Individual HolonとSocial Holon  〜Agapeの二形態〜 

鈴木 規夫

はじめに


インテグラル思想を理解・実践するとは、即ち、"Basic Moral Intuition"(BMI・"protect and promote the greatest depth for the greatest span"・「最大範囲において最大の深みを保護・推進する」)(Wilber, 2000a, p. 358)にもとづいて、AQALの包括的な福利にたいして責任をもつということである。そして、それは、必然的に、人間存在を規定する「個」(individual)と「集合」(collective)の両側面の特徴に留意して、その進化に建設的に参画するということを意味する。そこにおいて、探求と実践は、進化への参画という目的を実現するための相補的な必要要素として抱擁されることになるのである。


ここでは、インテグラル思想において"Individual Holon"(「個的存在」)と"Social Holon"(「社会的存在」)がどのように定義されているかを理解したうえで、両者の包括的な成熟にたいして具体的にわれわれがどのように貢献をすることができるのかを検討をする。こうした目的を達成するために、今回は、林 道義博士の『父性の復権』(1996)と『母性の復権』(1999)を参照しながら、人間存在を規定する「父性」と「母性」というこの対極的なダイナミズムにたいする洞察が提供してくれる豊富な叡智を確認したい。


尚、上記の2作品は、Vision Logic(VL)段階の意識構造を基盤として、現代における共同体の育成の課題について検討した傑出した研究書である。それらは、今後、国内において、真にインテグラルな視野から実践活動を展開していくうえで、ひとつの具体的な方向性を照明してくれる貴重な業績ということができるだろう。



Individual HolonとSocial Holon


Individual HolonとSocial Holonについて理解をする際、下記の事項を了解する必要がある(Wilber, 2006, pp. 142-162)。


* Dominant Monad


"Dominant Monad"とは、「全構成要素を組織・統括する能力」("an organizing or governing capacity that all subcomponents follow")と定義される。Individual Holonは、Dominant Monadを所有している。Social Holonは、Dominant Monadを所有していない。


* Dominant Mode of Mutual Resonance


"Dominant Mode of Mutual Resonance"とは、「共同体における構成員間の意思疎通のありかたを規定する支配的な意思疎通形態」と定義される。個人が共同体に適応することができるためには、共同体において使用されている基本的な意思疎通形態と共振することができなければならない。つまり、共同体の構成員になるためには、個人は、そこにおいて支配的なものとして機能している意思疎通形態を修得することが必要となるのである。また、こうした共振を共有することをとおして、Social Holonは、構成員の行動を緊密に統括することができるのである。


時として、共同体が生存するためには――そして、また、個人が生存するためには――こうした支配的な意思疎通形態を確立して、それにたいする構成員の尊重を要求することが必要となる。こうした尊重をすることができない個人は、必然的に、共同体から放擲・排除・攻撃されることになる。


しばしば指摘されるように、こうした共同体の機能は、時として「抑圧の装置」としてはたらくことになる。価値相対性を強調する今日の文化的状況において、共同体の持続可能性の確保のための重要要素として規範(支配的意思疎通形態)の必要性を訴えることは、そうした抑圧を助長する行為として、批判にさらされることになるのである。しかし、実際には、そうした批判は、共同体の機能のひとつの側面を過大に強調するものでしかない。また、たとえこうした共同体の装置が抑圧的なものとなることがあるとしても、そこで必要となるのは、「多様性の尊重」の大儀のもとに、そうした装置の必要性を否定することではなく、むしろ、支配的な意思疎通形態を規定している価値観を進化させることである。共同体の構成員が相互に共振するための装置の必要性を否定することは、本質的に、共同体の持続可能性にたいする責任を放棄して、その溶解・破壊に加担することでしかないのである。


* Mandatory Stages of Development


発達心理学の調査・研究が示唆するように、個人(Individual Holon)は、普遍的な発達過程を段階的に成長していく。意識構造の成長過程において、段階がバイパスされることはないのである。しかし、集合(Social Holon)の変化を把握するときには、こうした段階的な発想にもとづいて分析をすることができないことに留意する必要がある。


上記のように、Social Holonは、支配的な意思疎通形態(dominant mode of discourse)をとおして機能する存在である。そして、この意思疎通形態は、基本的に、この意思疎通形態を尊重して相互交流をする構成員の意識構造に定義されることになる。しかし、構成員の突然の流動により、構成員の構成比が変化するとき、そこでの支配的な意思疎通形態は瞬時に変化することになる。そして、その変化は普遍的な発達過程を段階的に踏襲するものではないのである。


例えば、組織において、大多数の構成員がDiplomatsである場合、普通、そこでの支配的な意思疎通形態はBlue vMemeに特徴づけられたものとなる。しかし、組織の経営陣の取替えを契機として、構成員の大多数がIndividualistsとなる場合、そこでの支配的な意思疎通形態はGreen vMemeに特徴づけられたものへと変化することになる。ここでは、組織を規定する支配的な意思疎通形態が普遍的な発達過程を段階的に踏襲することなく変化していることが認識されるであろう。


共同体が普遍的な発達過程を段階的に踏襲することを主張する諸々の理論は、普通、「垂直的段階」(stages)ではなく、むしろ、「水平的段階」(phases・cycles)について照明するものである。例えば、あらゆる共同体が経験するという「発足?成長?成熟?衰退」という過程は、支配的な意思疎通形態がどの段階にあろうとも、経験されるものである。つまり、これは水平的段階と形容することのできるものなのである。重要なことは、Social Holonについて把握するうえで、この両方を把握する複合的な視野をもつということである。


尚、ここで留意するべきもうひとつのことは、下記の事項である。


大局的な歴史的な視野には、社会は普遍的な発達過程を段階的に踏襲しているように映じる(例:"Up From Eden")。ただ、ここで重要なことは、こうした段階的成長が、実際には、社会の支配的な意思疎通形態を規定する責務を負うことになる共同体内の先進的な構成員の意識構造により実現されているものであるということである。つまり、「社会の成長」とは、実際には、そこにおける意思疎通形態を規定する影響を発揮する個人の段階的な成長に起因するものなのである。その意味では、「社会の成長」とは、多様な発達段階の構成員が、そこでの支配的な意思疎通形態を巡って、相互に交渉をする過程を通じて実現される非常に複雑な過程ということができるだろう。

BMIの精神にもとづいて、共同体の福利にたいする責任を抱擁するとは、必然的に、人格の陶冶をとおして自己の内部に先駆的な視野を確立して、それを基盤として共同体の意思疎通形態の規定に建設的に参画することを意味する(一人称・二人称・三人称のITPの実践)。そして、そうした行為は、破壊主義者(deconstructive postmodernists)の主張にあるように、意思疎通形態を支配の装置として破壊する態度ではなく、むしろ、再構築主義者(reconstructive postmodernists)の主張にあるように、共同体の存在のための必要装置として意思疎通形態の特性を認識したうえで、それを向上(変容)しようとする継承と超越(transcend and include)の姿勢に支えられている必要があるのである。Mean Green vMemeと形容される破壊主義者の影響のもと、共同体の持続可能性を保障する規範が溶解している今日の時代状況において、インテグラル思想を実践するとは、不可避的に、こうした姿勢を自己のなかに確立して、共同体の再生のために尽力をすることを意味するのである。

インテグラリストとしてのこうした責任を果たしていくうえで、貴重な洞察を提供してくれるのが、林 道義博士の研究である。



父性


留意事項


父性について理解をするうえで、まず、下記の事項を確認する必要がある(林, 1996, pp. 206-211)。


* 父性は、男性と女性の両方がもつことのできる、また、もたなければならない性質である。しかし、これは、必ずしも、男性と女性の両方が同等に父性を体現することができるということを意味するものではない。父性が父性と名付けられていることには、父性を体現する責任を負うのは、男性であることが適切であるという主張があるのである。


* 男性性(Masculinity)があくまでも個人としての性質を形容する概念であるのにたいして、父性は、関係性のなかで他者にたいして表現される性質である。それは、インテグラル思想において愛("Agape")と形容される性質のひとつの表現形態として理解することができるだろう。


父性の諸条件


* 統合する能力


父性の最も重要な要素は統合する能力である。共同体の中心となる価値観(構想・使命・目的等)を明示することをとおして、共同体の諸々の構成要素(各構成員の個人的な欲求・感情・希望等)を統合する能力ということができるだろう。父性を発揮するとは、即ち、こうした構成員の内部に存在する内的欲求を統合して、ひとつの方向性へとまとめあげていくことなのである。必然的に、そうしたことを可能とするためには、共同体の統括者は、構成員間の建設的な対話を促進するための枠組を提示することができる必要がある。いうまでもなく、人間関係のなかでこうしたはたらきかけができるためには、個人は自己の内部に普遍的な説得性をもつ価値観を確立している必要がある。


ここで留意するべきことは、共同体をまとめあげるための中心(核・軸)とするべきものが、あくまでも個人の人格を超越した普遍的な価値である必要があるということである。この普遍的な価値のもとに、共同体の全構成員は自らの存在を位置づけられることになるのである。


共同体をまとめあげるための中心が個人の人格である場合、構成員は、そうして位置づけられた個人(統括者)の人格の構成要素として定義されることなる(Fascism)。統括者の人格を世界の中心に位置づけること(人格崇拝)は、幼児的な自己中心的ありかたへの退行ということができる。統括者のこうしたありかたを基盤として展開する関係性は、不可避的に、諸々の閉鎖的集団において発生するような統括者の自己肥大をひきおこし、最終的には、共同体を破滅に誘うことになる。James Collins(2001)も指摘するように、真の父性を発揮しながら共同体の統括者としての責任を全うするためには、おうおうにして人格的魅力(charisma)は否定的な影響をもたらすのである。


* 過去の文化的遺産の継承


共同体の維持・成長を促進するために必要となるのは、必ずしも具体的な行動の方法を教示することではなく、むしろ、核となる理念の理解を援助して、そして、それを具体的な場面において適用する能力を育成することである。James Collins(2001)も指摘するように、真の意味での自由と責任をあたえるためには、抽象的なレベルにおいて核となる理念を明示することができなくてはならないのである。こうした本質にたいする理解が欠如している限り、行動は外部から支配されつづける必要がある。


その意味では、共同体の統括者として父性を発揮することができるためには、まず、自らが徹底した自己探求を実践することをとおして、普遍的な説得性をもつ思想を確立しておくことが必要となるといえるだろう。とりわけ、過去から将来へとつづいていく歴史の過程に参画する存在として――つまり、過去と将来にたいする責任を所有する存在として――自らの責務を認識・抱擁する思想を確立することは、父性を発揮するための必須要素といえるだろう。


こうした思想の確立は、普通、伝統的遺産の継承をとおして可能となる。例えば、日常生活における所作の洗練を可能とする価値体系(修身)・季節の祝賀行事、そして、古典藝術の鑑賞と修得等は、Body・Mind・Heart・Soul・Spiritを動員した思想と感性の確立の具体的な実践ということができるだろう。そこにおいては、あらゆる技能(art)の修得においてそうであるように、長期的・集中的な実践が要求される。父性を発揮することができるためには、自らがそうした人格陶冶の活動にとりくむことが必要となる。父性の発揮とは、そうした活動をとおして体験することのできた歓びを他者にあたえようとする生命の根源的なはたらきなのである。


* 普遍的視点・客観的視点


父性の重要な要素のひとつは、普遍的な価値観を擁護することをとおして共同体の枠組を血族のしがらみから解放することである。つまり、父性の視点は、構成員が生物学的にどのような部族に所属していようとも、そうした部族の論理を超越する普遍的な価値観の地平から彼らを公平にとりあつかおうとするのである。従って、共同体の統括者は自らの個人的感情や個人的利害の影響をしりぞけることのできる成熟した内省力を基盤とする克己の精神を確立する必要がある。世界を内と外に峻別して、異なる道徳的基準を適応する神話的合理性段階(Mythic-Rationality)の行動論理を拒絶して、「公」(Public)の観点からみて、正義として認知することのできる判断をすることができなければならないのである。その意味では、父性とは、関係性(LL)の領域に「世界中心主義」(world-centrism)の確立することのできる能力であるということができるだろう。


ここにおいて、もうひとつ重要なことは、父性の視点が、共同体の内的福利(LL)のみならず、共同体の外的福利(LR)をも配慮するものであるということである。インテグラル思想は、集合的な外面領域を規定する判断基準を「機能適応」(Functional Fit)と定義する。統括者は、共同体の生存条件(Life Conditions)を客観的に把握したうえで、そうした外的な文脈のなかで共同体の持続可能性を維持・向上するための方法を探究する責任を負うのである。


共同体の生存状況を客観的に把握することができるために、統括者は、自己の内面に蠢く諸々の心理的傾向を理解しておく必要があることはいうまでもない。そうした内省力を基盤として自己のこころの動揺を律しながら、統括者は、刻々と変化する状況のなかで、共同体の目標と戦略を構築・実施していかなければならないのである。こうした内的能力の欠如している場合、統括者は、しばしば、世界に自らの個人的な経験・感情・希望を投影して、判断を誤ることになる。


自己の内面を客観的に観察(対象化)して、それを律することができる内的能力(intrapersonal intelligence)は、父性の重要な構成要素であるといえるだろう。


* Noblesse Oblige


共同体は統括者・統治者を必要とする。内部と外部の利害関係者の状況を把握して、共同体の目標と戦略を決定して、その実現のために必要な活動をする責任をとる人間がいなければ、共同体は麻痺状態に陥ることになる。また、統括者が無能であるとき、最悪の場合、共同体は破滅へと追い込まれることになる。つまり、共同体の運命にたいして決定的な影響力をもつのは、窮極的には、統括者・統治者なのである。その意味では、統括者・統治者は、真の意味での全体の福利にたいする関心(BMI)を基盤にして、行動することができねばならない。父性とは、そうした責務を抱擁しようとする態度のことを意味するのである。


しかし、非常に残念なことに、国内においては、共同体の統括者・統治者として適切な優秀な人材をえらぶために必要とされる鑑識眼が集合的に欠如している。生育過程において、優れた父性の表現というものがいかなるものであるかを実際に体験していないために、大多数の人々は、そうした鑑識眼をもつために必要とされる感覚的な基盤そのものを有していないのである。今日において、政治的な統治者とは、あくまでも自己の利権の確保をしてくれる利権屋(power brokers)へと堕している。そこにおいては、全体の福利を考慮する俯瞰的な視野から賢明な判断と行動をする智慧と実行力を有する人物を選択するという判断基準は機能していないのである。


共同体の溶解


政治領域の病理に象徴されるように、日本は慢性的な父性の欠乏状態、即ち、Agapeの機能不全状態にあるということができる。これは、共同体の責任者として次世代を育成することに日本人が集合規模で失敗しているということを意味する。実際、こうした状況は集合意識の地盤沈下をひきおこしており、その傾向に歯止がかかる気配はない。


Ken Wilber(KW)の指摘するように、人間意識の発達過程とは、人間存在の構造的な自己中心性を社会化をとおして克服していく過程である。しかし、いうまでもなく、社会化とは、Agapeの提供者としての先輩世代が責任を果たすことができるときに初めて機能するものである。諸々の歴史的な要因により、愛(ErosとAgape)の交換という世代間の対話が成立しなくなるとき、共同体は、次世代の人間化(社会化をとおして生来の自己中心性の克服を達成すること)という共同体の存続のための最重要課題の解決に失敗することになる。そのとき、共同体は、共同体を共同体たらしめる連帯の感覚(sense of solidarity)を構成員のなかに醸成することに失敗することになる。そこにあるのは、もはや、Social Holonではなく、相互に関連性をもたない個人の集積(Heap)でしかないのである。


意識進化とは対象化の過程である。それは、ある段階における行動論理をより包括的・普遍的な行動論理の批判的な文脈へと曝すことである。つまり、そこにおいては、必ず、妥当性の否定の作業が行われることになるのである。こうして限定的な行動論理にたいして高次の包括的な視野から批判的文脈をもたらすAgapeのはたらきこそ、父性の機能といえるのである。その意味では、愛の責任を果たすとは、相手にたいして成長の方向性を照明する対象化の文脈を提供することであるといえるだろう。「価値相対主義」の大儀のもと、「個性の尊重」や「多様性の尊重」等の美名をふりかざして、他者を「ありのまま」に受容することは、実際には、こうした責任を放棄することでしかないのである。


Spiral Dynamicsの創設者であるDon Edward Beck博士は、こうした価値相対主義(Green vMeme)が共同体の統治権を掌握するとき、その共同体が溶解することを喝破した。こうした洞察は、価値相対主義という発想が、本質的に歴史の継承という人間としての責任を放棄するものであることにたいする認識に起因している。実際、国内における価値相対主義の蔓延は、Spiral Dynamicsにおいて予測されていたように、確実に共同体の秩序体系を溶解して、多様な形態での暴力性の暴発を助長している。価値相対主義は、確実に破壊のための破壊という自己の目標を完遂しようとしているのである。


権威


父性がAgapeの表現形態であるということは、必然的に、そこには上下関係により特長づけられた人間関係が存在することを意味する。つまり、そこには、非常に端的に表現すれば、権威を発揮する人物と権威に服従する人間とが存在することになるのである。上記のように、父性は、より包括的な文脈を提供することをとおして、相手に成長のための方向性を照明するものである。


しかし、こうした相互関係が正当なものとして成立するためには、いくつかの必要条件が整う必要がある。つまり、上位の人間が体現している「性質」が、実際に、下位の人間との比較において、より優れているものであることが保証される必要があるのである。具体的な条件として、大別すると、下記の2つのものがあるだろう。

  • Competency:Doing領域における能力
  • Capacity :Being領域における能力

インテグラル思想では、2種類の権威が設定されている。

  • Legitimacy :水平的な意味における権威
  • Authenticity:垂直的な意味における権威

父性の表現において重要なことは、権威というものを、形式的なものとしてではなく、常に実際の能力にねざしたものとして設定するということである。KWがしばしば指摘するように、人間とは、複数の知性(Multiple Intelligence)の集合体であり、実際には、そのすべてにおいて優秀であることはできない。われわれにできることは、自分より優れた人物をまえにする状況において、「師」を見出すことのできる謙虚さを育むことである。また、同時に、われわれは、他者にあたえることのできるものを自己のなかに発見するときには、そのことに内在する責任を抱擁することができなければならない。そのとき、われわれは権威を体現することに躊躇してはならないのである。


本当に実力があるとか、本当に人格が立派だというように、内容を正しく評価した上で、相手の権威を認めて尊敬し心服するというのが、権威にたいする健全な態度である。それに対して相手が立派でもないのに立派だと勘違いして尊敬したり、あるいは自分が立派でもないのに権威を持っているかのように振舞ったりするのは、権威に対する健全でない態度ということができる。(林, 1996, p. 128)


価値相対主義の蔓延する今日の文化状況においては、権威にたいする健全な態度を確立することは非常に難しい。KWも"Boomeritis"という概念を用いてくりかえして強調するように、価値相対主義の蔓延は、あらゆる外的な批判の妥当性を否定する根拠をあたえることにより、結果として、人々のなかに自らの自己中心性を擁護する退嬰的な発想を定着させることになっている。"Nobody tells me what to do"という表現に代表されるこうした姿勢は、自己を唯一の権威として位置づけることをとおして、人々を果てしのない自我肥大の悪循環のなかに絡めとっているのである。


とりわけ、今日、国内・国外において大量消費されている「スピリチュアリティ」の大多数は、「ありのまま」の自己を肯定することをとおして、事実上、成長の可能性を剥奪する自我肥大の道具と化していることは留意されるべきであろう。今日、先進国において大量消費されているこれらの「スピリチュアリティ」をKWは、"Boomeritis Spirituality"と形容して、VL段階への集合的な意識の進化を阻止する最大の障害として位置づけている。


ただ、ここで留意するべきことは、価値相対主義の大儀のもと促進される権威の否定が、実際には、権威への執着を生みだすということである。林博士も指摘するように、既成の権威にたいする過剰な抵抗は、実際には自己の内部に息づく強烈な権威(支配欲)へのあこがれの表現なのである。つまり、こうした人格の人間(「権威主義的人格」)は、自分が希求している権威を(自分は所有することができないにもかかわらず)他者が所有していることにたいする強烈な怨念により動機づけられているのである。必然的に、こうした人格の人間は、内熱する怨念を糧にして、既存の権威にたいして強烈な抵抗活動を展開するが、また、同時に、自分自身を権威づけすることに非常に熱心である。


林博士によれば、こうした権威や権力にたいする異常な執着は、成長過程において、真の父性(Agape)をあたえられる経験をすることができなかったために、結果として、自己の内部に自己を超越した存在基盤(例:普遍的価値)を確立することに失敗した人間に見出される病理であるという。David Loy(1996)の指摘するように、窮極的には、「自己」とは虚構である。従って、人間が精神的な均衡を確立するためには、自己を超越するより普遍的(抽象的)な基盤(核・軸)を構築する必要がある。しかし、諸々の事情により、そうした存在の基盤を確立することに失敗した場合、人間は持続的な不安に曝されることになる。権威や権力にたいする異常な執着は、こうした不安を解決するための症状と理解できるのである。


今日、国内に蔓延している価値相対化の発想は、事実上、価値観との対峙・対決という自己を超越するための必須機会を剥奪することをとおして、人間の意識発達の可能性を根本的に抹殺することになる。価値観との対峙・対決という体験をとおしてのみ――その価値観を肯定するか、または、否定するかは重要ではない――人間は価値観というものについての感覚・感性を獲得することができる。


こうした基本的な感覚・感性を獲得することができないとき、人間は、方向性を設定して、自己の人生を主体的に生きていくことができなくなる。そこでは、秩序感覚という人格成熟のための必要要素が根源的に剥奪されているために、結果として、行動論理は生理的欲求に支配されることになるのである。


尚、"Boomeritis Spirituality"を特徴づける「感覚主義」(sensualism)や「体験主義」(experientialism)は、普遍的・抽象的な価値観にたいする感覚・感性を剥奪された場合において、不可避的に結果する症状ということができるものである。そこでは、「スピリチュアリティ」が生理的衝動を充足するための道具として利用されているのである。また、「スピリチュアリティ・コミュニティ」に蔓延している人格崇拝の傾向は、抽象的な価値体系にたいする感覚・感性を確立することに失敗した場合に必然的に結果する、外的な存在にたいする依存体質が顕在化したものだということができるだろう。


現代の課題


上記のように、父性の欠如は、必然的に、集合意識の地盤沈下を招来する。とりわけ深刻なことは、父性の欠如が、幼少期の発達における重要要素である秩序を志向する潜在能力の開発を疎外することをとおして、人格成長の基盤構築を不可能にしてしまうことである。結果的に、これは、人間の意識成長の基本法則である自己中心性の克服という課題の解決を不可能にして、個人から共同体の構成員としての将来的な可能性を剥奪することになる。今日、多数の識者により指摘される集合意識の地盤沈下は、日本という共同体が個人を構成員としての必要成長段階までひきあげる育成能力を喪失しはじめていることを示唆しているのである。


共同体の構成員が意思疎通形態を共有することができないとき、構成員は相互の連帯の感覚(sense of solidarity)を経験することができないために、事実上、共同体は溶解しはじめることになる。また、構成員の内部に充分な規範感覚・秩序感覚を育成することができないということは、必然的に、共同体内における暴力的衝動の暴発が頻発化すること、つまり、共同体の治安が悪化することを意味する。

その意味では、21世紀において、日本という共同体は溶解の過程を急速に邁進しているということができるだろう。意識進化の先端がVL段階に到達しようとしている時代において、実際に必要とされているのは、非常に皮肉なことに、共同体の基本的な規範・秩序体系(Spiral DynamicsにおいてBlue vMemeと形容されているもの)なのである。


ただ、ここで留意するべきことは、こうした状況に対応するために必要とされているのが、必ずしも神話的合理性段階(Mythic Rationality)に退行することではないということである。確かに、共同体の基本的な規範・秩序体系を再生するという意味においては、神話的合理性段階により発想される意見を傾聴・尊重することが必要となるのは確かだろう。しかし、BMIの精神にもとづいてインテグラル思想を実践するうえで重要となるのは、むしろ、Green vMemeの欺瞞を効果的に批判することのできるYellow vMeme以上の価値体系を強力に提唱することであろう。


KWの示唆するように、共同体(Social Holon)の建設的な変容に寄与するために必要なのは、必ずしも、共同体の構成員の集合意識の重心をひきあげることではない(実際、人類の集合意識の重心がVL段階に到達することは、将来的には、無いだろう)。むしろ、そこで必要とされるのは、共同体の支配的意思疎通形態を規定するための権力を「掌握」することなのである。


林博士の洞察するように、歴史的には、価値相対主義の蔓延を契機として、価値そのものにたいする否定が起こり、そして、集合意識の地盤沈下が深刻化するときには、しばしば、共同体の混乱の最中、人格崇拝等をともなう全体主義が台頭している(例:ドイツにおけるナチス・ドイツの台頭;日本における軍国主義の台頭)。また、今世紀においては、自然環境破壊や自然資源枯渇等、こうした精神的な危機を増幅することになる物理的な危機が急速に深刻化している。その意味では、今世紀の危機は、過去のそれと比較しても、いっそう深刻なものであるということができるだろう。


集合意識が地盤沈下するとは、つまり、関心の範囲が縮小するということである。共同体の混乱が深刻化するなかで他者との連帯の感覚が喪失されるなかで、個人は、ますます、自己の利害のみを追求することになる。世界中心主義(world-centrism)や部族中心主義(ethno-centrism)といった共同体を機軸とする行動論理ではなく、極端な意味での自己中心主義(self―centrism)がはびこることになるのである。


インテグラル思想が「統合」を標榜するものである限り、インテグラル思想の実践において、同時代の現実と果敢に対峙するという責任を回避することはできない。KWが一連の著作を通じてGreen vMemeにたいする批判を展開している背景には、こうした惑星規模の危機意識が息づいていることをわれわれは留意する必要があるだろう。


他人を押し退け、抜駆けをする競争ばかりが得意で、責任感と礼儀の感覚を欠き、原理原則や理念を持たない利己主義がはびこることは、人類の未来にとって恐ろしいことであるが、もっと恐ろしいことは「全体」という視点が欠如していることである。つまり、自分が得をすることばかりが関心事となり、自分の行動が全体にいかなる影響を与え、ひいては自分にも跳ね返ってくるという問題意識が皆無なのである。人類全体の運命が自分の運命であるという巨視的視点を持てないのも……特徴である。(林, 1996, p. 191)


関係性


Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of EvolutionのなかでKen Wilber(1995/2000)が指摘するように、人間存在は、階層的に存在する物質領域(Physiosphere)・生物領域(Biosphere)・意識領域(Noosphere)という諸領域(要素)を包含する「複合的存在」("compound organism")である。人間は、それらの各階層領域において、絶え間なく外部環境と交流・交感をすることにより、自己の存在を維持することができるのである。その意味では、真にインテグラル(統合的・包括的)に人間を理解するためには、それらの各階層領域において内部と外部のあいだに発生する交流・交感のありかたを把握して、その健全な活動を維持・促進するために、いかなる条件を確保する必要があるのかを明確化することが必要となる。


人間存在とは、常に関係性のなかで成立しているものであり、各階層領域を規定する関係性の規範(「礼儀」)が侵犯されるとき、必然的に、その関係性は「相互信頼」(integrity)を喪失することになる。そして、こうした関係性にたいする侵害は、しばしば、関係の阻害、あるいは、関係からの排除として結実することになる。即ち、それは、窮極的には、関係性から阻害・排除される者にとり、存亡の問題となるのである。また、各階層領域における関係性を規定する諸々の規範は、進化の過程のなかで「習慣的法則」("probability waves")として確立されたものであり、基本的には、恣意的に変更することはできない。あくまでも、固体は、自己の存在を可能とする諸々の規範を尊重(継承)することを要求されるのである。


こうした関係性の観点から今日の人類を俯瞰したときに指摘することができるのは、今日、われわれが、個人(Individual Holon)として、そして、集合(Collective Holon)として、非常に意識的に各階層における関係性を管理することを要求されているということである。とりわけ、上記の階層構造の基礎である物質領域(Physiosphere)と生物領域(Biosphere)における関係性の阻害は、潜在的に、人類の「種」としての存亡問題――具体的には、大量減少(die-off)あるいは、絶滅(die-out)――へと発展する危険性を内包している。


Richard Heinberg(2003)の指摘するように、20世紀において、化石燃料の活用をとおして実現された大量消費主義文明の成立は、人類の人口爆発と活動範囲の拡大をもたらしたが、それは、結果として、人類が惑星の生態系にたいして及ぼす圧迫を劇的に増大することになった。惑星は「閉鎖系」(closed system)であり、そこに賦与されている化石燃料をはじめとする人類に利用可能な諸々の資源の絶対量は増えることなく、基本的には、減少しつづけることになる(今日、人類文明が消費する資源の総量は、廃棄物を消費可能資源へと転換するという生態系の再生機能の容量を大幅に凌駕するものである)。また、自然資源の大量消費は、気候変動等に代表される生態系の均衡の深刻な動揺をひきおこして、包括的な生存条件("Life Conditions")の変化を醸成する。こうした状況が、必然的に、中期的・長期的には、生態系の人口収容能力を溶解することをとおして、多数の生物種の減少・絶滅をひきおこすことになることは、多くの識者が指摘するところである(また、こうした生存条件の悪化は、不可避的に、残存資源をめぐる国家間の政治的・軍事的な軋轢を熾烈なものとすることになる。エネルギー資源の枯渇を契機として、今日、大国間でくりひろげられている駆け引きについては、例えば、Michael T. Klare(2007a, 2007b)やF. William Engdahl(2006a, 2006b, 2007)を御覧いただきたい)。


Richard Heinberg(2007)は、21世紀において、人類が直面することになる最も深刻な問題の代表的なふたつとして、「気候変動」(Climate Change)と「ピーク・オイル」(Peak Oil)を挙げているが、これらの問題は、窮極的には、人類が集合的に物質領域(Physiosphere)と生物領域(Biosphere)という自己の生存の基盤となる階層において病的な関係を営んでいることの象徴的な症状として認識されるべきであろう。


ただ、ここで留意するべきことは、KW(1995/2000)の指摘するように、こうした問題にたいする対応策は、必ず、対応策を構築・実施する主体間(人類)の共通認識の形成を必要とするということである。つまり、こうした気候変動や資源枯渇等の「物理的問題」を解決するためには、まず、共通認識の欠如という「意識的問題」を解決する必要があるということである。必要とされるのは、現在の危機的状況を危機的状況として認識することを可能とする意識構造(具体的には、世界中心主義の視野に立つことのできる合理性段階以降の意識構造)を人類の集合意識の重心――あるいは、支配的な意思疎通形態(dominant mode of discourse)――として確立することある。そうしたことができるときに、人類は、はじめて自己の生存基盤を溶解させている関係性の病理にたいして効果的な対応策を構築・実施することができるのである。


KW(1995)は、次のように指摘する。


問題は、地球が深刻な苦悩を抱えていることをどのようにしたら証明できるのかということではない。その危機的な状況を立証する証拠は、すでに少しのためらいを許さないほどに、充分すぎるほどにあるのだ。いかに愚かな者とて、それらの情報が意味することは解るのである。ただ、ほとんどの愚か者は関心を払わないのだ(p. 514)。


つまり、愚かさとは、理解できないことではなく、関心を抱けないこと、つまり、状況にはたらきかける「対応能力」・「責任能力」(response-ability)を備えた主体として自らを意識することができないことを意味するのである。


上述のように、インテグラル思想を理解・実践するとは、即ち、Basic Moral Intuition(BMI)にもとづいて、AQALの包括的な福利にたいして責任をもつということである。そして、それは、また、共同体における意思疎通を規定する支配的な意思疎通形態の設定にたいして積極的に責任を負うことを意味する。従って、存亡の危機と対峙するこの「危機の時代」において、インテグラル思想の理解者・実践者として、われわれが責任を負うべきことは、人類が、個人として、そして、集合として、「対応能力」・「責任能力」を発揮することを可能とする支配的な意思疎通形態の確立に積極的に責任を負うことを意味するのである。


こうした認識のもと、本論文の後半では、こうした課題と取り組むということが、具体的には、いかなること意味するのかを探求したい。


Social Holonの3領域


生態系の部分として人類社会をとらえた場合、必然的に、人類は人類社会の生態系との健全な関係性を構想する責任を負うことになる。それが可能となるためには、まず、われわれは人類社会というSocial Holonの構造と特性を適切に把握して、生態系という文脈のなかで要求されるありかたを構想することが必要となる。生態系という外部環境がつきつける条件を無視して、共同体中心主義的な行動論理を基盤にして行動をつづける場合、最終的には、生態系との関係性から排除されることを回避することはできない。それが人類種の絶滅を意味することを鑑みると、そうした「内発的」(inside-out)な発想が無意味であることはいうまでもないだろう。今日、必要とされているのは、「外発的」(outside-in)な発想なのである。


こうした視野から人類社会の構造的問題の解決にたいする洞察を提供してくれるのが、経済学者のDavid Kortenである。Korten(1995/2001)は、人間の共同体の健全な存続のためには、Civic Sector・Governmental Sector・Economic Sectorという階層的に存在する3つの主要領域が自己の自律性を維持しながら、相互関係を営むことが必要となると主張する(pp. 102-104)。



* Civic Sector(First Sector)


Civic Sectorは、人間の人格的基礎の構築を主要価値として成立する社会領域である。共同体の永続のための必須資源である成熟した人格を有する個人の育成にたいして、家族という形態をとおして責任を負うのである。そこでは、愛を中心的価値として、夫婦により、生殖・育児・教育という人間の人格形成のために必要とされる活動が行われる。また、そこでは、地域共同体の伝統的価値観を継承するための諸々の活動を提供することをとおして、共同体(郷土・歴史)への連帯感の基礎が涵養されることになる。共同体が共同体としてまとまることができるためには、各構成員が深いところでそれにたいする「絆」を実感することができなければならないが、Civic Sectorは、まさに、そうした「絆」の継承を保障するのである。同時に、こうした伝統的価値観の体験は、「真」・「善」・「美」にたいする感性を生理的なレベルで育成することに寄与し、ひいては、思春期以降に経験されることになる諸々の精神的危機を解決するために必要となる自己と世界にたいする根源的な信頼感(Faith)の「核」を構成することになる。その意味では、Civic Sectorは、愛を基盤として人間の誕生と成長にたいして責任を負うことをとおして、人間が人間であることを可能とする領域と形容することができるであろう。


* Governmental Sector(Second Sector)


Governmental Sectorは、Civic Sectorにより、公共の利益("Common Good")の確保のための権限と責任を付与される領域である。Governmental Sectorの重要活動としては、例えば、秩序の維持・国土の防衛・税金の徴収・環境の保護、そして、共同体運営のために必要とされる諸々の活動を運営するための富の再配分が挙げられる。尚、Governmental Sectorの特徴を理解するうえで留意するべきことは、それが、あくまでも、富の創造ではなく、富の再配分に携わるということである。また、Governmental Sectorは、常に、Economic Sectorの活動にたいする法規制(例:労働基準法・環境保護法)を施行することをとおして、Civic Sectorの福利を保護する責任を負う。また、Civic Sectorは、Governmental Sectorがその責務を適切に果たしていることを保障するために、継続的にGovernmental Sectorの活動を監視することを要求される。


諸々の装置(例えば、通貨の発行権の行使・憲法等の象徴的価値体系の設定)をとおして、Governmental Sectorは、構成員の内部に連帯感を醸成する。Civic Sectorが伝統的価値観の継承をとおして醸成する連帯感が地域性に根ざしたものであるのにたいして、Governmental Sectorが人工的装置をとおして醸成しようとする連帯感は普遍的な価値観に根ざしたものである。とりわけ、合衆国において顕著であるように、多様な文化背景をもつ構成員に帰属意識をあたえ、共同体の構成員として統合するためには、意図的(戦略的)に、そうした多様性(地域性)を超越する普遍的な価値観を設定して、それにたいする忠誠を涵養することが必要となる。今後、惑星規模で自然資源の枯渇が深刻化するなかで、国家間の利害衝突が激烈になる状況において、国家が統合された意思にもとづいて国際社会に参画することができるためには、こうしたGovernmental Sectorの連帯感醸成の機能の重要性は増してくることになるだろう。 [1]


* Economic Sector(Third Sector)


Economic Sectorは、製品の生産に特化した領域である。今日、世界的に経済活動の行動様式として確立された市場経済は、消費者の要求に対応するものである。しかし、ここで留意するべきことは、市場経済は、そのものとしては、基本的に、Civic Sectorの福利を保障するための倫理的な能力をもたないということである。例えば、Governmental Sectorの施行する法規制なしには、企業は自主的に環境破壊や労働者搾取を規制することはない。また、企業は、自己の経済活動をとおしてあたえることになる外部環境(生活環境)にたいする損害(例:大気汚染・土壌汚染・資源枯渇)にたいして自主的に責任を負うことをしない。むしろ、企業の経済活動を可能とする諸々の前提条件(例:清浄な自然資源)は、企業にとり、あくまでも無償で利用されるべきものであり、その維持・再生は他者の責任として見なされるのである。また、企業は、企業活動を可能とする諸々の社会機構(例:治安維持機構・道路機構)の整備に責任を負うこともない。その意味では、Economic Sectorは、窮極的には、共同体の大局的な優先事項――例えば、Civic Sectorの充実――を考慮する必然性を内包してはいないのである。その行動論理は、「収益の内化と経費の外化」(internalization of profits and externalization of costs)を基盤とした、果てしない富の増殖ということができるだろう。抽象化・数値化された「富」の永続的な増殖を志向する行動論理は、本質的には、惑星の条件から乖離したものである(上述のように、地球は閉鎖系であり、そこに賦与されている資源は、歴史的には、消費活動が活性化すれば、減少しつづけるしかない――つまり、実際には、惑星状に存在する「富」は増えることはないのである)。このように自己統御能力を内蔵しないEconomic Sectorは、Governmental Sectorによる外的な管理を必要とすることになるのである。


各領域が体現する中心的価値を検討すると、3つの主要領域が、KWの提唱する3つの主要領域(the Big Three:"I"・"We"・"It")と重なるものであることを理解することができるだろう。即ち:

  • Civic Sector("I"):愛の論理を基盤として個人の人格の基礎を構築する。Civic Sectorは、生殖・育児・教育という重要領域にたいする責任を負うことをとおして、人間が個人となることを、そして、共同体が継続的に存続することを可能とする。
  • Governmental Sector("We"):Civic Sectorの付託を受けて、共同体の公共の福利の充実のための責任を負う。個人は、自らが共同体の構成員として公正なあつかいを受けていることを実感することをとおして、共同体が体現する価値体系にたいする信頼(信義)を育むことができる。また、共同体は諸々の象徴的装置(例:貨幣・憲法)を活用することをとおして、多様な文化的背景をもつ構成員を普遍的な価値体系のもとにまとめあげていく。
  • Economic Sector("It"):世界に存在する諸々の資源を操作対象として活用することをとおして、市場の要求に対応して、諸々の製品を創造する。このような経済活動においては、基本的に、世界は富を獲得するために利用(操作・搾取)されるべき対象として認識される。

ただ、ここで留意するべきことは、これら3領域が必ずしも同等の重要性を有して、並列的に存在しているのではないということである。むしろ、それらは、低次の階層が高次の階層を支えるようにして、階層状に存在しているのである。共同体の健全な運営のためには、これら3領域が、こうした階層的位置づけのなかで、自律性を維持しながら運営されることが必要となる。


しかし、今日、人類が集合的に実際に体験しているのは、共同体を構成する領域間の関係性が、"It"の領域の肥大化を契機として、歪んだものへと劣化しているという状況である。KW(1995/2000)は、こうした状況を"Flatland"("colonization of lifeworld by systems")と形容して、その病理が人類の視野をあらゆる局面において狭隘化していることを指摘している("the dominance of the descenders")。


Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution(1995年に初版発行)以降、KWの思想活動の「核」にある問題意識のひとつがこの病理を克服するための方法を構想することであることは、あらためて指摘するまでもない。そして、When the Corporations Rule the World(1995年に初版発行)において、Kortenが展開した主張は、同様の問題意識を経済学者の立場からとらえたものということができるものである。立場の相違こそあれ、奇しくも同年に発表されたこれらの著作の主張は、今日、人類の共同体において展開している支配的意思疎通形態が集合的規模で人類の存在基盤を急速に溶解していることを指摘する点で共通している。つまり、彼らは、「操作的合理性」(Instrumental Rationality)の肥大化が、世界を搾取と消費の対象へと貶めることをとおして、世界から「深み」(depth)を剥奪することになるということ、そして、それが、結果として、人間から意識の進化(深化)をとおしてはじめて開示されることになる現実(領域)を体験する可能性を剥奪することになることを指摘するのである。


上述のように、今日、惑星規模で展開している危機を実際に危機として認識することができるためには、世界中心主義の立場に立つことのできる意識構造が必要とされる。そうした意識構造が存在しないとき、たとえ問題の存在を認知することができても、そこには、適切な関心(危機意識)が醸成されないために、建設的な「対応能力」・「責任能力」が発揮されることはないのである。その意味では、今日の危機にたいする対応は、窮極的には、発達の問題としてとらえることができる。


この問題に対応するうえで、Kortenは、共同体の三領域の健全な関係性を復権することを主張する。つまり、人間性の基礎の構築にたいして責任を負うCivic Sectorの価値を最重要のものとして復権することをとおして、集合として健全な意識発達を可能とする支援装置(LR & LL)の構築に精力を傾注する必要があることを主張するのである。


人間の発達過程が常に最も基礎的な段階(Stage 0)から開始するということを鑑みると、まず、Civic Sectorの健全な自律的活動を可能とするこころみに精力を傾注することを強調する主張は誠に正鵠を射たものということができる。また、これまでの進化の過程をとおして、それら初期段階における育児活動が夫婦を「核」とする家族により執りおこなわれてきたことを考慮すると(林 1996, 1999, 2002a)、Civic Sectorの中核をになう家族の保護をとりわけ強調することが重要となることはいうまでもない。


インテグラル思想の実践を導く、"Basic Moral Intuition"(BMI)とは、「最大範囲において最大の深みを保護・推進する」("protect and promote the greatest depth for the greatest span")(Wilber, 2000, p. 358)を意味する、AQALの包括的な福利にたいする慈愛と責任の表現である。今日、惑星規模で展開している"the Big Three"のインバランスに対応する具体的な方法として、人間の成長の苗床としての家族の保護・推進を起点とすることは、最もBMIの発想を尊重したものということができるだろう。


「母性の復権」


人間の形成する共同体を統合的な視点から省察したうえで、人類の共同体の存続のためには、窮極的には、Civic Sectorの健全性を確保することが必須(vital)となることを指摘するもうひとりの思想家として、林 道義博士を挙げることができるだろう。ただ、上記の著者と比較して、林博士の業績が独創的であるのは、それが、豊富な臨床経験を基盤として、実際の人間関係(とりわけ、親子関係)のなかで、慈愛(Agape)が具体的にどのようにあらわれるのかを「父性」と「母性」という概念を再構築(reconstruct)することをとおして照明しているところにある。インテグラル思想が本質的に日常生活における実践を要求するものであることを考慮すると、われわれがそこでの関係性のなかで慈愛(Agape)をいかに実践することができるのか(the Art of Loving)について、具体的な指針を提示する博士の研究は非常に実践的なものであるということができるだろう。ここでは、博士の著作『母性の復権』を参照しながら、慈愛(Agape)の2つの相補的な表現形態である「父性」と「母性」のうち、後者が具体的にいかなるものであるかについて検討する。


人格形成の基礎


KW(1980)は、Ernest Becker(1973)のThe Denial of Deathの議論を紹介しながら、人間の意識の発達過程を根源的なレベルにおいて推進する衝動を「自己の消失の可能性にたいする実存的恐怖を克服しようとする衝動」として形容している。そして、人間の意識の発達とは、人格という構造を構築することをとおして、確かに自己が存在することを確認しようとする、自己の実在感覚(the sense of substantiality)の増幅のこころみ("the Atman Project")であるという。


あらためて指摘するまでもなく、インテグラル思想においては、こうした自己増幅のこころみは、窮極的には、超越されるべきものとしてとらえられるが、しかし、それは、あくまでも、個としての成熟した人格構造が構築されたうえで追求されるべきものである(また、実際には、こうした超越のこころみに「招待」される人間は例外的存在であり、大多数の場合においては、こうしたことそのものが問題とならない)。何よりも重要となるのは――最終的に、超越そのものが問題となるかどうかにかかわらず――先ず「個」(人格存在)としての構造を確実に構築することである。そして、BMIを基盤として、AQALの包括的な福利にたいする慈愛と責任を表現するとは、同時代のなかで可能な範囲において、最善の"the Atman Project"の実現を支援することを意味するのである。


「母性」とは、人間が他者の成長("Atman Project")に参与する際、相手に自らが世界に受容・歓迎されているという根源的な安心感を経験することを可能とする慈愛の発現と形容することができるだろう。


誕生(母体との分離)を契機として、新生児は、それまでに経験していたものとは全く異なる生存環境へと放り出されることになる。また、一連のStanislav Grofの研究が示唆するように、出産の過程は、しばしば、非常に過酷な肉体的・精神的なトラウマを胎児にあたえることになる。こうした複合的なトラウマを背負い、また、自力では生存のための能力をもたない完全に無力な状態で世界に生み出されてくる新生児にとり、誕生の瞬間(そして、誕生後の初期段階)が、潜在的に大きな危険を内包することはいうまでもないだろう。こうした構造的な脆弱性(vulnerability)は、「人格構造」という心理的な防衛機構をもたない新生児を潜在的に存在の根源的な恐怖と直面させることになるのである。


従って、出産をとおして母子間の肉体的な結びつきが断絶したあと、母子は、早急に心理的な結びつき(「母子一体感」)を確立することが必要となる。対象関係理論(Object-Relations theory)は、一般的には、誕生後の2〜3年間(可能であれば5〜6年間)は、乳幼児は、継続的な密接な母子関係を保障することをとおして、「人格形成の基礎としての母子一体感」を充分に経験することが必要であることを指摘する。


こうした密接な母子関係をとおして、乳幼児は、世界で生存していくための必須条件である世界にたいする根源的な信頼感(Faith)――自己が世界に受容されているという安心感――を経験することになるのである。こうした感覚は、人間の世界との関係(交流と交感)を可能とする根源的な自己開示能力(受容能力)を確立して、それからの人生を通じて取り組まれることになる「意識の進化」(それは、とりもなおさず、根源的な信頼にもとづいて、Kosmosの高次の領域へと自己を開示していくことである)を可能とするのである。


逆に、こうした一体感を充分に経験することができないために、人格の基礎を健全に構築することができない場合、人格は、根源的なレベルにおいて、慢性的な「不安」(anxiety)や「恐怖」(fear)を抱え込むことになる。こうした人格の脆弱性は、結果として、人間を攻撃的に、あるいは、無気力にすることをとおして、それからの発達過程を阻害しつづけることになる。いうまでもなく、こうした根源的な「信頼感」・「安心感」が剥奪されるとき、人間は、慢性的に「不安感」(the sense of insecurity)に悩まされることになる。そうした状態において、人間は自己の存在を受容することを拒否した世界にたいして怨念を抱くことにならざるをえない。そうした人間の行動論理が、世界への感謝を基盤とする「信頼」と「寛大」と「慈愛」ではなく、「嫉妬」・「羨望」・「怨念」等に彩られた「攻撃性」であることはいうまでもないだろう。そして、こうした態度は、個人を人間関係から阻害することをとおして、ますますこうした感情を増幅していくことになる。


生後数年間において経験される母子関係は、こうして非常に強力に個人の人格の傾向を規定して、それからの人生のありかたに影響をあたえることになる。人生の最初期において――言葉ではなく――母親との身体的・感情的なふれあいをとおして、豊かな情緒経験をしておくことは、「将来において高度な美的・倫理的・宗教的な情操を持つことができるために」(林 1999, p. 37)――つまり、真の意味での「世界中心主義」に到達することができるために――必須となるのである。また、この期間には、脳の質的・量的な発達の80%〜90%が完成してしまう(林 1999, p. 44)ことを鑑みると、家族という装置をとおしてCivic Sectorが請負う人類にたいする責務がいかに大きなものであるかを理解することができるだろう。


母性の定義〜AQALとの連関〜


林博士は、「母性」を「子どもを可愛いと感ずる優しい心の動きであり、その心に従って子どもを包みこみ、守り、育てようとする性質」(林, 1999, p. 53)と定義する。具体的には、母性の条件としては、下記のものを挙げることができるという(林, 1999, pp. 53-58)。


*「可愛いというこころ」


子供のことを純粋に可愛いと感じるこころ、つまり、子供の存在を慈しむこころである。こうした感情の発生は、結果として、母性の特徴である「可愛がりたい」・「世話をしたい」・「育てたい」・「守りたい」というこころの動きとしてあらわれることになる。こうしたこころのはたらきは、あくまでも生得的なものであり、訓練や学習をとおして獲得・増幅することのできるものではない。しかし、留意するべきは、こうしたこころのはたらきは、また、諸々の妨害要因が存在する場合には、非常に容易に発生を阻害されてしまう繊細・敏感なものであるということである。つまり、それが自然に解発されるためには、AQALに適切な条件が存在していることが重要となるのである。

以下、そうした条件をいくつか挙げてみよう。


* 精神的余裕


子供の正常な成長のためには、乳幼児期において、母親が子供にたいして没頭することが重要となる("Maternal Preoccupation" a la Donald Woods Winnicott)(林, 1999, p. 145-146)。こうした精神的態度は、母子間の心理的な一体感の醸成のための必須要因となる。しかし、こうした精神的態度が確保されるためには、物理的・精神的な余裕が保障される必要がある。子供以外のことに母親の関心が逸らされるとき、上記のような慈愛の感情は阻害され、母親は、むしろ、子供の存在を煩わしい、あるいは、憎らしいと感じることになる。


人格構造(境界)が確固として確立されていないこの発達段階において、乳幼児の感情活動は、常に、母親の感情活動と共生状態(symbiosis)にある。こうした共生状態において、母親の感情生活を体験することをとおして、幼児は徐々に自己の感情を自律的なものとして確立していくのである。必然的に、こうした段階において、母親の精神状態が慢性的に不安定である場合――最悪の場合、乳幼児の存在にたいする攻撃性に特徴づけられている場合――子供は萎縮してしまい、恐怖心や無気力感に襲われることになる。いうまでもなく、こうした経験は、しばしば、深刻なトラウマとして、子供の人格を基盤において脆弱なものとする。


* 賢明な柔軟性


乳幼児の欲求にたいして必要な制限をあたえて、自らの「盲目的」な保護本能を柔軟に発揮することのできる賢明さが必要とされる。こうした理性的能力が確立されるためには、育児において必要となる叡智を伝承するための諸々の文化的装置(LR)が必要となる。


いずれにしても、ここで着目するべきことは、「母性」という慈愛(Agape)が、本質的に、AQALとの連関のなかで発現するものであるということである。インテグラル思想において強調されるように、あらゆる事象はAQALという関係性のなかで創発する。その事象の創発にたいして、否定的な条件がAQAL内に整うときに、それは必然的に否定的な影響を受けて、その健全な発現を阻害されることになる。そして、こうした法則は、人類の育児活動という複数の階層(Physiosphere・Biosphere・Noosphere)をまきこんで発生する非常に複雑な事象に特にあてはまる。つまり、高等動物においては、ひとつの本能行動が健全に発現するために必要となる「解発因子」("releaser")は、複雑なものとなるために、それゆえに、「いっそう壊れやすくなっているのである」(林, 1999, p. 65)。


林博士の指摘するように、あらゆる本能行動は、いかなる状況下(AQAL)においても自動的・機械的に発現するものではない。実際には、しばしば複雑な必要な解発因子が存在して(あるいは、妨害因子が存在しないときに)、はじめて発現するのである(林, 1999, pp. 62-75)。くわえて、人間においては、本能の発現を可能とするための解発因子として、「学習」が果たす役割の比率が非常に高くなっている(ただし、「学習の必要性」・「学習の方法」・「学習行動と本能行動の相互の関連性」等は本能的に規定されている)。つまり、AQAL内に、本能解発を可能とする適切な学習体験を提供する条件が整えられることが重要となるのである。 [2] とりわけ、今日のように、惑星規模で生存条件が劇的な変化の圧力に曝されている状況において、そうした条件を保障するためには、AQALにたいする成熟した責任能力を発揮することが必要となることは、あらためて指摘するまでもないだろう。


「働けイデオロギー」


Civic Sectorは、愛の論理を基盤として個人の人格の基礎を構築する。それは、生殖・育児・教育という重要領域にたいする責任を負うことをとおして、人間が個人となることを、そして、共同体が継続的に存続することを可能とする。そして、Civic Sectorの健全な運営のためには、「父性」と「母性」という慈愛(Agape)が必要となる。


上記のように、これらの要素の阻害、あるいは、欠如は、窮極的には、人間の人格形成(the Atman Project)の基本的なレベルにおける挫折として結実することになる。今日、人類が集合的に直面している危機は、その複雑性と深刻性ゆえに、高度に成熟した人格構造を基盤とする解決策を必要とする。その意味では、"the Big Three"のインバランスがひきおこすことになるCivic Sectorの溶解は、直截的に、こうした惑星的危機にたいする人類の対応能力・責任能力を足下から突き崩すことになるといえるだろう。その意味では、インテグラル思想の"Flatland"批判とは、Civic Sectorの再構築を可能とするための――そして、また、慈愛(Agape)の復権のための――非常に重要なこころみとしてとらえることができるものである。また、林博士の『父性の復権』と『母性の復権』が、今日、緊急に必要とされている文明論としての価値を有しているのは、こうした理由があるのである。

"Big Three"のインバランスに起因するCivic Sectorの溶解は、今日、世界的に父性と母性の解発にたいする妨害として深刻な悪影響をもたらしている。最後に、そうした"Flatland"の悪影響の具体的な事例として、林博士がとりわけ問題視する「働けイデオロギー」についてとりあげる。これは、今日、先進国を中心に蔓延する「こころの時代」の基調命題である「自己実現」と「自己探求」が、数値化することのできるものだけを価値あるものとして信奉する"Flatland"的発想をとおして解釈(歪曲)されることにより産みだされたイデオロギーである。つまり、貨幣という数値により測定できる成果をもたらす活動を「自己実現」と「自己探求」のための正当な活動として排他的に位置づけることをとおして、直截的には貨幣的成果をもたらさない育児や教育等の家庭内の仕事を軽視・蔑視・否定するイデオロギーである。こうしたイデオロギーに洗脳されることの結果として、母親は、育児を価値の低い活動として見なすようになり、ひいては、子供の存在を「自己実現」と「自己探求」を妨げる煩わしいもの、あるいは、憎らしいものとして感じるようになるのである。 [3]


もちろん、多くの母親は、育児と仕事を両立させようとするわけだが、実際には、仕事は、肉体的・精神的に激務であることが多く、そうしたことはなかなかできない。また、この時期(生後三年間)、継続的な母子一体感を経験することをとおして、人格の基礎の形成という最重要の心理的作業をしなければいけない幼児にとり、母親との頻繁な離別は、深刻な心理的外傷をもたらす危険性を内包する。


人間は各成長段階に特有の欲求(stage specific needs)をもつ。そして、慈愛(Agape)の表現において、われわれは、われわれが責任を負うべき他者の欲求を尊重することが要求される(こうした他者尊重(perspective taking)を欠如したものは、定義上、愛と形容することはできない)。その意味では、「働けイデオロギー」は、数値化できるものだけを価値あるものとして絶対化することをとおして、あるいは、育児等の生活に密着した本能的活動ではなく、経済活動や文化活動等の抽象的活動を優先することをとおして(合理性段階をしばしば特徴づける「身体性の抑圧」)、慈愛(Agape)の必須要素である「他者尊重」の否定を正当化する非常に危険なイデオロギーということができるものである。


また、こうしたイデオロギーは、安価な労働力を大量投入することをとおして非情なまでの「効率化」(低賃金化・労働環境の劣悪化)を推進しようとする思惑をもつ経済界(Economic Sector)にとり非常に都合のいいものである。実際、日本においては、「働けイデオロギー」の擁護者である急進的フェミニストと「効率化政策」の推進者である経済界は、癒着して、国内の経済政策にたいする巨大な圧力団体を形成している(これについては、林(2002b)を御参照いただきたい)。


課題


Economic Sectorの持続可能性が、窮極的には、Civic Sectorの存続に依存している以上(Korten, 1995/2001, p. 95-98)、Economic Sectorの発想にもとづいたCivic Sectorの再構築の推進は、最終的には、Economic Sectorの崩壊をもたらすことにならざるをえない。例えば、Civic Sectorの育児・教育能力の溶解は、Economic Sectorの動力である良質な労働力(知・情・意において、優れた能力を備えた人材)の枯渇をもたらすことになる。また、Civic Sectorの溶解は、Civic SectorのGovernmental Sectorにたいする監視能力を溶解することをとおして、Governmental SectorとEconomic Sectorの癒着を悪化させる。こうした癒着は、必然的に、生態系の保全等、公共の利益(Common Good)の確保というGovernmental Sectorの重要機能を阻害することをとおして、共同体の生存条件そのものを劣化・崩壊させることになる。その意味では、Economic Sectorの肥大化は、不可避的に、人類の生存条件を惑星規模で溶解することにならざるをえないのである。"Flatland"の結晶である大量消費主義の成功が、今日、惑星規模の生態系崩壊をひきおこすことをとおして、人類を未曾有の存亡の危機に陥れている事態は、"Flatland"という思想が内蔵している破壊性の必然の結実なのである。


こうして"Big Three"の観点をとおして、現代において人類が集合的に経験している危機的状況を俯瞰すると、われわれがインテグラル思想の理解者・実践者として、同時代にたいしていかなる責任を負っているのかを理解することができるだろう。


"Flatland"の肥大化は、大量消費主義の絶対化をとおして、気候変動や資源枯渇等の「物理的問題」として顕現している。しかし、それは、また、同時代の集合的問題にたいする対応能力と責任能力の欠如というより深刻な「精神的問題」として顕現している。いうまでもなく、その背景にあるのは、KW(1995)の指摘するように、意識の未熟の蔓延に起因する「関心の欠如」なのである。


インテグラル思想の実践は、意志という「積極的」なこころのはたらきだけではなく、また、存在に構造的に賦与されている機能を信頼・受容する「消極的」なこころのはたらきを重視するものである。とりわけ、慈愛(Agape・Compassion)にもとづいて、他者の成長に寄与するうえで、こうした相補的なこころのはたらきを尊重することは非常に重要になる。窮極的には、生命のなかに内在する法則を尊重することなしには、成長という「神秘」に参与することはできないのである。


その意味では、慈愛の実践とは、時として、成長の必要条件である解発因子をあたえるということそのことで完結するとさえいえるのである。こうした発想は、人類の進化の歴史を通じて確立されてきた生命の内的な叡智を認識・信頼して、その発現に寄り添うという態度を基盤とするものである。Jurgen Habermasは、"Flatland"を"Colonization of lifeworld by system"と形容したが、そこにおいては、世界を操作の対象として、道具化・資源化するそうした"Flatland"の発想が真向から拒絶されるのである。


しかし、実際には、"Flatland"の支配的な影響のもと、こうした慈愛の発想は拒絶され、Civil Sectorの重要活動である次世代育成活動は、むしろ、あくまでも大量消費主義の価値を絶対化する思想的立場から再構築されている。つまり、そこでは、Economic Sectorの支配的意思疎通形態がCivil Sectorの支配的意思疎通形態を侵食しているのである。今日、人類が緊急にとりくむべき課題とは、こうした病的状態の悪化をくいとめるべく、"Big Three"の健全な相互関係を回復することであるといえるだろう。そして、そうした共通認識を醸成するための意思疎通形態を構築することこそが、Social Holonにたいするインテグラリストの実践を構成するのである。


結語


本論文では、林 道義博士の研究を参考にしながら、インテグラル思想において強調される慈愛(Agape)の実践というものが、今日の時代状況(AQAL)において具体的にどのような形態をとることになるのかについて探求してきた。こうした探求をとおして明らかになるのは、インテグラル思想の実践者として――つまり、Individual Holonとして――われわれが共同体の関係性(Social Holon)に参画するとき、そこで発生する責任がいかなるものであるのかということである。とりわけ、インテグラル思想が"Flatland"と形容する病理が及ぼしている深刻な影響の惨禍を日常のなかに認識することは、インテグラル思想の実践を可能とする必須条件ということができるだろう。


こうした理論的枠組("framework")を確立するうえで、「愛の技法」(the Art of Loving)という人間存在の核心に位置する活動について照射する林博士の研究は非常に有益なものとなる。また、博士の研究には、インテグラル思想の志向する「継承と超越」("transcend and include")という再構築主義的発想(reconstructive thrust)が息づいていることを認識することができるだろう。人類の進化の過程のなかで確立・踏襲されてきた「伝統」(probability waves)
を再発見して、それを統合(尊重・継承)することなしには、人類という生物種そのものが存立の危機に瀕することになることをこうした視点は的確に指摘する。


生存条件(Life Conditions)の悪化にともない、今世紀において人類が存亡の危機に曝されることは確実だが、窮極的には、そうした状況に対応するための対応能力・責任能力とは、人格の成熟に支えられた慈愛(Agape、あるいは、Compassion)でしかない。こうした課題に効果的・効率的に対応するためには、「父性」と「母性」と形容される意識進化(深化)のための必要要素が確保されることが必須となるのである。


*1 例えば、北朝鮮による日本国民の拉致・殺害問題の解決に進展が見られない背景には、Governmental Sectorが、こうした侵略・破壊活動にたいして共同体(国)として堅持するべき行動規範(価値体系)がいかなるものであるべきかを構成員に明確にすることに失敗しているという事実がある。結果として、国政レベルにおいては、対応方針が一貫せず、また、共同体内においては、資金援助・情報提供・工作員協力等、こうした破壊行為を幇助する組織活動が容認される結果をもたらしている。危機的状況が発生したときに、共同体としていかなる行動規範(protocols)にもとづいて対応するべきかを明確化・共有することに失敗した場合、必然的に、共同体は麻痺状態に陥ることになる。


北朝鮮によるこうした破壊工作は、事実上、日本にたいする侵略行為を形成するものである。いうまでもなく、国家政策として、誘拐・殺人・通貨偽造等に代表される無数の破壊・違法行為を実行している相手にたいして、交渉(対話)は成立しない。そうした意思疎通形態が妥当性をもつのは、あくまでも、規範感覚にもとづいて行動することのできる神話的合理性段階以降の発達段階に到達した関係者間の関係においてのみである(交渉という行為は、相互が合意事項を尊重する能力と意志を備えているという前提条件が確保されるときにおいて、初めて妥当性をもつ。こうした能力は、神話的合理性段階以前の発達段階においては存在しないのである。そうした発達段階に到達していない場合、基本的に、相互の努力をとおして、信頼性を確保することの必要性そのものを認識することができないのである)。実際には、神話的合理性段階以前の発達段階にある相手との関係において、有効性をもつのは実力行使でしかない(例:経済制裁・武力攻撃)。危機対応の行動規範(価値体系)として、共同体のなかにこうした認識が欠如していることに、日本という共同体(国家)の病理があるといえるだろう。


あらゆる問題を対話で解決することができるという発想は、「意識発達」という人間の事実を無視することで成立する"Green vMeme"の歪な価値体系を端的にあらわした発想である。周知のように、こうした価値体系は、「多様性の尊重」という大儀のもと、あらゆる価値体系を並列化することをとおして、共同体の存立そのものを保障する基盤にたいする破壊を意図する発想を容認する傾向を内蔵する。こうした「寛容性」が、共同体が外的勢力による侵略・破壊工作に曝されるとき、共同体の防衛行動を麻痺させ、ひいては、共同体を自壊させる危険性をもつことはいうまでもないだろう。Don Edward Beckの喝破するように、"Green vMeme"の蔓延は共同体を溶解させるのである。


共同体が外的勢力による侵略・破壊工作に曝されるときに、健全な防衛行動を迅速に発動することができるよう、日本は共同体として堅持するべき行動規範(protocols)を早急に明確化する必要がある。こうした作業を進めていくうえで、先ずわれわれがとりくむべき活動として、中西 輝政博士は、対談のなかで、下記のふたつを挙げている(伊藤 隆・櫻井 よしこ・中西 輝政・古田 博司, 2007, pp. 42)。

  • 現在も国内において活動している工作員の諜報・破壊活動を取り締まるための治安装置を整えること
  • 北朝鮮による日本国民の拉致の事実を否定(あるいは、表面化を妨害)してきた国内の政治・官僚・言論機関・人物を徹底的に明確化すること

これらは、"Green vMeme"の蔓延により放置・許容されてきた共同体内部の破壊勢力を明確化するために、不可欠の措置である。インテグラル思想の視点をとおしても、これは妥当な対応ということのできるものである。まさに緊急に実現されるべき措置であるといえよう。


*2 また、学習体験が適切なものであるためには、人格発達の各段階に特有の欲求を尊重したものである必要がある。例えば、しばしば指摘されるように、情緒面の発達が重視されるべき発達の初期段階において、過度に抽象的な学習を強要されることは、その段階の特有の欲求を犠牲にすることをとおして、人格の健全な発達を阻害することになる。各発達段階は、人格の領域――Body・Mind・Heart・Soul・Spirit――を進化の歴史のなかで規定された発達の法則にもとづいて活性化していく。Civic Sectorの福利に責任を負うためには、各文化が地域(物理的生存条件)に適応する過程のなかで育んできた育児の叡智を統合することが必要となるのである。


*3 「働けイデオロギー」を基盤とする病理の蔓延が示唆するように、「自己探求」・「自己実現」等に代表される「こころの時代」の「内面主義」は、それそのものとしては"Flatland"にたいする有効な解決策とはなりえない。内面探求は、必ずしも、個人の他者共感能力(perspective taking capacity)の向上を保障するものではなく、そうしたとりくみを支える思想的枠組によっては、むしろ、個人の自己中心性を増幅することになる。実際、「働けイデオロギー」という思想的枠組を基盤とした内面探求が、「他者の欲求を尊重する」(この場合の他者は子供)という人格成熟の基本原則を犠牲にする、いわば、自己中心性増幅の活動となる傾向にあることは林博士が的確に喝破しているところである。


「こころの時代」の「内面主義」に潜むこうした自己中心性肥大化の危険は、例えば、人間性心理学やトランスパーソナル心理学が強調する内面の主観的体験(Inside of UL)に拘泥することをとおしては、克服することはできない。むしろ、自己の衝動・欲求の機械的な充足を強力に称揚する大量消費主義の発想に侵潤された、今日の先進国の生存環境においては、透徹した問題意識をもって同時代の時代精神(ethos)を批判的に分析しながら内面探求活動にとりくむことができなければ、こうした自己中心性肥大化の陥穽を避けることはまず不可能であろう。「こころの時代」の外見的な興隆のなか、人間性心理学やトランスパーソナル心理学が衰退をつづけるのは、同時代の生存条件において、「内面探求」をとおして健全な意識進化にとりくむことが実際にはいかに困難であるかということに、これらの擁護者の多くがあまりにも無知であることに起因するといえるだろう。


「内面探求」をとおして自己のなかに見出すことができるのは、あくまでも、自己膨張しようとする生命(Eros)の力動でしかない。そして、「こころの時代」を定義する「内面主義」は、こうした生命の力動を無批判に肯定することに終始する。そこでは、そうした体験が主観的な充足感をもたらすことは追及されても(「感覚主義」・「体験主義」)、そうして自己実現された生命が、共同体という文脈のなかで許容・評価できるものとして洗練されているかということは吟味されない。つまり、そこでは他者(AQAL)にたいする責任が致命的なまでに蔑(ないがしろ)にされるのである。その意味では、「こころの時代」を特徴づける生命礼賛思想は、本質的には、生態系という生存条件が要求する関係性の規範を無視して、自己の内的論理にもとづいて果てしなく自己膨張する大量消費主義と同様のものということができるだろう。今日、「こころの時代」の擁護者として活動している関係者が体現する問題とは、即ち、「こころの時代」を規定するこうした構造的問題に無知であるということなのである。


「こころの時代」の弊害を克服することは、まさに緊急の課題なのである。


参考資料

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