今道 友信の「エコエティカ」 〜インテグラル思想の視点から〜

鈴木 規夫

ABSTRACT

Introducing the concept called “Basic Moral Intuition” (BMI) in Sex, Ecology, Spirituality (1995/2000), Ken Wilber places the issue of morality at the heart of Integral Philosophy. According to Wilber, to be human intrinsically means to carry the ever present spiritual intuition, and when one expresses that intuition in the manifest realm, it naturally takes the form of BMI. In order to embody and express BMI in constructive manner, however, one needs to develop the capacity to take into account the overall Life Conditions (AQAL) that define the world one lives in, so that one can provide wisdom, vision and direction to that moral endeavor. Referencing some of the key insights of Eco-Ethica proposed by Tomonobu Imamichi, this essay explores some of the key Life Conditions that need to be considered as we attempt to deal with the challenges of the contemporary society based on BMI.

思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、著書Sex, Ecology, Spirituality(1995/2000)において“Basic Moral Intuition”(BMI)という概念を提唱して、倫理の問題をインテグラル思想の中心的な問題のひとつに位置づけている。ウィルバーによれば、人間とは本質的に「霊感」を宿している存在であるが、それが顕現領域(時空間)において体現・表現されるとき、それは必然的にBMIという形態をとることになる。しかし、BMIを真に建設的に体現・表現することができるためには、人間は自己の生活する時代を規定する生存条件(AQAL)を把握する能力を確立する必要がある。これにより、BMIは叡智と構想と方向性に支えられたものとなるのである。本論文は、「エコエティカ」において提示される今道 友信の洞察を参照しながら、今後、われわれがBMIにもとづいて21世紀の危機に対峙・対処していくうえで、慎重に考慮するべき重要な生存条件を探求する。

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ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)(1995/2000)は、人間が自己の本質的条件として息づく「霊感」("spiritual intuition")を顕現領域(時空間)に存在する個的存在として感得・表現しようとするとき、それはBasic Moral Intuition(BMI)("protect and promote the greatest depth for the greatest span"――「可能な限り広範囲において、深層性を最大限に擁護・促進する」)として経験されると主張する。つまり、インテグラル思想においては、人間が霊的存在として顕現領域における自己の本質的な責任を履行しようとするとき、そこでは必然的に自己の内部に息づく倫理的直感を表現することが重要となると主張されるのである。

周知のように、インテグラル思想においては、霊感を日常生活における継続的な実践をとおして顕現領域に発現するための意図的な活動にとりくむことが推奨される(c.f., Wilber et al, 2008)。霊感は人間の本質的な条件として賦与されているものであるが("always already")、しかし、それを日常生活において賢明に表現することができるためには、そうした霊感を他者と世界との関係において建設的に適用するための「愛の技法」("the Art of Loving")が必要とされるのである(c.f., Erich Fromm)。

こうした愛の技法の実践を真に建設的なものとしようとするとき、われわれは常に自己の内部に感得される霊感を適切に解釈・体現する必要がある。そこでは、愛とは、感覚や感情ではなく、Body・Mind・Heart・Spiritの統合体としての人格の総合的な能力により可能となるものであることが留意されるのである。インテグラル思想において、BMIの表現のために、自己の個的存在としての統合的な成長の実現にとりくむことが重要視される背景には、人格の成熟度の重要性に着目するこうした視点が存在するのである。

KWの洞察するように、人間の個的存在としての実存的条件は、われわれを常に「消滅の恐怖」(death threat)にとらえつづけることをとおして"Atman Project"の悪夢に絡め獲る桎梏であるということができるものである。しかし、また、それは、霊感という人間の基本的な条件を顕現領域において発現することを可能とする必須装置でもある。

個的存在であるとは、本質的に、自己と対峙する存在としての他者を創造する行為である。それゆえに、個的存在であることをとおして、われわれは、他者の潜在的な脅威から自己を保護するための自己防衛に恒常的に従事することを宿命づけられることになる("Immortality Project”、あるいは、"Atman Project”)。しかし、また、こうした実存的条件は、自己と他者の分離の必然的な結果としての緊張と寂寥の感覚をもたらすことをとおして、そうした分離を克服するための自己超越の衝動を発動することになる原動力でもある。

統合的実践とは、自己の構造的・人格的な陶冶を推進することをとおして、自己の実存的条件を愛の技法の桎梏としてではなく、むしろ、愛の技法の装置として抱擁しなおすことを意図するとりくみであるということができるだろう。そして、統合的な実践にとりくもうとするとき、個的存在としての自己の世界との関係を規定する根源的な衝動が倫理的なものであることを認識しておくことは、そうした実践を真に健全なものとして深化させ、霊感の適切な解釈と体現という霊的存在としての責任を十全に履行するための重要な洞察を形成するということができるのである。

必然的に、インテグラル思想においては、全ての実践者にとり、倫理性の問題は、霊的存在としての自己の責任を履行するために真摯な探求を必要とする重要な問題として位置づけられることになる。インテグラル思想は純粋な知的探求に収斂することを拒絶して、AQAL(all quadrants all levels)を俯瞰する実践的なとりくみであろうとするが、そうした実践的な特質は、人間というものが本質的にこうした倫理的な課題をつきつけられた存在であると認識するその人間観に基因するのである。

こうした問題意識にもとづいて、ここでは、今道 友信の「エコエティカ」をとりあげて、21世紀という危機の時代に生きるわれわれが倫理の問題を探求するにあたり参照することのできる洞察を探求してみたい。

現代の生存状況

今道氏は、今日、われわれが倫理について探求をするうえで、考慮するべき同時代の状況として、下記をあげる。

倫理主体の多層化

今日、人間の存在を規定する重要な特徴のひとつとして、個人が、大規模化した集合体の構成員として位置づけられることをとおして、自己の個人としての倫理性だけでなく、また、集合(例:企業組織・機能集団)の構成員としての倫理性を問われることになっていることがあげられる。換言すれば、今日において、人間は、Individual Holonとして自己の人格を陶冶して倫理性を深化させるだけでなく、Social Holonの構成員としてその集合的な倫理性を保障するための能力を開発することを要求されるのである。

ここで留意するべきは、KWの説明するように、Individual HolonがDominant Monadという自律的な主体性を所有するのにたいして、Social Holonは、あくまでもそうした自律的な存在間の相互関係のありかたを規定するRegnant Nexus("code"・"regime")にもとづくものであるということである。

人間が自己の倫理性をIndividual Holonとして発揮しようとするとき、基本的には、そうした意図は自己の自律的・内発的なものとして表現することができる。そこにおいて重要となるのは、個人が、自律的な人格存在として自己の責任能力(responsibility/response-ability)を認識して、それを意図的・積極的に発揮することなのである。必然的に、そこでは、個人は、自己に絶対的責任能力(absolute responsibility)が賦与されていることを認識して、それを発揮するための意志を喚起することが要求されるのである。

人間が自己の倫理性をSocial Holonとして発揮しようとするとき、基本的には、そうした意図はあくまでも各構成員が集合の文脈のなかであたえられた限定的責任(conditional responsibility)を果たすことの結果として成立する集合的倫理性として発揮される。そうした倫理性の成立において、個人はあくまでも機能的存在として自己の責任領域の範囲において限定的責任を果たすのであり、そうした構成員の行為の集積として成立するSocial Holonとしての倫理性にたいしては責任を負うことはできない。必然的に、そこでは集合としての責任の所在が明確化されることのない無責任の蔓延の危険性が醸成されることになるのである。

こうした危険性は、集合体の規模が劇的に膨張して、そこにおける個人の存在の責任範囲が縮小化されるときに、とりわけ深刻化することになる。今日、人類が集合規模で対峙する重大な危機のひとつが、こうした個人の絶対的責任の支配から乖離して、自律的に膨張する集合体の暴走であることはいうまでもないだろう。

倫理的対象の多層化

KW(1995/2000)の説明するように、歴史的には、合理性段階の集合規模での確立は、Flatlandの世界空間を醸成することになる。

神話的合理性段階の行動論理を基盤として成立していた支配的な世界空間は、実践という高次領域の体験的認識を可能とする必須要素を排斥することをとおして、人々から高次領域の直截的な探求にもとづく意識変容の機会を剥奪することになる。こうした高次領域との乖離状態の慢性化は、結果として、集合意識のなかに支配的世界観とその機軸要素である垂直性、及び、内面性にたいする不信感を醸成することになる。こうした不信感の蔓延は、徐々に、あらゆる人々に共有可能な体験領域を特権化・絶対化する世界中心主義の行動論理の展開のもと、垂直性・内面性の全否定の帰結としての感覚性絶対化の時代精神を生みだすことになる。

Flatlandの行動論理を特徴づける「道具的合理性」("instrumental rationality")の絶対化は、こうした歴史的過程をとおして特権化された感覚性が自己目的化することをとおして達成された帰結であるということができるものである。道具的合理性の支配のもと、世界空間は、人類の探求・操作の対象として位置づけられ、そして、再構築されることになる。こうして感覚性の支配のもとに自己目的化した知性により構築された環境を今道氏は、「技術連関」("conjunction technologique")と形容して、今日、それが人類の支配的な生存環境として定着したことを指摘する。人類の生存環境として、物質圏(Physiosphere)と生命圏(Biosphere)という階層を基盤として、意識圏(Noosphere)が確立したのである。

惑星を網羅する機構としての技術連関の確立は、人間の行為の影響を劇的に増幅することになる。それまでは倫理的責任の対象範囲が基本的には「特定少数の可視的隣人」(今道 1990, p. 6)に限定されていたのにたいして、こうした生存状況においては「不特定多数の不可視的未知の隣人」(今道 1990, p. 6)を包容するものとなる。即ち、惑星規模の機構としての技術連関の確立は、人間に「対面倫理の限界を越えて、共時的人類全体」を考慮して、倫理性を深化・発揮することを要求することになるのである。また、これは、技術連関という意識圏の福利だけでなく、その基盤を構成する物質圏と生命圏の福利を保全するという垂直的な責任を積極的に果たすことを人類に要求することになる。人間が倫理的責任を発揮するときに自己の慈愛のなかに抱擁するべき対象は、物質圏・生命圏・意識圏を包含する複合的存在としての惑星へと空間的に拡張するだけでなく、また、それを継承することになる生命の連続性へと時間的にも拡張することになるのである。

技術連関における文化

Flatlandの価値体系が世界空間を全面的に侵食していることを象徴する事例として、今道氏は文化の個人の趣味的活動への矮小化をあげている(今道 1990, pp. 27-29)。

KWが洞察するように、共同体の対話空間を支配する価値体系がFlatlandのそれにより規定されるとき、共同体は、質(quality)の発想を剥奪され、量(quantity)の発想に支配されることになる。共同体とは、あくまでも最終的には量化することのできる目標を達成するための存在として見做されて、あらゆる価値体系はその権威に従属させられることになるのである。そこでは感覚性と密接に結託した価値体系としての量化の思想が、垂直性を本質的な志向性とする質化の思想を駆逐して、共同体という関係性の領域における人間の内的・外的な行動を感覚主義的、あるいは、快楽主義的なものに規定することになる。KWは、そうした量化の発想をThanatosにとらえられた病的なものであると診断して、それが人間存在が潜在させる高次性と深層性の実現を妨害することになることを指摘する。

必然的に、こうした過度の下降性に浸潤された文化空間においては、上昇性の発露としての倫理性は排除されることになる。BMIとしての倫理性とは、人間が自己の存在の本質である霊性を時空間という顕現領域において体現しようとするときに作用するErosとAgapeの源泉としての直感と形容できるが、Flatlandの世界空間においては、上昇性と下降性の統合的な発露を可能とする必須基盤である意識の構造的な成熟を確立するための共同体の支援機構(LL・LR)が溶解するために、それは集合規模の持続的能力として確立されることはないのである。

人間とは、関係性の領域においては、あくまでも量的目標の達成を絶対的な価値とする共同体の構成員としての自己にあたえられた機能的責任を履行する存在として構想される。そこでは、高次性・深層性の発露としての倫理性は必要とされないのである。

人格の構造的な成熟の要求から「解放」された個人は、必然的に、共同体の包括的な福利を尊重する大局的責任(Generativity、あるいは、Noblesse Oblige)の問題意識から疎外されて、自己の感覚的・生理的な欲求を充足することに腐心することになる。今道氏が洞察するように、知識人であることが、共同体にたいする「責任感」と乖離したところで、自己の機能的能力を練磨することをとおして、「高度技術社会」の構成員として巧みに適応することを意味する今日の状況は、Flatlandの価値体系の蔓延が必然的にもたらすことになる「病理現象」ということができるのである。換言すれば、今日において、知識人は、Noblesse Obligeという倫理的意識と乖離したところで、専門知識を活用して自己の感覚的・生理的な欲求の充足のために没頭する群集に矮小化されたのである。

関係性の領域において垂直性(高次性・深層性)の探求・発露の機会が排除された結果、そうした活動は個人の私的な領域で趣味としてとりくまれるものとして位置づけられることになる。垂直性は、共同体の関係性に影響をあたえるべきではなく、むしろ、個人の私的領域に隔離されるべきものとして位置づけられることになるのである。

関係性の領域において垂直的な価値体系が擁護されることは、そこに高度の高次性と深層性を有する文脈が開拓されることを意味する。そして、それは機能性を機軸とする量的価値体系の相対化をもたらすことになる。垂直性の私的領域への隔離は、Flatlandの支配に脅威をもたらすこうした「危険」を回避するための重要な装置と理解することができるのである。

Boomeritis Spirituality

Flatlandの支配が今日の関係性領域にあたえている影響を考慮すると、今日、「自己探求」・「自己実現」・「自己超越」等を機軸概念として展開する「こころの時代」の問題が明確に理解されるだろう。

垂直性の探求活動の領域を個人の内面探求に隔離するこうした霊性は本質的に上記のような個人の内面領域(UL)と集合の内面領域(LL)の乖離を前提として成立するものである。往々にして、そうした活動は、量化の思想の支配のもと抑圧された人間性と垂直性の擁護を意図してとりくまれるが、実際には、活動の基本的枠組としてあたえられた個人の内面と集合の内面の乖離という条件を前提とするものであるために、結果として、同時代の構造的な問題の解決に寄与することはできない。むしろ、KWが洞察するように、そうした形態の内面探求は、しばしば、個人の関心を狭隘化して、自己にたいする執着を肥大化させる危険性を内蔵している("Boomeritis Spirituality")。

Flatlandの蔓延は、感覚的・生理的な欲求にたいする執着を増幅することをとおして、人間の自己中心性を肥大化させることになる。そして、今日、先進国を中心にして展開する多数の霊性活動は、そうした活動のあり方を構造的に規定する時代的文脈を批判的に対象化することに失敗するために、Flatlandの代表的な病理である自己中心性の肥大化に貢献することになってしまうのである。その意味では、今日、純粋な個的存在の内面領域の探求として位置づけられた、「こころの時代」を背景にして展開する諸々の霊性活動はFlatlandの世界空間のなかで矮小化された霊性の残骸と形容することができるだろう。

今日、「こころの時代」の到来は人間性の復権を可能とする歴史的な契機として見做されているようである。しかし、インテグラル思想の視野をとおして、そうした「新時代到来」に酔痴れる集合意識の深層に存在するダイナミクスをあらためて検討すると、実際には、同時代の状況が必ずしもそうした希望的観測を安易にいだくことを許容するものではないことが理解されるであろう。むしろ、「こころの時代」とは、それが霊性という本質的に無尽蔵の変革力を内蔵する営みを個人の私的な活動に矮小化することに成功したという意味においては、Flatlandによる世界空間の支配が今なお堅固に維持されていることを厳然と証明する証左として認識されるべきであろう。人間を技術連関内の限定的な機能の担いてとして排他的に規定しようとするFlatlandの世界空間は、霊性を個人の私的領域に隔離することをとおして、実質的には、その集合領域への影響を排除することに成功したのである。

時間性

KWは、インテグラル段階(Vision-Logic・VL)の認識を可能とする重要条件のひとつとして、Centaur――心と体の統合――の確立をあげている。これは、普通、実存的段階と形容され、人間が有限存在としての自己を規定する諸々の限定条件を抱擁することをとおして実現される意識構造を意味する。KWの主張するように、Flatlandの克服は、AQALの諸領域の統合を必要とするが、そのためには、先ず、そうした統合が重要であることを認識することのできる叡智の確立が必要となる。

無限成長の礼賛に象徴されるように、合理性段階の行動論理は、本質的に、「有限性の拒絶」("denial of death")の衝動に囚えられているために、無軌道な無限性の追求に傾斜することになる。こうした行動論理は、世界空間を解析・操作することをとおして(本質的に超越性の直感である)自己の楽園構想を時空間に実現することを志向する世界改築の活動に人々を巻き込んでいくことになる。KWの指摘するように、そうした活動は、顕現領域の本質を拒絶する倒錯にもとづくものであるために、最終的には、自己の投影する過剰な要求のもとに、顕現領域の破壊を惹起することになる。

こうした自己の破壊性を認識することができるためには、自己の意識を支配する根源的な逃避衝動を対象化することができる必要がある。人間としてあることが構造的に内在させる問題を自己の内部に見いだすことをとおして、われわれは、はじめて、それに基因する諸々の問題にたいして自らが責任能力・対応能力(response-ability)を発揮しえることを認識することができるのである。そうした人間存在の普遍的な課題を感得することができるためには、顕現領域の有限性を認識・抱擁する強靭な叡智を体現する意識構造が必要となる。心と体の統合体としてのCentaur(VL)とは、こうした叡智を体現する意識構造ということができるのである。

Centaurの確立は必然的に時間にたいする感覚の変容をもたらすことになる。Flatlandの行動論理が人間存在の条件である時間性を支配・克服しようと腐心するのにたいして(効率性の追求、あるいは、無限性の追求)、VL段階においては、時間性が人間の経験の条件であることを認識して、それを積極的に体験しようとする。そこでは、むしろ、Flatlandの世界空間において人間を脅迫的に呪縛する時間からの逃避が、往々にして、人間の経験の本質を剥奪するものであることが認識されるのである。

……機械が可能にするのは、効率の増進と便利の増大です。それは、同一なるものの製作の量的拡大と製作過程の省力化ですが、一語をもっていえば時間の短縮だけです。人間的意識が成立する場として、時間性を考えなければならないとすれば、機械技術の世界というのは時間性を圧縮して、したがって意識を圧縮し、それゆえ、人間意識の中心としての倫理的志向を圧縮していく構造をもつはずです。(今道 1990, pp. 28-29)

今後、人類がこの惑星に賦与された自然資源を持続可能な形態で管理をしていくうえで尊重するべき非常に重要な規範のひとつとして、関連領域の研究者は、人類の資源消費の速度が生態系による資源再生の速度に対応するものに調整される必要があることを主張する。人類の資源消費の速度が生態系による資源再生の速度を上回るとき、それは不可避的に当該資源の減少と枯渇を招来することになる。(Daly & Cobb, 1989/1994)

Flatland思想の結晶である大量消費主義の発想は、基本的に、惑星に賦与されている自然資源の絶対量が無限であることを前提として成立する。こうした前提のもとでは、Flatlandの世界空間において無謬の価値として信奉される「無限成長」は、無限の資源を利用するための技術の能率を向上させることにより、実現可能なものであると見做されることになる。そこでは、時間とはあくまでも技術的発展をとおして克服・排除されるべき要因としてとらえられるのである。

今後、大量消費主義は、惑星上の天然資源の有限性の現実と対峙するなかで、その妥当性を急速に喪失することになるが、そのとき、人類が文明の持続可能性を探求するうえで、それが執拗に排除してきた「時間」というものをあらためて人間の経験の本質的条件として尊重することが必要となるのは間違いないだろう。そして、それが真に可能となるためには、有限性という実存的条件と積極的に対峙することのできるVL段階の強靭な意識構造が必須となるのである。

目的の喪失

今道氏が説明するように、今日において、技術連関は人間の行動論理を規定する主要な生存条件として確立した。そして、上述のように、こうした空間のなかでは、個人は基本的に技術連関の構成員として自己にあたえられた限定的な機能的責任を果たすことに意識を集中することになる。

現代において、技術連関の構成要素である個々の組織は巨大化しており、また、そうした組織の構成員はあくまでも自己にあてがわれた機能的責任を履行するだけの存在に矮小化されている。そうした状況においては、組織の存在意義は、個人の実質的な意思決定の影響の及ぶ範囲外にあるものとならざるをえず、それゆえに、あらためて検討・修正されるための契機を喪失することになる。本来は手段であるはずの装置が所与の存在として自明化することの結果、個人の意志と乖離したところで、存続を自己目的として自律的に機能しはじめることになるのである。

結果として、こうした手段存続の自己目的化は、目的というものを手段に従属するものとして規定して矮小化することになる。目的とは、手段の存続という前提のもと、手段の活用の用途を意味する概念、即ち、手段の存続の正当化の言訳に転換されることになるのである(今道 1990, pp. 38-40)。

技術連関の巨大化のもと、関係性領域において目的(mission・purpose)がその本質的な意味において排除されることの結果、技術連関の量的な膨張が絶対的な価値として自己目的化して、人間の行動論理を規定することになる。そこでは、個人とは技術連関の存続と膨張のために有効活用されるべき資源("human resource")であり、また、個人は機能的存在としての自己の有用性を自己の存在価値として排他的に位置づける歪な自己認識に恒常的に絡め獲られることになる。

いうまでもなく、技術連関において個人の担う機能的責任とは、窮極的には、必要能力を有するあらゆる個人が肩代わりすることのできるものである。必然的に、関係性領域における個人の存在を代替可能なものに規定するこうした同時代の世界空間は、個人の内部に不安を醸成することをとおして、人々を自己の脆弱性を克服するための自己防衛行動に慢性的に衝き動かすことになる。具体的には、こうした状況は、個人を自己の機能的価値(extrinsic value)を向上するための脅迫的な能力開発(例:資格信仰)、あるいは、自己の垂直的能力(intrinsic value)を探求するための趣味的な自己探求の活動に誘致していくことになるのである(例:自己実現)。

こうした同時代の状況は、関係性領域における高次性・深層性の発露としての
倫理性の積極的表現の可能性を排除することをとおして、人類の文明の活動を量化の行動論理に支配されたものにますます狭隘化していくことになる。

インテグラル思想の実践であるITP(Integral Transformative Practice)・ILP(Integral Life Practice)は、霊性の統合的実践が1人称・2人称・3人称の実践を並行的に包含するものである必要があることを主張する。こうした主張は、BMIの発露を困難にする同時代の集合的な生存状況を考慮するとき――それは確実に人類の生物種としての生存可能性を溶解している――必須の「道徳的命題」であるということができるだろう。

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今道 友信氏の提唱するEco-Ethicaの構想は、合理性段階の意識構造にもとづいて、人類が歴史的に実現してきた進歩の遺産と対峙することを21世紀の人類の集合的な倫理的責任として位置づけるものであるといえるだろう。そこでは、今日、人類が経験する特殊な生存条件が倫理的であることの条件を劇的に変化させていることが指摘される。技術的な発展が人類の集合的な生存条件を構造的に再定義した結果、真に倫理的であることができるためには、斬新な成熟と叡智と視野が必要とされる状況に生きているということが明確に意識されるのである。

多数の識者が洞察するように、今日、人類は惑星の限界と対峙する歴史的な危機を経験している。こうした状況に賢明に対応するための重要条件として、KWは、人間が、成熟した人格基盤にもとづき、自己の本質的な条件である霊感を倫理的直感として解釈・体現するための能力を鍛錬・発揮する必要があることを強調する。今日の生存条件下においては、倫理的であることができるためには――感傷や情緒に耽溺するのではなく――惑星的視野にもとづいて、人類を束縛する歴史的条件を冷厳に把握することが必要となるのである。

必然的に、そこでは、霊感を実践的な叡智に昇華する人格的構造が必須となる。また、今日の危機が本質的に合理性段階の行動論理の限界に基因するものであることを鑑みると、そこでは、単に表層的・外面的な対応(例:技術革新に特化した解決策)ではなく、"Atman Project"という人間の深層的な存在のダイナミクスを喝破する卓抜した自己内省と自己対峙の能力に支えられた対応が必要となる。今日の危機が、自己の日常を規定する前提条件を積極的に対象化することなしには、克服することの困難なものであろうことは確実であろう。

今道氏の洞察は、同時代の構造的な生存条件を対象化するための探求作業にとりくむうえで、非常に重要な視野をあたえてくれる。今日、人類が経験する危機はあまりにも深刻なものである。そして、それは正に緊急の対応を必要とするものである。しかし、いかなる場合においても、そうした透徹した自己観察と自己対峙にとりくむことのできる能力を探求・鍛錬することなしには、危機に効果的に対応することはできない。そうした内面領域の変容をともなわない「外面的対応」は必ず対処療法に終わるものである。今道氏の洞察は、正にそうした陥穽を回避する「統合的」(integral)な探求を可能としてくれるものといえるだろう。

参考資料

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