インテグラル・アプローチにおける「永遠の哲学」と「新・永遠の哲学」 

与那城 務

1. はじめに

 「全ては正しいが、部分的である」というインテグラル・アプローチの姿勢は、単に「様々な思想や信条や教義の寄せ集め・パッチワークをつくる」ということを意味するわけではない。この点の理解が不十分であると、「インテグラル(統合)とは要するに様々なものを幅広く行うことだ」という安易な理解にとどまってしまう。インテグラル・アプローチとは、「様々なものの寄せ集め・パッチワーク」にとどまるものではなく、「様々な学問分野が協力し合うという学際主義」にとどまるものでもなく、また、「様々なものを(インテグラルという)単一のものに規格化してしまう」というものでもない。こうした諸々の誤解がインテグラル・アプローチのより深い理解に至る際の障害になっているのではないかと思う。


 「寄せ集め・パッチワーク」と誤解する傾向には、「様々な価値観は、単に解釈されたものに過ぎない」というポストモダニズム的な相対主義がその背後にあるように思われる。価値観が、「一種のテキスト化された言説」と見なされ、並列・陳列されたために、「これらを寄せ集めてみよう」という"意図"が生じるのは必然のことかもしれない。このような意図には、「価値の相対化というニヒリズム」および「価値は相対化されたものであるということを理解できる"自分"の優等性・優越性に耽溺しようとするというナルシシズム」が無意識的にも潜んでいる。


 いわゆる「学際主義」というものも、同じようなポスモダン的相対主義の産物であろう。「全ては特定の権力構造の中において解釈されたものに過ぎない」という"解釈"から、既成の権威や制度を"脱構築"して、現在直面している時代状況に対応しようとする意図がそこには存在している。すなわち、「既存の権威や制度の下にある学問的カテゴリーにおいて対応できない現代の時代状況」に対しては、「学際的に対応すべきだ」という意図のことである。これは、確かに意義のある試みではあるが、ここにも、「既成の価値観の否定」・「価値判断そのものの否定」・「脱構築自体への無意識的な固執」といったニヒリズムやナルシシズムが潜んでいるといえる。様々な方法論的横断の結果、方法論そのもののアイデンティティーや役割が溶解してしまった状況がそこにはある。学際的分野を修めた学生が、「いったい自分は何を勉強したのか分からない」という状況が発生しているわけである。


 また、「インテグラルとは、様々なものを(インテグラルという)単一のものに規格化してしまう」ことでもないという点に関しては、次のようなことがいえる。すなわち、「寄せ集め・パッチワークされたものが、突然、前近代的な価値に退行すると、こうした寄せ集め・パッチワークそのものが権威化・絶対化されてしまう」という状況である。言うまでもなく、インテグラル・アプローチとは、このような「インテグラル・アプローチそのものの前近代的な正当化・絶対化」ではない。なお、「絶対化」ではないが、これは、また、他の方法論との比較において、「インテグラル・アプローチ」の優越性(価値)を情熱的に擁護しようとする態度を排除することを意味するものでもない。


 ケン・ウィルバー本人も、自身の著作のいたるところでポストモダン的相対主義に対する危機意識について言及している。ここからも、インテグラル・アプローチが、いわゆる「ポストモダン的状況で生じたパッチワーク・寄せ集め」でも、「価値相対主義的な学際主義」でも、また、「前近代的な権威化・絶対化」でもないことが容易に理解できる。むしろ、そうした誤解に基づく安易な姿勢への警告・危機意識なのである。


 では、警告・危機意識であるならば、インテグラル・アプローチとは、いったい何なのであろうか。この点の理解を深めるためには、ケン・ウィルバー自身と「永遠の哲学(Perennial Philosophy)」および「新・永遠の哲学(Neo-Perennial Philosophy)」との関係を確認することが有効である。これはまた、「神秘主義思想家としてのケン・ウィルバー」という視点とも大きく関わることになる。むしろ、「ケン・ウィルバー自身がインテグラル・アプローチに至る軌跡」というものを理解する上でも、「永遠の哲学」および「新・永遠の哲学」とそれに関連する神秘主義思想は、必要不可欠な視点である。


 先に敢えて、結論めいたことを述べるならば、「永遠の哲学」と「神秘主義」、さらには、「心理学的な成長」と「文明論的なパラダイム・シフト」、そして「方法論的議論」そのものが、インテグラル・アプローチの主な内容となるものであり、従来の「永遠の哲学」に、こうしたケン・ウィルバー的洞察(インテグラル・アプローチ)が加味されたものが、「新・永遠の哲学」であると、まずは理解してよいといえよう。


 逆にいえば、インテグラル・アプローチを理解する際、冒頭のような数々の"誤解"に陥らずに、「正しい理解」に至るためにも、この「新・永遠の哲学」の把握は不可欠であるといえる。この辺りの関係を探るために、以下、本論を進めていきたい。



2. 「永遠の哲学」と「四象限・階層モデル」

 彼の年譜を振り返って見ても分かることだが、ケン・ウィルバーは、まず何よりも「神秘主義思想家」として捉えることができる。若い頃より禅の修行に励み見性に至り、アラン・ワッツの著作を読み込み、また、マハトマ・ガンディーのごとく『バガヴァット・ギータ(Bhagavad Gita)』を熟読している。キリスト教神秘主義やイスラム教スーフィズム等にも深い理解を示している。こうした知識と経験に基づき、彼の処女作である『意識のスペクトル(The Spectrum of Consciousness)』では、「瞑想体験」としての次のような要素を抽出している。なお、本論では、英語版からの拙訳のみを提示することにする。


第一要素:
気づき(一心):適度な緊張を伴いながらもリラックスしているという「特別な状態での注意」のこと。「聴きますから話してください」という傾聴の態度であり、自分において生じる傾向にも気づきながら、それを完全に把握して受け入れることである。また、自分において生じる思考や感情についても、冷静にしっかりと観察している状態である。「いま・ここ」に生じる内面・外面についてしっかりと注意を払い、しっかりと受け止めている状態のことである。こうした「気づき」が正しく実行されると、第二要素へ至る。

第二要素:
停止(無心):思考や、概念化、客観化、対象化、独り言、考え事といったものが「停止」する状態のこと。こうした「停止」は、「究極的現実(あるがままの現実)」を歪めたあらゆる「知る行為」や、「認識する行為」、「二元的・象徴的・解釈的な知識の運用」といったいわゆる「第一層の知る行為」の「停止」を意味する。すなわち、「二元性そのもの」の認識行為が「停止」することである。「空間」・「時間」・「かたち」・「二元性」の「停止」であり、この状態において「完全なる心の静寂」が訪れる。そこでは、「あるがまま」が残されて、そのような「あるがままの静寂」・「あるがままの平安」があり、黄檗の言葉に従うならば、「道場(Bodhimandala)に端座していること」であり、この「端座」において「悟り」が生じることになる。こうした「停止」が何の濁りもなく完全であれば、第三要素に至る。

第三要素:
大いなる目覚め(本心):「何も見ていない」という「見ている状態」のこと。この「何も見ていない」とは、「本当の"見ること"」であり、「永遠の"見ること"」である。つまり、この「大いなる目覚め」における「見ている状態」とは、「単なる空白や真空を見ている」ということではない。しかし、それでも、「何も対象は見ていない」のである。「主客の区別」という"二元性"のない「時間を超えた純粋なる目覚め」である。それゆえに、「それ自体において完全」であり、「それ自体への何らの外面的なもの・目的となるべきものはない」のである。それ自体の外面には何もないので、それ自体は、何のいかなる努力も必要としない。完全にあるがままの自然な状態において、過去や未来へのこだわりもない。「究極的な"いま・ここ"」において、時空を超えた営みをなし、それ自体を超えて何を指摘することもなく、それ自体を超えて何を見ることもない。すなわち、「第二層の知る行為」であり、「何事からのいかなる分離もなく、全てを知ること」であり、「既に常にあることの瞬間」である。


 このように、ケン・ウィルバーは、様々な宗教において確認できる「瞑想的な体験」に共通する要素を探るという試みを行っている。一方では、「意識の階層」をスペクトルとみなして、各階層(波長・色)において心理学の各派がどのように位置づけされるかを提示し、他方では、「全ての宗教に共通する要素の抽出」を行っている。こうした進化論的な「階層の肯定」と、永遠の哲学のような「非階層的な要素の抽出」という"同時作業"において、後のケン・ウィルバーによる「新・永遠の哲学」への萌芽がここで既に確認できる。


 前者における「意識の階層」では、アーサー・ケストラーの「ホロンの概念」や、トマス・クーンの「パラダイム・シフト」といった理論を導入しながら、ケン・ウィルバー独自の「ホラーキカルな階層」を提示するに至っている。後者は、そのアプローチとしては、ゴットフリート・ライプニッツからオルダス・ハクスリーにいたる「永遠の哲学」そのものではある。そして、この二つを統合するための一種の「橋渡し」として導入されたのが、いわゆる「心理学的・人格的な成長の概念」である。すなわち、認知心理学でのジャン・ピアジェやローレンス・コールバーグ、発達心理学でもアブラハム・マズローなど。また東洋では、シュリ・オーロビンド・ゴーシュや、仏教の唯識的な意識の階層等も含めて、「意識の階層」という"普遍的な共通点"を導き出し、彼独自の階層構築により、さらにその理解を深めようとしている。すなわち、このような「統合」において、「非階層的な共通項を確認する」という「永遠の哲学」にとどまらず、むしろ、「階層のありようそのものが、実は、全ての宗教にも共通するものである」という洞察に至り、これを提示しているのである。同時にこれは、心理学における「認識論的革命(Cognitive Revolution)」とも重なっており、従来の行動主義心理学から離れて、「意識の内面とその構造・階層を把握していく」という方法論的転回とも同時期である。


 ただし、「質的・量的」、「内面・外面」、「個人・集団」という調査対象の扱い方への方法論的な問題への追求は、まだその時点では明確にはなされていなかった。この意味では、この時点での「統合」は、方法論的議論という面では、また不十分な「統合」ではあった。各学問分野は、このような「方法論的な対立軸」の中で「自身の方法論の正当性を主張する」という状態のままであった。


 一見、そうした全ての方法論な対立を解消するかのように見えたポストモダニズムも、単に「自身の(ポストモダンという)方法論の正当性を"無自覚"に主張する」という状態に陥ったのみであった。こうした状況の中で、方法論的・認識論的な対立を「四象限」というモデルの中で「統合」した点も、ケン・ウィルバーの貢献の一つである。さらにそこに、「真・善・美」を重ね合わせ、「物質・身体・心性・魂・霊性」といった「存在の大いなる連鎖(Great Chain of Being)」 を単に個人の意識の階層にとどめず、社会や文化・外面的個人の領域での対応関係を示したのである。


 この辺の議論は、『進化の構造』においてされているが、まさに「人類の進化と知の見取り図」を提示されたような気分に読者は至るであろう。こうした「統合」は、単なる「相対主義的な寄せ集め」でも、「学際主義」でも、「特定"教義"の構築」でもなく、深い洞察から導き出された一種の「悟り」というべきものかもしれない。「深い神秘体験に至ると、"すべてのありのまま"を見つめるようになり、そこから導き出される一種の"調和"を捉えることができる」というようなことを、ジッドゥ・クリシュナムルティは述べているが、ケン・ウィルバーの「四象限・階層モデル」は、そうした「直観」に近いものであろう。


 ただし、ここで急いで付け加える必要があるが、これは、「四象限・階層モデルが"知の全体像を示した非二元的・直観的な秘儀的シンボル"のようなものである」ということではない。そのような捉え方は、ケン・ウィルバーの洞察を"教義化"してしまう危険を孕む。彼のモデルも、数多くある学問的モデルの一つに過ぎない。つまり、モデルとして提示・説明された時点で、それは、「対象化された言説」であり、「理論・思想として相対化されるもの」であり、様々な訂正・加筆が加えられていくものなのである。実際、ケン・ウィルバー本人もそうしている。ケン・ウィルバー自身も繰り返し述べていることであるが、「神秘体験」とは、非二元的な認識の位相であり、言葉では説明できないものであり、もし言葉で説明しようとすると、逆説的(パラドキシカル)な表現にしかなり得ないものなのである。ここからも、多くの宗教的・神秘主義的言説が、逆説的表現に満ちている理由がある。後述するように、この点をケン・ウィルバーは『眼には眼を』において詳しく述べている。



3. 神秘体験とカテゴリー・エラー

 「真理とは何か」といった場合、様々な"回答"が用意され得るが、宗教的神秘主義では、それは、「非二元的な神との出会いのこと」・「空(くう)のこと」であると述べている。これは、どの宗教においても(特に神秘主義においては)共通する点である。ただし、こうした「真理を知る宗教体験」とは、極めて個人的なものと見なされ、客観性・二元性・言説化を前提とした場合、最初から否定されるため、いわゆる学問的な議論になりにくい傾向があった。このため、どの宗教においても、学問的研究となると、経典の解釈学・文献学・神学・教義学といった「対象的言説の扱い」に終始したわけである。


 しかしながら、これは神秘主義哲学の分野からもよく主張されるように、こうした「個人的体験」も、その方法論的議論において"学問的"な土台を得ることができると言われている。ケン・ウィルバーの言葉を借りれば、「あなた自身の意識や身体が実験室である」ということである。これは、仏陀の言葉にもあるが、「神秘体験の真偽」を問われた際、それが真理であるかどうかは、「あなた自身で試して見なさい」ということである。この仏陀の言葉は、アルバート・アインシュタインをして「仏教は科学的だ」と言わしめた理由の一つであり、仏陀自身は、「信じなさいとはいいません。私は実践をただ勧めるだけです。その真偽は自身で確かめなさい」と言うわけである。


 このような「科学的姿勢」は、実は、仏教に限定されていることではなく、むしろ、どの宗教においても、神秘主義全般において共通することでもある。なぜながら、こうした神秘体験の位相においては、いかなる言語的な解釈も入る余地がなく、このため、教義や社会文化や言語による"宗教の差異"よりも、むしろ、「非言語的な(体験的な)共通項」のみが「抽出」されるのである。それがすなわち、「非二元的な神との出会い」であり、「主客融合」のことであり、「空(くう)」のことであり、「無我・無私・没我」のことである。世界のあらゆる宗教の神秘体験がこの点で共通しているのは、驚くべきことではあるが、むしろ、これは当然のことでもある。この意味において、宗教はわれわれを「統合」に導くものであり、決して「分裂」を招くものではない。ジッドゥ・クリシュナムルティが「既存の宗教」に対して容赦のない攻撃を加えるとき、それは、「分裂を招く対象としての宗教」であり、「対象としての神」であり、「そこに依存せずにはいられないわれわれの自我・執着」のことである。むろん、この彼の見解は、ケン・ウィルバーも同意するところである。


 ただし、こうして求められた「真理」は、厳密に言えば、個人的体験であるがゆえに、「真・善・美」の中の「美」に相当するものでしかない。これも、ジッドゥ・クリシュナムルティがよく口癖のように言うのは、神秘体験に言及した際、「お分かりになりますか、この美しいものを」というのもこれと関係している。すなわち、「四象限の左上における真理」とは、神秘体験であると同時に、一種の「美的純粋経験」でもある。したがって、こうした体験に対して、「きわめて個人的なものに過ぎないから無意味異だ」と、学問的・科学的な立場から攻撃をするのはいわゆるカテゴリー・エラーであると、ケン・ウィルバーはまさしく四象限において説明するわけである。たとえば、こうした体験を脳内物質によって説明する場合、このアプローチは、そもそも"土俵"が違うわけであり、「脳内物質の効果により、そうなっただけであって、神と出会ってなどいないのだ」と指摘したみたところで、これは、何の非難・否定にもならない。神秘体験を「四象限の右上」から説明したというだけである。


 もしあなたがウィリアム・シェークスピアの作品の素晴らしさ・美しさを理解したいのであれば、あなたはそれを実際に読んで"作品世界"を"追体験"しなければ、決して理解できない。仏陀のいう「試してみなさい」ということであり、ケン・ウィルバーの言う「あなたの身体や意識が実験室である」ということである。素晴らしいかどうか・美しいかどうかは、実際に読んでみないと分からないのである。これと同じように、何の瞑想も祈りもしない者が、瞑想者や祈祷者の頭に電極をつけたり、CTスキャンを試みたところで、それはまるで、ウィリアム・シェークスピアの作品を読みもせず、ただ、そのインクの成分を調べたり、文字数やページを数えたり、紙の種類を調べたりしているのと同じことである。


 この種のカテゴリー・エラーは、簡単に見えて、意外にもわれわれが日常より犯しているエラーである。また、これは逆にいえば、このウィリアム・シェークスピアの作品が、「何年に出版されたものであり、第何版であり、どこで出版されたものか」という「文献学的な真理」を突き止めたいのであれば、作品自体の素晴らしさ・美しさを"作品世界"においていくら"追体験"してもあまり意味はない。紙の種類を調べたりすることが、むしろ、意味のある方法である。こちらは、まさに「何が真理であるのか」という際の"客観性"を追及するものであり、「四象限の右側」に属するものである。

4. 四象限の全体と神秘体験

 また、上記から次のようなこともいえるだろう。いくら神秘体験を得て神と出会ったとしても、それのみによっては、"世界の救済"とはならないということ。社会が変わることはないのである。井戸を掘って水を得るには、「どこに水脈があるか」という「真理」を突き止め、「実際的に掘る」という作業を行う必要がある。また、「実際に掘る」という作業をする際に、共同体の住人の協力が必要であれば、「井戸を掘ることが"善"である」という「共通の真理・価値」をみなで"共有"する必要もある。これも個人的体験ではどうにもならないことである。


まず、「井戸を掘るという実際的作業」は、「客観的な真理」を必要とするものである。「四象限の右側」に属することである。そして、村人の協力が必要な場合、「井戸を掘る」という価値・文化を構築し、その「善としての意義」を共有する必要がある。これは、「四象限の左下」に属することである。このように、一口に「真理」といっても、それは、認識により方法論により異なってくる。「真・善・美」と「四象限」という洞察を抜きには、真理さえも語ることは危険なのである。「美」とは「主観的・個人的な真理」であり、「善」とは「間主観的・集団的な真理」であり、「真」とは「客観的で個人的・集団的な真理」のことなのである。こうした「インテグラルなバランス感覚」は非常に大切であろう。


 ただし、こうした「四象限的なバランス」を保持しつつも、なお、左上の「個人的認識の階層が重要である」という点は、強調しておく必要はあると考える。なぜなら、「四象限的なバランス」を深く理解し、インテグラル・アプローチ自体の把握のためにも、まさしくこうした「個人個人の精神的・霊的成長」が必要になるからである。


 たとえば、上述の井戸の例をとってみれば解かるであろう。たしかに「実際に井戸を掘る」というためには、その技術が必要になる。こうした客観的認識は、個人であれ、集団であれ、「右側の象限」に属することである。ただし、もし「井戸をめぐって様々な価値観の衝突が生じる」という事態になったらどうであろうか。一方では、「こうした井戸の導入は、われわれの伝統的生活を破壊する行為である」という価値観が出てきたり、他方では、「生活向上のためにも井戸の導入はぜひとも必要である」という価値観が出てきたりする。あるいは、「単に個人的利益のみを考えて井戸の導入を決める指導者がいる」という場合。あるいは、「個人的利益ではないものの、指導者の家族や親族あるいは取り巻きのみを優遇するかたちで井戸を導入する指導者がいる」という場合。あるいはまた、「井戸を導入する側の政府なり、NGOなり(どのような種類の組織でもよいが)、こうした組織同士が利権や価値観のぶつかり合いで衝突してしまう」という場合。


 このような問題は、「右側の象限」だけでは解決できない問題である。「四象限の左下の集団的価値意識」に対する洞察が必要であるとともに、何よりも「四象限全体を見渡すことができる個人の成熟」(左上の象限)が必要になる。これは、単に「四象限というモデルを客観的知識として理解したり、保持したり、このモデル自体に固執したりすること」でもない。そうではなく、「このモデルも示しているような"洞察そのものの高みと深み"に個人の意識が至っているか否か」という問題である。逆説的であるが、もしこのモデル自体に固執するならば、あるいは、このモデルに代表されるような知識のイデオロギー的な保有のみに固執するならば、そのことをもって、そうした"洞察の高みと深み"には、至っていないということになる。すなわち、左上の象限においてビジョン・ロジックやセカンド・ティアーといったレベルに到達していなければ、こうしたモデルに代表されるような知識や言説自体さえもが「教義」になってしまい、上記のような(井戸を巡る)闘争に参加するだけの「未成熟な個人」にとどまってしまう危険性がある。ケン・ウィルバーが提示する知識を学び・運用する際、こうした点にも注意する必要があるといえよう。



5. 「神秘体験の知識」への眼差し

 ケン・ウィルバーの言説に触れていると、彼自身の膨大な執筆量に惑わされて、彼を「知識の人」とのみ理解してしまいがちになる。すなわち、彼に影響されて、神秘体験的な"洞察の高みと深み"に至るためには、古今東西の知識を習得し、まさしくケン・ウィルバーのように博覧強記になる必要があると誤解してしまいがちである。もちろん、多くの人類の知識に精通することは大事ではあり、ケン・ウィルバーの博覧強記な側面には敬意を表するべきではある。ただし、これが"両刃の剣"であるという点も注意する必要はある。「知識の保有」は、人を二元的対象性にとどめてしまうことになり、つまり、「神秘主義的な洞察」や「永遠の哲学への洞察」に至らせない危険性がある。この点からも、ケン・ウィルバーは、「精神のレベルの階層性」を強調し、このホラーキカルな展開の導入において、「新・永遠の哲学」を強調するわけである。


 まず、「霊的洞察の"知識としての保有"」は、その量的な側面への固執(つまり、多く知っている方が、レベルが高いという誤謬)を招いたり、また、各種の知識同士の比較・コンフリクト――つまり、私の師の知識(教え)は正しいが、あなたの師の知識(教え)は間違っているという争い――を生み出したりする。一言でいえば、神を対象的に扱うことからくる宗教・イデオロギー戦争である。あるいは、「霊的洞察の知識」を学問的に比較検討して、その霊的な洞察と自身の生活との関連が忘れられてしまうことである。これは、多くの学問的な哲学・宗教学・心理学等の研究活動が陥っている傾向である。さらにいえば、こうした「神の対象性による学究活動と実践との乖離」という面が指摘されながら、"この指摘自体"が、またもや「知識」として保有・使用されてしまい、それを利用して他者を非難するという――単に「既存の活動や試みにおける乖離や欠点を批判する活動のみ」に成り下がってしまう危険性もある。実は、こうした諸々の誤謬を指摘するためにも、いわゆる「精神の階層」が必要であり、『眼には眼を(Eye to Eye)』では、「三つの眼」としてケン・ウィルバーが説明している。


 すなわち、「霊的な洞察」が単に「知識」として二元的に扱われてしまうのは、霊的なものを「理性(マインド・こころ)の眼」で見ようとしているからであるという。このため、いくら洞察を深めようと努力して、「神との合一」や、「無対象性」、「非二元性」、「逆対応」、「場所的論理」、「一即多・多即一」、「是色即空・是空即色」、「無私・無我・没我」、「絶対主観」、「主客融合」、「観想体験」、「気づき」、「三昧」、「悟り」、「フロー」、「ピーク・エクスペリエンス」、「個の成熟」、「超我」、「超個」などなど(まだまだありそうだが)、様々な"言い方"を駆使して、「霊的な洞察」が語られているが、いくら言葉を尽くしても(否、言葉を尽くすからこそ)依然として、これらも「知識として扱われているだけ」なのである。もっといえば、「"精神世界の商品"として扱われているだけ」なのである。


 あえて皮肉を込めていえば、この「超近代のご時世」においては、「グル」だの「スピリチュアル・ティーチャー」だのになりたければ、誰でも簡単になれる。こうした「精神世界の商品」と化した「知識」をしっかり"習得"して、さらに、自分なりにアレンジして少しばかりのオリジナリティーを加味して、本でも出版でもすればよい。よりよいのは、マーケティング戦略もしっかり行って、メインストリーム系の出版業界から「使える人・儲かる人」という評判を確保すること。そして、"だめ押し"で各種メディアなどに出演すれば完璧である。


 巷には、"迷える子羊"がたくさんいるので、こうした「知識(えさ)」には、すぐに多くの人々が飛びついてくる。これはアメリカでも同様である。「お金儲けをしたければ、宗教を始めるか、本でも書いてフリーランスのプリーチャー(説教者)にでもなればよい」とは、よく言われるジョークである。


 「霊的な洞察」を「理性の眼」(あるいはそれ以下の低い意識レベルの眼)で見ようとすると、すぐにこうした「ワナ」にはまってしまうのである。また、ヘタをすると「霊的な洞察」を勉強しているはずが、上記のような偽預言者になってしまいかねない。また、「理性の眼」からは、「霊的な洞察」は、パラドキシカルで不可解なものに見える。「知・心・マインド」では理解不可能なので、一種の直観的・信仰的なまなざしが必要だからである。実は、こうした「理性の眼の放棄(自我の放棄にもつながるのだが)」において、人は、本来の霊的成長を遂げ、いわゆる「コンテンプレーション(観想)の眼」を得ることができ、そこにおいて、「霊的な洞察」を「知識」としてではなく、本来の霊的な意味で理解することになる。『眼には眼を(Eye to Eye)』においては、ケン・ウィルバーはこの点において次のように語っている。なお、本論では、英語版からの拙訳のみを提示することにする。


 西洋神秘主義でもよく知られ、教会の熾天使的博士と呼ばれた哲学者、聖ボナヴェンチュアは、「知識」に至る方法として少なくとも次の三つがあると説いている。すなわち、「三つの眼」とは、もう一人の著名な神秘主義者聖ヴィクターの言葉に従うならば、「肉体の眼」・「理性の眼」・「観想の眼」であるという。「肉体の眼」とは、空間、時間、対象といった外面的世界を認識する眼である。「理性の眼」とは、哲学的知識や論理や「知・心そのもの」といったものを認識する眼である。「観想の眼」とは、それによって"超越的現実"というものを実感するに至る眼のことである。


 すなわち、「観想(コンテンプレーション)の眼」においてこそ、われわれは、「霊的な洞察」の本来のすがたを捉えることができるのであるが、それ以外の下位の眼で見ようとしているため(またそれに無自覚でもあるため)、われわれは、神秘体験において様々なカテゴリー・エラーを犯すことになっているのである。このような「霊的な洞察」に至ったとき、人は、こうした「洞察」が言葉や知識で語られることや、より低い意識において理解されることのリスクも知ることになる。イエス・キリストや仏陀を顧みても、「本当の意味での人類の教師たち」が、不必要に神話化・神秘化されてしまったのは、その典型であろう。「霊的な洞察」が、呪術神話的なレベルで解釈されたのである。また、ニューエイジにおいても、「霊的な洞察」が、「知識」として――すなわち「自己陶酔的な商品」として消費されていることも、同じ意味でのカテゴリー・エラーである。「霊的な洞察」が下位のレベルで解釈されたわけである。


 下位のレベルからは、霊的な洞察は、逆説的で不可解なものに見える。ただし、それを不可解だからといって、呪術・神話的なものとして否定したり(または固執したり)、あるいは、科学的説明にのみ限定したり、無理に合理的判断で解釈したり、個人的な気分の中でただ詩的に戯れて見たりするのは、上記と同じカテゴリー・エラーを招くことになる。必要なことは、ただそのまま受けいれる中で、本当に理解できるように自身自身の霊的成長に努力することなのである。


 従来の「永遠の哲学」では、その辺りの「霊的成長の階層性」と「カテゴリー・エラー」が曖昧であったようである。オルダス・ハクスリーにより広まった「永遠の哲学」という言葉も、もとは、ゴットフリート・ライプニッツにより使用されたものである。この頃の使用では、西洋近代の合理主義的思考の萌芽としての「永遠の哲学」であった。すなわち、一種の「還元主義的な宗教の理解」である。さらにいえば、オルダス・ハクスリーにしても、近代のアメリカ超越主義者たちの理解にしても(もちろん、宗教戦争の盲目の中で殺し合いをするよりはずっとマシというか非常に優れた成熟した態度ではあるが)、いわゆる「階層的意識」が曖昧であったために、彼ら自身の深い洞察にもかかわらず、「低いレベルの言説」に解釈されてしまいかねなかったともいえる。


 「全ての宗教はその洞察において同一である」ということは、分かりやすい言葉ではあるが、この理解には、「様々な深さ(階層)がある」ということも忘れてはならない。「神は愛である」という言葉も同様である。このような言葉を「標語」として振り回すことは簡単である。しかし、われわれの一人一人が、「本当の自身の(無私の)深みと高みという洞察」からの"実感の言葉"として発することができているかどうか――こうした「厳しい問いかけ」が、「新・永遠の哲学」においては、一人一人に向けられているといえる。



6. 共通する7項目

『グレース&グリッド(Grace and Grit)』では、「永遠の哲学」をテーマとして、ケン・ウィルバーは、次のような七つの要素を提示している。これは、同テーマを巡ってケン・ウィルバーが妻のトレヤ・ウィルバー(当時)と対談形式で論じた箇所の一部である。なお、本論では、英語版に基づく拙訳のみを提示しておく。

  1. 霊性(スピリット)は存在する。
  2. 霊性(スピリット)は、内面において見出される・内在する。
  3. 罪と分離と二元性の世界で暮らしているため、われわれのほとんどは、霊性が内面において見出される(内在する)ということを理解していない。このことは、つまり、われわれは、幻想と堕落の状態の中で暮らしているということである。
  4. こうした幻想と罪という"落ちた状態"から抜け出す手立てはある。それは、「自由(救い・解放)」への「大いなる道」である。
  5. もしわれわれが、こうした「大いなる道」に従うならば、その結果としての「大いなる生まれ変わり」・「大いなる目覚め/さとり」・「内在する霊性との直接的(非二元的)経験」・「大いなる至高の自由・救い・解放」に至ることになり、それはつまり、
  6. 罪や苦悩の終焉を意味することであり、
  7. あらゆる生きとし生けるものへの慈悲と慈愛という社会的実践へと向かうことである。

 この七つの項目を提示した後、ケンとトレヤの間で対話が展開されていくのであるが、それについては、同書をご覧いただくとして、本論に関連する点でいくつかのポイントを挙げることができる。


 まず、第一項目・第二項目の「霊性が存在する」・「霊性が内に見出される(内在する)」ということの意味は、本論で議論した「四象限」との関連で述べるならば、いわゆる「霊性を言説化する」という際の誤謬について"位置づけ"を明確にしたという点である。これにより、霊性の存在論、および(その"存在"を把握する際の)認識論において、様々な混乱を整理することを可能にしている。こうした整理により、たとえば、「神(霊性)がいるか否か」・「いるとすればどこにいるのか」といった根本的な問いを、全く別の存在論的・認識論的位相において行うという誤謬を明らかにしている。


 また、こうした整理により、「霊性・神」と「真・善・美」との関わりも明らかにしている。ただ、残念ことには、このような誤謬は、スパイラル・ダイナミクスのファースト・ティアーのミーム同士の闘争・混乱にも見られるように、いまだいたるところに存在している。いずれにしても、これは、「神・霊性」の「存在論・認識論」における「水平的な次元での整理」であるといえる。


 さらに、第一項目・第二項目の「霊性が存在する」・「霊性が内に見出される(内在する)」ということの意味は、本論で議論した「意識レベルの階層」との関連で述べるならば、「神・霊性」が存在・内在するとして、「それをわれわれ自身はどのように理解し得るのか」という問題を整理している。


こうした「理解」は、第三項目・第四項目にも関わっていき、「"幻想としてのこの世"から、われわれはいかに解放されることができるのか、そのための"道"とはどのようなものなのか」ということの整理も可能にしている。すなわち、「意識レベルの階層」との関連において、われわれが霊性を「理解」するためにも、霊性の「大いなる道」を歩むためにも、この世の幻想から「解放」されるためにも、必要なことは、「意識レベルの上昇と深化である」という点が明らかにさされているのである。


 従来の「永遠の哲学」においては、こうした「意識レベルの上昇・深化」を単に、「理解・道・解放」とのみ示していたわけであるが、ケン・ウィルバーの場合、こうした「理解・道・解放」の"内実"においても、"共通項"を見出そうとし、むしろ、「そこにこそ注目しないと、われわれは、神・霊性に対する大きな誤解に陥ってしまう」と指摘しているのである。すなわち、「理解」という「最初の気づき」、「道の歩みの状況」、そして「解放」という「目覚めの真偽」には、「意識レベルという枠組み」で説明してこそ、誤解を避けることができると指摘しているのである。これは、「神・霊性」の「存在論・認識論」における「垂直的な次元での整理」であるといえる。


 そして、第五項目・第六項目・第七項目を、こうした垂直(意識レベル)・水平(四象限)からの双方の展望から提示することにより、次のような点も明らかにされる。すなわち、もし一人一人が「神秘体験」を得たならば、「その後、どのように"この世という幻想"に関わり続けていくのか」という点である。「罪や苦悩から解放される」とは、決して「それらがなくなる」ということではない。そうではなく、それらがあっても、「超えて含んだものとして対応することができる」ということである。これは、「意識レベルのホラーキカルな状況」によってこそ、説明できることである。また、「罪や苦悩から解放される」とは、決して「この世との関わりがなくなる」ということでもない。「解放・大いなる目覚め」の後も、人は、個人にも、社会にも、文化にも、一人称的にも二人称的にも三人称的にも、「大いなる慈悲と慈愛の実践」によって関わり続けていくのである。この点でも、四象限は重要な指針となる。


 なお、最後に強調しておく点としては、こうした「霊的成長への道」が階層的に示されたわけではあるが、これは、決して「こうした成長に固執すべきだ」ということでもなく、また、「大いなる道の最終地点という"遠いところ"に神・霊性は存在するのだ」というわけでもないということ。


 「霊的成長」に関しては、たしかに"道の詳細"として様々な"修行法"が用意されているわけであるが、「永遠の哲学」の視点から指摘できることは、「道に歩む"方法"に固執することが、すなわち、その人をして道を見失わすことになる」という点であり、さらにいえば、「道を歩む自分を完全に神・霊性に委ねたときにこそ、大いなる成長に至る」という点である。「神・霊性・人生・道」は、幻想に生きるわれわれに対して様々な試練をお与えになり、「霊的成長」における"因果"は、常に「われわれの自我的・二元的・知識的な理解を超えたところに存在するものなのある。ケン・ウィルバーをして、「どのようにすれば霊的成長を得られるか」という問いに対して、この"究極的な答え"は、結局、「分からない」という"神秘性"の中に帰着するものと答えている、ということなのである。


 物事を鳥瞰図的に提示するようなケン・ウィルバーの言説にふれていると、いつの間にか全てを把握したような気になって、われわれはこうした「"神秘性"に対する謙虚さ」を忘れがちなってしまう。「ウィルバー的全体像・鳥瞰図」は、あくまで全体性と同時性を"モデルという知識"に変換して示しているものに過ぎないのであって、「これを理解したから、霊的成長が約束された」というわけではない。ケン・ウィルバーの言説は、あくまで"地図"に過ぎなく、確かに「かなり詳細な"地図"」ではあるが、人生の道・霊的成長の道を実際に歩むのはあなた自身であって、あなた自身が自分の足で歩みきったときこそ、あるいはそうした実際の歩みの最中でこそ、「大いなる霊的な洞察の深みや高み」を実感することができるのである。


 ケン・ウィルバーの言説のみならず、「あらゆる霊的な知識や地図」に対して、「これらは単に知識・地図にすぎない」と謙虚に保持することこそ必要なのである。そうした姿勢においてこそ、「ケン・ウィルバーを読んで霊的成長を得た」という錯覚(もしそのような錯覚があるのであれば)から解放されるのである。また、何よりも、ケン・ウィルバー自身がそうしたことを危惧している点も理解すべきであろう。繰り返して言うが、ケン・ウィルバーの言説のみならず、こうした「謙虚な姿勢」は、「あらゆる宗教的・霊的な知識の保有」において共通して備えるべき「永遠の哲学」なのである。


 ここに「新・永遠の哲学」における三つの逆説を提示することで本論を終わりたいと思う。一つには、「霊的成長」は、その道を歩む努力をしながらも、"自分の努力"ではどうにもならないという"放棄の時点"において、"一つの飛躍がある"ということ。もちろん、これは、「放棄したら飛躍できる」という考え(計算)さえも浮かばないほどの「放棄」である。すなわち、「道への固執から解放された歩み」のことである。二つには、「霊的成長の到達点」である「神・霊性」とは、実は遠いところにあるのではなく、既に常にいたるところにいる(いた)という"関係性"のこと。すなわち、われわれは、"既に常にいる大いなるもの"へと向かって"遠い道のり"を歩んでいるのである。この逆説も、「霊性の眼」においてのみ理解できることであり、「既に常にいる大いなるものへと、あたかも遠いところへ向かうように歩んでいる逆説ですね」と"知識で理解する"ことではない。これは、「霊的理解・実感」としか言いようのないものなのである。三つ目は、「霊的成長の旅を実際に歩む者」にとって、大事なのは、「"地図"よりも本人の歩みそのものである」ということ。「"地図"と"実際の道"との整合性」に頭を悩ますよりも、「どの地図が一番優れているか」に頭を悩ますよりも、「歩みそのもののが、本人の生き方となる」ということである。そうすれば、もはや、解釈の云々に拘泥することはなくなるだろう。ただし、これは、"地図"をどうでもよいものと軽視することでもない。"地図"は大事であるが、それよりも大事なものが、"自分自身の無私なる歩み"であるということなのである。


 『アルケミスト(The Alchemist)』の次の文章は、こうした三つの逆説についての印象的な表現だと思う。なお、これも手元の英語版からの拙訳のみを提示したい。

 大いなる愛を実感したとき、あらゆることが、生成と創造の瞬間に立会いながら、できるようになる。 大いなる愛を実感したとき、もはや何がどのように起こるのかと必死に理解する必要もなくなる。なぜなら、あらゆることが"自分の中"で起こるからである。そのとき、人は、風の助けを借りながら、風になる。


参考文献

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