エゴとソウルとスピリット

鈴木 規夫

「エゴが大きいこと、そのことが問題なのではない。ソウルとスピリットが、それにみあうほどに、大きくないことが問題なのだ。」

このほど、サン・フランシスコ・ベイ・エリアの研究機関に所属する大学院生たちをコロラド州にある邸宅に迎えておこなわれた対話のなかで、ケン・ウィルバーはこのように述べている。

もちろん、このことばが、そこでおこなわれた濃密な対話をとおして、参加者たちとのあいだに確かな相互理解が築かれたうえで発せられた、ややおおまかな表現であることに留意しなければならないのはいうまでもない。

しかし、これからの時代のなかでトランスパーソナル・コミュニティーにつきつけられるであろう問題に、ほんとうに包括的なまなざしをいだきながら向きあっていこうとするときに、われわれは、このすぐれた思想家がふと洩らしたこのようなことばのなかにも、やはり、たしかな智慧がこめられていることに気づくことができるのではないだろうか。


この人生を生きていくうえでいやおうなく経験させられる、ありとあらゆる悲哀を抱きしめ、そして、それらをのり超えていこうとするときに、われわれをほんとうに支えてくれるものとは、それまでの生きかたをとおして、われわれがみずからのなかにつちかうことのできた、こころの統合能力そのものにほかならない。

そして、この統合能力こそが、まさに、エゴの核をなすものなのである。

ウイルバーは、人間意識の深化のプロセスを、みずからが「地獄」に産み落とされた存在であることに気づくことにはじまる、深い悲劇性につらぬかれたものとしてとらえるが、人間の尊厳とは、そのようにさだめられたうえで、なお、この「地獄」のなかに「天国」をもたらすべく、寂寥と情熱を糧としながら、あこがれ、そして、もがきつづけることのなかに見いだされるものだといえるかもしれない。

そして、そうしたみずからのなかから立ちあがるあこがれを慈しみつづけることのできる能力こそが、エゴの大きさを示すものなのであろう。

人格成長のプロセスが、みずからの自己中心性を切りすてていくプロセスにならざるをえないのは、それが、みずからの存在の深みから立ちあがるあこがれを志向していく、そうした朧げなものを見きわめていこうとするいとなみにほかならないからであろう。

そして、そうしたエゴの成熟に支えられた意識深化のプロセスのなかで具現されるソウルとスピリットこそが、とてつもなく大きな死の脅威にさらされたこの世界に大いなるいのちの輝きをもたらすことができるのだろう。


20世紀をとおして、みずからの手によりなされた数々の大量破壊を目撃しつづけてきた人類は、今日、みずからが、これまでには決して存在することのなかった巨大な死の脅威のもとで生きていかざるをえない存在であることを知っている。

みずからの存在を瞬時のうちにこの世界から蒸発させてしまえるほどの大量殺戮技術を、みずからの知性をもって産みだしてしまったことのなかに横たわる、はかりしれない狂気をみずからのうちに感じながら、人類は生きていかざるをえないのである。

エディス・ワイショグロッドのいうように、20世紀における大量破壊の体験は、たしかに、われわれにとって死というもののありかたを根本的に変えてしまったのである。

それまで、われわれ人類にとって、死とは、みずからのうえに絶えずのしかかる根源的な恐怖の源泉であったとともに、また、われわれをさらなる成長へとうながしつづける、いわば、いのちのより健やかな発現を可能とするものでもあった。

われわれは、死を内在させたみずからの存在を見つめることをとおして、みずからをよりすぐれた人格へと成長させることができたのである。

また、われわれは、死という根源的な恐怖を抱えながらも、勇ましく生きぬかれた他者の人生を讃えることをとおして、死によってさえも消しさられることのない永続性のある意味を人間存在にあたえうることを信ずることができたのである。

その意味において、われわれは、人々との絆をとおして、みずからの死をものりこえていけることができたのである。

しかし、今日、われわれのうえにのしかかる死とは、それを目のまえにして、なお、われわれに尊厳ある生きかたを可能にしてくれるコミュニティーという基盤そのものをあとかたなく消しさってしまう破壊力を秘めたものである。

これほどまでに巨大化した破壊性をのりこえていけるほどの能力を、果たして人類はみずからのなかに見いだしていけるのだろうか。

よりいっそうの「繁栄」を求めて、これからさらなる資源争奪戦争をくわだてていこうとしている人類のすがたを目のあたりにするとき、暗然たる感覚にとらわれるのは私だけではないだろう。

しかし、死の脅威に浸潤されつくしたようにみえるこの世界のなかに、それでも、なおいのちを育んでいこうとすることのなかにしか、人類はみずからの進むべき道を見いだしていくことはできないのではないだろうか。


多岐にわたる研究領域による成果を統合するための構想を明らかにするという責務をみずからに課したトランスパーソナル・コミュニティーは、今日、人類のまえに立ちはだかる問題の本質をいちはやくとらえ、それをのりこえていくための方法を率先して模索していくという、とてつもなく大きな義務を負わされている。

そして、このコミュニティーに参加することとは、まさに、そうした時代の危機に戦慄し、そして、それを克服しようとする生命力をみずからのなかに育んでいこうとする志にうらづけられた行為でなければならない。

みずからにあたえられたいのちの充全な発現につくすことは、われわれが真に現代人として生きていくために果たさなければならない、ひとつの責任である。

そして、トランスパーソナル・コミュニティーに寄与することとは、まさに、そうしたみずからのいのちとのたずさわりのなかで見いだされた見識を供するということなのである。

このコミュニティーがみずからに課した構想創造の責務とは、そこに集うたひとりひとりのうちに息づく、この時代の危機にみずからの成長をとおしてとりくんでいこうとする真摯な志のはたらきによってのみ果たされうるものなのだと思う。

そして、このいささかの成功の保証もあたえられていないこころみにとりくんでいくためには、われわれが大きなエゴとソウルとスピリットをみずからのなかに持っていることは必須のことなのである。