ボールダー訪問記

鈴木 規夫

いかなる縁(わけ)によってか、われわれは、人類の存続そのものが脅かされようとしている、まさに、文明の分岐点というべきときに生まれあわせている。そのことを思いかえしながら、あらためて、みずからの人生をふりかえるとき、われわれは、それがトランスパーソナル心理学とのであいへとさだめられていたことに打たれずにはおれない。

そもそも、心理学とは、人間性の闇を注視しようとするこころみであった。しかし、文明の繁栄のうちに息づくひずみが、この地球をそっくり呑みこむほどのものとしてあらわれでようとしているという、まがうことない現実と向きあったとき、心理学は、その人間へのまなざしを、あらためて、問いなおさねばならなかった。

トランスパーソナル心理学とは、まさに、そうした成熟への内省のなかに生まれたものである。それが、「個性の変革」という、それまでの心理学の中心課題を越えて、「人類の変革」という、いっそう大きな問題にとりくむようになったのは、しごくあたりまえのことであった。

そして、今、こうした心理学のあらたなこころみの中心にいるのが、ケン・ウィルバーであることは、もはや、あらためて申すまでもないだろう。

長きにわたる沈黙をやぶって発表された近作、『進化の構造』のなかで、かれは、トランスパーソナル研究がこれから向かうべき方向を描いてみせるが、その壮大な構想(ヴィジョン)をはじめて眼のあたりにしたときの圧倒的な感動は、われわれの記憶に、まだ、まざまざと焼きついている。

わたしも、そのころ休暇をすごしていた合衆国のかたいなかで、ひとり誰もいなくなった大学の学生寮にこもりながら、まだ売りだされたばかりであったこの大作ととりくんだことに、そのズッシリとしたてごたえとともに、思いおこすことができる。それは、わたしにとって、まさに福音のようなものであった。

つまり、ウィルバーは、現代心理学が真に包括的で躍動的なコスモロジーを創出するための緒(いとぐち)をあたえることができることを証明してみせてくれたのである。

わたしが、みずからのなかにつのらせてきたいらだちを見きわめ、ふたたび人間心理の研究に意欲的にとりくむことができるようになるには、ウィルバーとのであいは、かけがえのないものであった。それは、わたしに、この時代が抱える苦悩を解決するには、あまりにも矮小なものと思えた現代心理学への信頼をとりもどさせてくれたのである。

こうしたことがあればこそ、わたしは、今、こうして人間のこころを見つめることに、よろこびへを感じつづけることができるのだろう。まちがいなく、かれは、わたしの人生に光をあたえたのである。

しかし、そうはいっても、ウィルバーは、あくまでも雲のうえの人。わたしにできることといえば、遠くから、あこがれているくらいのものである。

まさか、そのあこがれの人と会うことになろうとは、思ってもいなかった。それも、本人の招きによって。



しばらくまえから、各界の識者たちが、コロラド州のボールダーにあるウィルバーの邸宅につどい、会合をかさねていることは知っていた。これまでは、ほとんど公の場にあらわれることもなく、ずっと執筆活動に専念してきたウィルバーであるが、いよいよ機が熟してきたと考えたのであろう、ここにきて、みずからの思想を基盤とする研究機関、インテグラル・インスティトゥートの実現にむけて動きだしているというのだ。今のところ、インスティトゥートには、医療(メディスン)・環境(エコロジー)・教育(エジュケイション)・芸術(アート)・商業(ビジネス)・心理学(サイコロジー)・宗教(リリジョン)・政治(ポリティクス)・法(ロー)といった部門の設立が構想されており、それらが、協働しながら、研究・教育活動をおこなっていくことになるという。

わたしが招いていただいたのは、そのなかの心理学(サイコロジー)部門のはじめての会合である。昨秋、いつものように、コロラド州ボールダーで、三日間にわたっておこなわれた。



サン・フランシスコから、ウィルバー邸に到着したときには、すでに歓迎会がはじまっていた。30人ほどの男女が、おもいおもいのはなしにうち興じている。誰もがそこにいることができることへのよろこびを押さえきれていないようで、張りつめるような熱気が部屋を満たしている。

まずは、カリフォルニア統合研究所(カリフォルニア・インスティトゥート・オブ・インテグラル・スタディーズ)の級友たちとの久しぶりの再会をよろこびあう。すでに、かれらは、ウィルバーとのあいさつをすませてあるという。わたしも、さっそく、そうすることにした。

さて、どこにいるかな・・・・とあたりを見まわすと、すぐに見つかった。

見まちがえるわけもない。190センチもある剃髪の人など、そうざらにいるはずはないのである。

ヴェランダで誰かとはなしをしているが、とりあえず、あいさつだけしておこうと、わたしはそちらのほうに近づいていった。と、かれは、それまでのはなしをスッとうちきり、こちらにむきなおり、そして、ひとこと。

「ノリオ・スズキ!」

これには感激してしまった。どうも、あらかじめ、みなの名前をすべて覚えてしまっているようなのだ。

あまりのことに、わたしは、ただ、かたどおりのあいさつのことばを口にすることができるだけである。「こ、こ、ここにくることができて、と、と、とても光栄です・・・」

まあ、これは、ちょっと、おおげさかもしれないが、しかし、こんなちょっとしたこころづかいからも、かれの人となりを窺うことができるというものである。

また、今、あらためてふりかえってみても、この瞬間(とき)にわたしのなかにめばえた、かれへの信頼は、かならずしも根拠のないものでもないように思えるのだ。

ややもすると、かたくるしいものになりかねないだけに、こうした集まりにおいては、そこにいる人間へのきめこまやかなこころづかいが、主催者に求められるというのは、いうまでもないだろう。しかし、それを、みずからがくつろぎながら、驚くほどみごとにやってみせるというのは、なかなかできることではない。しかも、それを、三日間にわたって、たえず諧謔のワサビの効いたユーモアをふりまき、生き生きとした空気を醸成しながら、充実した議論を促していくことが、どれほど容易ならざることであるか。

それだけのことをひとりで飄々とやってしまうウィルバーの人間としての大きさに、わたしは、まず魅せられてしまった。

しかし、わたしにとって、何よりもうれしかったのは、これまでは、その作品のなかにおぼろげにしか見えなかったものを眼のあたりにすることができたことである。それは、あえていえば、ウィルバーの人間としての器とでもいうものである。

かれの作品をはじめて読んだときにわれわれが感じる、あのまるで命が燃えあがるような喜びとは、実は、ケン・ウィルバーという人間の器そのもののとてつもない大きさに触れることをとおして、われわれのなかに沸きあがるものなのではないか。すくなくとも、わたしにそう思われるほどに、かれの存在は偉(おお)きなものであった。

ウェイト・リフティングによって、みごとに鍛えあげられた、そのひきしまったからだの動きは、どこまでもやわらかく優雅でありながら、そこには、何か果てしないものへと連なるような不思議な風格が漂う。

かれを見つめていると、わたしの視線は、いつのまにか、ケン・ウィルバーという人格のかなたへと連れさられてしまう。決しておおげさではなく、かれをとおして、わたしは、ひとりの人間が存在することの奇跡へと向きあわされてしまうのである。

ところで、あらためて述べるまでもないとは思うが、かれの「頭脳」についても、いちおう触れてかねばなるまい。

やはり、もっとも印象的なのは、夕食をとってから、かれをかこんで、語りあったことであろうか。いや、これは正確ではない。語りあったのではなく、かれが、しゃべりつづけたのである。

あくまでも、われわれの質問に応えるということであったが、いったんはなしだすと、かれのこたえは、とどまることなく、つづいた。しかも、とにかくおもしろい。あえていえば、それは、滝のようにおしよせてくる、とほうもない情報の流れをからだいっぱいに浴びているような感じ、ということができるだろうか。

そのここちよさに身をまかせているうちに、気がついたときには、すでに真夜中をまわろうとしているのであった。

きっと、このためだろう、ひどく疲れているはずなのに、どうにも眠れない。もちろん、それは、わたしだけではない。みんな、そうなのである。

つまり、ウィルバーによって、われわれの頭脳が、手におえないほどに活性化してしまったのである。



付記

ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の思想の概要については、トランスパーソナル研究のこれまでの成果をまとめた書物のほとんどがそれなりのスペースを割いて、論じているので、それをあたってほしい。ただ、そのどれもが、かれの壮大な構想(ヴィジョン)をありのままに伝えきれていないことは述べておかねばならない。また、浅はかな「理解」にもとづいた、的はずれな批判もしばしば見かけられるようである。

したがって、ウィルバーの思想をよりよく理解したいと思われるかたには、ぜひ、かれの作品そのものにとりくんでほしい。幸いにも、それらは、いずれも、もうこれ以上はありえない、というほどにわかりやすいことばで書かれているので、どれからはじめてもいいだろう。とりあえず、ふたつの作品を「入門書」として推薦しておこう。

Brief History of Everything (Shambhala Pubns, 2001(paperback))

(邦訳『万物の歴史』、春秋社、1996年)

Marriage of Sense and Soul (Broadway Books, 1999)

(邦訳『科学と宗教の統合』、春秋社、2000年)

また、こうした「入門書」に飽きたらないかたは、ぜひ、Sex, Ecology, Spirituality (Shambhala Pubns, 2000(paperback))

(邦訳『進化の構造』、春秋社、1998年)にとりくんでいただきたい。

 

ウィルバーの作品のほとんどはペーパーバック化されており、いずれも廉価にて購入することができるので、ぜひ、ウィルバーのことばの妙味をそのまま味わっていただきたいと思う。原文にとりくむことに気おくれするかたは、かれの作品のほとんどは日本語に翻訳されているので、また、それらもなかなかよいもののようなので、心配することもないだろう。すくなくとも、どういう内容かはわかるはずだ。

また、かれのウェッブ・サイト(http://wilber.shambhala.com)では、エッセイの数々が無料で公開されているので、そちらも利用していただきたい。