インテグラル・スピリチュアリティの諸条件 

鈴木 規夫

はじめに 


〜トランスパーソナルの終焉〜


多くの関係者が指摘するように、1960年代後半に合衆国で発足したトランスパーソナル運動は、その時代的な役目を終えて、今世紀にはいり、徐々に終焉期を迎えようとしている。先進国において、未曾有の物質的な繁栄を背景として展開したトランスパーソナル運動は、本質的には、大量消費主義という量化の時代精神("Flatland")に抵抗する内面主義的な思想運動として成長した。[1] しかし、現在、国内・国外において、「スピリチュアリティ」という言葉の大衆化を契機として呪術的・退嬰的な内面主義が蔓延するなかで、トランスパーソナル運動は、「内面主義」という時代精神の担い手としての役割を急速に失いつつある。「自己発見」や「自己実現」等の内面探求の様々な手法の商品化が完成した現在の状況において、あくまでも学術活動としての体裁を保持しなければならないトランスパーソナル運動は、大衆にとって、もはや必要とされないものなのである。実際、国内・国外の関連組織の構成員は確実に減少しつつある。とりわけ、合衆国と日本においては、そうした趨勢は非常に顕著にあらわれており、将来的には、トランスパーソナル運動は、少数の関係者のための特殊な共同体として収束することになるだろう。


Ken Wilber(KW)は、執筆活動の初期より、トランスパーソナル運動が内包していたこうした構造的な問題を認識しており、数々の著作をとおして、その克服のための提言をくりかえして行ってきている。しかし、そうしたこころみにもかかわらず、トランスパーソナル運動は、Spiral Dynamics理論において"Green vMeme"と形容される価値観の構造的な限界を克服することができないままに、確実に調査・研究・実践の領域において劣化をつづけている(Wilber, 2000b)。こうした状況のもと、1990年代の後半、KWは、当時Association for Transpersonal Psychology(ATP)の総監督(Executive Director)を務めていたMiles Vichの辞任を契機として、自らもATPの運営を離れて、また、トランスパーソナル運動そのものとも訣別を表明している。


その後、KWが自らの主催するIntegral Institute(http://www.integralinstitute.org/)を機軸として「インテグラル運動」を展開していることは周知のところである。ただ、ここで留意するべきことは、こうした新たなこころみの意義を理解するためには、20年間以上にもおよぶ懸命な携わりにもかかわらず、KWが最終的に否定しなければならなかったトランスパーソナリズムという思想運動を規定する特有の価値観――Green vMeme――の限界(問題)を把握することが非常に重要であるということである。こうした理解の欠如したところにおいては、結局のところ、インテグラル思想をGreen vMeme(Individualist段階 [2] )をとおして理解(曲解)することしかできないままに終わるだろう。とりわけ、国内においては、今後、これまでにトランスパーソナル思想の紹介者・擁護者として活動していた人々が、その延長線上で、インテグラル思想の紹介をすることになる可能性があるが、このことは、必然的に、インテグラル思想の歪曲をもたらす危険性を内蔵することになるだろう。こうした紹介者が「こころの時代」の担い手としての自らの構造的な特性に無意識であればあるほどに、そこにおいて主張される「インテグラル思想」は深刻に歪曲されたものとならざるをえないのである。


KWもくりかえして強調するように、Green vMeme(Individualist段階)の構造的な問題と対峙・克服することなしには、インテグラル思想を正確に理解することはできない。その意味では、インテグラル思想の理解のためには、まず、今日、国内・国外において、Green vMeme(Individualist段階)という価値体系が醸成した「こころの時代」と形容される時代精神の本質的な問題を批判的に検討することが重要となるだろう。ただ、「自己探求」や「自己実現」を称揚するこの時代精神が、トランスパーソナル運動の多数の関係者の「生活」に経済的に寄与するものであることを鑑みると、実際には、こうした検証をすることが非常に困難であることは間違いのないところである。つまり、彼らにとり、それは、思想上の問題ではなく、むしろ、経済上の問題なのである。


あらためて指摘するまでもなく、「こころの時代」とは、大量消費主義という窮極的には持続不可能な思想がもたらす物質的な豊かさを基盤として成立しているものである。そして、そうした時代精神は、自らの存立を可能としている客観的・物理的な条件(「生存条件」・"Life Conditions")にたいする深刻な無自覚(ignorance)を醸成する肥大化した内面主義(感覚主義・体験主義)を正当化する傾向を内包している。非常に残念なことに、トランスパーソナル運動は、そうした時代精神の問題を批判するのではなく、むしろ、その恩恵を享受しながら、それを擁護するかたちで展開しているのである。


こうしたことを考慮すると、今後、われわれが、インテグラル思想について探求するうえで、まずしなければならないのは、難解な書籍を読むことではなく、むしろ、自己の生活者としての前提を構成としている欺瞞と対峙することであるといえるだろう。そうした精神的な強靭性のないところにおいては、インテグラル思想は、その実践思想としての本質を去勢された、単なる知的自慰の道具としてしかとらえられないことになるのは確実である。


世界を包括的にとらえるというインテグラル思想の基本的な姿勢は、本質的に、自己の存在が内蔵する盲点と矛盾を暴きだす危険性を内包している。そして、そうしたインテグラル思想のこころざしを抱擁することができるためには、自己との対峙という責任を回避することはできないのである。


ここでは、KW(2006)の最新作であるIntegral Spirituality: A startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern worldにおいて展開されている議論を参照しながら、現代において必要とされるインテグラル段階(Strategist段階以降)の意識構造を基盤とするスピリチュアリティ――「インテグラル・スピリチュアリティ」――とはいかなるものであるのかを探求したい。[3]




Myth of the Givenの克服

 

スピリチュアリティにたいする現代哲学の批判


神秘体験等をとおして獲得された洞察は、必ずしも客観的・普遍的な事実の報告ではない。一般的に、実践者は、霊的領域をありのままに経験していると思い込むが、実際には、神秘体験は、時空間に存在する主体としての個人を定義する諸々の条件の影響のもと構築されたものである。つまり、ありのままの体験として感得されるものは、実際には、主体としての個人が歴史的な存在として継承している諸々の条件を基盤として対象領域を認識することをとおして、「創造」されたものなのである(monological as opposed dialogical)。


現代哲学は、認識というものが、実際には、主体が自己の認識機能を用いて現実を構築する創造行為であることを指摘する。しかし、こうした現代哲学の成立の恩恵を得ることなしに自己の教義を確立した伝統宗教は、しばしば、神秘体験をとおして認識されるものが普遍的な事実(reality)であると思い込む。


実際には、修行という行為そのものが体験者の認知機能を条件づけする営みとならざるをえないにもかかわらず――しばしば、それは人間の本来のありかたをとりもどす限定条件の解除の行為(deconditioning)としてとらえられるが――その事実に無自覚である場合、そこで経験される神秘体験のあらわれかたが絶対化されることになるのである。


こうした自己の体験の内容が、認識という行為をとおして構築されたものであることに無意識であることの結果、すでにそこに存在していたものをありのままに認識したにすぎないと思い込むことを"Myth of the Given"(Wilfrid Sellars)――もしくは、"Monological Empiricism"・"the Philosophy of the Subject"・"the Philosophy of Consciousness"――と形容する。現代において、スピリチュアリティが知識人の尊敬を得ることのできる研究領域として確立されるためには、まず、こうした錯誤を克服することが要求される。


留意するべきは、人間の認識を規定する諸々の条件は、時間の流れのなかで個人・集合・内面・外面を包含して展開する全領域(AQAL)にまたがるものであるということである。インテグラル思想においては、認識は、これらすべての領域の相互作用のなかで立ちあがるものとして理解されるのである。


また、一般に信じられているように、体験とは、必ずしも体験と解釈という2つの段階を踏んで展開するものではない。実際には、体験とは、すでにそれそのものが解釈なのである。つまり、体験というものそのものがAQALの創造物なのである。[4] このことは、これまで時空の拘束を超越したものとしてとらえられてきた神秘体験というものが――それがAQALの影響のもと創造されるものであるという意味において――実は歴史の進展のなかでそのありかたを変化しつづけるものであることを示唆する。つまり、現代においては、神秘思想が人格陶冶の目標として設定する神秘体験のありかたそのものが、歴史の過程のなかで、刻々と変化するものとしてとらえられることになるのである。


インテグラル思想における責任


スピリチュアリティというものをとらえるうえで、こうした問題意識が強調される背景には、近年におけるウィルバー思想の段階的な発展があることを指摘しておく必要があるだろう。この"Wilber Five"と形容されている発展段階を特徴づける重要事項のひとつは、コスモスが歴史的存在であることをとおして内包する非常に柔軟な性質を強調していることであるといえる。最新段階において強調されるこうした観点は、インテグラル思想の重要主題のひとつである意識進化のダイナミズムを画期的に再照明することを可能としている。


Wilber Fiveは、意識構造というものをコスモス誕生の瞬間に所与の条件としてあたえられたものとしてではなく、むしろ、歴史の過程のなかでくりかえして経験されることにより、徐々に後世により継承される「習慣的方向性」("probability wave")として定着していくものとして認識する。つまり、これは、意識進化というものを、過去においてあらかじめ敷設された「レール」をなぞるのではなく、むしろ、習慣的方向性として存在しているにすぎない領域をひとりひとりが個人として創造性を発揮して果敢に探求することをとおして、それをコスモスの共有財産として具体化していく本質的に創造的な営為として把握するのである。


あらゆる経験を将来に影響を及ぼす創造的行為としてとらえるこうした観点は、必然的にスピリチュアリティにおける重要主題である倫理について重要な洞察を提供することになる。そこでは、現在という瞬間における個人の内的・外的活動のすべてがコスモスの将来を規定するものとしてとらえなおされることになる。つまり、インテグラル思想においては、自己の人生を真摯に生きることは、自己にたいする責任だけでなく、コスモスにたいする責任として理解されるのである。とりわけ、まだ日常的な持続的構造として集合的な規模で確立されていない領域(具体的には、集合意識の重心の範囲外であるVision Logic段階以降の発達領域)を人類の共有財産としてどのように具体化していくのかという課題においては、先駆者としてその領域を開拓する人々の責任は非常に重要なものとなる。その意味では、個人における意識の探求は、集合的な意義と責任を有するものとならざるをえないのである。


しかし、実際には、自己の内的・外的な行動を人類の将来にたいする倫理的責任をもつものとしてとらえる成熟した倫理意識は、今日、世界的に完全に溶解しようとしている。そこでは、むしろ、大量消費主義(Orange Meme)と価値相対主義(Green Meme)の融合の結果として生み落とされた"Flatland"の影響のもと、人間は、あくまでも自己の低次の衝動と欲求を充足することへと衝き動かされている。また、今日、先進国において流行している感覚主義(sensualism)・体験主義(experientialism)を基盤とした「スピリチュアリティ」は、自己の主観的視野への耽溺を称揚することをとおして、「他者の視野の共感的な体験」(perspective taking)という意識深化を醸成するための最も重要な活動を忌避する傾向にある。このために、現代社会の病理の克服を意図して取り組まれているはずのこうした営みは、実際には、自己の主観的な領域の絶対化(Quadrant Absolutism)を奨励することをとおして――それは不可避的に自己中心性の肥大化をもたらす――現代社会の病理を深刻化させてしまっている。それは、現在という瞬間における自己の感覚的体験を対象化したうえで、時間的・空間的に包括的な視野から長期的・集合的な人類の福利を志向するありかたを否定する退嬰的なものとして固着してしまっているのである。その意味では、インテグラル・スピリチュアリティが志向するこうしたありかたは、現代という時代の趨勢の対極に位置するものといえるだろう。 [5]


意識状態と意識構造(States and Stages)


スピリチュアリティについて探求するうえで、非常に重要となるのが、「意識状態」(states)と「意識構造」(stages)の相互作用である。


意識状態(states)とは、一時的なものとして経験される「変性意識状態」(non-ordinary consciousness)のことを意味する。その種類により、継続時間は異なるが、神秘体験においては、瞬間的なもの、数時間・数日間継続するもの、そして、また数週間・数月間継続するものが存在する。しかし、それらは、高揚状態が持続したあと、最終的には終息していくものである。


意識構造(stages)とは、日常的にはたらきつづける継続的機能として存在する「意味構築構造」(meaning-making structure)のことを意味する。これは意識の統合機能として、内的・外的な情報を処理しながら自己と世界についての「物語」(story)を構築するこころのはたらきである。


発達心理学の調査・研究が示唆するように、意識構造は、自己中心性を減少するかたちで、段階的に成長していく。しかし、神秘体験等の非日常的な意識状態は意識構造がどの成長段階にあろうとも、基本的にあらゆる段階において発生することができる。実際、瞑想や薬物等、変性意識状態を醸成する方法は多様なものが存在しており、そうした技法は意識構造がどの成長段階にあろうとも実践することができるのである。また、それにくわえて、至高体験("peak-experience")といわれる意図的な実践なしに発生する変性意識状態も意識構造がどの成長段階にあろうとも体験しえるものである。


ただ、ここで留意するべきことは、意識状態は、意識の統合機能である意識構造の影響のもと経験(解釈)されるということである。つまり、体験(解釈)の主体である意識構造の成熟度により、意識状態が有する意味は非常に異なるものとなるのである。その意味では、神秘体験において、人間は、非日常的領域をありのままに体験するのではなく、むしろ、自己の「認識の枠組」をとおしてそれを創造的に体験("enact")するのだということができるだろう。


Gross

Psychic

Subtle

Causal

Nondual

Nondual





Causal






Subtle






Psychic






Vision Logic






Rational






Mythic Rational






Magic






Impulsive






Wilber-Combs Matrix (Combs, 1995/2002, p. 196)


"Wilber-Combs Matrix"は、「意思構造」と「意識状態」(上記の図表では横軸)の関係を整理するために、Ken WilberとAllan Combsが共同して構築したものである。上記の図表では、縦軸(Impulsive〜Nondual)が意識構造を、そして、横軸(Gross〜Nondual)が意識状態を構成する。人間は、全ての発達段階において、そこに存在する意識構造をとおして、全ての意識状態を経験することができる。しかし、そうした体験は、不可避的に、体験主体を構成する意識構造の認識・統合能力により強力に規定されることになる。尚、KWは、最新作であるIntegral Spirituality: A startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern worldのなかで、Combs(1995/2002)に発表されたこのWilber-Combs Matrixに修正をくわえて掲載している。ここでは、Combs(1995/2002)に掲載されているものを基本的にそのまま掲載している。


こうした観点をもとにして、KWは、「2種類の悟り」("two kinds of enlightenment")が存在することを指摘する。

  • 「垂直的悟り」("vertical enlightenment")

人類進化の現在の段階において構築可能な最高の意識構造(Susanne Cook-Greuterの発達理論において"Unitive Stage"と形容されている段階)を確立して、その認識の枠組をとおして、人類に経験可能な領域を持続的に体験すること。

  • 「水平的悟り」("horizontal enlightenment")

人類進化の現在の段階において構築可能な最高の意識構造(Susanne Cook-Greuterの発達理論において"Unitive Stage"と形容されている段階)を確立することなしに、人類に経験可能な領域を持続的に体験すること。


ここで重要なことは、神秘体験は必ずしも体験者の人格的成熟を証明するものではないということである。また、さらに重要なことは、神秘体験は必ずしも意識構造の垂直的深化を醸成するものではないということである。実際、無数の実例が示唆するように、神秘体験は、経験される文脈によって、意識構造の溶解(regression)・固着(stabilization)・深化(transformation)のうちいずれの結果をもたらす可能性を有している。その意味でも、しばしば指摘されるように、その成果が真の意味での人格的深化をもたらすことができるためには、内的探求は、必ず、適切なAQAL――「こころがまえ」("set"・UL)と「環境条件」("setting"・LLとLR)――を必要とするのである。


現代という時代におけるスピリチュアリティの課題は、個人の内的探求の文脈であるAQALが、Flatlandを基盤として発生・蔓延している、自己陶酔・自己肥大を増幅する包括的な装置として強力にはたらいていることである。これは、一方では、大量消費主義というイデオロギーのもと、飽くことない資源の消費者としての自己を肥大化することをとおして、また、一方では、価値相対主義というイデオロギーのもと、「ありのまま」の自己を抱擁・崇拝することを称揚することをとおして、既存の意識構造を温存することにつながる。[6] つまり、神秘体験において経験される「絶対的な充足・確信の感覚」("the sense of absolute conviction")は、「構築物」である意識構造に投影され、結果として、その構築物の絶対化につながるのである。意識構造の変容が、既存の意識構造の否定を契機として展開するものであることを考慮すると、今日、先進国に存在しているAQALが、「変容志向のスピリチュアリティ」(transformative spirituality)の成立にとり、非常に否定的な影響を及ぼすものであることを理解することができるだろう。


しかし、現代に限定したことではなく、窮極的に「垂直的悟り」を志向する「変容志向のスピリチュアリティ」を実践するには、神秘体験を醸成するための実践を補完する諸々の実践が必要とされる。複数の実践に包括的に取り組むことの重要性を強調する統合的変容の実践(Integral Transformative Practice・Integral Life Practice)の意義は、こうしたところにあるのである。


「変容志向のスピリチュアリティ」の実践において重要となるのは、自己の内部に息づく2つの対照的なダイナミズムを尊重することである。

  • 絶対的な充足・確信の感覚をもたらす肯定のダイナミズム
  • 既存の構造を否定して、新たなありかたを志向する深化のダイナミズム

インテグラル・スピリチュアリティにおいて、これら2つの対照的なダイナミズムは――少なくとも、人間という存在において自己変容の実践が取り組まれるときには――「管理されるべき対極性」として存在しつづける緊張として認識されることになる。

前者の過度の強調は、意識構造の垂直的深化を阻害する、盲目的な現状肯定傾向を醸成する。また、後者の過度の強調は、意識構造を動揺させつづけることをとおして、実存的な危機や絶望を醸成する。そのいずれも、真の意味でインテグラルなスピリチュアリティとはいえないのである。




神の3形態(3 Faces of God)


人間の神秘体験において、体験者の視野に「神」は3つの形態で立ちあらわれる。

  • 一人称(Spirit in First Person・"I AM"):自己の存在基盤としての窮極の自己(大いなる自己)
  • 二人称(Second Person・"Thou"):帰依と交感の対象としての神・霊(大いなるあなた)
  • 三人称(Third Person・"Web of Life"):神・霊の顕現としての世界(大いなる存在)

これは、人間の認識の基本形態である"Big Three"("I"・"We"・"It/Its")が神秘体験においても立ちあらわれることを指摘するものである。インテグラル・スピリチュアリティは、実践活動において上記の視野がそれぞれ独自の重要性を有することを認識したうえで、スピリチュアリティの具体的な実践の特徴を把握しようとする。こうした基準は、今日、世界的な規模で展開している多様な宗教運動の性格を把握するうえで、貴重な洞察を提供してくれるだろう。


例えば、第二次世界大戦後の先進国(とりわけ、合衆国)におけるスピリチュアリティのありかたの変遷を理解するうえで、とりわけ注目するべきことは、神の存在場所の外部から内部への移行である。具体的な実践の領域においては、積極的な東洋宗教の導入と実践に象徴されるように、集合的規模で、神は二人称的な存在としてではなく、むしろ、一人称的な存在として探求・体験されることになる。もちろん、こうした「重心の移行」は、集合意識の発達段階の重心が、神話的合理性段階から合理性段階への移動という、歴史的動向と連動して展開したものであることはいうまでもない。そこでは、信仰の拠り所が外的権威(教会)から内的権威(合理的思考)へと移行することになったのである。また、「個」の自律性を重視する合理性を基盤としたスピリチュアリティは、必然的に、一切の外的な干渉を排除した閉鎖的領域("privacy")において、「神秘体験」を介して、絶対者との直截的な関係を追及する「体験主義」("experientialism")として結実することになる。第二次世界大戦後の合衆国における東洋の伝統思想の積極的な受容は、こうした土壌の上に可能となったのである。


しかし、KWの指摘するように、ここでひとつの重大な混乱がひきおこされることなる。神話的合理性段階から合理性段階への成長という垂直的な進化がスピリチュアリティの二人称的なありかたから一人称的なありかたへの移行に象徴されるものとして理解されたことの結果、深刻な誤解が蔓延することになったのである。それは、一人称的な活動を合理性段階の活動として、そして、二人称的な活動を神話的合理性段階の活動としてとらえるという文化的な偏見と形容することのできるものである。KWは、これを「段階と領域の混同」("Level-Line Fallacy")と形容している。 


実際には、意識の各発達段階は、一人称・二人称・三人称という3種類のスピリチュアリティを実践する能力を内包している。その意味では、今日、世界的に展開している上記の傾向は、必ずしも必然のものではないのである。


今日、スピリチュアリティを巡る人類の課題として、とりわけ重要になるものとして、少なくとも下記の2つが挙げられるだろう。

  • 神話的合理性段階(もしくは、それ以前の発達段階)にその重心を固着している二人称のスピリチュアリティをいかにして合理性段階にひきあげるかという課題(具体的には、原理主義的な宗教の興隆の問題)
  • 合理性段階〜前期VL段階にその重心を固着している一人称のスピリチュアリティをいかにしてVL段階にひきあげるかという課題(具体的には、体験主義的な宗教の諸問題――例:"Spiritual aterialism"や"Boomeritis"に代表される自己中心性の肥大)(尚、この段階のスピリチュアリティは、しばしば、"Flatland Holism"と形容されるような、三人称的な営みとして顕在化することもある)

Andrew Cohenとの対話においては、KWは、とりわけ、将来的にインテグラル・スピリチュアリティの担い手となる可能性を潜在させている後者の克服するべき課題について詳細に言及している。そこでは、可能な限り外的な干渉を排除した閉鎖的領域において「神秘体験」を追及することを実践の基本的なありかたとすることが内包する諸問題を認識・克服することの重要性が強調されている。


一人称のスピリチュアリティが内包する構造的な盲点は、自己を放擲(surrender)する対象(他者)をもたないということである。一人称のスピリチュアリティにおける自己放擲の対象とは、あくまでも自己の深層に存在する機能や領域なのである(例えば、"Higher Self"等、人間性心理学やトランスパーソナル心理学の諸々の理論において強調される意識の機能や領域)。こうした実践形態はそれそのものとしては人間存在が内蔵する根源的な自己肯定の衝動を克服することはできない。むしろ、こうした実践形態は――それが二人称的要素を排除するかたちで展開する限りにおいて――個人の自己中心性を温存・増幅することにつながるといえるだろう。そこには、真の意味での自己否定をすることを回避することに起因する傲慢さが漂うことになるのである。


合衆国をはじめとする先進国における東洋宗教の受容のありかたが、それらの宗教の重要要素を看過したものに終始しているという指摘は、今日、それらの国々において大衆的に展開しているスピリチュアリティが、窮極的には、二人称の取り組みを排除した、限定的な視野にねざしたものであることの問題を照明するものである。そして、こうした問題は、スピリチュアリティの自己肯定と自己肥大の支援装置として商品化が完成した日本においても同様の深刻さをもって受けとめられるべきものである。その意味では、インテグラル・スピリチュアリティの確立のひとつの重要な課題は、二人称の要素をどのようにして復権するかということであるといえるだろう。


影(Shadow)


今日、心理学とスピリチュアリティの関係については多数の研究が蓄積されているが、そのなかでもとりわけ重要となるのが、「統合」(integration)と「超越」(transcendence)の相補的な価値を認識する研究の数々であろう。一般的に、心理学の責任領域は前者であると、そして、スピリチュアリティの責任領域は後者であるといわれている(もちろん、実際には、多くの場合においては、両者は同時に必要とされることになる)。そして、インテグラル・スピリチュアリティにおいては、これらの両方を統合的に活用(実践)していくことの必要性が認識される。


ここでは、インテグラル・スピリチュアリティの確立という課題を探求するために、今日、スピリチュアリティにおいて深刻な問題として存在している「スピリチュアル・バイパス」("Spiritual Bypass")の問題についてとりあげる。これは、パーソナル領域(段階)の問題・課題との対峙を回避するためにスピリチュアリティの実践に取り組むことを意味する(実際、こうしたスピリチュアリティへの取り組みは非常に蔓延しており、例えば、合衆国において、長年、リトリートの指導をしてきたJack Kornfieldは、自己の体験にもとづき、参加者の80〜90%は、まず、一般的な心理療法を体験する必要のある人達であったと述懐しているという)。もちろん、こうした取り組みをとおしても「変性意識状態」(states)を醸成するための技能を修得することはできる。しかし、真の意味で統合されたスピリチュアリティを実践していくことができるためには、こうした逃避的な姿勢は、人格基盤の脆弱性("inauthenticity")を温存することをとおして、諸々の深刻な問題の温床となることになる。


「影」(Shadow)とは、自己の抑圧(repressed)・放棄(disowned)された側面のことを意味する。その結果、それらの側面は「無意識」(unconscious)として、意識の境界下に追いやられて、そこで存在・活動することになる。ここで重要となるのは、人間は、無意識化することをとおして、必ずしも、そうした側面から自由になることができるわけではないということである。むしろ、そうした過程を通じて、自己の側面を疎外することをとおして、人間は、自己("I")そのものを貧困化するばかりでなく、自らを二人称化("You")・三人称化("It")された自己との緊張関係に置くことになるのである。自己から疎外された側面(例:怒り)は、他者に投影され、人間は、日常における他者との関係において、無意識化された自己と対峙することを強いられることになる。例えば、抑圧・放棄された怒りは、今度は、他者の怒りとして経験され、自己の内部には、そうした怒りに曝されることがもたらす恐怖が生じることになる。


こうした状況において、瞑想等を実践して、自己の内部に生じた恐怖を観想(対象化)することをとおして、それと非同一化(dis-identify)することは――たとえ一時的に恐怖にたいする耐性を強化してくれるとしても――疎外された自己の側面を再び自己の一部として統合するという根本的な解決策にはならない。むしろ、それは、疎外(抑圧と放棄)を強化することになる危険性を宿している。また、疎外された自己の側面は人格成長のために活用可能な「心的エネルギー」(Psychic Energy)の絶対量を減少させることになる。[7] そして、そうした疎外が過度のものとなり、あまりに多量のエネルギーが「喪失」されるとき、人格の垂直的な成長そのものが不可能となる。


統合の作業とは、スピリチュアリティにおいて志向される対象化の作業(一人称→二人称→三人称)ではなく、一般的な心理療法において志向される統合の作業(三人称→二人称→一人称)であるといえる(この過程をSigmund Freudは、"Where id was, there ego shall be"、もしくは、"Where it was, there I shall become"と形容している)。統合が必要とされる状況において、スピリチュアリティの実践という大儀のもと、対象化に取り組むことは、疎外を正当化することをとおして、病理を深刻化(もしくは放置)することにつながる。


この場合、二人称化・三人称化された人格領域を再び自己のものとして所有するということは、それを内部(Zone #1: inside of UL)から経験するということである。そうした体験をすることができたときに、人間は、はじめて健全なかたちで対象化の作業に着手することができるのである。KWの指摘するように、こうした経路をへて対象化された自己は、自己から疎外された三人称("It")ではなく、自己の構成要素としての三人称("Me")として経験されることを留意していただきたい(「所有権」の確立)。


3つのS


インテグラル・スピリチュアリティの重要課題のひとつは、3つのSを統合することとして理解することができるだろう。

  • Shadow(影)
  • States(意識状態)
  • Stages(意識段階)

伝統的な神秘主義思想の問題点は、心理学が研究対象としてきた個人の内面領域――Zone #1(inside of UL)とZone #2(outside of UL)――にたいする詳細な洞察を欠いていることである。具体的には、Zone #2(outside of UL)の洞察とは、人間の意識構造の発達の過程についての綿密な調査・研究にもとづいた洞察のことである(Stages)。そして、Zone #1(inside of UL)の洞察とは、発達の過程において蓄積された病理にたいする洞察を基盤として、そこに存在する「影」を統合するための洞察のことである(Shadow)。とりわけ、"Wilber-Combs Matrix"の示唆するように、神秘体験といえども、そこには必ず認識主体としての自己が創造的に関ることになる。認識主体が内包する病理に無自覚であることは、それが必然的にもたらすことになる諸々の錯覚(distortion)にたいして無防備であるということである。


伝統的な神秘主義思想の価値は、非日常的な意識状態(States)を醸成するための方法を確立することをとおして、個人の内面領域――Zone #1(inside of UL)――をその境界領域まで開拓したことである。日常意識の限界を超越して、その神秘的な本質に覚醒することを可能としたのである。そして、これは、心理学がほぼ完全に見落としていた領域である。


ただ、ここで留意するべきことは、こうした非日常的な意識状態を経験することは、必ずしも意識構造の垂直的成長を保証するものではないということである。確かに、非日常的な意識状態の経験は、既存の意識構造を対象化することを可能とする。結果として、こうした体験は意識構造の変容を促す契機としてはたらくことができるのである。しかし、実際に、そうした意識構造の変容が起こるためには、実践(経験と解釈)を支える「世界観」("Framework")が、それを促進するものであることが必要となる。 [8]


上記のように、インテグラル思想は「2種類の悟り」("two kinds of enlightenment")が存在することを認識する(「垂直的悟り」"vertical enlightenment"と「水平的悟り」"horizontal enlightenment")。真の意味で統合的な実践が前者を志向するものであることはいうまでもない。


まとめ

最後に、あらためてスピリチュアリティがインテグラルなものであるとはいかなることを意味するのかについてまとめておきたい。


まず、最初に留意するべきことは、インテグラル・スピリチュアリティの具体的な形態は、歴史の過程のなかで常に変化しつづけるものであるということである。それが刻々と進化する世界("Kosmos")のなかで営まれるものであるということをとおして、スピリチュアリティは、必然的に、世界が新しく開示する現実(洞察)を抱擁しつづけることを要求されるのである。


確かに、スピリチュアリティは、窮極的には、世界を規定する時間性と空間性を超越するものを希求するものである。しかし、それは、また、そうした時間性と空間性に束縛された存在としてあることを宿命づけられた個人の視座をとおして営まれるものであるという意味において、世界の内部に創造的に顕現する進化の成果を抱擁する責務を負う。


その意味では、インテグラル・スピリチュアリティの最終的な完成形態は「ありえない」ということができるだろう。KWの指摘するように、インテグレイション(統合・包括)への衝動は、われわれすべてのなかに「本能」として息づいているものである。そうした衝動は、歴史の展開の過程において、時代・時代の可能性のなかで実現されていくものなのである。


最新作において、インテグラル・スピリチュアリティの諸条件としてKWが提示するのは、あくまでも、この歴史的段階において自己のスピリチュアリティをインテグラルなものとして確立しようとするときに考慮することを必要とされる最低限の条件でしかない。今後、人間をとりまく生存状況(AQAL)が変化するなかで、インテグラル・スピリチュアリティを規定する条件はさらに修正・追加されることになることはいうまでもないだろう。その意味では、インテグラル・スピリチュアリティを実践するとは、自己の内部に息づく統合・包括への衝動を抱擁して、その果てしない実現に自己の存在を賭ける決意(commitment)をすることであるということができるだろう。


上記のように、インテグラル・スピリチュアリティは、意識進化の先端に位置する発達段階を確立したうえで、諸々の「領域」("Realms")を開拓することを志向する。そして、これは、今日において、インテグラル・スピリチュアリティというものが、少なくともStrategist段階の発達段階を確立したうえで営まれるべきものであることを意味する。[9] その意味でも、Strategist段階の確立を阻止するIndividualist段階を克服することは、今日において、非常に重要となるのである。


20世紀の後半、束の間のあいだ、トランスパーソナル運動は時代の最先端に位置する思想運動として認識された。大量消費主義(「成長信仰」)を基盤として生み出された量化の蔓延は、人間を経済的存在(生産・消費等、諸々の経済的機能を発揮する「機能の集積」)として再定義することをとおして、人間から人格を剥奪することになる。先進国において、トランスパーソナル運動は、そうした量化の流れに抵抗して、人間の内面的な尊厳を確保しようとする集合的な希求を背負う役割を果たしたということができるだろう。つまり、それは、おうおうにして「他者」を搾取の対象として道具化・資源化してしまう合理性段階の構造的な限界を克服しようとする賞賛するべきこころみであったといえるのである。


しかし、こうした内面性の尊厳を擁護しようとするこころみは、また、内面性を規定する価値である「誠意」・「誠実」(authenticity)を絶対化することをとおして、他領域の価値――LLの「正義」(justness)とLRの「真実」(truth)――を阻害する病的な傾向を醸成することになる。「自己」を規定する特殊性に執着するIndividualist段階の意識構造は、関係性の領域を規定する価値を「自己の尊厳」にたいする脅威をもたらすものとして見なして、それらの溶解に積極的に参与することになるのである(西部 2000)。


いうまでもなく、自己の内的真実に正直であることは、必ずしも、個人に生存状況への適応を保障してくれるものではない。個人は、それにくわえて、また、自己の行動が関係性の領域(LLとLR)を規定する諸々の規範を尊重するものであることを確保しなければならないのである。[10] そこにおいては、個人は、文化的共同体(LL)、そして、物質的共同体(LR)という自己の存在を可能とする諸々の関係性を継承・維持・発展するための責任を果たすことを要求されるのである。


そうした責任を果たすことに失敗するとき、個人は、普通、共同体の構成員として存続する権利を剥奪されることになる(Wilber, 2006)。しかし、また、そうした破壊的な意図をもつ個人が多数派となり共同体の意志を決定していく権限を掌握する場合には、共同体そのものが溶解することになる(LLの領域においては、例えば、共同体の規範の溶解を契機として、個人間の連帯感の喪失が結実する。LRの領域においては、例えば、共同体の物質的な基盤である生態系の溶解として結実する。)。


真の意味で、自己の内的真実に誠実であるとは、既存の自己を否定して、新しい自己を確立しようとする変容(進化)の欲求を包含するものである。しかし、実際には、そうした克己を希求する精神的なはたらきは、世界との関係性をとおして自己の内部に秩序感覚を育成することをとおして徐々に確立されていくものである。その意味では、そうした変容の欲求は、人間の「ありのまま」を肯定することをとおしては、獲得することのできないものなのである。


しかし、Individualistsにより発想される内面主義は、普通、「人間が人間となるためには、規範という要求をつきつけてくれる他者を必要とする」という厳然たる事実を無視したうえで、主張されるものにすぎない。結果として、それは、規範との対峙をとおしてはじめて可能となる諸々の人格機能の育成を阻むことになり、集合的な規模で深刻な人格破壊を蔓延させていくことになる。結果として、それは、規範との対峙をとおしてはじめて可能となる諸々の人格機能の育成を阻むことになり、集合的な規模で深刻な人格破壊を蔓延させていく。


こうした内面主義は個人の内面を真実の基盤として絶対化することをとおして、窮極的には、そうした内面の確保そのものを可能とする基盤そのものを溶解することになる(探究の対象としての「内面性」は、集合的な規模で物理的・文化的な豊かさが維持されるときに、はじめて可能となる)。「内面的真実」を絶対化することは、外的な権威を否定することを可能とするが、人間社会の成立を可能とする根源的な秩序感覚そのものは、そうした外的な権威が効果的に機能するときに、はじめて個人の内部に確立されるものである。しかし、20世紀後半以降、「多様性の尊重」・「個性の尊重」等、様々な美名のもとに称揚されてきた内面主義は、不可避的に、こうした破壊的盲点を内包することにならざるをえない。そして、まさにここにおいて、トランスパーソナル思想は――それがIndividualist段階の意識構造を基盤として発想されている限りにおいて――こうした時代精神の破壊的な行為に加担をすることにならざるをえなかったのである。


その意味では、今日において、インテグラル・スピリチュアリティは、トランスパーソナル運動に象徴されるIndividualist段階という意識構造を基盤として発想される「スピリチュアリティ」と明確に対峙するものとして自己を位置づける必要があるだろう。KWは、インテグラル運動を発足するにあたり、著書のなかで、Green vMeme(Individualist段階を基盤として発想される価値体系)にたいする痛烈な批判を展開している。「インテグラル」とはいかなることを意味するのかを明らかにするうえで、これは決して回避することのできないことだったのである。


*1 「質」と「量」についての哲学的考察は、朱 冠中(1990)を参照していただきたい。


*2 論文中において言及される"Individualist段階"・"Strategist段階"等の発達段階の名称は、Susanne Cook-Greuter博士の調査・研究を参考にしたものである。各段階の詳細な説明については、当HPに掲載中の「意識発達の先端」(鈴木 2006)を御参照いただきたい。


*3 留意していただきたいことは、本論文がKWの最新作Integral Spirituality: A startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern worldにおいて展開される重要議論の全てを紹介するものではないということである。Integral Spiritualityは、KWの思想の発展の最新段階である"Wilber-Five"について紹介する画期的な書籍作品であり、また、この新しい思想構想が内包する革新的な洞察をKW特有の魅力的な筆致で提供するものである。ある意味で、KWの作品を読むことは、ひとつの特殊な体験をすることであり、そうした体験の妙味をここでくりかえすことはできない。本論文は、このインテグラル思想の最新段階の概要について解説をこころみるものではなく、あくまでも、そこで展開されている洞察を参考にしながら、インテグラルなスピリチュアリティというものを構成するために必要となるであろうにいくつかの条件についてまとめたものである。


*4 例えば、トランスパーソナル・コミュニティにおいては、一般的に、解釈の参与しない個人の純粋な神秘体験がまずあり、そして、それがAQALという影響のもとに解釈されるととらえられているようである。しかし、そうしたとらえかたは人間の体験というものについての誤解である。実際には、「個人の純粋な体験」は、まさにそれがひとつの体験であるということにおいて、すでにAQALの創造物なのである。


*5 しかし、非常に興味深いことは、インテグラル思想の提唱するこうした包括的な発想と共振する発想が「保守派」といわれる人々から投げかけられていることであろう。例えば、長くなるが、西部 邁(2000)の著作の一部分を紹介しよう。

他人への迷惑といったとき、「他人」として誰を想定するべきなのか。脱歴史的なものとしての近代にあっては、現在世代の欲望に過度な関心を寄せる。つまり、時間軸の上で過去を想起し未来を展望するというふうには構えない。「現在の自分」が、つまり自我が、何より優先させられるので、「他人」といったときも、「自分の周囲にいる現在の他人」のことしか視野に入ってこない。そうならば、たしかに、街角の少女売春は他人に迷惑をかけていないということになる。
しかし、かつて福澤諭吉が喝破したことなのだが、他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由だ、というのは劣等な自由論にすぎない。「自分」が歴史という精神的土壌において形成されたと認識し、さらに「自分」のうちに、私心や個人だけでなく、公心や集(団)心もあると認識するなら、人はかならず、過去からのいかなる道徳を受け継ぎ、未来にいかなる道徳を引き継がせるかについて、無関心ではおれなくなる。あっさりいえば、自分たちの孫子の世代にたいして何ほどか責任を持たなければならない、ということである。そうならば、それが残されたら将来の世代が迷惑に思うような制度や風習を、現在において禁じるべきだ、という徳律が成立する。つまり、「他人」は現在の他人に限られないし、ましてや目の前にいる他人ということではないのである。そういう空間的および時間的な他人一般にたいして迷惑になるようなことをしてはならない。そう考えなければ、まともなパブリック・ソサイアティ(公共社会)をつくることができない。これが福澤諭吉のいわんとしたところである。
ほかの言い方をすると、人間の精神には、目前の状況に縛られない力がある、ということだ。人間の能力を十分に活性化させるためには、まだ生まれていない人々およびまだ会ったことのない人々のことについてまで想像力をはたらかし、その人々とのありうるべきかかわりについて論理力を駆使しなければならない。それを阻害するような行為に徳律(さらには法律)によって制裁を加えるのはまったく当然のことである。
少女売春が放任されるようになってしまったら、自分の娘、孫娘そして曾孫娘も、そういう放恣(ほうし)な社会のなかで暮らさなければならなくなる。たとえば彼女らが、街角で中年男たちから売春をしないかと誘われることになる。そのときに彼女らが感じるであろう不快感や社会にたいする失望、というようなことまでを想像するのでなければ、道徳について論じる資格はない。(pp. 597-598)


*6 ただし、ここでの「ありのまま」は、既存の意識構造を破壊する危険を冒してまで、自己を再構築しようと意思する深化の衝動をありのままに抱擁するものではないことを留意する必要がある。


*7 「心的エネルギー」(Psychic Energy)については、例えば、林 道義(1999)を参照していただきたい。


*8 インテグラルな実践(ITP、または、ILP)において、自己の思想的な世界観を鍛錬することが非常に重要視されるひとつの理由は、意識の構造的な成長を促進するうえで、それが非常に重要な責任を担うことにたいする認識があるということである。今日、国内・国外において展開している「こころの時代」を特徴づける姿勢として指摘される「反知性主義」や「感覚主義」(非日常的な意識状態を経験することを目的する態度。こうした態度が非日常的体験にたいする執着に支えられるものであるという意味においては、それは典型的な"Spiritual Materialism"としてとらえることができるだろう)は、その意味では、真の意味での意識成長(意識構造の段階的成長)には、破壊的な影響をもつものとしてとらえることができるだろう。


*9 Susanne Cook-Greuter博士の調査・研究によれば、意識進化の先端は、実際には、Strategist段階のさらに高次の段階であるUnitive段階にあるという。


*10 例えば、中村 雄二郎(2000)は、オウム真理教問題の分析のなかで、破壊・殺戮行為を実行したひとたちが、実際には、完全なる誠意(「誠の倫理」)をもって行動したことを指摘している(pp. 67-78)。自己の内的真実に誠実(authentic)であることは、それそのものとしては、人間を「悪」から救済してくれることはないばかりか、時として、人間に良心の呵責なしに「悪」をなすことを可能とするものであることを認識する必要があるだろう。



参考資料

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