソナル研究は、こうした意識状態が、意識の深化のプロセスをひきおこす「触媒」(catalyst)として、人間の発達に重要な意味をもつことを証明した。

しかし、こうした意識状態は、持続性をもたない体験である。しばらくのあいだ高揚状態が継続したあと、いずれは終息するのである。また、こうした意識状態は、意図的に醸成しにくい体験である。経験者がしばしば言うように、それは、ある瞬間に突然に訪れる体験なのである。それゆえに、こうした高揚状態が終息したあと、日常的な意識状態がもどるとき、われわれは、「状態」のなかで経験された幸福感が自らのなかに持続していないことに、また、それを自らのなかに蘇生することができないことに失望するのである。

いずれにしても、こうした「状態」としてのトランスパーソナル体験への注目は、どうしても、それを日常の意識状態と対極化されたものとして聖化する傾向を生みだす。そして、それは、結果として、そうした「状態」を経験することそのものを目的化させる傾向を生みだすことになる。また、これは、刹那的な「状態」を、自らの個人としての存在を増幅するために獲得されるべき「対象物」としてみなす「物質主義」(spiritual materialism)の温床となる危険性を内包していた(Trungpa, 1973)。

 さらに、この時期に合州国では、LSDをはじめとする、人間の意識状態を劇的に変容させる化学物質(mind-altering substance)が蔓延しており、トランスパーソナル・コミュニティーにおいても、「状態」としてのトランスパーソナル体験を醸成するための方法として、こうした物質を積極的に活用した。しかし、こうした物質の服用により醸成される体験が効果的に経験・解釈・統合されるためには、適切な内的・外的な条件を必要とされる(例えば、内的な条件としては、体験者のこころがまえ、そして、外的な条件としては、体験を解釈するための思想体系)(Cortright, 1997)。そうした条件が存在しないところでは、効果的な経験・解釈・統合は、きわめて困難となる危険性がある。トランスパーソナル研究の「状態」としてのトランスパーソナル体験への注目は、そうした条件の重要性の認知という課題を克服するために、必ずしも建設的な貢献をするものではなかったのである。



第2段階


多数の発達心理学の調査が証明するように、人間において、持続性のある心理的成長は、実際には数年の時間をかけて起こるものである。例えば、Suzanne Cook-Greuter(1999/2000)の調査によれば、ある段階からつぎの段階への構造的成長が完遂するためには、少なくても5年間の時間が必要とされるという。一時的な意識の高揚状態は、われわれに、自らのなかに存在する可能性を垣間見せてくれるが、そうした体験そのものは厳密な意味において成長といえるものではない。

構造的な成長は、超越と継承(transcend & include)という法則に則りながら、進展していくプロセスである。これは、高次の成長段階が、そのまえの成長段階において構築された基盤のうえに存立しているということである。そして、これは、必然的に、人間意識の段階的発達において、段階をバイパスすることができないことを意味する。確かに、人間はトランスパーソナル段階へと成長する潜在能力を内蔵しているが、しかし、そうした段階へと到達することができるまえに、まず、その基盤であるパーソナル段階における成長が達成されなければならないのである。

こうした実際の人間成長についての認識のもと、トランスパーソナル研究は、第2段階では、トランスパーソナル体験の「段階」(stage)としての要素に注目をするようになった。結果として、この段階では、トランスパーソナル段階への構造的成長を可能にする集中的・継続的な実践の重要性が強調されることになる。東洋から合衆国に流入した多数の宗教家の指導のもと、トランスパーソナリストたちは、自ら「修行生活」に取り組むことをとおして、持続可能な構造的な意識変容を志向したのである。

「状態」としてのトランスパーソナル体験は、必ず「始まり」と「終わり」のある刹那的な体験である。第2段階では、そうした日常と対極化されたものとしての非日常性を追求するのではなく、むしろ、日常と非日常という乖離を「構築」してしまう自らの認知能力の限界をのりこえるための方法として、集中的・継続的な実践が擁護されたのである。「状態」としてのトランスパーソナル体験が「非日常的」なものとして経験されるのは、あくまでも、存在する意識構造がそれを「日常的」なものとして経験するための成熟段階に到達していないからにほかならない。こうした「日常」と「非日常」の乖離をのりこえるためには、そうした乖離を創造する意識構造をトランスパーソナル段階へと成長させることが必要となるのである。

しかし、トランスパーソナル段階へと構造的な成長を達成することは、必ずしも簡単なことではない。例えば、Robert Kegan(1994)は、先進国においても、人口の70〜80%は、完全にはパーソナル段階(合理性段階)に到達しないと報告している。トランスパーソナル段階が、合理性段階よりもさらに高次の段階であるヴィジョン・ロジック段階が構築されたうえではじめて成立しえるものであることを考慮すると、実際には、人間の意識深化のプロセスがトランスパーソナル段階に到達することがいかに困難であるかが理解できるだろう。

しかし、トランスパーソナル段階への成長が困難なものであるという現実は、決して、トランスパーソナル体験というものを「状態」としてのみとらえるべきだということを意味しない。むしろ、それは、その困難な課題をいかにして克服することができるのかについて真摯に探求をするようにトランスパーソナリストたちを鼓舞するものであったのである。実際、この段階における発想にもとづいて活動を展開しているトランスパーソナリストたちにとって、まず、自ら修行活動に取り組むことは、トランスパーソナリストとして、必須の条件と見なされている。

しかし、こうした段階的成長を重視する姿勢は、ひとつの思想運動として社会的に広範囲に展開しようとしていくうえでは、障害となる。確かに、人間は、普遍的に、トランスパーソナル段階へと成長する潜在能力を内蔵している。しかし、そうした段階の基盤となるパーソナル段階における成熟そのものが、発達心理学の調査が証明するように、実際にはたいへん困難なものであるという事実は、結果的に、トランスパーソナル段階への成長を、ほとんどのひとびとにとって、全く実現性をもたないものとしてしまう。皮肉なことに、トランスパーソナル思想は、研究者による科学的調査の結果を尊重しようとすればするほど、自らの思想運動としての発展の可能性を封殺することになってしまったのである。トランスパーソナル思想は、この段階においては、こうしたジレンマを解決するための効果的な方途を見いだすことができず、発足時にくらべて、その活気が徐々に減退していくのを看過することになる。

 

第3段階


第3段階は、こうしたトランスパーソナル思想の行き詰まりをのりこえるために生まれた。ロスバーグは、この段階を統合的(「インテグラル」もしくは「インテグレイティヴ」)段階とよんでいるが、これは、人間存在についての信頼性のある科学的調査の結果を尊重しながら、尚、一般社会との関係を構築していこうとする姿勢を象徴するものであるといえるだろう。

こうした統合的段階は、普通、ケン・ウィルバーの1995年の著作 “Sex, Ecology, Spirituality: The spirit of evolution” の出版を契機として開始されたものとして認識されている。もちろん、トランスパーソナル思想が行き詰まりに直面していることを、賢明なトランスパーソナリストたちは、この著作の出版のまえから、すでに認識していたが、しかし、また、そうした危機感の解決に寄与することのできる真に説得力のある包括的構想を構築することに失敗してきたことも事実である。その意味で、この著作を、トランスパーソナル・コミュニティーのなかに醸成さていた新段階を志向する機運にはじめて形をあたえた記念碑的な著作として認識することは妥当なことであろう。

統合的段階において実施されている作業を簡潔にまとめるとすれば、それは、人間存在のすべての領域を統合する作業ということができるだろう。それは、内面と外面、そして、個人と集合という、人間の経験するすべての重要領域を包括的に視野にいれたうえで、トランスパーソナルを実践思想として展開させていく作業といえる。これは、たいへん重要なことなので、もうすこし詳しく説明をくわえることにする。

あらゆる思想がそうであるように、トランスパーソナル思想もまた歴史との対話をとおして変容しつづけることを宿命づけられている。殊に、今日のように、社会のあらゆる領域において、人間をとりかこむ状況がめまぐるしく変化する時代においては、そうした責務に積極的に応えていくことは、とりわけ重要なことなる。

トランスパーソナル運動は、1960年代にその当時の支配的思想として世界に君臨していた大量消費主義に対抗する、いわゆるカウンター・カルチャー運動として発祥した。そこでは、市場からとめどなく吐きだされてくる商品の受動的な消費をとおしては決して経験することのできない、人間の内面性の深部から立ちあがるよろこびが真の充足への王道として追求されたのである。

しかし、しばしば指摘されるように、そうした運動が、大量消費主義文明のありかたに対してすぐれた批判を投げかけるものであったとともに、実際には、そうした批判の対象であるメインストリーム社会への依存のうえに成立していたことも紛れもない事実である。つまり、リチャード・ハインバーグ(2004)の指摘するように、そうした運動は、基本的に、メインストリーム社会の保障する物質的な豊かさを前提としたうえで活動を展開する、依存の体質を温存した営みでありつづけたのである。こうした状況においては、トランスパーソナリストたちによるこころみは、メインストリーム社会のありかたを変革しえるだけの実際的な影響力をもつことはできず、最終的には、閉塞した領域における、きわめて個人的な営みとして存在するだけのものに留まらざるをえなかった。

また、こうした内面性探求の閉塞化の流れは、無限成長を根本原則とする大量消費型資本主義の正当性を「証明」することになる東西帝国間の冷戦の終焉をとおして、さらに深刻化することになる。冷戦終焉後の高揚感のなかでは、人類を核兵器の応酬による絶滅の危機から救出した思想を批判することそのものがひどく憚られたのである。第二次世界大戦後に合衆国の主導のもとに出現した大量消費型社会の構造的問題に対する批判のこころみとして自己を意味づけてきたトランスパーソナル運動は、このとき、自らの存在意義を喪失したのである。

1990年代にはいり、トランスパーソナル運動の衰退ということが言われるようになる背景に、このような歴史的状況が存在していたことは、まずまちがい無いだろう。つまり、20世紀後半における劇的な時代の流れのなかで、内面性の探索というこの思想の核を構成する営みが、現代文明のありかたに対する批判という社会的な意義を喪失したとき、トランスパーソナル思想は、時代にひらかれた実践思想としての生命を終えたかのように思われたのである。

しかし、21世紀にはいり、大量消費型資本主義が人類社会の組織原理としてグローバライズされる過程において、その破壊的特質が明らかになるなかで、トランスパーソナル思想はあらためて自らの実践思想としての存在意義を発見するための時期を迎えている。これまで、この運動の存在を革新的なものとして意味づけるために(密かに)必要とされてきたメインストリーム社会そのものがもはや維持不可能であることが明らかになりつつある今日の状況のなかでは、もはや、単純な対抗の思想として自らを意味づける「贅沢」はトランスパーソナル・コミュニティーにはあたえられていない。メインストリームとカウンター・カルチャーという境界そのものが解消しつつある時代のなかで、ただひとつ価値を持ちえるのは、最終的には、この瞬間にわれわれ人類が直面している問題について惑星的な視野から真に説得力のある解決のための構想を示すことだけである。

これまでの探求をとおして、トランスパーソナリストたちは、人間というものが常に関係性のなかで存在していることを確認してきた。意識の深化というたいへん個人的な営みも、実際には、自己の存在の内部から立ちあがる「こころの声」だけでなく、個人をとりまく諸々の環境的な条件にも強く影響されるものである。その意味では、この惑星の生命維持機構そのものが崩壊しようとしている今日において、意識変容という、これまでは内的なこころみとして存続していたものが、積極的に社会的な課題に取り組むようになるのは、ごく自然なことであるといえるだろう。このような時代において、それは、真に包括的な視座から自己の成長に取り組もうとする限り、もはや避けられないことなのである。

第3段階において、トランスパーソナル思想は、こうした問題意識のもと、真の意味で統合的な研究活動を展開するべく建設的な作業を開始している。また、こうしたとりくみのなかで、必然的に、トランスパーソナル思想の重要要素である「実践」についての認識も変化している。


超越と継承(transcend and include)


上記のように、トランスパーソナル研究は、各発展段階において、特徴的な実践のありかたを提唱してきた。第1段階では、「状態」としてのトランスパーソナル体験が着目されたため、こうした状態を醸成する化学物質等の使用をとして、非日常的な意識状態を醸成することが実践のありかたとして抱擁された。第2段階では、「段階」としてのトランスパーソナル体験が着目されたため、集中的・継続的な修行に取り組むことが実践のありかたとして抱擁された。そして、第3段階では、個人としての内面探求のみならず、そうした内面そのものを相互関係性のなかにあらしめる他領域における取り組みも、実践の重要な構成要素として抱擁されたのである。

ここで留意するべきことは、こうした段階的発展の過程において、必ず、先行する段階における重要な成果が継承されてきたことである。

いうまでもなく、第2段階において着目された「段階的成長」を実現するためには、第1段階において着目された「状態」としてのトランスパーソナル体験をくりかえして経験することが必要となる。それにより、最初は非日常的な体験として経験された「状態」が、徐々に日常意識の恒常的な要素となることができるのである。しかし、ここでは、「状態」の経験を至上の目的とする刹那的態度が克服されていることは確認されておくべきであろう。むしろ、ここでは、「非日常」と「日常」の対極化が生みだす乖離を解消することにより、この世界をあらためて「聖化」(“re-enchant”)することに価値が置かれるのである(Tarnas, 1991)。

第3段階において着目されている内面と外面、そして、個人と集合という人間の重要領域を包含した「統合的変容」への実践は、そうした実践に取り組む個人の人格的成熟を基盤とするものである。そして、そのためには、第2段階において着目された「段階的成長」をそのひとがある程度までは達成していることが必要となる。しかし、ここでは、個人として高度の段階的成長を達成することを至上の目的とする態度が克服されていることは確認されておくべきであろう。むしろ、ここでは、個人としての充実の基盤のうえに生成する奉仕の精神の表現に価値が置かれるのである。



インテグラル段階における実践


インテグラル段階における実践のありかたについては、すでに、関係者によりいくつかの具体例が提唱されている。これらの具体的な実践法を総称する名称として、ここでは、インテグラル段階における理論的・実践的な活動を牽引しているインテグラル・インスティトュート(http://www.integralinstitute.org/)にならい、「統合的変容のための実践」(Integral Transformative Practice・ITP)を使用することにする。この名称の意味することは、下記のようにまとめることができる。

ここでは、「統合的」(integral)という言葉は、インテグラル段階における実践が、人間の体験のすべての領域における活動に取り組むことの重要性を認識するものであることをあらわすために使用されている。つまり、人間は、身体(body)・こころ(Mind/Heart)・魂(Soul)・霊(Spirit)という複数の領域を内包する存在であるという前提のもと(Leonard & Murphy, 1995; Wilber, 1995)、インテグラル段階における実践は、これらすべての領域における健康を志向するものであることを意味するのである。

「変容」(transformative)という言葉は、インテグラル段階における実践が、窮極的に、人間の構造的成長(変容)を志向するものであることをあらわすために使用されている。発達心理学者たちが指摘するように(Kegan & Lahey, 2001; Wilber, 1999)、人間意識の成長には、大別して2種類のものがある。ひとつは、既存の意思構造のなかで、より高度の調和や成熟を実現する成長(“translation”)。もうひとつは、段階的により高度の意識構造を構築することによりもたらされる成長(“transformation”)。いうまでもなく、人間の統合的な意識成長にとり、このどちらも必要なものであり、また、実際に、インテグラル段階における実践は、状況と必要を尊重しながら、この2種類の成長を促進することを志向する。しかし、同時に、インテグラル段階における実践は、後者の成長が、個人の意味創造構造(“meaning-making structure”)(Kegan, 1982, 1994)の根本的な解体と再構築を迫る、人間の本質的な変容であることを認識する。こうした認識のもと、それは、この構造的成長(変容)を可能とすることを志向するのである。

「実践」(practice)という言葉は、インテグラル段階における実践が、人間の成長というものが、常に、意図的・継続的な活動を通じて実現されるものであることを認識することをあらわすために使用されている。トランスパーソナル研究は、第2段階の停滞期において、研究活動としての基準の低下を看過したが、結果として、それは、刹那的な高揚状態を体験することを目的とした第1段階におけるありかたへの退行を肯定する状況を生来させた。その意味では、インテグラル段階における実践は、第1段階における問題の克服をとりわけ重視した第2段階の問題意識をあらためて継承するものであると理解することができるだろう。

トランスパーソナル段階への成長が困難なものであるという現実は、決して、トランスパーソナル体験というものを「状態」としてのみとらえるべきだということを意味しない。むしろ、それは、段階的成長という困難な課題を完遂するための方法を探求するという課題をトランスパーソナリストに突きつけるものである。「統合的変容のための実践」は、刹那的な高揚状態のなかで知覚された可能性を自らの持続的な能力として体現するために必要となる段階的成長を完遂するための方法として、この課題に応えるために提唱されたのである。

 

3種類の「統合的変容のための実践」


しかし、「統合的変容のための実践」がインテグラル段階における実践として正当性を確立することができるためには、第2段階における段階的成長を重視する姿勢を継承するだけでなく、斬新な要素をくわえることをとおして、実践というものの「ありかた」を画期的に発展させるものでなければなければならない。実際、「統合的変容のための実践」がインテグラル段階における実践として認識されはじめているのは、こうした要素がもたらした、実践の領域の拡大によるものであるといえる。具体的には、それは、「統合的変容のための実践」が、個人(1人称)の領域のみならず、主観的関係(2人称)と客観的関係(3人称)の領域における変容をも実践上の課題として明確に抱擁したということを意味する(Torbert, et al., 2004)。つまり、これは、ウィルバーが識別した人間経験の主要な三領域(I・we・its)を網羅する包括的なものとしてインテグラル段階における実践が定義されたということである(Wilber, 1995)。つまり、インテグラル段階における実践が「統合的」なものであるということの意味は、人間経験の領域を垂直的に統合(身体・こころ・魂・霊の統合)するということだけでなく、水平的にも統合(1人称・2人称・3人称の統合)するということなのである。



統合的変容のための実践(1人称)


多くのトランスパーソナリストにとり、個人(“I”)の領域における実践(1人称のITP)は、最も理解しやすいものであろう。これは、個人が自らの成長のために、主体的に自己の状況にふさわしい統合的実践法をデザインして、それを継続的に実施していくことを意味する。人間存在の重要な構成要素(身体・こころ・魂・霊)のすべてに働きかけていくという発想法は、トランスパーソナル研究の第2段階における代表的研究(例えば、Murphy, 1993; Wilber, 1986)において、すでに具体的な方法論としてまとめられており、また、実際、今日まで、世界各国において、多数のトランスパーソナリストにより実践されている(Ferrer, 2004; Leonard & Murphy, 1995)。また、インテグラル・インスティトュートにおいて開催されている5日間の実践講座(“Integral Life Practice”)は、1人称のITPの実践のこころみとして、最も実験精神に富んだものといえるだろう。



統合的変容のための実践(2人称)


主観的関係(“we”)の領域における実践(2人称のITP)は、実際の個人と個人の対人関係における変容への実践である。これは、目前に展開する人間関係に建設的に参加することをとおして、関係性の構築・維持・発展に寄与しようとするこころみである。具体的には、こうした2人称のITPは、例えば、共同体における討議活動を建設的に行うための具体的な技法としてまとめられている(Torbert, et al., 2004)。とりわけ、関係者間に見解の相違が存在するときに、相互の関係を悪化させることなく、意見の同意を形成することをめざす、建設的な対話能力は、今日において、自己成長という観点のみならず、社会活動に参加するために、すべての成人が必要とされている能力である。ただ、ここで留意するべきことは、統合的変容のための実践においては、こうした対話の技法は、常に、1人称の実践との関係においてとらえられていることである。確かに、2人称のITPとして認知されている技法には、個人としての人格的成熟のうらづけなしに、あくまでも「技術」(techniques)として習得できるものもある。しかし、そうした条件のもとでは、それらの技法は、自己中心的な動機を基盤として利用されることならざるをえず、結果として、充分に有効性を発揮することはできない。基本的に、2人称のITPは、継続的な1人称のITPの実践にもとづいて成立するものなのである。



統合的変容のための実践(3人称)


客観的関係(“its”)の領域における実践(3人称のITP)は、同時代を共有する人間との関係における変容への実践である。これは、普通、同時代の人間が共有する社会構造の変革という政治的な取り組みとして表現される。あくまでも目前の人間関係に建設的に参加することを主眼として2人称のITPと比較して、3人称のITPの観点は、より大規模のもので、そこで獲得される成果は、時として、同時代の人間のみならず、次世代の人間の福利にも影響をあたえることになる。また、環境保護活動のように、人間のみならず、この惑星を共有する他の生物種の福利にも直截の影響をあたえるものもある。

 多数の調査研究が証明するように、今日、大量消費主義を基盤とする人類の経済活動は、この惑星の生命維持機構そのものが崩壊しようとしている(例えば、Daly & Cobb, 1989/1994; Worldwatch Institute, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005)。そうした時代の危機に対応するために、多数のひとびとが、積極的に活動を展開している。しかし、また、それらの惑星的規模の問題のあまりの巨大さと深刻さゆえに、たくさんの活動家が、絶望等の内的危機を経験している(Lifton, 1993)。また、それらの惑星的規模の問題に対応するための活動は、しばしば、多様な文化背景をもつひとびとの共同作業を必要とするが、関係者が文化的差異をのりこえて共同作業をする意思疎通の技術をもたないために、そうした活動は、しばしば、人間関係上の軋轢に蝕まれることになり、目標を達成することに失敗する。このように、3人称のITPは、こうした大規模の課題・問題に取り組むうえで必要とされる1人称の領域における成熟(例:自己管理能力)と2人称の領域における成熟(例:建設的な交渉能力)を前提として成立する営みなのである。



重心の移行


これら3種類の実践に継続的に取り組むことそのものが、インテグラル段階における実践の目的となる。しかし、上述したように、普通、実践は、1人称⇒2人称⇒3人称の順序で、段階的にその重心(“the center of gravity”)を移行させていく。人間の人格的な成熟は、徐々に他者の福利に積極的に寄与したいという意欲を醸成するが、そうした奉仕への意欲が「最高の関心」(“the ultimate concern”)として確立されるまえに、個人は、まず自らの成長に主体的に取り組むことをとおして、自らの「癒し」を経験しなければならない(一般的に、奉仕への意欲が個人の内発的な「行動論理」(“action logic”)として確立するのは、パーソナル段階の最終段階であるヴィジョン・ロジック段階である)(Torbert, et al., 2004)。また、こうした重心の移行は、年齢を重ねるなかで、個人の社会的な影響力が増すことが必然的にもたらす外的圧力(生存状況)によってひきおこされるものでもある。共同体の参加者として他者の福利を考慮しながら行動することを要求される立場に置かれることにより、個人は、1人称のみならず、2人称と3人称の統合的実践に積極的に取り組むことを期待されるようになるのである。

ただ、ここで留意するべきことは、ここでとりあげられているのが、あくまでも実践の重心であるということである。普通、実践は、その重心を1人称⇒2人称⇒3人称の順序で段階的に移行させていくことになるが、それは、決して、ある段階に実践の重心があるとき、他段階の実践を無視するということを意味するものではない。個人が自らの統合的変容への実践をデザインするにあたり、可能な限り1人称・2人称・3人称の各要素を包含するようにこころがけることは、常に重要である。また、実際、人生のあらゆる瞬間において、人間は、1人称・2人称・3人称という人間経験の主要な三領域を経験しながら、存在しているのであり、それゆえに、構造的に、これらの領域を取捨選択して生きることはできないのである。人生をとおして、人間は、好むと好まざるにかかわらず、それらの領域において責任能力(response-ability)を発揮して、生きていかざるをえないのである。ここで「重心の移行」という言葉で意味されているのは、むしろ、そうした各要素を統合することを意識的にこころがけるという前提のうえで、実際に、その瞬間において、個人が、それらの要素を統合している、その根本的な「ありかた」(orientation)なのである。

ある意味で、実践の重心とは、個人の構造的成熟度を率直に表現するものであり、個人の意識的な操作により、簡単に移行することのできるものではない。しかし、また、実践の重心は、個人が自らの直面する生存状況が突きつける要求に応えようとするなかで、確立されるものでもある。それは、いわば、内的力と外的力が相互作用をするなかで、個人の存在に均衡(equilibrium)を構築するときに、その個人の成長衝動の実現の全体的な方向性として生まれるものと理解することができるだろう。

例えば、3人称的な実践を求める外的な要求がどれほど強くても、個人が、そうした要求に対応するための構造的成熟度を有していなければ――過度の内的な乖離を回避しようとするのであれば――実践の重心は、1人称、または、2人称の領域に確立されることになるだろう。逆に、個人の構造的成熟度がすでに3人称の実践を重心とするための段階に達していても、実際に3人称的な活動を実践するための機会が存在していなければ、その個人の重心は、3人称には確立されないだろう。

インテグラル段階における実践は、個人が、自らの統合的変容のために責任をもつことを強調する(Leonard & Murphy, 1995)。窮極的には、自らの成熟のために、どのような実践が必要とされているのかということを判断するのは、この世界において、その個人しかいないのである。その意味で、指導者に半ば盲目的に従うことが強調された過去とくらべて、今日において、個人の責任――自らの判断にもとづいて、自らの成長を実現していく責任、そして、その結果を受容する責任――は、大きく増加している。

人間が、瞬間・瞬間という人生の部分(parts)を完全に生きることができるためには、人生という全体(whole)を意識のなかに把握することができなければならない(Morin, 2001)。つまり、個人が、人生のあらゆる瞬間において、そこに完全に「ある」ことができるためには、同時に、人生を俯瞰する大局的構想を意識のなかに保持しつづけることができねばならないのである。インテグラル段階においてトランスパーソナリストに要求されている高度の責任能力は、必然的に、自己の実践活動が長期的にどのように質的変化を遂げることになるのかを照明する大局的構想を必要とする。「重心の移行」という言葉で表現されているのは、人生のなかで徐々に展開する実践の根本的な「ありかた」の変化なのである。

人間という小宇宙(micro-cosmos)と世界という大宇宙(macro-cosmos)を有機的な関係性のなかにとらえようとするトランスパーソナル思想は、こうした部分(parts)と全体(whole)とのあいだに存在する相互性を尊重しようとする発想を体現するものである。インテグラル段階においては、トランスパーソナリストは、こうした発想を思索活動においてのみならず、日常の実践のなかにおいても体現するように求められているのである。


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