自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階

スザンヌ・クック=グロイター著 / 門林 奨訳 日本トランスパーソナル学会, 2018  
原論文:Susanne Cook-Greuter (2005). Ego Development: Nine Levels of Increasing Embrace

 

訳者による紹介文

 よく知られている通り、ウィルバー思想やインテグラル理論の中核には「発達」という視点が存在しています。確かに発達理論の全体像を把握するうえでは、ウィルバーの書籍を読むことは有益ですが、それだけでは、発達理論そのものを十分に理解したとは必ずしも言えないでしょう。

 近年では、発達理論に関する英語書籍(例えばロバート・キーガンの著作)が翻訳されたり、日本人によって書かれた成人発達理論に関する書籍(例えば加藤洋平氏の著作)が出版されたりと、発達理論に関する日本語の文献は増加しつつあります。

 しかし現状、発達理論に関する日本語文献は、ビジネス領域への応用という文脈で紹介されたものが多く(それ自体はよいことですが)、こうした切り口で発達理論を学ぶことは、ウィルバー等を通して内面的ないし精神的な探求を行おうとする際には、「物足りなさ」の残るものであるとも思われます。

 そうした事情の中で、今回、スザンヌ・クック=グロイターの「自我発達理論」(Ego Development Theory: EDT)に関する論文の邦訳を公開いたしました。

 発達理論に関する上述のような既存の日本語文献と比較して、この論文の特長を挙げるなら、 

  1. 各段階の内面的特性に関する記述が充実している(例えば防衛作用、恐れ、世界観など)
  2. 高次の段階についての記述が充実している(自律的段階、構築自覚的段階、一体的段階)
  3. ウィルバーの「アンバー段階」が2つに分けられている(順応的段階と自意識的段階)

 などのことが言えるでしょう。他にも、読者によって様々な着眼点がありうると思います。

 もちろん、本論文を読んだだけで発達理論の熟達者になれるわけではありませんが(あるいは「発達」が保証されるわけでもありませんが)、ウィルバーの本の中でも、ビジネス志向の発達理論書の中でも明文化されていなかった数多くの観点や洞察に触れることができると思われます。

 しかし何より、私がこの論文を邦訳公開しようと決めたのは、「日本語でも、無料で、発達理論に関する"これくらいの情報"には触れられなくてはならない」という強い思いがあったからでした。

 この邦訳論文を通して、一人でも多くの人が、発達に関する理解を深められることを願っています。

 なお、参照のため、本論文における主要な発達段階と、ウィルバーが使用する「色」の大まかな対応関係を以下に示します。ただし、ティールより後、及び、マジェンダより前の段階については、対応関係が必ずしも明確ではないため、省略しています。

クック=グロイターの自我発達理論 ウィルバー
一体的段階(Unitive)  
構築自覚的段階(Construct-Aware)  
自律的段階(Autonomous) ティール
個人主義的段階(Individualistic) グリーン
良心的段階(Conscientious) オレンジ
自意識的段階(Self-Conscious) アンバーあるいは特に「アンバー/オレンジ」
順応的段階(Conformist) アンバー
自己防衛的段階(Self-Protective) レッド
衝動的段階(Impulsive) マジェンダ
共生的段階(Symbiotic)  

 

※以下論文PDFを元にウェブサイト用に再構成して掲載したものになります


自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階

スザンヌ・クック=グロイター (門林 奨 訳)

Ego Development: Nine Levels of Increasing Embrace / Susanne Cook-Greuter (2005) 〔未公刊論文〕
自我発達理論における9つの段階の詳細 (構築自覚的段階と一体的段階を含む)


イントロダクション

 自我発達理論(Ego Development Theory)は、ケン・ウィルバーの「人間の経験に関する全象限・全レベル(All Quadrants, All Level: AQAL) の地図」のうちの、左上象限における発達の諸段階を描くモデルの1つとして、最も認識されている。この理論は、現代の西洋社会において最も一般的に見受けられる諸段階を記述している。下表が示しているように、自我発達理論が取り扱っているのは、ウィルバーの包括的な意識モデルにおける前- 慣習的、慣習的、後-慣習的、そして初期の後- 後- 習慣的な仕方での意味構築作用である。図表として表現したのは、自我発達理論においては詳細な区別がなされているという感覚と、この理論は全体としてより大きなモデルに適合しているという感覚を得てもらうためである。しかし、図の見かけの姿とは違い、この理論は、単純な階層、直線的な進歩、一続きの階段として理解されるべきではない。これは、発達モデルを表現・提示するための数多くの方法のうちの1つにすぎないのである。 

 トーバート(Torbert) が調査した諸段階は自我発達理論と非常によく対応しているので、比較と参照のため、それらも表1に含めている。

 人間の発達は多くの方法で記述することができるが、ほとんどの理論では、厳密に一歩一歩進んでいくものではなく、あらゆる方向に動きうる螺旋のような形をなして展開していくものだとみなされる(上図参照)。 成人のほとんどの成長は、水平的・拡張的なものである。人々は新たな技術、新たな方法、新たな事実、そして知識を体系づける新たな方法さえ学ぶが、しかし彼らの位置する段階すなわち世界に関する心的モデル(mental model) は同じままである。一方、自我発達理論では、心的モデルそれ自体が、時とともにどのような段階を踏んで発達していくのかということが記述される。それぞれの新たな段階は、以前の段階を部分集合として含む。それぞれの新たな段階は、それ自身のなかで一貫性をもつ新たな意味体系であると同時に、より大きくて複雑な意味体系の一部なのである。 

 さらに言えば、自我発達理論が記述するのは、相互に関係した3つの構成要素からなる心理- 論理的システム(psycho-logical system)である。行動に関わる構成要素は、その人が何を人生の目的とみなしているのか、どのような欲求に基づいて行動しているのか、どのような目標に向かって道を歩んでいるのかといった点に着目する。感情に関わる構成要素は、種々の感情や、この世界のなかに存在しているという体験そのものに関係する。認知に関わる構成要素は、自分自身と世界についてどのように考えるかという問いに焦点を当てる。論理(logic) という言葉を用いたことで認知的側面を重視していると思われるかもしれないが、重要なことは、それぞれの段階が行動(Doing) と存在(Being) と思考(Thinking)の統合から生じるという点を理解しておくことである。

 私たち一人一人は、どのようにして、知識や良識、地図やアルゴリズム、直観といったものを用いて、人間の実存という海峡を渡っていくのだろうか。たとえて言えば、そのことに1つの説明を与えるのが、自我発達理論(EDT)なのである。  

 一般に、人間の発達は、現実世界(reality)に関して意味構築を行う方法(すなわち段階)の発達として捉えることができる。各段階は、1つおきに、統合(integration) よりも差異化(differentiation) を重視する段階と、差異化よりも統合を重視する段階を通過していく。こうした差異化から統合へのパターンは、ある段階から次の段階への発達においても、発達全体においても見受けられる。 

 1960 年代、心理学者たちは、人間存在は差異化と統合のバランスを絶え間なく再調整することによって個性化していくと主張した〔原注2〕。アンギャルはそれを、自律(autonomy) と調和(harmony) へ向かう生来の二重的傾向と呼んだ。彼は調和を次のように定義している。「調和とは、個人的自己を超えたところに広がっていると自らがみなしている単一体(unit) と調和したいという願望である。その全体は〔中略〕、社会的な単一体──家族、氏族集団、国家──によって、あるいはイデオロギーによって、あるいは〔中略〕意味のある秩序をもった宇宙によって表現されうる」(1965, p.15) 私たちは、差異化と統合、分離と参画、支配と関係性、自立とつながり、ケアと正義といった他の名称によって、こうした二重の欲求についてよりよく理解している。LDF〔Leadership evelopmentFramework, 訳注1〕における諸段階は、初めから終わりまで、こうした交互のパターンに従っている。 

 上図において斜線つきの番号が振られている段階は、差異化の段階である。そうした段階には、自己防衛的段階、自意識的段階、個人主義的段階、構築自覚的段階が含まれる。人々は、それまでに共有していた世界観から抜け出すたび、以前の段階とは異なっている事柄に焦点を当てる傾向にある。彼らは新たな自立を勝ち取ったのだと主張するが、しかしまた、過去とのつながりを置き去りにしてきたため、苦痛を示す。単一の数字が振られている段階(順応的、良心的、自律的、一体的)では、今や自分たちの認知的・感情的・行動的な欲求に適合するような仕方で結びついている新しいコミュニティと調和しているため、概して、よりバランスがとれている。一連の発達は、段階3(順応的)では似たような外面的性質をもつ他者と同一化し、段階4(良心的)では似たような考えをもつ他者と同一化し、段階5(自律的)では似たような根本的信念をもつ他者と同一化し、段階6(一体的)では似たようなスピリットをもつ他者と同一化するというように起こる。そこではスピリットは、全ての人々のなかで輝きを放っているものであるとみなされる。

 発達全体のパターンとして差異化から統合へと移行するのは、ちょうど慣習的段階から後- 慣習的段階へと移行するときでもある。発達における最初の2つの層〔前- 慣習的段階と慣習的段階〕がもたらすのは、新生児の共生的な埋没状態から離脱していく運動、言い換えれば、成人の抽象的・分析的機能の段階へとますます差異化していく運動である。こうした発達は良心的段階、つまり科学的自我の段階で最高潮に達する。それに対して後- 慣習的な諸段階(個人主義的段階4/5 から一体的段階6 に至るまで)では、一般的傾向として、同化と統合が起こり、基盤(ground)との調和と一体化の感覚がますます意識化されていく。

 ほとんどの現代西洋文化が期待するところによれば、十分に機能を果たすことのできる成人は、現実世界を自分自身とは離れて初めから存在している外的なものであるとみなし、そして取り扱う。それは恒久的で明確な対象から成り立っており、自らの利益のために、分析・調査・制御することができるものである。こうした見解は、主体と客体、思考者と思考が最大限に分離したことによるものである。それは、制御・測定・予測といったことに関わる伝統的な科学的見方の縮図となっている。それはまた、西洋的な社会化(socialization) の目標になっていることが多い。大抵の成人は、物体を定義する際の基本的な恣意性についての洞察をほとんどあるいは全くもっていないし、コプロウィッツが「命名と測定のプロセスによって、現実世界(reality) から、名づけられるものが引き抜かれる。しかし現実世界それ自体は、名づけることも測定することもできないのである」〔原注3〕と述べたようなことに全く気づいていない。彼らは、主体と客体は異なっており、部分を分析すれば全体が理解できるという仮定のもとに活動している。慣習的な西洋的視点からすれば、このような科学的・合理的な心的枠組みを習得することこそが社会化の目標であるとみなされ、そしてそうした枠組みが、十分に成長した大人になるとは何を意味するのかということを定義している。 

 下表が示しているのは、異なった人々に対する発達段階の分布である。  

 前頁の図は、自己意識が、自己と他者に関する視点を次第に複雑化させながら、規則的なパターンに従って無知から成熟した知恵へと拡大していく道筋を、比喩的に図式化したものである。 

 以下で、上記の比喩的な図を具体化し、主に自我発達理論の用語を用いて、一連の意識段階の発達について詳しく述べる。その内容は、先に述べた問い、すなわち、行動、感情、思考の複雑性という点において、各段階ではどのようなことが観察される傾向にあるのかという問いへの答えにもなっている。

衝動的段階から一体的段階まで:段階の発展

 これから述べるのは、どのようにして各段階が、それ自体として完全な1つの段階であると同時に、より広大で複雑で統合的な認識・行動様式〔すなわち次の段階〕の一部分になっているのかということである。各発達段階には、その段階に到達して初めて達成される事柄や克服される事柄が存在するが、それと同時に、その段階に固有の限界や固有の脆弱性も存在する。

 最初の層である前- 慣習的な諸段階は、知的職業に従事している成人に見出されることは滅多にない。なぜなら、大抵の場合、このような世界の認識様式は子供時代に既に超えているからである。しかし、このような認識様式は、私たちの無意識のなかに記憶として存在しており、ひどい強迫や強制を受けたときなどに、代替案として作動するのである。

 

前- 慣習的な諸段階(the preconventional stages)

 第一層の行動論理、すなわち衝動的段階から自己防衛的段階までは、子どもが生まれてからおよそ12 歳になるまでに成熟する一般的なプロセスを表しているとともに、発達が「停止」した場合の成人の段階も表している。自我発達理論(EDT) ではこの時期をさらに幾つかの段階に分けるが、一方で、これらの諸段階はLDF のモデルには含まれていない。最も初めの段階〔段階1〕をここに記したのは理論を完全にするためであり、それはただ、私たちが仮定として、あらゆる人間は最初の保育者と共生的に合体した差異化されていない状態で生まれると考えているということにすぎない。よちよち歩きの幼児や「いかれた支配者」でさえ、この最初の無力な日々から離れるという重大な変容を既に遂げているのである。自己防衛的段階と順応的段階の間にある「規則志向的段階(Role-oriented)」は、ある人物の視点取得能力の増大・発達を示すために、理論的な理由からここに含まれている。成人にこの段階が見受けられることは非常に稀であり、LDF の諸段階には含まれていない。認知的発達の諸段階に関しては、Commons & Richards (1984) を参照している〔原注5〕。

 

段階1:前- 社会的段階または共生的段階(The Pre-social or Symbiotic Stage)

 1つ目の段階では、幼児は、対象物に関する安定な世界を自分自身で構築する。そうすることで、幼児は世界の中の対象物から自分自身を分離する。自己の構造と外的世界の構造は、必然性をもって相互に関係しており、それは言葉をどう使うかによって変化する。1つ目の段階はさらに、前- 社会的段階(pre-social phase) と共生的段階(symbioticphase) に細分化することができる。やがて成人になったときに、適応(例えば、健全な自我の確立、認知や性心理の発達、社会性や道徳性の発達など)がうまくいくかどうかは、このような人生の最初期における諸問題を順調に解決することができるかどうかによって決まる。この段階では、発達がもっと進めば全く異なるものとして現れてくる様々な性質が、まだほとんど差異化されていない。

 段階1 は、自我発達理論において、すなわち文章完成テスト(SCTi)〔SentenceCompletion Test Integral, 原注6〕において、正式な段階としては含まれていない。なぜなら、この未分化の段階にある成人は、前- 言語的あるいは言語を用いない傾向にあり〔したがって文章完成テストを受けられず〕、また大抵の場合、病院などの施設に入っているか、他者による世話と保護に完全に依存しているからである。彼らはクライアントや患者として労働世界に現れるが、彼らの世話をするには大きな忍耐と内なる強さが求められる。もし前- 慣習的段階にある人々自身によって世話がなされるならば、彼らの搾取的・虐待的な傾向に対して監視を行うことが必要かもしれない。

 

段階2: 衝動的段階(The ImpulsiveStage)

 この段階の個人は、新たに出現した自我と連動するように、言葉を使い始める。「私は〜が欲しい(I want)」や「私のもの(mine)」といった発言が、その目印である。彼らは安全と基本的欲求の満足に関心がある。これは、文章完成テスト(SCTi) で測定することのできる最初の段階であり、一人称的視点(first person perspective) を表している。測定用文章(instrument) に対して言語的な手掛かりを十分につかむことができないということが、この段階の目印である。

 この段階に位置する子どもたちは、自らの衝動に支配されている。したがって、この段階は衝動的段階と呼ばれる。彼らは、「いやだ(no)」という言葉や「私のもの(mine)」という所有権によって、自己感覚が育ちつつあるということを主張する。魔法のような考えが支配的であり、限りない力の感覚が存在する。それは、様々な発生源から与えられる罰によって抑制されるだけである。そうした発生源は自らの振る舞いとは無関係であり、でたらめで報復的なもの、事物に内在しているものであると知覚される。他の人々は、主に、欲求充足あるいは供給の源としてみなされる。良い人々は私に与えてくれるが、平凡な人々は与えてくれないのである。言語は未分化(undifferentiation) であり、認知は単純である。衝動的段階に位置する個人は、成人生活および世界の複雑性に関して不十分な概念しかもたず、すぐに困惑し、不安になり、圧倒されるようである。

○言語上の手掛かり:
  単純な言明。質問文(stem) の繰り返し。過去時制の刺激に対する現在時制。「もし○○をすれば、犯罪と非行をやめさせることできるだろう」といった長い質問文に対して理解・応答することができない。物事は良いか悪いか、きれいか汚いか、素晴らしいか平凡かのいずれかである。心の動きは感情よりもむしろ身体的な言葉で表現される。繰り返しの多さが、衝動的段階の最も顕著な兆候である。プロトコルでは、幾つかの質問文を全くあるいはほとんど同じように完成させていることが多い。

 

段階2/3: 自己防衛的段階 [ 日和見主義者](The Self-protective or OpportunistStage)〔原注7〕

 この段階は、よちよち歩きの幼児を見守ったりお世話したりするなかで、私たちの大半にとっては馴染み深くなっている段階である。少しの間、2歳児にとって、あらゆるものが意思を試す手段(a test of wills) となる。意思がくじかれたり、欲求や願望が対立したりすると、癇癪を起こす。こうした振る舞いは、自己防衛的段階にいる成人にとっても共通のものである。彼らは他者の意図に対して用心深く、最悪のケースを想定する。彼らにとって、あらゆることが意思の戦いである。人生とはゼロサムゲーム〔全員の利得の総和が常に0になること〕である。彼らの「私が勝ち、あなたが負ける」という心的傾向は、必然的に、彼らが行くところではどこでも摩擦を生み出し、さらには他者(特により慣習的な段階にいる個人)の感情を害することになる。同様に、他者はしばしば自己防衛的段階の人々を狡猾で搾取的な人物だと感じる。 

 自己防衛的段階で描写されるのは、自分自身の欲求と願望の視点からのみ世界を眺める人々である。彼らはまだ、心理学的な意味で自己や他者を洞察することができない。欲しいものを手に入れる唯一の方法は、他者を支配し、自分自身を防衛することである。しかし、彼らは利己的な態度で、常に好機をうかがっており、熟考することなく即座に欲しい ものを追いかけるエネルギーを備えているため、日和見主義的(opportunistic) であるとも呼ばれるということを知っておくことは重要である。

自己防衛的段階の成人は、壊れやすい自己を注意深く守ろうとする。ここでは自己とは、個別の成人自己ではなく、意思や考えや望みと同義である。自己は、自分自身を守るため、内側にある真の自己と、外側にある自己すなわち「偽物の顔」という2つの側面をもつのとして感じられるかもしれない。もし人々が自分の望んでいることを知ったならば、彼らは自分に対して力をもつことになるだろう、というわけである。自己防衛的段階 の人々は、限界を試し、自分自身に支配力があることを主張するために、他者の意思に抵抗する必要がある。他者からの反応を予測する初歩的な能力が備わっているので、個別の人間または個別の「モノ」として他者を意識し始めることのできる最初の段階である。それゆえ、自己防衛的段階では、他者と意識的 に交流するための基本を身につけることが必要になる。「もし他の人たちが何を求めているのかが分かれば、人々をもっと上手にコントロールして、自分の欲しいものを手に入れることができる」

  この段階にいる個人は、しばしば「問題を起こす(get into trouble)」ことになる。許される限度をうっかり超えてしまえば、面倒なことが起きるのである。自己防衛的段階の人たちは、面倒なことが起こらないように用心し、またその結果を避けようとする。彼らは、 自らの意志を貫けなかったとき、あるいは限度を超えてしまったとき、自らの外側に原因があるとみなす。欲求不満に陥り、しばしば、怒りと敵意を自由に表現する傾向がある。非難されるべきは他者であり、決して自分自身ではないのである。世界に対して抱いている怒りは外部へ投影され、他者は1日中怒っているように見える。 自己防衛的段階の個人にとって、世界とは敵意に満ちた、危険な場所である。ルールは認識されるが、それに従うのは、すぐに利益が得られる場合と罰を避ける場合だけである。生存のためには、巧妙さと、好機を横取りすることが必要なのだ。自尊心は、他者に抵抗して獲得することのできる支配力の大きさと結びついて経験される。自己防衛的段階の個人は、しばしば自分自身を、外部にいる風変わりな人間だとみなす。彼らは孤独を感じるが、別の方法で他者と接する方法が分からない。「他の人々に敵対しているのはいつも自分だ」。このため、非常に低い信頼感と過度の警戒心が永続することになる。

 自己防衛的段階の個人は、ご都合主義的な道徳性を備えている。行動が悪いのは、捕まって罰せられたときだけなのである。捕まえられても、恥を感じることはなく、激しい後悔に襲われることもほとんどない。彼らは、行動とその結果にある関係についてまだ理解できないため、自分が起こした失敗や問題に対して責任を感じないのである。他者の欠点を非難することが、自分自身を守るための方法である。幸運や不思議な力が自己を守ってくれるということに対して大きな信頼がある。危険で骨の折れる仕事を選ぶ人々は、しばしば、この段階の肯定的で勇敢な側面を象徴している。例えば、テストパイロットの中には、強運の持ち主だが一匹狼だとして知られている者もいる。

 自己防衛的段階の個人は、社会的なネットワークのなかにあまり埋め込まれておらず、力に基づいていない微妙な人間的相互作用を理解することができない。他者との関係は非常に不安定なものである。友情は容易に台無しになる。感情は外在化されており、外部へものを追いかけるエネルギーを備えているため、日和見主義的(opportunistic) であるとも呼ばれるということを知っておくことは重要である。

 自己防衛的段階の成人は、壊れやすい自己を注意深く守ろうとする。ここでは自己とは、個別の成人自己ではなく、意思や考えや望みと同義である。自己は、自分自身を守るため、内側にある真の自己と、外側にある自己すなわち「偽物の顔」という2つの側面をもつのとして感じられるかもしれない。もし人々が自分の望んでいることを知ったならば、彼らは自分に対して力をもつことになるだろう、というわけである。自己防衛的段階の人々は、限界を試し、自分自身に支配力があることを主張するために、他者の意思に抵抗する必要がある。他者からの反応を予測する初歩的な能力が備わっているので、個別の人間または個別の「モノ」として他者を意識し始めることのできる最初の段階である。それゆえ、自己防衛的段階では、他者と意識的に交流するための基本を身につけることが必要になる。「もし他の人たちが何を求めているのかが分かれば、人々をもっと上手にコントロールして、自分の欲しいものを手に入れることができる」 この段階にいる個人は、しばしば「問題を起こす(get into trouble)」ことになる。許される限度をうっかり超えてしまえば、面倒なことが起きるのである。自己防衛的段階の人たちは、面倒なことが起こらないように用心し、またその結果を避けようとする。彼らは、自らの意志を貫けなかったとき、あるいは限度を超えてしまったとき、自らの外側に原因があるとみなす。欲求不満に陥り、しばし投影されている。洞察力不足と自己防衛のため、彼らの感情のなかに表現力や熟考力を見ることはほとんどできない。どのような弱みを見せることも危険である。「他者が私のことを知れば知るほど、彼らはますます私のことを利用できるようになる」。そのため、大抵の自己防衛的段階の個人は、一般的な敵意を示すとともに、闘争か逃走かの準備ができている。危険度の高い特定の仕事(テストパイロット、刑務官、消防士)──もし自己防衛的段階から見て意義が感じられるのであればだが──に携わる人々は、生存のために仲間に頼らなければならず、したがって互いを保護するために協定関係を結ぶかもしれない。

○認知のスタイル:
  思考は具体的で、二分法的である。全体的で、差異化されていない判断、単純な見解に基づいている。物事には、黒か白かのいずれかしかない。

○主要な関心:
  支配力や強みを手に入れることで、あるいは人々を騙すことによって、統治するといったテーマを好む。他方で、自己防衛的段階の人々は、他の誰かが自分を支配し、制御し、騙そうとしていることを常に恐れている。

○内面の特性:
  心理とは、心理的状態や長期的目標というよりも、今その人が何を行い、今その人が何を望んでいるかによって定義される。

○意思決定のスタイル:
  これはあなたの問題であり、私の問題ではない。

○組織のタイプ:
  権力と強制。

○防衛作用:
  自己防衛的段階の成人は、不安を最小化して自尊心を最大化するため、外部を非難するとともに、歪曲したシステムを用いる。彼らの防衛作用と対処スタイルは未成熟である。空想(fantasy)、行動化(acting out)、投影(projection) といったものが最も一般的な防衛 作用である。あらゆる因果関係および重要な心理学的作用は、絶えず脅威をつきつける外的世界の一部であるとみなされる。(Vaillant による防衛機制の階層を参照のこと)


○憂うつ:
  望むものを手に入れられなければ、どこか間違ったものがあるに違いない。支配されたか阻止されたと感じたら、私はそれを憎む。悲しみはほとんどの場合、自己や他者の攻撃性として表現される。


○人物例:
  アーチー・バンカー型〔訳注2〕。自己防衛的であり、馬鹿で頑固で、視野が狭く、自分自身の身に起こったことに関して絶えず他者を叱責・非難している。時々、他者の軟弱な側面をあばく痛烈なユーモアを言う。自己防衛的な個人は、自分たちの住む具体的な小さ な世界に関心があり、しばしば身体的な容貌や満足にわくわくする。偏見を示し、議論を二極に分裂させ、他者の弱みにつけこむ。


○言語上の手掛かり
  経験は、単純な二分法(よい/ 悪い、正しい/ 間違いである、楽しい/ 退屈である)および具体的で身体的な言葉(例:「人生は苦しい(life is hard)」)で記述される。自分自身が所有している様々な「モノ」からなる具体的な世界に関心を抱いている。非身体的な概 念に対しても身体的な言葉を使うかもしれない。うんざりしている(sick)、動揺している(upset)、興奮している(excited)、頭にきている(mad) といった最も単純な感情のみを差異化することができる。


段階 /3: 規則志向的段階(The Ruleoriented Stage)


  この段階をここに含めたのは、それが自己 防衛的段階の思考から順応的段階の依存へと 至る認知的な変化を示しているからであり、 そしてまた心の成長に関する論理的なつなが りをもたらしてくれるからである。この段階は、注釈7で述べられているように統計的に 非常に少ないため、一連の段階には含まれていない。

  この段階では、人は様々な見解のあいだを揺れ動く。時には「あなたにとって、私はど のように見えるのだろう」と、時には「私にとって、あなたはどのように見えているのだ ろう」と自問する。今や彼らは、特徴や振る舞いに関する外面的な差異を認識できるのである。多くの場合、学校に入学した子どもたちはこの発達段階に進入している。規則志向段階で描写されるのは、2人称的視点(second person perspective) を発見しつつあり、単純で外面的な比較や、具体的な心的操作を行い始めたような成人でもある。

  彼らは、受け入れられ、そして好かれることを必要とし始めるため、社会的な慣習やルールを見つけ出すことに夢中になる。「よく」て、受け入れることのできる人間だと見られたいので、外面的な魅力や容貌を重視する。この段階にある人々は、ルールに従うことで受容と保護が得られるので、以前よりも信頼感を示す。世界は、自己防衛的段階の人たちが感じているほど敵対的ではないように感じられる。人々は、尊敬される(re-spect)──それは他者によって見られる(seen) ことを意味している──ことを望む。今や尊敬は、力ではなく、集団の規範を固守することによって得ることが出来る。この段階にいる人はまた、他者に注意を払うという形で他者に対して敬意を払う。私がここにいるとき、人々は私に気づいてくれる。私が彼らの話を聞き、彼らが私の話を聞く。2人称的視点を用いることで、簡単なフィードバックの可能性を発見するのである。他者が私について考えていることを、私は見つけ出す。「私は友人に何を考えているのか尋ねることができる。彼らは教えてくれる。そして世界は崩壊しないのだ! 私は彼らを信頼している」。2人称的な視点をとることは、社会的相互作用の発達における重要な段階なのである。


  この段階では、他者との表面的な類似性が見出されるが、それは心地よいものとして感じられる。私は孤独ではないのである! このような新しい感情は、クラブ活動のようなゆるい結びつきのなかで味わわれる。そこで人は、似たような行動的興味を共有するのである。


○言語上の手掛かり:
  規則志向段階の主体は、事実に基づく単純な言明を幾つか述べ、具体的な振る舞いや単一の外見的特徴に言及する。彼らは刺激に対しては消極的に反応し、困難に巻き込まれることを避けようとするが、そうする方法をはっきりとは知らない。何か間違ったことをしたと感じうるが、どのように間違っていたのか、なぜ間違っていたのかを述べることができない。多くの場合、彼らの言い方には感情が欠けている。

 

慣習的な諸段階(The Conventional Stages)

 順応的段階( 段階3)、自意識的段階( 段階3/4)、そして良心的段階( 段階4) はそれぞれ、大抵の人々がおよそ12 歳になった後に到達する自我の段階を扱っている。私たちは、大雑把に言って80% の成人がこの3つの段階に位置しており、その大半は自意識的段階から良心的段階に移行しつつあるところであるということを発見した。ピアジェの用語を用いれば、段階3 は具体操作段階での機能を表しており、段階3/4 は抽象的操作を用いており、段階4 の個人は意味構築に関して形式操作に頼っている。良心的段階では、人々は、現実世界に関する直線的な見方をもっている。対象は閉じた境界をもつものとして定義され、因果関係は直線的であるとみなされ、変数は独立であると考えられる。良心的段階は、大半の西洋的文化において、唯一の成人段階(the adult stage) であると幅広く考えられている。社会および制度は、その段階を達成することを支持し、そしてそれに対して報酬を与える。この段階は民主主義が機能するための前提条件である。なぜなら、適切な(外面的な特徴や類似性ではない)基準に基づいて合理的な熟考と選択をすることのできる一般市民のみが、全体を守りながら、それと同時に、法律に変化が生じることを認めることができるからである。


段階3: 順応的段階 [ 外交官](The Conformist Stage)


  順応的段階が描写しているのは、初期青年期の心的枠組みをもつ人々である。この段階に位置する人々の自己アイデンティティは集団との関係性のなかで定義される。このため、自分自身と集団(家族であろうと、チームであろうと、国家であろうと)との間の境界が曖昧化していく。人は、より大きな全体性の一部になることによって、保護され、その力を共有することができる。集団に含まれるためには、代価として、忠実であること、従順であることが必要である。順応的段階の人は、依存関係にあることで満たされるが、そうした関係を築けないと、自分自身に責任を感じる傾向にある。その集団がより多くの地位を得れば得るほど、そのメンバーの1人としてより価値を感じる。自己と他者の間の境界は曖昧(con-fused) でぼやけている。家族および内集団(例:青年における仲間集団)を完全に受容しており、そこから逸脱する者や外集団に対しては盲目的な拒絶を示す。「彼ら(them)」に対抗する孤独な「私(me)」という自己防衛的段階での見方が、この段階では、「私たち(us)」に対抗する「彼ら(them)」という見方に取って代わる。あなたは、私の友人で私たち自身と私たちの為すことに賛成なのか、それとも、私たちの敵なのかのいずれかである。曖昧さや相反する感情は、順応的段階に位置する人々の存在そのものを脅かすものであるため、心に留められることはなく、そうしたものを認めることもできない。


  受け入れられる必要性を感じているため、言葉は非個人的(impersonal)なものになり、しばしば、過度に肯定的で決まり文句に満ち溢れたものになる。順応的人々は典型的な順応的人々なのであり、集団の利益のため以外には、事を荒立てたいとも、選び出されたいとも、主導権を握りたいとも思わない。絶えず仲間についていくこと、物質的な財産と地位の象徴を手に入れることが重要である。なぜなら、それは自らの成功を示すと共に、真の満足をもたらすからである。

  好かれるためには、魅力的な社会的人格をもたなければならない。立派で、好ましく、見栄えのよいことが重要である。人々は、どのように見えるかによって判断される。きちんとしていること、外向きの印象、住宅の清潔さに対して細心の注意が払われる。自己は、自らが「所属」している他者たちの期待によって定められ、生み出される。彼らの認知的世界は単純なカテゴリーに分割され、人々のタイプは、ほとんど外面的相違に基づいて決まる。有名な雑誌で紹介されている通りに休暇を過ごすことや、上司の持っているものとそっくりな車を所有することによって、順応的段階の人々は、実に幸せになりうるのである。


  順応的段階の人々は、同じような好み・属性・信念・期待を有する人々と同一化しており、そして結びついている。異なった要求・視点・多様性・複雑性に触れると、困惑し、脅威を感じる。自分自身の属する集団が抱いている価値観は、強力な「〜すべきだ(should)」として取り込まれるが、他方、異なった人々の抱いている価値観を中傷する。「私はあなたがたを憎んでいる」といった否定的な感情は分裂し、外側に投影され、「彼らが私を憎んでいる」という感情として経験される。彼らが気づき(awareness) に至ることは滅多にない。この段階の心的枠組みによって表現されうるのは、盲目的な順応主義と原理主義と偏見である。多くの場合、自己に対する攻撃性(自己卑下)や否定的な感情や失望感といったものは、過度に肯定的な感情や熱意を示すことによって打ち消される。  要約すると、順応的段階はまだ、個別の成人アイデンティティという意味での自己をもっていないのである。代わりに、彼(彼女)は他者によって定義される。自己と他者の境界はぼやけており、まだ差異化されていない。このため、人間関係は、「粘着質」で「私はあなたを必要する」といった共依存的な性質をもつことになる。


○衝動の制御と人格の発達:
  ルールはある程度内面化されているが、何の疑いもなしにルールに従う。自らの行動が望ましくない結果を生み出したときには、恥(shame) を感じるのが一般的な反応である。人生は、何が出来て何が出来ないのかというルールによって規定されている。異なった見解を抱いている人々を道徳的に非難する。性や攻撃性に関する感情は、拒絶され捨て去られるかもしれないという恐れから、否定あるいは抑制(suppress) される。


○対人的なスタイル:
  順応的段階に位置する個人は、所属したいと非常に強く願っているので、自らの所属する集団やギャングや政党が望んでいることであればどんなルールや規範にでも順応する。会社では、仕事仲間のあいだに生じた不満や、今にも始まりそうな口論を落ち着かせ、その場が心地よい雰囲気になるように気を配る。感じのよい人間であることや、人の役に立つことに価値を置いている。この段階の人々は、深い感情や動機づけよりはむしろ、周りから期待される振る舞い(忠実であること、友好的であること)という点から人間関係を理解する。


○認知のスタイル:
  順応的段階の人々は、具体的で目に見える経験に興味を抱いており、そうした経験を、極端な言葉や慣習的な決まり文句を用いて描写する。しかしながら、こうした決まり文句は真剣に受け取られ、決まり文句であるとはみなされない。内なる感情への関わり方は、型にはまったものであり、文化的な期待と結びついている。


○主要な関心:
  順応的段階の人々は、外見、地位の象徴、物質的な所有、評判や名声といったものに大きな価値を置く。彼らは社会的に受容されることに関心があり、集団の規範に慣れようと試みる。彼らは他者からの意見や評価をとても深く心配している。「このことやあのことに関して、そして私自身に関して、他者はどのように思っているのだろう」。「〜すべきだ(should, ought)」という感覚や、そうした「〜すべきだ」が達成できなかったときに感じる恥ずかしさや面目のなさに、押しつぶされそうになることもある。


○内面の特性:
  他者からの受容に依存している。順応的段階の個人は、どのような瞬間であれ、そのときに他者が考えていることについて心配する。彼らがプロトコルの中で表現する感情は、どれも簡潔であり、他者に「受容」してもらえる感情である──例えば、悲しい(sad)、幸せである(happy)、緊張している(nervous)、動揺している(upset) などが含まれる。しかしまだ、そうした感情をより微細な種類へと差異化することはできない。


○問題解決:
  一般的に、出現してくる問題を否定するか、ラベルを貼り替えて隠蔽する。「それを問題だと呼ぶ人もいるが、もしその明るい面を見るならば、本当はそんなに悪いものではない」


○組織のタイプ:
  順応的段階の人々は、より大きな全体のなかでの受容と保護を求める。彼らは、アイデンティティや階層構造が明確に定義された組織に惹きつけられる傾向が最も強い。


○防衛作用:
  順応的段階の人々が行う主要な対処運動すなわち防衛作用は、投影(projection) と取り入れ(introjection) である。彼らは、自分自身が考え、望み、感じているのと同じように、他者も考え、望み、感じているのだと思い込み(投影)、そうした想像上の要求を満たそうとする。彼らはまた、他者による定義・規範・価値・意見を何の疑問もなく取り込む(取り入れ)。「上司がそう言ったのなら、正しいに違いない」。


○カウンセリングのスタイル:
  順応的段階の人々は、多数のアドバイスを与えることを好む。何をすべきむ。肯定的な感情を誇張する。ほとんど全ての人と全ての物事は楽しくて、重要で、素晴らしい。記述は具体的であり、情報は事実に関するものである。


段階3/4:自意識的段階 [ 専門家](TheSelf-Conscious or Expert Stage)


  段階3/4 すなわち自意識的段階が描写するのは、自分自身と距離を置き、遠くから自分自身を対象として見つめることができるようになった人々である。彼らは自分自身を対象として見ることができ、そのため、自己について熟考することができる。3人称的視点(third person perspective) をとることができるようになると、概念に関する分岐点が越えられる。自意識的段階の人と接するときに抱く感覚は、〔これまでの段階とは〕明らかに異なるものである。この段階に位置する人々は、ある程度の内省や自己理解ができるようになる。それはつまり、身近な家族という文脈から自分自身を差異化させ、個としての自分の性質を新しく主張・表現する必要があるということでもある。3人称的視点によって、抽象的な対象や概念を用いた操作が可能になる。


  この段階の人々は、代わりとなる案を見つけることを得意とする。彼らはそうした代替案を徹底的に用いようとする。どんな問題に対しても、無数の解決策と変更策を差し出す。段階3/4 では、自己は直線的な時間の中で新しい形で体験されるが、そうした体験の一部として、他者の中には大まかな「特性(traits)」があることに、すなわち、人々が 時間のなかで見慣れた性格パターンを表現し続けていることに気づくようになる。行動にパターンを見るこうした方向性と、自己意識の出現によって、他者とより多くの内面的性質を共有することに興味を抱くようになる。これまでよりも差異化された特性(traits)(例:孤独さ、嫉妬深さ、真面目さ)や規範(norms) (例:女性らしさ)や慣習的美徳(conventional virtues ) (例:正直さ、我慢強さ)について語ることに、興味を抱くようになる。順応的段階において焦点が当たっていたのは類似点であったが、自意識的段階では個人間の差異に焦点が当たるようになる。この段階の人々は、より頻繁に、他者と比較した自分自身の個性について表現するようになる。彼らはまた、自分自身の欲求と願望を今までよりも多く主張するようになる。それは、周りに受け入れてもらうために、段階3では抑制(suppress) されていたものである。

  しかしながら、今や彼らは、自分自身の差異によって他者から受け入れてもらうことを願っている。彼らはまた、他者よりも優れた存在になりたい、群集から抜きん出ていたいと思う傾向にある。集団を必要としているが、その周辺部に居座り、集団から離脱する兆候を見せながらも、そこから完全に去ることは決してない。段階3/4 の人たちは、多くの場合、自分たちは「全てを理解した」のだと感じている。彼らはあらゆる答えを知っているのであり、何を信じるべきか知っているのだ。彼らは正しいことをしていると感じ、誤りを人のせいにする(抵抗)。彼らは高潔な道徳的基準と、何を為すべきなのかということに関する強い分別をもっており、自分自身の責任と義務を果たすことに関心がある。多くの場合、彼らは生真面目で完璧主義的な傾向を示し、非常に強力な超自我をもっている。他者は、自分自身の能力と基準に従って評価される。この段階においては、他者が考えていることに対する容赦のない批判が、知的攻撃(intellectual aggression) の一般的な形である。優越感はあまり隠れていない。この段階は、非常に抵抗力が強く、そして安定している。自意識的段階の人々に対しては、誰も、彼らはまだ何かを知らないだとか、もっと知るべきことがあるだとか言うことはできない。自意識的段階の人々は、対立する証拠を退けることによって、あるいは他者をけなすことによって、自分自身の認知的枠組み(schema) に適合しないデータ(material) を無視しようとする。

  対人的な状況においては、「はい、でも」症候群("yes, but" syndrome)が極めて一般的に見受けられる。人より一枚上手に出ようとする態度(one-upmanship) ──すなわち、他者の意見を聴くものの、自分がその上に居続けるために、自分自身の意見を付け加える──が典型的である。正の側面として、自意識的段階の人々は、新たな考えや異なった考え、より良い見解、より完全な手順を見つけ出すことに非常に熟達している。成人だけでなく、この段階に位置する青年も、多様な可能性や代替的な解決策を見つけることができる。上手く監督してやることができれば、彼らはかなりの肯定的な貢献をなしうる。しかし、こうしたプロセスは新しく付け加わったばかりであるため、この段階にいる個人は、多様な選択肢に優先順位をつけ、様々な可能性を総合的に扱うことができない。彼らには、ほど良い頃合い(when good is goodenough) が分からないのである。  順応的段階の人々は、他者からの受容を求めて自らの攻撃性を抑制しようとしていたが、この段階では攻撃性が再び現れる。自意識的段階の人々は、しばしば、敵対的なユーモアのセンスをもっている。他者をからかうことは、いつものおふざけである。内側を見つめる認知的な能力は存在するものの、用いられる防衛機構は極度に合理的なものである。順応的段階ではフォロワーまたは傍観者の立場にいることが好まれるのに対して、自意識的段階の人は、人を動かす存在(mover)になることや、物事を新しく始める存在(initiator) になることを楽しむかもしれない。自分とは異なる見解を擁護する他者と、論争を戦わせることを楽しむ。彼らの住んでいる世界では、物事とは確実かつ明白なものであり、自らの見解を他者に強いることに全く問題はない〔自分には全くもってその権限がある〕と感じている。そのため、彼らは極めて論争的で、極めて頑固だと感じられることがある。


○衝動の制御:
  自意識的段階の人々は、社会的な「〜すべきだ(should and ought)」を十分に内面化している。彼らの超自我は強力であり、その内容を批判的に検証することはできない。違反したことに対する恥と罪の感情は、単純な言葉で表現されるか、あるいは、正当化されて忘れ去られる(rationalize away)。


○認知のスタイル:
  自意識的段階の人々は、抽象的な思考や操作を行うこと、多様な見解を包含すること、物事を並べ替えること、何組もの項目を注意深く比較することができる。


○内面の特性:
  「心理」とは、自己と他者が安定してもっている気分や特性という点から理解される。自意識的段階の人たちは、無数の解決策を生み出す傾向にあるが、それらの間に優先順位をつけることはできない。多くの場合、意思決定のプロセスでは、動けなくなってしまう。ウィリアム・ペリー(1968)の発達モデルにおける「多元性(multiplicity)」段階も参照のこと。ここで必要とされている総合の力、および、様々な解決策の間に重みづけを行う分析的能力は、次の段階で発達する。


○組織のタイプ:
  技術職タイプ、テクノクラート〔技術系の官僚〕、ビューロクラート〔官僚〕、そして各種専門家のうち一定の割合が、この段階に位置する。自分自身とその周りの環境に対して責任をもっているというのが主要な特性である。自意識的段階の個人は、明晰な心をもっており、実用重視型の〔プラグマティックな〕リーダーシップを示す(なぜなら根源的な疑問や複雑性による負担がないから)。「私の行っていることを行いなさい(Do whatI do)」。自意識的段階の人々は、あらゆる社会とあらゆる集団において、決まりきった仕事を行うために必要である。彼らは、今日の高度技術社会・デジタル化社会において、非常によく成功している。


○主要な防衛作用:
  自意識的段階の人々は、自分たちの期待や、堅く決まった信念に適合しないことは、知性化(intellectualize) し、合理化し、正当化する。答えや説明を与えるために自分を見失うことは滅多にない。多くの場合、彼らは、上手く機能していないことがあると、構造や道具や他者の無能さを非難する。


○カウンセリングのスタイル:
  経営者やコンサルタントとして、多くの質問を行い、事実を蓄積する。彼らは理由を知りたいのであり、「なぜあなたは・・・したのですか(Why did you…?)」と尋ねる。しかしこうした接し方は、従業員やクライアントにとって、非難や叱責を受けているように容易に聞こえる。彼らは助言を差し出し、意見や解釈を共有しようとするが、そうした意見や解釈は彼ら自身ものであり、必ずしもクライアントのものではないのだという自覚が伴っていない。


○主要な不安:
  自意識的段階の人々は、自分自身の個別の個性を少し前に発見したばかりであるため、そうした独自性の感覚を喪失することを恐れている。彼らは群集のなかに、他者の集まりのなかに、引き戻されて再吸収されることを恐れている。彼らはまた、もし他者の見解に対して自分自身を開いてしまったならば、現在もっている確実性や強力な自己感覚を失ってしまうのではないかと恐れている。不完全さと傷つきやすさ(vulnerability) に対するこのような恐れは、しばしば、外見的態度を力強いものにすることによって緩和される。


○言語上の手掛かり:
  より複雑な構文。制限や条件の始まり。差異は、二極的な特性として表現される。因果関係に対する関心はあるが、積極的に探求することはない。「なぜ…なのだろうと私は思う(I wonder why)」。心理学的な語彙と説明が現れ始める。「時々(sometimes)」「しばしば(often)」のように、時の経過に言及し始める。過去時制の質問文に対して、常に過去時制で答える。「多すぎる(too much)」「十分でない(enough)」「〜に似ている(similarto)」といった単純な比較。多様な選択肢が示される。


段階 4:良心的段階 [ 達成主義者] (TheConscientious Stage or Achiever Stage)


  良心的段階は、西洋文化において目標とされている段階である。私たちの教育システムは、良心的段階の心的能力を備えた成人、すなわち、合理的な能力をもち自立した成人を生み出すように意図されている。民主主義とは、自主的な思考のできる投票者が、知識に基づいて理性的に選択を行うことができるという想定に基づいた、統治の形態である。良心的段階の人々は、3人称的な視点に、直線的な時間(過去と未来の自己について意識的に考えを巡らせること)を付け加える。この段階では、意味をなす社会的文脈は、同じ社会に属する他者や、同じイデオロギーや大志をもつ他者にまで拡張する。順応的段階や自意識的段階の人々と比べて、良心的段階の人々は、自分と同じような理想や目標を選んでいる人々と結びつく傾向が強い。彼らは、たとえ行動計画や特徴が異なっている集団であっても、様々な集団に同時に所属することができ、しかもそのことで、引き裂かれるような感覚を得ることもなければ、集団への忠誠心が対立していることに困惑することもない。


  この段階の人たちは、理性、原因、目標、結果、そして時間の効率的な活用に関心がある。彼らは、「なぜ」というよりも、何によって自分自身や他者が「動く(tick)」のかに対して好奇心を抱く。良心的段階の人々はまた、フィードバックや内省を通して自分自身についての真理を探求することに興味をもつようになる。彼らは時間のなかで前方や後方へ向かっている自分自身を理解するようになる。過去の感情、個人的な夢、そして未来の目標について述べるが、彼らが強調するものは未来志向のものになりやすい。


  良心的段階に位置する成人は、一般に、人類の完全性(perfectibility of humankind)と、真実を「発見する(uncover)」ものとしての科学的な方法論〔の妥当性〕を信じている。形式操作と抽象的合理性が最も使われる段階である。人々は、調査と手続きに基づく適切な科学的方法論に従えば、人間の性質を含めて、物事が本当はどのようになっているのかについて発見することができると信じている。良心的段階の成人は、万人にとって良いことだと彼ら自身が思っていることに従って、世界の改善へ向けて働くことを厭わない。彼らは自意識的段階の人々よりも、行動を起こしてから結果を得るまでに、研究を始めてから発見に至るまでに、問いを発してから答えを得るまでに、時間がかかることを許容できる。また、目標を達成するために他者は必要ではないと考える傾向も弱くなっている。


  良心的段階の成人は、社会的な基準を内面化している。彼らはもはや、自意識的段階の人々のように、思いついたことに誇りをもちはしない。どのように今まで成長してきたのか、そしてどのように未だ成長のプロセスにあるのかということにより自覚的になっていく。良心的段階において初めて、真に内省的になったと言えるほど、自分自身を客体として捉えることや、人生を絶えず変転するものとして捉えることができるようになる。「私は、自分が信じているものに従って生きているだろうか」ということが主要な関心になり、罪悪感(Guilt) が主要な感情となる。攻撃性が内側に向き変わると、厳しい自己批判を行うかもしれない。良心的段階の個人は、過度のあら捜しや、神経症的な自己批判に非常に陥りやすい。なぜなら、彼らの計画と意図は非常に一途なものであり、そして非常に高い目標を掲げるからである。

  時間を直線的な進歩として認識しているため、自分がどのような動機に基づいて、様々なときに様々な行動をしているのかということを、以前よりもさらに観察できるようになっている。「なぜ私はこのことを為しているのだろう」。良心的段階の個人は常に、根本原因と根本理由(the root cause and reason)を捜し求めようとする。彼らは、自分自身に関する真実を見つけることができると信じている。彼らは、外見的様子と感情を区別することができ、また、物事を理解しようという動機を抱いている。


  こうして、他者と自己を分析することが、お気に入りの気晴らしになると同時に、お気に入りの挑戦課題になる。人間の振る舞いに関する多くの類型論や理論が、他の人間存在を分類して理解したいというこうした動機から生まれる。良心的段階の人たちは、多くの場合、自己認識を大切にし、その拡張に取り組む。彼らは一般に、肯定的な自尊心をそなえているが、そうした自尊心は、自分が成功を手にしてきたこと、自分に人生の舵取りをしていける能力があること、自立しているという感覚があること、人生の著者になっているという感覚(self-authorship) があることに基づいている。彼らは自分という事業(selfenterprise) を統率する者なのであり、もはや、順応主義的段階の成人や自意識的段階の成人のように、他者に受け入れられるか排除されるかによって、傷つくことはないのである。


  他者がどのような人物であるかということに深く関心を抱いているため、そしてまた、体験を共有したいという欲求も感じているため、彼らの対人関係は真剣で意味深いものとなる。このため、社会的な付き合いがますます多様で豊かなものになっていく。他者は、私の信念に抵触してこない限り、異なる専門的知識をもつものとして評価される。「私たちは異なっていることに同意する(we agree to differ)」ということが、良心的段階における典型的な妥協策である。それは、私たちの間に存在する明確な境界を、無傷のままに保ってくれるのである。しかし、自己がますます差異化され、個人的な自立性が増大していくということは、より利己的で自己中心的な振る舞いをするようになるということではない。それどころか、他者を、自分自身の欲求や願望とは独立な存在として尊重することができるようになるのである。人は、特定の目標を達成するため、合意を得るため、そして事業全体の健全化と運営に参加するための契約として、集団や社会に参加するようになる。忠誠心は、ある信念体系を提唱した個人ではなく、その信念体系それ自体に向けられる。順応的段階の人々や自意識的段階の人々い。彼らは自意識的段階の人々よりも、行動を起こしてから結果を得るまでに、研究を始めてから発見に至るまでに、問いを発してから答えを得るまでに、時間がかかることを許容できる。また、目標を達成するために他者は必要ではないと考える傾向も弱くなっている。


  良心的段階の成人は、社会的な基準を内面化している。彼らはもはや、自意識的段階の人々のように、思いついたことに誇りをもちはしない。どのように今まで成長してきたのか、そしてどのように未だ成長のプロセスにあるのかということにより自覚的になっていく。良心的段階において初めて、真に内省的になったと言えるほど、自分自身を客体として捉えることや、人生を絶えず変転するものとして捉えることができるようになる。「私は、自分が信じているものに従って生きているだろうか」ということが主要な関心になり、罪悪感(Guilt) が主要な感情となる。攻撃性が内側に向き変わると、厳しい自己批判を行うかもしれない。良心的段階の個人は、過度のあら捜しや、神経症的な自己批判に非常に陥りやすい。なぜなら、彼らの計画と意図は非常に一途なものであり、そして非常に高い目標を掲げるからである。


  時間を直線的な進歩として認識しているため、自分がどのような動機に基づいて、様々なときに様々な行動をしているのかということを、以前よりもさらに観察できるようになっている。「なぜ私はこのことを為しているのだろう」。良心的段階の個人は常に、根本原因と根本理由(the root cause and reason)を捜し求めようとする。彼らは、自分自身に関する真実を見つけることができると信じている。彼らは、外見的様子と感情を区別することができ、また、物事を理解しようという動機を抱いている。


  こうして、他者と自己を分析することが、お気に入りの気晴らしになると同時に、お気に入りの挑戦課題になる。人間の振る舞いにとは異なり、良心的段階の成人は、そこで取り組まれるべき仕事や問題によって決まる様々なチームや文脈のなかで上手く機能することができる。


  時は金なり。時間とは、物事を達成するための手段である。良心的段階の人々は、責任と良心と便利さをもって物事を為すことに夢中になる。彼らは、この世界のなかで何かを達成しようと、あるいはこの世界を改善しようと駆り立てられる性質を備えているかもしれない。以後の発達段階で、自分自身を発達させたいという欲求を感じるのとは対照的である。この段階の雰囲気は、真面目な信念(earnest conviction)、真剣さ、理想主義(idealism)、情熱といったものであり、それらは大抵、実際の行動へと向けられたものである。彼らの自尊心は、外部からの肯定や賛成よりも、自分自身で定めた目標を達成することによって得られる。成功と達成へと駆り立てられるため、無理をして疲れ果ててしまうということが容易に起こりうる。良心的段階の人にとって、限界を認めることは難しい。彼らは、プロジェクトに没頭しているため、歩調を緩めて現在の瞬間を見つめることや、人生全体についてじっくり思い巡らすといったことは滅多にない。


  その認知的能力ゆえ、良心的段階の人たちは、仮説的な内容、つまり、自分が正しいと信じている理論に心を奪われる。彼らは、社会とは制御・改善できるものであると確信している。彼らの心的枠組みでは、形式操作的能力が頂点に達しており、合理性、進歩主義、実証主義、還元主義が彼らの本拠地である。  良心的段階の人たちにとって、合理性とは勝利するものなのである。そのため、彼らは分析すること(ばらばらにすること)に興味がある。真理は発見することができる。人は、一貫したやり方で科学的方法論を適用し続けることによって、物事を合理的に観察し続けることによって、そして探求方法と測定道具を絶えず改善・修正することによって、真理に近づいていくことができる。自意識的段階の人々が、自分自身を方向づけるために、権威や一般的知識(有名な専門家、書物で述べられた知識)に頼りがちであるのに対して、良心的段階の人々は、懐疑的であることができる。良心的段階の研究者は、まだ証明されていない事柄に対して知的懐疑主義(intellectual skepticism) をとることができるということで有名である。しかしながら、彼らは、宇宙の法則はやがて理解され、証明されるということを強く信じている。

○衝動の制御と人格の形成:
  社会的な価値と道徳性は、自ら評価した基準や自分自身の性格に適合している限り、内面化される。良心的段階の個人は、自己批判的に、時には過度に批判的(hypercritical) になる傾向がある。今や彼らは、行動の結果に対して、それが意図しない結果や避けられない結果であったとしても、罪悪感を抱きうる。彼らは自己信頼感を備えており(selfreliant)、良心的で、効率的で、目標や理想を達成することに夢中になっている。

○対人的なスタイル:
  良心的段階の人たちは、自分自身の方針と理想を追求しているときでさえ、他者への責任感と義務感を抱いている。彼らは自分自身を、より大きな共同体や社会に不可欠な存在であり、そしてそこに貢献しうる存在であるとみなしているが、しかし分離した存在であり、自分自身の選択に対して責任があると考えている。彼らはコミュニケーションの重要性を自覚しており、様々な感情や見解を相互に表現することを評価している。

○認知のスタイル:
  良心的段階の人たちは、形式操作を用いて思考することができ、閉じたシステムの性質だけでなく、概念の複雑性をも正しく認識し始める。彼らは、偶然性や代替案の存在を自覚しており、自分自身および自分自身が固守する信念体系のなかにある矛盾や不調和に気づき始めている。彼らは結果と優先順位を気にかけており、自らの行動について計画を立てる。修正や評価を行い、新たな目標へと方向づけを行い直すことができる。


○主要な関心:
  内なる基準によって評価された長期的な個人的目標を達成することが重要であり、またそれと同じくらいに、自分自身の理想や価値を達成することも重要である。こうした関心は、現代の文化において、最も目立つものである。そのため、良心的段階の人たちの多くが抱いている金銭的な動機や、個人の成功に焦点を当てるという姿勢は、資本と、そして現実世界に関する西洋的な見解と、非常によく適合している。良心的段階の個人はまた、しばしば、どのような動機や理由によって行動が生じるのかに関心を抱く。多くの人は、自分自身について内省し、自分の中に、さらに差異化された感情や、相反する特性が存在することを表現する。「私は楽観的な悲観主義者である」


○内面の特性:
  良心的段階の個人は、感情、雰囲気、特性、動機づけといったものに興味を抱いている。「なぜ私はこれを行うのだろう」「何が他者をそうあるようにあらしめ、そんなふうに行動させているのだろうか」。彼らについての知識をどのように活用すれば、私たちの掲げる目標を達成するのに役立つだろうか。

○意思決定:
  広く認められた問題に関して何かをなす責任を担っているときには、良心的段階の人たちは、確信とともに活動することができる。彼らは、〔物事を〕どのように始めるかということに、関心をもっている。「あなたはどのようにして人々に手助けをしてもらいますか」「この仕事を終わらせるために、最も効率的かつ効果的な戦略とはどのようなものだろう」。良心的段階の人たちは、これまでの発達段階では出来なかったほどに、進んでリスクを冒し、失敗することができるようになる。

○組織のタイプ:
  課題関連型(task-related) または問題志向型(problem-oriented) の協調関係を結ぶ。人がどのように関係するかは、そこでの課題や問題、そして集団内での役割によって決まる。それは環境が異なれば変化するものである。


○主要な防衛作用:
  知性化(intellectualization)、合理化(rationalization)、否定的な側面や影の側面の抑制(suppression)が、良心的段階の人が疑いや批判に対して防衛するための主要な方法である。「問題点や困難についてくよくよ考えるより、肯定的な事柄や実行可能な事柄に集中したほうがよい」「機会が訪れたときに行動しないくらいなら、後でごめんなさいと謝るほうがよい」


○憂うつの特徴:
  良心的段階の人たちの大半は、しばしば、目標や理想をまだ達成できていないことや達成できるという感覚を失っていることに対して罪悪感を抱くことで、あるいは、制御や自立を喪失することに対して継続的に恐れを抱くことで、憂うつに苦しむ。


○恐れ:
  良心的段階の人たちは、自意識的段階の成人よりもさらに、順応的段階の心的枠組みを、その依存と服従という点で恐れている。盲目的に服従することや、考えを無批判に取り入れることは、「悪い自分(bad-me)」だとみなされる。良心的段階の人たちは、自分たちが引き戻され、他の誰かの目標のなかに無意識的のうちに組み込まれることのないように、念入りに注意しなければならない。新たな進歩がないこと、コントロールされること、孤立することに対する恐れは、行動することで、そして前を向いて絶え間なく活動し続けることで打ち消される。


○カウンセリングのスタイル:
  自意識的段階の個人と同じように、良心的段階の人たちは、多くの質問をする傾向にある。しかしながら、「それはどんな風なのか(How is it?)」「それはどのような感じがするのか(What does it feel like?)」といった質問も行う。他者の経験に耳を傾け、自分自身の解釈を付け加えることなくプレイバックする(再び述べる)能力が、より優れたものになっている。

○言語上の手掛かり:
  良心的段階の人たちは、概念の複雑性を認識・表現し、因果関係や結果や優先順位について明確に述べることができる。時間に関連する言葉(効率性(efficiency)、計画(planning)、目標(goals)、未来(future))を多数見つけることができるし、時の経過を暗示する言葉(今は〜である(now)、これまでは〜だった(used to)、子供の頃は〜だった(when I was a child)、成長しているところである(be growing))を見つけることもできる。良心的段階の人たちは、差異化された心理学的語彙を用いて、自分自身を複雑な心理的存在として描写し始める。SCT〔文章完成テスト〕のプロトコルにおいては、独自の個人であるという感覚を得られるようになり始まる。決まり文句ではない「私」の言葉が明瞭に現れるようになる。対比させたり、自分自身を批判したり、責任を担っていると述べたりすることも多い。


  慣習的なものの見方が抱えている主要な限界とは、事実と外的世界を実在するものとして受け入れ、信念――特に、慣習的な科学が信じている壮大な神話――というものが構築された性質をもっているということ(constructed nature of beliefs) に対して無自覚であることである。複雑な科学的分析が適用されているものの、あらゆるシステムの下に横たわっている仮定が疑問視されたり明示されたりすることは滅多にない。とりわけこの段階では、知識や測定や予測といったものが、自然と自己と社会を制御するための手段として当然のものとして受け入れられている。しかしこうした態度は、後- 慣習的な発達に伴って劇的な変化を遂げることになる。

 

後- 慣習的な諸段階(The Postconventional Stages)

a. 一般システム的な諸段階:The General Systems Stages〔原注8〕
  1つ目の後- 慣習的段階では、成人は、物事の意味が、それに関する自分の相対的な位置、すなわち自らの個人的な視点と解釈に依存しているということに気づくようになる。対象それ自身は永続的であるが、その意味は構築されたものであるとみなされている。「今や変数は相互に関連しており、因果関係は円環的であり、対象の境界は柔軟で開かれたものであるとみなされる」(Koplowitz,1984) のであり、それは、何がシステムの内側にあり何がその外側にあるのかというその人の定義の仕方によって決まるのである。現実世界(reality) に関するこうした見方はシステム的な見方(systems view) と呼ばれる。なぜなら、そうした見方をとることによって、思考や組織のシステムを観察・比較できるようになるからである。後- 慣習的段階の成人にとっての主要な関心事は、根底に潜んでいるむき出しの仮定と枠組みを提示することである。個人主義的段階(4/5) は、Common の一般段階モデル(General Stage Model) におけるシステム操作(systematic operations) を表している。自律的段階(5) では、認知はメタシステム操作(meta-systematic operations) へと拡大する。この段階に位置する人々は、自己に関する様々な枠組みを、自分自身が誰かということについての一貫した新理論へと、すなわち、複雑で一貫した自己アイデンティティへと統合することができるようになるのである。


段階4/5:個人主義的段階 [ 個人主義者] (The Individualistic Stage)


  個人主義的段階すなわち段階4/5 で描写されるのは、人は4人称的視点を用いて何を「見る」ことができるのかということである。人々は今や、現実世界の解釈とは常に観察者の位置によって決まるので、物事は、以前の段階で見えていたようには必ずしもなっていないということをはっきりと理解する。参与観察者(participant observer) ──観察している対象に影響を与えるような観察者──という考えが、今や主要な関心となりつつある。人は決して、良心的段階の合理的/ 科学的な見解がそうなろうとしていたように、完全に公平かつ「客観的」ではいられないのである。


  同一の対象/ 事象が、異なった観察者によって、あるいは同じ観察者でも異なった文脈と異なった時間によって、異なった意味をもちうるのである。個人は、自分自身を見つめることに興味をもち、自分自身を理解しようとする。このことは、思考様式に重要な変化をもたらす。個人主義的段階の人々は、純粋に合理的な分析を放棄し、より全体論的で有機的なアプローチを好む。そこでは、感情と文脈が考慮され、プロセスが成果や結果と同じくらい興味をそそるものとなる。個人主義的段階の人たちはまた、単に論理的なアプローチによりも、より相対的で心理学的なアプローチを好む。あらゆるものを説明したいという欲求は消え去り、ヘッドトリップ〔知性や想像力が拡大するように思える体験〕にもあまり魅力を感じなくなる。


  個人主義的段階の人々は、慣習的な知恵や、良心的段階の過度に合理的な主義・信条を信用しない。この段階の人たちは、それまでに歩んできた全ての物事から自分自身を引き離す必要がある。かつて自ら選びとり、今なお採用されている社会生活上の様々な役割アイデンディディを再評価し、そうした社会的な役割アイデンティティとは無関係に、自らの体験や判断に基づいて自分自身を独自に再定義しなければならない。これまで行ってきた意味構築活動の大半が、社会的にも文化的にも条件づけられたものであるということを十分に理解したとき、科学的な確実性と、判断に関わる心的枠組みは崩れ去る。さらに、個人主義的段階の人々は、自分自身の信念を意識的に精査することで、自らの立脚している仮定を検証したり、そこで生じる新たな心の自由を楽しんだりできるようになる。


  個人主義的段階の人々は、もはや昔のアイデンティティを疑問なく受け入れることができないので、社会的に認められたいかなる役割や課題とも無関係に、独自の個人的達成を成し遂げたいという願望に夢中になっている。彼らは、しばしば、外的な出来事や会社の日常業務からある程度引き下がる。その代わり、自らの独自の才能を探し、そして自らが抱える緊急の問いを追求するために、内側を向く。自分自身になるための余地が残されていれば、彼らは多くの場合、職場に創造的な着想をもたらし、問題を見つめる新たな方法を与えることができる。あるいは、自分自身の興味と問いを追求する際の熱意によって、他者の意欲をかき立てる(inspire) ことができる。


  4人称的視点を用いることによって、個人主義的段階の人々は、物事が見かけと同じであることは滅多にないということを実感として理解する。逆説(矛盾というよりも)は確かに存在するのである。このため、個人主義的段階の人たちは、逆説や矛盾を楽しむようになり、もはやそれらを説明し尽くそうとはしないかもしれない。「どうでもいいよ!全ては相対的なんだから(To heck with it! Everything is relative)」。直線的で知的な論理は、物事のより全体論的な理解へと道を譲る。目を見開いたままでいることができる。→想像力(image-ination) 「百聞は一見にしかず」とは限らない。あることを生活の指針とするために、それを証明する必要はない。個人主義的段階の人々は、新しい非敵対的なユーモアを述べる。それは多くの場合、直接、自己に向けられたものである。それは、良いだとか悪いだとか、証明できるだとかできないだとか、そうした点から物事を枠にはめることの無益さを感じ始めているということに基づいている。


  個人主義的段階の人々は、あらゆるものを分析しようとするよりもむしろ、主観的な体験を楽しみたいと思う。そうした体験のみが、唯一、信頼できるものなのである。このため、良心的段階の人たちが「すること(doing)」を好むのに対して、ここでは「在ることと感じること(being and feeling)」に焦点が当てられるようになる。個人主義的段階人たちは、未来へ向かって行進するのをやめて、現在志向になる。彼らは、感情がどのように身体に影響を与えるのか、あるいは逆に、身体がどのように感情に影響を与えるのか、そして感情がどのように身体全体に拡散していくのかということに気づき始める。心と体のつながり(body/mind connection) に関して新しい感覚が生じている。したがって、慣習的段階から後- 慣習的段階への移行とはまた、より知的な気づきから、より有機的で身体的な気づきへの移行をも示している。

  ウィルバーやスパイラルダイナミクスでは、ほぼ例外なく、この段階(「グリーン」と呼ばれる)のもつ共同社会的(communal)な側面が強調されている。それは心の複雑性と自己の差異化という点で個人主義的段階に対応している。実際、個人主義的段階の人たちは、自分自身の解釈を他者に押しつけること望まない。その代わりに、他者を尊重し、理解しようとする。個人間の差異は称賛され、良心的段階の人たちが理解できないような仕方で気遣いがなされる。個人主義的段階の人々からなるグループが集まると、全ての人が自分自身の声と意見を表明できるような空間をつくるかもしれない。しかしながら、こうした傾向が極端に走ってしまうこともあり、その結果が過激なポストモダニズム(radical postmodernism)、つまりウィルバーの言う「ブーメライティス(Boomeritis)」である。最悪の場合、個人主義的段階に位置するポストモダニストは、そこから何かを判断できるような場所など存在しないということを、絶対的な確実性をもって主張する。彼らは、こうした立場に内在している自己矛盾を認識していない。つまり、そうした立場は、他のあらゆる見解よりも自分自身の見解のほうに価値を置いて特権を与えているのであるが、それはもちろん、判断の一形式であり、価値に階層的な順序を与えるということなのである。多くの多様性トレーニング(diversitytraining) では、差異に対してあまりにも焦点を当てすぎるため、その過程で、共通の人間性という絆が見落とされてしまう。あらゆる人の意見が平等に評価される組織やチームにおいては、会議は永遠に続くが、ほとんど何も解決していないということが起こりうる───もっとも人々は、意見を聞き入れてもらえた、認めてもらえたと感じうるのだが。こうしたより平等主義的な経験は、さらなる差異化へ向けた重要なステップとなる。自意識的段階の人たちや良心的段階の人たちにとっては許容しがたいことであったとしても、個人主義的段階の人たちは、さらに深くまで、差異を認めて受け入れる準備が出来ている。類似性だけではなく差異をも考慮に入れられるようになるのである。


  私たちは、自分たちのデータを調べることによって、個人主義的段階には共同社会的な傾向(communal bend) があるかもしれないし無いかもしれないということを発見した。自分自身の心や意味構築作用を探究するといったことへと向かうが、多様性に関する問題にはあまり関心をもたない人というのもいるのである。しかし、いずれにせよ、この段階の人々は、あらゆる立場の相対性には確かに気づいている。したがって、個人主義的段階の人々は他者をあまり判断しない傾向にある。実際、他者をあるがままにあらせ、望むがままにさせることができるため、ほとんど「道徳観念がない(amoral)」ように見えることがある。


  良心的段階の人たちが因果関係(過去)と目標(未来)へと焦点を当てるのに対して、個人主義的段階の人たちは、しばしば、直接の現在に魅力を感じるようになる。この段階の人たちは、物事はどのように姿を現すものなのかを、理解・観察する必要がある。結果や成果よりも、プロセスや関係性、変数間の非線形作用に興味を抱くようになる。個人主義的段階の人たちは、自分や他の人々が、異なった文脈において、どのように異なった変化や行動を示すのかということを観察する。一瞬一瞬がどのように変化しているのかということを実存的に感じとっており、そのため、これまでよりも明瞭に、そして痛切に、 現在という瞬間を体験している。


  個人主義的段階の人々は、内的な矛盾に困惑し、自分自身のことを、一貫した全体像へと容易には統合することのできない多数の人格(personality) や声をもつ存在だとみなしているかもしれない。「ある時には、私はある方法で動き、感じ、考える。別の時には、別の方法で動き、感じ、考える。自分自身のなかで闘いが起こっており、様々な声が、注意を払ってもらうために争っている。しかし全ての声が、本物で大切な私の一部だと思う。多元主義者は自らの「内なる部族」について話すかもしれない。だが私とは誰なのか?何が起こっているのか?」 そのため、ここで広く認められる不安とは、自分自身の様々な側面を統合することに関するものである。「私は古い合理的な自己であることもできるし、新しい異なった人物であることもできる。私は1つではなく2つ以上の人格をもっているのではないかと心配に思う。私は困惑しており、分裂しており、相反する性質をもっている」 個人主義的段階における憂うつは、多くの場合、こうした内的葛藤や、自分自身の真の自己を見つけることが決してできないのではないかという絶望感が中心となっている。個人主義的段階の人々はまた、自分自身の感情と動機づけを詳しく探査することができるため、人がいかに容易に自分自身をだますことができるかということに気づき始める。防衛的な自己欺瞞を行う可能性や文化的偏見によって歪曲を行う可能性が、今や、常に現前する危険性として経験され始めるのである。

  他方で、自己に接触して内省する能力が非常に高度なものになっているため、他者に共感し、異なる見解や行動や反応を許容する能力も優れたものになっている。段階4/5 の個人は、しばしば、その呑気で活発な自己表現、自発性、慣習的な制限から自由な独自のスタイルに従って人生を送る能力といった点で、他の人たちから、とりわけ後- 慣習的段階の人たちから、高く評価されている。しかし彼らはまた、努力とやる気が重視される環境(Strive/Drive Environment) ではとりわけ、予測不可能な存在として恐れられたり、実行の伴わない空想家として解雇されたりしているかもしれない。他者との関係が真剣なものになり、互いにとって実り多いものになるのは、相乗効果があり、選択肢が与えられているときである。仕事の一部として他者をマネジメントしなければならないときには、相手に「つかめないやつ」「よそよそしくて近寄りがたいやつ」だと思わせるほどに、独裁的な存在や風変わりな存在になることがある。

○言語上の手掛かり:  
構文には、偶然性、陳腐ではない条件づけ、いくつかの対照的な考えが含まれる。「かつ(And)」や「そして(And)」の代わりに、「または(or)」や「しかし(but)」が用いられるようになる。「たとえ〜であっても(Eventhough)」や「〜にもかかわらず(Despite)」といった言葉が、認知的な複雑性を示す合図となる。記述には、生き生きとした個人的情報(しばしば感嘆符〔!〕を伴う)や、より微妙な差異を表す心理学的な語彙が含まれる。SCT の文章における「〜すべきだ(should)」といった決まり文句を、言葉によって拒絶する(例:「どうやって一般化することができようか(How can I generalize?)」)ことは、文化的な条件づけを自覚し始めているということを示している。

 

段階5:自律的段階 [ ストラテジスト](The Autonomous Stage or Strategist Stage)

  自律的段階が描写するのは、拡大された4人称的視点である。そうした視点によって、個々人の経験は、特定の世界観という文脈のなかに、そして人生全体のなかに位置づけられる。時間枠が拡大し、社会的ネットワークが増大したことに伴って、自律的段階の人たちは、システム的なパターンや長期にわたる傾向性を理解することができるようになり、しばしば、そうした「戦略的な(strategic)」能力によって周りから評価されている。認知的には、彼らは、現実世界に関して一般システム的な見方(generalsystems view) をとることができる。すなわち、関係性とプロセスが相互連結している多様なシステムを理解することできるのである。


  自律的段階の人たちは、様々なときに、また様々な文脈において、自分の中に相反する側面や対極性が存在することに気づく。しかし、個人主義的段階の人たち(自分が本当は誰なのかが全く分からないと絶望しているかもしれない)とは違い、自律的段階の人たちは、自らの中にある全く異なる多数の部分を「所有」し、統合することができる。これには、これまで隔離してきた下位アイデンティティを統合するということも含まれる。ここで新しく備わった極めて重要な能力とは、人には意味を生成して新たな物語(story) を語る力があるということをはっきり理解するということである。こうしたことが可能になるのは、意味とは、私たちが経験に対して与える解釈であるということを理解しているからである。私たちはいつも、何が起きているのかに関して物語を語る。自律的段階の人たちは、絶え間なく変わりゆく文脈のなかで、自己決定(self-determination) と自己実現(self-actualization)を通して、自分自身と他者にとって意味のあるような人生を積極的に創造することに意識的に傾倒するのである。彼らは、比較的、強力で自律的な自己をもっている。それは、差異化されているとともに十分に統合された自己である。そこには、逆説を直視して受け入れる能力や、曖昧さを許容することのできる能力が含まれる。

  自律的段階の人たちは、自分自身の心理学的な幸福に対して微調整を加えるようになる。彼らは、個人主義的段階の人たちとは異なる感情的なトーンを備えており、冷笑さや疑い深さは減少している。相対主義の代わりに、自分自身の意味を創造することに責任をもって傾倒する。この段階の人たちは、内なる仕事(inner work) に慣れている。彼らは今や、これまで自分のものだとはみなしていなかった自分自身の様々な部分を再発見し、自分のものとして所有することができる。そうした自己の諸部分は、あまりにも厄介なもの、あまりにも恐ろしいものだと思われていたのである。自分自身の影(shadow) の側面を以前よりもさらに認められるようになり、そのため、新たな統合と全体性(wholeness)が実現されうるようになる。彼らは、役割に関する葛藤やジレンマを強く経験するが、そうしたことは避けられないのであり、感情が相反するのは自然なことであると認識している。しかし、さらに後期に位置する段階とは違って、自律的段階の人たちは、自分自身の行動を統合するために、そして道理にかなった成熟した人物であると思われるように、非常に熱心に努力する。彼らは、対立する欲求や異なる下位アイデンティティを組み合わせる能力を獲得する責任があると感じており、一般にはバランスのとれた人物に見える。

  個人主義的段階に位置していたときよりもさらに、経験は、直接的な質感をもって受容される。悩ましい感情への我慢強さも増し、そうした感情を自分自身の中に認めることや、他者とともに共有することができるようになる。自律的段階において活用可能な論理システムでは、一見逆説のように見える様々な心理的要素を統合することができるため、「防衛」のために必要なエネルギーは減少することになる。このため、彼らは、慣習的段階に位置する成人よりも、さらに寛容かつ自発的になる(more tolerant and spontaneous)ことができる。自己と他者は、良い特性と悪い特性の双方を備えた複雑な人間存在として受け入れられる。他者とのやり取りによって、自分1人では見落としがちな自己の諸側面に触れることができる。優れたフィードバックによって、人は、自分自身が何を守っていて何が見えていないのかについて気づくことができる。こうして、他者とは自分自身の幸福にとって不可欠な存在となる。なぜなら、他者との動的で親密なやり取りを通してのみ、人はより深い自己認識と知恵を得ることができるからである。他の人間存在と相互に頼りあうのは避けられないことであり、そのような相互依存性は、畏怖とともに、また、他者に対する責任感の自覚とともに経験される。自分自身を映し出す鏡として、他者に深遠な価値を見出すことができるため、ときに自律的段階の人たちは、無私の愛を経験する(あるいは、愛そのものになる経験をする)。

  自律的段階の人たちの抱える最大の恐れは、自分自身の潜在的可能性を達成できていない、あるいは、自分が深く価値を見出している普遍的信念(正義、寛容さ、全ての人間の尊厳)を守ることができなかったと感じることである。憂うつは、しばしば、勇気が足りないこと、自律性が足りないこと、そして人間として課せられた自分独自の可能性を果たせなかったことに対する罪悪感によって生じる。自律的段階に位置する健全な個人は、大抵、成熟した防衛機構を用いる。抑制(suppression)、利他主義(altruism)、ユーモア(humor)、予期(anticipation) といったものである。あまり成熟していない防衛機構を用いるときにも、彼らは、自分自身を許し、次の作業に移ることができる。「今は、私はこのように振る舞う必要がある。しかし、然るべき時が再び訪れたならば、より成熟した形で行動するつもりである」。

 

  内面のプロセスは複雑であり、観察する必要がある。自律的段階の人たちは、他者を必要とするだけでなく、自己内省のために1人になる時間をも必要とする。自己は、展開しつつあるものであるとして経験され、絶えず再評価される。物事がこのように「展開」していく様子を見守ることが、この段階での主要な喜びの1つである。貴重なライフワークとは、「自分がなりうる最高の存在になる(to become the most one can be)」ために努力することにある。自己成長、自己実現、そして自己達成が、この段階における主要な願望である。他者は、人生という劇に登場する俳優であるとみなされるが、自律的段階の人たちにとっては同じくらい魅惑的な存在である。自律的段階の人たちにとって最も強い動機づけの1つは、他者の成長を手助けしたいと思うことである。心理学者やコーチ、そしてコンサルタントは、しばしばこの段階に位置する。周囲に感銘を与えるような経営幹部〔エグゼクティブ〕やリーダーもまたそうである。こうした「その人がなりうる最高の存在にならせてやりたい」という欲求が抵抗に遭うと、自律的段階の人たちは、他者がゆっくりと発達することに対してもどかしさを感じたり、自分たちが努力しているにもかかわらず彼らが成長を「嫌がる」ことに対して欲求不満に陥ったりするかもしれない。自律的段階の人たちは、高次の発達は良いことであり、どんな犠牲を払ってでも促進されるべきものであると強く確信する傾向がある。高次の段階に到達することはより良いことである。なぜなら、ある個人がより差異化され、より自律的になればなるほど、その個人は、客観的(歪められていない)かつ現実的な自己アイデンティティをもっていると主張できるのだから〔Kegan, 1982〕。人は、真正の、そして真実の自己を手にすることができるのである。このため、自律的段階の個人が掲げる価値の一覧のなかで、真正さ(authenticity)は重要な価値となる。

  個人主義的段階の人たちの多くは、人生を、決められた答えのない旅であるとみなす。彼らは、全ての人間存在が従うべき既定の道などといったものは存在しないと信じている。各個人は、自分自身のライフルタイルを発見・創造しなければならないのであり、そして自らの自己実現(self-fulfillment) に対して責任をもっているのである。自律的段階の人たちは、心理学的な問いや、いかにして内的葛藤を和解させることができるのかということに対して関心がある。慣習的な諸段階にある人々とは違って、他者に対して心理療法や助言や相談を求めることは、弱さの証ではなく、必要なことであるとみなされる。自律的段階の人たちは、自分や他の人々には、窮地や困難のなかにも意味を創造していくことのできる能力があると信じている。彼らは、自分にとっての個人的な意味を見出すことができるが、そうした意味を他の誰かに押し付けることはない。彼らはまた、衝突している事柄に対する他者の解決策を招き入れ、他者にも自律性が必要であることを尊重するかもしれない。ときに、自律的段階の人たちは、生計を立てるための仕事や、生きていくうえで一般的な他の様々な制約を、無益なものだと感じる。そんなことをするくらいなら、自らの望むがままに情熱を燃やして生きていきたいと思っている。優れた組織の形成に向けて情熱を注ぐことも、彼らには向いているかもしれない。

  自律的段階の人たちは、世界の不正に対して、高潔な怒り(principled anger) や正当な憤りを深く感じる。この段階の人たちは、自らの信念や主義を表現・支持するために、社会に敢然と立ち向かう。彼らの怒りにおいては、犠牲者を捜し出すことは必ずしも必要ではない。彼らは、自ら評価した内的基準に従い、自らの信念を体現しながら生きる。「有言実行(to walk the talk)」という言葉が、彼らの道徳的性格や真正さを表している。役割葛藤(role conflicts) を解決することは困難であると、深く実感している。自律的段階の人たちの中には、カリスマ的な道徳的指導者になる人もいる。価値のある理想だと信じているものを守るときには、彼らはしばしば、自分自身に及びうる否定的な結果を気にかけない。しかし彼らはまた、自分自身の信念に関して、あまりにも強硬な態度をとるかもしれない。高潔な怒りによって心に火が付いたときは、特にそうである。カリスマ性と道徳的信念の組み合わせは、適切な抑制がなされないと、強大な負の力になることがある。

  内面の深みに対する気づきが増しているため、自律的段階の人たちは、以前の段階に位置する人たちよりも、夢や空想や創造力をより自由に用いることができる。彼らの思考は自由に飛び立つことができ、創造性(creativity) が解き放たれる。彼らの創造力は、もはや論理や慣習によって制限されてはいない。彼らは、既存の枠の外側で思考しながら、問題に取り組む。自律的段階の人たちは、人間の弱さとは人間が備えている条件の一部であるということに気づいているため、しばしば実存的なユーモアを表現するとともに、彼らの皮肉は以前よりも軽やかな手触りをもつものとなる。

○衝動の制御と人格の発達:
  自ら評価し、内面化した基準をもつ。行動は、道徳的信念の表現になる。多様な見解を許容することができる。対立する役割・義務・信念に関心がある。

○対人的なスタイル:
  関係性に対して責任をとるが、しかしまた、自律性をも欲する。相互依存は避けられないという観点から関係性を捉える。衝突している事柄に対して他者がもたらす解決策を受け入れる。他者の自律性を尊重する。非敵対的で、実存的なユーモアを述べる。

○認知のスタイル:
  時間枠と社会的文脈が再び拡大する。幾つかの逆説や矛盾を認識し、抱擁することができる。曖昧さを許容することができる。思考の範囲が広い。自己とは自己システムを調節する主体であると認識されており、自己の様々な部分はより大きな文脈のなかで相互に依存しあっている。

○主要な関心:
  個人性と自己実現(self-fulfillment) に関心がある。自己に関する心理学に興味を抱く。対立する欲求を和解させることができる。

○主要な不安:
  自分自身の潜在的可能性を達成することができないこと。正義や寛容といった自らが大事だと思っている信念を無視すること。勇気を失うこと。他者の発達が遅いこと。また、他者が成長を「嫌がる」ことに対してもどかしさを感じる。

○内面の特性:
  内的な葛藤や「対極性(polarity)」といった観点から自分自身を理解しようとする。様々な環境や時間において様々な自己として感じられるものを、一貫した全体像へと統合しようとする。

○防衛作用:
  大抵は、抑制(suppression)、利他主義、ユーモア、予期(anticipation) といった成熟したものを用いる。あまり成熟していない防衛機構を用いるときには、自分自身を許し、自分自身に対して理解を示すことができる。「今は、私はこのように振る舞う必要がある。しかし今度は、より成熟した形で行動することができるだろう」。

○代表的人物像:
  自らの信じる道徳的信念を守るため、個人的模範として、自己を犠牲にする覚悟ができているカリスマ的な個人。

○言語上の手掛かり:
  自律的段階の人たちは、複雑で柔軟な構文を用いる。非常に幅広い関心や話題をもつ。彼らは、言葉によって、人生の複雑性を公平に表現しようとする。自らの思考および自分自身に関する一貫した論評を提示しようとする。差異化された心理学的語彙を用い、人間関係における円環的な因果関係を理解している。「アイデンティティ、成長、高次の信念、自己実現」といった言葉や話題が好まれる。

b. 一体的な諸段階(The Unitive Stages)


  以下の2つの段階は、ジェーン・レヴィンジャーによって研究されたが曖昧なままであった統合的段階(Integrated stage) に取って代わるものである。

  後- 慣習的段階の第二のレベル(構築自覚的段階および一体的段階〔原注9〕)では、あらゆる対象(object) は――自我や、3次元の空間、時間といった抽象概念も含めて――人 間の構築物であるということがはっきりと理解されるようになる。全ては何層もの象徴的相互作用(symbolic interaction) に基礎を置いているのである。「椅子」といった日常的な概念であれ、極端に単純化された概念である。椅子という言葉を聞いて心のなかに想起されるイメージは、どんな2人の人間をとってみても異なるし、世界に存在するどんな2脚の椅子も同一ではあり得ない。それにもかかわらず、私たちはみな「椅子」という言葉を用いるのであり、そしてそれはコミュニケーションにおける大抵の目的に対しては上手く機能するのである。言語的習慣(languagehabit) が抱える罠とそうした習慣が人類にもたらした途方もない贈り物の双方を認識しているということが、上位の自我段階が備える独自の特徴である。

  前に述べたシステム的段階においては、永遠の対象世界という慣習的な信念が、解釈にすぎないとして脱構築され、知を獲得しようと努力する者ならば誰であれ、文脈による依存性を考慮することが極めて重要なことであるとみなされた。しかし、この段階における新たな差異化によって、現実世界は今や、未分化の現象論的連続体(undifferentiated phenomenological continuum) として理解される。それをカオス、創造的基盤、「全て」と呼んでもいいし、あるいは、万物の根底に横たわる一なるもの(unity) への気づきを表現するために人間存在がつくり出した他のどのような言葉で呼んでもよい。人間の性質に関する根本的な前提条件、そして混沌から秩序を生み出したいという人間の欲求について取り扱うことが、自我発達における最も高い2つの段階に位置する男性や女性が抱く主要な実存的関心の1つである。自我発達理論における最後の段階は、パラダイム横断的かつ超合理的な操作を表している。知を獲得する新たな方法を創り出すことによってのみ、それまでのあらゆる知とあらゆる認識論を階層的に取り替え、そして統合することができるのである。

段階5/6: 構築自覚的段階 [ アルケミスト](The Construct-Aware or Alchemist Stage)


  構築自覚的段階の個人とは、かつてないほど幅広い領域の経験と思考を包含する発達パターンに気づくことができるようになった人々である。彼らは、「自我」が、あらゆる刺激を処理するCPU〔中央処理装置〕であり、かつ、自己アイデンティティと判断基準の中心点であるということをはっきりと理解する。このような根本的な自我中心性(egocentricity)を一度はっきりと理解すると、それはさらなる成長と理解を制限するものであると実感される。構築自覚的段階の人たちは、5人称的視点あるいはn人称的視点によって想像することのできるような、ますます複雑な思考構造を用いていくことやますます複雑な統合を行っていくこと自体の意義を疑い始める。彼らは、表象された領域において人が地図を作成すること自体の不合理性や必然的な限界にはっきりと気づき始める。

  これ以前の諸段階とは異なり、構築自覚的段階の人たちは、自我が自己保存のために利口で用心深い策謀を行っているということに気づき始める。この段階は、自我がそれ自身に対して透明(transparent) になる初めての発達段階である。自己および他のあらゆる物事に関する最終的な知識などといったものは錯覚であり、そしてそれは努力や理性によっては到達できないものだとみなされる。なぜなら、あらゆる意識的な思考とは、そしてあらゆる認識とは、構築されたものであり、それゆえ、根底にある一体的で非二元的な真理からは引き離されたものだとみなされるからである。

  さらに内面へ向かうことによって、構築自覚的段階の人たちは、自分自身が試みている意味構築という行為を最後まで見通すようになり、そして合理的な思考自体に内在している深遠な分裂と逆説に気づき始める。彼らは、多くのやり方で、コージブスキー(1948)の述べた「地図とは領域ではない」という見解を個人的に再発見する。そしてまた、対極へと分裂していく言語学的プロセスおよびそれに伴って生じる価値判断に気づくようになりうる。善と悪、生と死、美と醜といったものは、今や同じコインの両面であり、互いが互いを必要とし、互いが互いを定義するものであるように見えるかもしれない。さらに、何が良くて何が良くないのかといった絶え間ない判断が、日常の目覚めた意識のなかに深く浸透している緊張と不幸の多くを創り出しているのである。構築自覚的段階の個人は、一般に、人間の性質および人間相互のやり取りを、動的かつ多面的に理解する。彼らは、理論と説明を求める自分自身の根深い欲求に対して臆せず立ち向かいたいと思っている。さらに、合理的な心がもつ限界を暴き出し、記憶によって、そして毎日繰り返される文化的な強化(reinforcement) によって条件づけられた自動的反応を、意識的に捨て去りたいと願っている。

  構築自覚的段階の個人は、自分たちの行っている感情的・合理的な処理行動に注意を払い始める。彼らは、判断に関する自動的な習慣だけでなく、人生と自然界に関するさらに正確な理論をつくるために終わりなく分析や熟考を行うといった心の習慣にも注意を向けるようになる。そうした努力は全て、部分的には、この肉体をもつ自己が永遠ではないと知ることに対する防衛作用であると理解される。このため、構築自覚的段階においては、文化的な条件づけが見抜かれるだけではなく、言語のなかで生きるということ自体が苦境であることが認識される。

  シンボルによる構築活動や現実世界の地図化といった行為のもつフィルター作用に気づいたとき、言語的習慣(language habit) に対する接し方の傾向が深く変化するかもしれない。一般に、構築自覚的段階の人々は、言葉によって創られた現実とは擬似的なものにすぎないという自覚を保とうとする。彼らは、客観的な自己アイデンティティを追求したり、宇宙を客観的に説明しようとしたりすることが、絶え間なく変化している実体のないものを永続的かつ実体的なものにしたいという私たちの欲求に基づく無益な人工的行為であるということをはっきりと理解する。極めて重要な点をもう一度述べると、どのような言語や権力基盤や文化的文脈や個人的文脈の中にあっても、私たちが表象を通して意味を構築するときにはいつでも、言語的習慣は、自我の支配権を支えるように機能するのである。しかし同時に、構築自覚的段階の成人は、人間の関わる諸事象、社会的な相互作用、そして発達・成長において言語が果たす極めて重要な機能をも正しく認識している。  自己認識のプロセスが深まり、理性がより差異化されていくにつれて、構築自覚的段階の個人は、直観、身体状態、感情、夢、元型、あるいは他の超個的〔トランスパーソナル〕な素材を利用することが多くなる。それに加えて、こうした知の源泉が、経験を意味づけるうえで、そして人生の意味を見つけ出すうえで、合理的な熟考と同じくらい重要なものになりうる。実際、非- 合理的な情報源から洞察を引き出してそれを正しく評価するという能力は、後慣習的な発達全体を通して増大していくのである。

  最も重要なこととして、内側を向いて自分自身の心的プロセスを観察するという取り組みをより頻繁に行うようになるため、しばしば、存在の直接的な様態に関する自発的な体験もするようになる。そこでは、少しの間、知るものと知られるものが融合し、個人的な自己感覚は消え去ってしまう。このような状態は、至高の瞬間(peak moment)、フロー状態(flow state)、至福体験(bliss experience) といった様々な名前で呼ばれている。マズロー(1971) とチクセントミハイ(1990) は、こうした状態が備えている性質について、そしてそうした状態が常に肯定的な特質をもっているということについて、素晴らしい輪郭を描いた。フロー状態がそのような傾向をもっているのは確かであるが、しかしここでは私は、ヌミノース的なもの〔聖なるもの〕に触れることが常にこの上なく幸福なことであるとは言わないし、そしてまた、探求者に対して、そうした体験をさらに積むことを求めるよう誘いかけもしない。自己の条件づけを跡形なく解体していくプロセスは、痛ましく悲惨なものにもなりうるのである。それは、ドラッグや献身的な瞑想実践といった他の手段によって変性的な意識状態に入った例が示していることである。

  構築自覚的段階の人々は、それまでの段階にいる人々よりも、様々な思考や感情が次から次へとひとりでに行ったり来たりする様子をじっと観察・目撃するようになる。このため、彼らは、コントロールと自己肯定を得ようとする自我の絶え間ない努力から自由になる瞬間というのものを体験することになる。しかし、そうした体験は長続きしない。至高体験を評価・判断しようとするや否や、魔法は解けてしまうのである。

  私たちが、慣れ親しんだ機能の仕方を手放すことをためらうのは自然なことである。私たちは、永続する個別のアイデンティティという幻想を捨て去ることを望まない。このアイデンティティは、私たちが大変な苦労を重ねて確立し、磨き上げ、そして人生のほとんどの間、信頼を置いてきたものなのである。たとえ、既知の事柄に対する執着を手放すことで、身近な苦しみから逃れられることが分かったとしても、単に執着を手放そうとするだけでは、望む効果を得ることはできないし、多くの場合、手に負えない逆説に絡めとられることになる。無執着という見解に執着すればするほど、その見解にしっかりと束縛され続けてしまう。心霊的な力をもっていることや、自我を超越するための探求を行っていることに誇りをもてばもつほど、自我は確実に王の座を占め続けてしまう。トゥルンパ(1987) は、著書『Cutting Through SpiritualMaterialism』〔邦題『タントラへの道 精神の物質主義を断ち切って』〕において、自我がどのようにして超個的なエピソードを自らの栄光のために盗用するのかについて分析しているが、おそらく最も説得力のある分析であろう。

  構築自覚的段階の人たちにとって、自分たちのような人々が他にほとんどいないということは、動かしがたい現実である。彼らは、自分たちの複雑性を理解し、自分たちの体験に共感してくれる人がほとんどいないということを恐れているかもしれない。しかしまた、こうした恐れを抱くことで、他者より自らのほうが「優れている」と思っているのであり、そうした傲慢さのために、自分たちは非難されるべきだと感じている。彼らはまた、自分自身の自己執着や、さらに巨大な自己理論によって恒久的な自己アイデンティティを確立したいという自らの欲求に気づくことができる。その一方で、構築自覚的段階の人々は、他の人たちがその人自身の出来る範囲で自らの人生を意味づけることを必要としているということを、正しく理解している。したがって、彼らは、様々な生存条件に対して他者が生み出す解決策を、その潜在的な欠点や限界に対して盲目であることなしに、さらに深く許容することができる。構築自覚的段階の人たちは、以前の段階の単純性がうらやましいと語ることがある。なぜなら、彼ら自身の世界は、非常に複雑なものとして体験されているからである。しかし、彼らの自我は非常に成熟しているため、大抵の場合、そうした根本的な葛藤を抱えながらも、動的で希望に満ちた平衡状態に到達することができる。彼らは、自らの抱える根底的な絶望と孤独を完全に自覚することによって、独立かつ勇敢に、自らが知覚・選択した運命を果たすのである。こうした自覚を統合することができない場合、彼らは、人間に備わる本質的な孤独と、合理的な企てを通しては永続的な意味を創造し得ないという無力さを感じることによって、憂うつに陥る。

  構築自覚的段階は、変化および進化という観点から、あらゆる経験を十分に見渡すことができる最初の段階である。そのため、この段階の個人は、自律的段階の人たちよりもさらに感受性が高くなり、発達的な観点から他者を理解することができるようになる。もし人前で働くよう選ばれたならば、彼らは大抵、見事な微調整の加えられた対人的技能を示すとともに、他者がもつ複雑性、動的な人格、そして人々のあいだの空間に対する見事な洞察力を示す。彼らは、共感に満ちた態度で他者に耳を傾け、そして他者とともに在ることができる。そして、歪められていない変容的なフィードバックを与えることができる。

  構築自覚的段階の個人は、それ以前の諸段階よりもさらに深い方法で、自分自身が過去に行っていた意味構築の方法を利用することができる。このため、彼らは、他者とのやり取りを、その相手に合わせて効率的に仕立て上げることができる。それゆえ、構築自覚的段階の個人は、自己防衛的段階の個人に対して、彼ら自身のレベルに合わせて接することによって──すなわち、権力や腕力を通して自らの洞察が優れているということを一方的主張することによって──影響を与えることができるかもしれない。コンサルタントや助言者として、彼らは、クライアントの欲求にとって最適な形になるように自らのスタイルを調節し、共感的に耳を傾けることによってクライアント自身がもつ手段の範囲内で彼ら自身のやり方を見つけさせ、最も適した瞬間にクライアントの見解に対して意義を唱え、クライアントが自らの経験を新たな方法で組み立て、新たな物語を語り、勇気を手に入れ、そして彼ら自身の現在の意味構築方法の限界に関して実験を行うことを手助けする。彼らはカウンセラーとして、他者は独自な存在であり、その経験を完全に理解することはできないと考えながらも、人間というレベルでは、自分とクライアントは同じような存在であると感じている。構築自覚的段階の個人は、しばしば、以前の段階が備えている自惚れ、自己中心性、そして自己肯定を求める微細な欲求に対して憤慨する。

  構築自覚的段階の人たちは、時として、自律的段階およびその段階が備える「他者を彼らのなりうる最高の存在にならせてやりたい」という熱烈な願望に対して最も寛容でない態度をとる。他者を今あるものとは異なるものにしたいというこうした願望は、構築自覚的段階の人たちが自分自身の根底的な欠点であるとみなしているものを表現している。つまり、自分自身を世界の中心すなわち妥当な測定基準であるとみなしており、そしてまた、今この瞬間を生きていないのである。中には、高度に差異化された個人として、自我の執着作用を初めて自覚したときに自分自身に対して過度に批判的になる人もいるが、同一化するプロセスと手放すプロセスを経験することによって、自らの複雑性が揺れ動くことに対して寛容でいられるようになる。構築自覚的段階の人たちは、一般に、自分自身の欠点や防衛スタイルに関する自覚と洞察を得るにつれて、成熟した防衛作用(昇華(sublimation)、非敵対的ユーモア(nonhostilehumor)、括弧に入れること(bracketingout))を用いるようになる。彼らは、もし自発的に生じるならば、より未熟な行動スタイルを故意に選択したり、自分自身の無骨な反応を許容したりするかもしれない。至高体験において非日常的な意識状態を自覚的に経験すること──そしてそこで、自己や時間の流れから解き放たれること──は、力と責任の感覚を拡大したいという自己の誘惑を大局的に捉え直すための助けになる。

  構築自覚的段階の個人は、自分自身の思考プロセスの構造を知覚することができるとともに、他者のものと比較することができる。そしてまた、あらゆる合理的思考と言語がもつ根本的な限界を発見することができる。大抵、彼らは非常に聡明な人間だと思われているが、しかし彼らは、そうした頭の良さとは単なる頭の良さでしかないと思っているため、自分自身がもつそうした能力に対してもどかしく思っている。彼らはまた、意味を構築してそれをあまねく表現したいという人間の欲求に興味をそそられている。彼らは初めて、意味構築の根底的なプロセスを理解する。どのようにして、根底にある現象の流れが分割され具体化され、そしてその内容に基づいて、より複雑な理論が発明- 構築されていくのかを、理解するのである。このため、彼らはしばしば、合理的な思考にはどんな限界があるのかということばかり考えたり、言語がもつ逆説のなかでどのように生きていくかを学ぶのに夢中になったりしている。  リーダーとして、構築自覚的段階の人々は、新規組織を自ら立ち上げるか、あるいは、1人で働く傾向にある。そうすることで、彼らは、人類に対して自分たちが為しうる最良の貢献であると思っていることを実行する。彼らは、触媒(catalyst) としての役割を、あるいは変容をもたらす者(transformer) としての役割を引き受けることを好むが、しかしまた、自らの変容的な仕事を終えたと感じたならば、すぐにその場を立ち去ることを好む。彼らは、自分自身が居なくても問題がないようになったときに、すなわち、その組織自身が変容的かつ自己組織的になったときに、物事は上手くいったと感じる。

○主要な関心:
  合理的思考および言語のもつ限界。実存的逆説という緊張状態のなかで生きること。

○カウンセリングのスタイル:
  自分自身をクライアントのスタイルへと調節することのできる能力がある。助言者となり、共感的に耳を傾けることによってクライアント自身がもつ手段の範囲内で彼ら自身のやり方を見つけさせ、クライアントの見解に対して意義を唱え、そしてクライアントの発達段階に応じてクライアントが自らの経験を新たな方法で組み立てることを手助けする。

○憂うつ:
  人間に備わる本質的な孤独と、合理的な企てを通しては永続的な意味を創造し得ないという無力さを感じることによって、絶望に陥る。

○主要な不安:
  自らの複雑性を理解し、自らの体験に共感してくれる人がほとんどいないのではないかと恐れる。しかしまた、このような傲慢な恐れを抱いているという点で、自分たちは非難されるべきなのではないかと恐れる。

○言語上の手掛かり:
  構築自覚的段階の人々の言語は、しばしば、複雑で、生き生きとしており、真正で、遊び心に満ちている。それは、自律的段階の人たちが用いる言語よりも直接的であり、時には、より無骨でさえある。なぜなら、それまでの諸段階と比べて、良い印象を与えたいという欲求や、自らの最も優れた側面を見せたいという欲求が遥かに減少しているからである。構築自覚的段階の人々は、様々な話題や関心、問いや洞察、そして論評からなる広大な基盤を表現し、そしてそれらを1つの複雑な文章構造へと器用に結合させることができる。意識の流れといった特質や進行中の思考といった様態を備えた返答は、この段階で見受けられる。また、意識的な構造化を手放そうと試みている表現も、この段階で見受けられる。現実世界というものが構築された性質をもっているということに関する生き生きとした表現や、防衛作用としての意味構築についての根本的な問いかけ、そして定義や認識論の問題への関心も、この段階で見出される。

段階6:一体的段階 [ アイロニスト](The Unitive or Ironist Stage)〔原注10〕


  叡智を記した古代の文献から、高次の意識段階に関する最近の研究に至るまで、意味構築に関する合理的・個的な領域や後- 慣習的な層を超えて、さらに多くの段階が存 在するという証拠が見受けられる(ウィルバーが提唱する意識のフル・スペクトル・モデルについては表1を参照のこと)。そうした段階がどれだけ存在するのかということは、どのような文献を調査するかで、またどのような基準を用いて段階というものを定義するかで変わってくる。文章完成テストという手段を用いて収集したデータでは、自我を超越する領域に関して、これ以上に細かな区分を設けることはできなかった。そのため、一体的段階に関する私の記述は、幾つかの異なる高次の意識段階を、1つの包括的な段階のなかへ混ぜ合わせている。にもかかわらず、その特徴は、SCTi の測定によってこの最も高次の段階に対応する得点を確かに取得した個人が述べた、実際の言葉から、注意深く取り出されたものである。

  一体的段階では、人間存在と人間意識が、全く新しい方法で知覚される。もっぱら言語という媒体を用いて自己の視点から現実世界を眺めていた以前の方法が、変容を遂げることになる。その新たなパラダイムは、普遍的・宇宙的な視点( universal or cosmic perspective) を備えている。一体的段階の個人は、自分自身と他者を、創造的基 盤のなかに埋め込まれながら、進化という運 命を果たそうとして今も道を歩んでいる人 類の一部として経験する。パスカルが提示 した逆説の両面──すなわち、所属の感覚 と、個別性や独自性の感覚──が統合され る。この段階における統合によって、成人は、 自分自身と他者を、地理的・社会的・文化的・ 歴史的・知的・発達的な諸領域において、あ らゆる時間・空間スケールから捉えることが できるようになる。彼らは多様な観点をとる ことができるし、そしてまた、多様な意識状 態に対して努力なしに焦点を移動させること ができる。彼らは、自然のなかに埋め込まれ ている(embedded in nature) と感じる。彼ら にとって、誕生と成長と死、そして喜びと苦痛は、自然な出来事、すなわち、時の流れのなかの変化のパターンなのである。

  合理的な気づきは、もはや足かせであるとはみなされない。それはただ、その人が時々刻々どこに注意を向けているかによって、前面に出てきたり背景に退いたりする、別の現象にすぎない。一体的段階に位置する人たちは、一粒の砂のなかに世界を見ることができる。つまり、彼らは、存在がもつ具体的で有限で一時的な側面を知覚すると同時に、その永遠で象徴的な意味を知覚することができるのである。こうした一体的能力(unitiveability; Maslow, 1971, p111) のため、彼らは、最も差異化されていないように思われる存在のなかにある人間性さえも大事にし、そしてそれと1つであると感じることができるのである。彼らは、他者のなかにある本質(essence) を尊重しているのであり、他者を今と異なる姿に変化させる必要はないのである。一体的段階の観点から見れば、あらゆる段階は、相互連結した現実世界と進化的プロセス全体にとって必要な一部であるから、高次の段階は低次の段階よりも優れているわけではない。この点をはっきりと理解しておくことは重要である。一体的段階の思索家たちはまた、何の制御もせずに、自分自身を「あるがままに(as is)」受け入れる。彼らは、どれほど偉大な業績を成し遂げたとしても、それは、今なお続いている人類の努力という水たまりのなかの一滴のしずくにすぎないということを自覚している。感受性の強い人たちは、しばしば、一体的段階の個人がそこにいることによって経験される謙虚さと慈悲によって心を打たれる。地に足の着いた気取らない態度(複雑性の向こうにある単純さ)は、個的な意味構築方法と超個的な意味構築方法を分かつ最も顕著な相違点の1つでありうる。

  しかし他方で、この最後の自我段階に位置する個人は、「冷淡(aloof)」であり、人間共通の目標や仕事や関心事に十分に従事していないと理解されるかもしれない。とりわけ、自意識的段階や良心的段階の人たちの視点からはそのように見えうるし、自律的段階の人たちでさえそのように感じるかもしれない。こうした批評家たちがあまり理解していないのは、一体的段階の成人は、しばしば、他者の人生を形作るうえで、触媒としての役割を果たすということである。彼らは、理由なしに今あるものであることによって、他者の視点に異議を唱えるとともに、成人になるとはどういうことかについての評価的・慣習的な見解とは異なる仕方で人間として在るという道を明示しているのである。彼らは、存在に関する深い安心感を表すが、それは、合理的に生成された自己アイデンティティによって獲得しうるよりもさらに深いものである。他の全ての段階と比べて、一体的段階の個人は、相手がどのような発達状況、年齢、性、あるいは他のいかなる性質を備えていようとも、真剣ではあるが相手からは何も求めないという関係をもっているように思われる。彼らは、この世に現れたあらゆる生命のなかに尊厳を見出すことができるため、他者に対して、自分とは価値のある完全な存在なのだと感じさせることができる。

  一体的段階の人たちは、超個的な、あるいは個体相互の道徳性を、完全に内面化してい。内的葛藤や、互いに対立している外的要求は、存在の単なる一部である。解決したり否定したりする必要はなく、ただ目撃していればよい。彼らはもはや、こんな風になりたいとかあんな風になりたいとか、こんな状態を達成したいとかあんな状態を達成したいとか、そのような願望によって駆り立てられることはない。その代わり、彼らは、実現できないことを手放すことができる。世界の公平さ、自発性、存在と創造性に関心がある。消極性ではなく、執着のない非個人的な態度を備えているため、行動が必要とされるところでは、より偉大で直接的で強力な行動をなすことができる。

  現実世界は今や、時々、未分化の現象論的連続体(undifferentiated phenomenological continuum) あるいは統一意識の創造的基盤として深く経験される。どのような対象、言葉、思考、感情、感覚、理論であれ、それは人間の構築物であるとして理解される。それは現実世界を分離させ、境界のないところに境界を創り出すのである。意味と繋がりを求める探求活動は、人間に備わる本質的な条件である。この段階の個人は、生きとし生けるもの全てが、生きるために、そして自らの存在を意味づけるために必死に努力しているという点において、他者と繋がり合っているように感じる。一体的段階の人たちは、この世に現れたあらゆる生命に対して寛容さ、慈悲、そして親近感を抱く。最も単純な扁形動物でさえ、幾つかの点では、最も洗練された思索家と同じくらい真理に近接しているのである。至高体験はもはや、とびきり素晴らしい特質を備えてはいない。それは、彼らが存在し、経験するときの馴染み深い方法である。現在とは、過去と未来が深く浸透している場所である。完全に開かれた態度をとることによって、彼らは自由になり、真や美と調和し、先見の明のある体験をすることができるようになる。すなわち彼らは、合理的な心というフィルターを通して物事を理解することに加えて、全体論的で連続的な方法でも物事を理解できるようになるのである。

  一体的段階の人々は、努力なしに焦点を移動させることができるし、そしてまた、全体を見守ると同時にその全体を構成している諸変数を見守ることができる。彼らは拡大された時間枠のなかで活動するが、それは、地球の全歴史と未来を含むものである。生命とは、やがてはそこへ帰っていくような創造的基盤から一時的に──場合によっては自ら進んで(菩薩の誓願)──分離することによってもたらされた形態であるとみなされる。一体的段階の成人は、分離した独自の肉体的存在として自分自身を認識しているが、しかしまた、他のあらゆる生命と自分自身を同一視している。他者から自己が分離しているという感覚は幻想であるとみなされる。それは、永遠性と自尊心を得たいという自我の欲求を保護し、自我が死ぬということに対する恐怖から自らを守るために考え出された作り話だとして経験されるのである。

  そのため、一体的段階の個人は、自我の狭苦しい境界を超越することになる。彼らは開かれた境界をもっており、意識に入ってくるどんなものに対しても、それに夢中になるというよりはむしろ、それに自らを調和させる。ここでは、この段階の人々がもつ能力を描写するために、(観察よりも)目撃という言葉を用いることができる。その能力とは、他の諸段階とは違い、意図的に何かに焦点を当てたり何かに心を奪われたりすることなしに、経験を代謝することのできる能力である。真理とは宇宙に内在しているのであり、純粋に合理的な手段ではなく、こうした即座で開かれた態度によって理解することができるのである。

  一体的段階の成人は、宇宙の進化に参加する者として、統合された独自のアイデンティティの感覚を備えている。彼らは、自らの貴重な「ライフワーク」("life's work") と調和している。それは、彼ら自身の独自の自己を表現するものであると同時に、共通の人間性の一部であることをも表現している。彼らはまた、人間としての条件(human condition) に関する根本的なジレンマにも関心を抱く。彼らは、正義と、公正と、あらゆる存在に対する慈悲のために活動する。彼らは、意味を構築するという責務を果たすものの、自律的段階の個人や、場合によっては構築自覚的段階の個人が心に描くように、自分自身のことを、自らの魂を使いこなすことのできる唯一の孤独な人物だとは思わない。存在の仕方は無限にある。存在の多様な可能性に関する手がかりは、自然な意識状態や変性的な意識状態や覚醒時以外の意識状態において、人間の歴史を研究することによって、あるいは人間の多様性を今まさに経験することによって、あるいはおそらく未来に発達しているであろう新たな方法で人間として在ることによって、得ることができる。人生とは、宇宙的な目的を果たすことであると見ることができる。それゆえ、人生とは本質的に単純明快なものである。為すことや考えることは存在の一様式にすぎないのであって、感じることや在ることや無であること(non-being) よりも本質的に価値があるというわけではない。最後の命題は、個的な領域を超えて発達していない大半の人々にとっては最も把握しがたい見解である。仏教の格言が述べているように、「悟りとは究極の幻想」(Understanding is the ultimate illusion) なのである。

  要約すると、一体的段階の成人は、彼らが個人として抱いている所属と分離という双方の感覚に関して、よりバランスのとれた統合的な見方をもっている傾向がある。なぜなら彼らは、創造、破壊、そして再創造という循環およびその全局面のなかで、今なお続いている宇宙の進化の一部分であると感じているからである。

○言語上の手掛かり:
  一体的段階の個人は、包括的な様々な話題や関心について述べる。それは時として、1つの返答のなかで表現される。その一体的な能力のため、彼らは、自由に動き回ることのできる広大な心の空間をもっている。万華鏡のような反応によって、様々なレベルやタイプの差異に対して橋が架けられる。具体的─実際的、理論的─哲学的、個人的─世界的、真剣さ─ユーモア、物理的─心理学的・形而上学的、陳腐さ─荘厳さ。一体的段階の個人がSCTi の文章に対して与える返答は、独特で生き生きとした表現を含んでいるかもしれないし、日常的な経験や非日常的な経験を表現するための創造的な比喩を含んでいるかもしれない。時には、非常に単純な返答を見出すかもしれない。額面通りに評価するとしても、このことが理論を無効にすることはない。自発性や率直な単純性は、叡智や自我超越に備わる本質的な要素だからである。構築自覚的段階の意味構築者が、個的な領域の現実に関して最も複雑かつ豊かに差異化された見方をもつのに対して、一体的段階の成人は、それ以前の全ての段階の人たちに共通していた意味構築への「必死の(desperate)」欲求の外側に立ち、彼らが自我を保護・強化するために不必要な行為をなしていることを見るのである。

要約(Summary)

  以上で私は、新生児が無意識のまま未分化の共生状態にいるということに始まり、成熟した成人が宇宙のなかに埋め込まれていることを意識的に体験するということに至るまで、その間に通りうる1つの道に関して、輪郭を描いた。それはすなわち、前合理的な領域から後合理的な領域へと、前言語的な無知から後言語的な叡智の入り口へと至る道でもある。あらゆる現象が本質的に相互連結しているということと、境界や対象や自己アイデンティティや人生と自然界に関して私たちが生み出す物語が構築された性質をもっているということをはっきりと理解したとき、多くの自由を手にすることができる。そしてまた、知性と感情に関する自動的な習慣を意図的に忘れ去り、それを記憶(〜であった)と願望(〜であるべきだ)から切り離し、そしてその代わりに、今この瞬間(〜である)へと何も評価せずにただ気づきを向けるよう心に留めるとき、多くの苦しみが和らげられるのである。

 


〈原注〉
〔原注1〕 Torbert in Fisher D. & Torbert, W. R.(1995). Personal and organizational transformation:The true challenge of continualqualityimprovement. London, UK: McGraw-Hill. Torbertin Fisher, D., Rooke, D. & Torbert, W. (2002).Personal and organzational transformations: through action inquiry . Edge/Work Press
〔原注2〕 Angyal, A. (1965). Neurosis and Treatment:A Holistic Theory . New York; The Viking Press.Bakan, D. (1966). The duality of human experience .Chicago: Rand McNally.
〔原注3〕 Koplowitz (1984, page 289) による。
〔原注4〕イギリスのサンプルにおいて自律的段階以降の人数が多いのは、おそらく自己選択バイアスによるものである。変容や成長に傾倒している人々は、テストを受けることを自ら求める。それに対して、アメリカの母集団サンプルにおける大半の参加者は、多様な研究プロジェクトから選ばれた人々である。
〔原注5〕Commons, M. L., Richards, F. A., & Armon,C. (Eds.). (1984). Beyond for m al operations: lateadolescent and adult cognitive development . NewYork: Praeger..〔原注6〕Loevinger and Wessler, M easuring egodevelopment , vol. 1, Jossey-Bass, p.4 or in Hy andLoevinger, Erlbaum, Measuring ego development ,
1996
〔原注7〕私は、自己防衛的な自我段階を表すデルタという記号(Δ)を、数字のラベルに変更することを決めた。それは、アカデミックな世界以外の読者とより効果的に話を行うためであり、そしてまた、数字によるラベルを一貫したものに「見える」ようにするためである。現在は、自己防衛的段階を、段階2/3 として表現している。なぜなら、その段階は、衝動的段階(2)の次に現れ、そして順応的段階(3)へと発達・成長していくからである。このような処置は、自我発達理論において前期の段階がもつ細かな区別を無視している。しかし、そのような人々について(それが理論的に重要となっている際に)実際に論じるときにまで、そうした細かな区別を排除しようとするものではない。私たちが研究の対象としている職業的な環境においては、そのような前- 慣習的な段階が滅多に見出されないということを考慮すれば、こうした処置は正当化されるであろう。前- 慣習的な領域を研究する際には、前期の段階に関するそうした区別は、依然として重要である。
〔原注8〕一般システム的な諸段階、及び、一体的な諸段階(General systems and Unitivestages) という言葉は、以下の文献で説明されている。 Cook-Greuter, S. (1999). Postautonomousego development: its nature and measurement.Doctoral dissertation. Cambridge, MA: HarvardGraduate School of Education. Available fromauthor for $45.00.
〔原注9〕段階が高次になればなるほど、私の性格描写がトーバートとものと一致する割合は減少していく。トーバートの洞察は、何十ものリーダーおよび高ランク企業の幹部へのインタビューと、典型例となるような歴史的人物に基づいて得られたものである。一方で、私のものは、社会の様々な方面の人々から得られた何百もの記録文書に基づくものである。したがって、私のデータの方が、より多様な職業をもつ人々からデータを得ていることになる。組織に関わる環境にいるリーダーが、トーバートの観察したような特定の特性を実際に示すということは全くありうることである。この論文で、私は、構築自覚的段階と一体的段階の人たちの特徴を描写した。私の経験から言うと、そのなかで、企業人(company men and women) になることを選択する人はほとんどいない。
〔原注10〕様々な段階に対してつけるラベルを選ぶことは、構築的発達心理学(ConstructiveDevelopmental Psychology) の領域で仕事を行っている全ての人間にとって、長い間、最も難しい題の1つであるとされてきた。私は、Magician〔構築自覚的段階〕の後で発達する心的枠組みをもつ個人について描写する際に、Ironist という言葉を用いることが特に有益だとは思っていない。ただ、他に良いものがないので、そしてまた混乱を避けるために、この文脈では私はトーバートの言葉〔Ironist〕を用いようと思う。

〈訳注〉
〔訳注1〕 LDF(Leadership Development Framework)とは、自我発達理論をリーダーシップ開発の文脈において扱いやすいものにするために、その表現等を一部変更したものである。例えば、EDT では「良心的段階」「自律的段階」といった名称が好まれるのに対して、LDF では「達成主義者」「ストラテジスト」といった名称が好まれる。LDF は、自我発達理論のいわば「リーダーシップ開発用ヴァージョン」である。〔訳注2〕 アメリカの連続ホームコメディ番組『オール・イン・ザ・ファミリー』に登場する架空の人物。ぶっきらぼうで高圧的な態度を示し、また、様々な集団に対する偏見に満ちている。〔訳注3〕 アメリカの連続ホームコメディ番組『オール・イン・ザ・ファミリー』に登場する架空の人物。 アーチー・バンカーの妻である。訳注2 も参照。