連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(2)

メールマガジンNo68 5/14 より転載

連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(2) 後藤 友洋

慣習的段階における教育実践:読み書きを中心とした教育

これまで述べてきた問題を、より実践的な側面から記述するならば、それは、次のように説明することができます。書き言葉の本質は、話し言葉によって伝達されることになる情報の地域性を越えて、より普遍的な価値を伝達することにあります。換言するなら、話し言葉の持つ意味が、それが発せられた具体的な状況に大きく依存するのに比べて、書き言葉によって表現された内容は、時代や地域を越えて解釈されることができるということができます。言葉がそうした普遍性を帯びることができてはじめて、その言葉は、高次の知的価値、あるいは、倫理的な価値を担いうるものになります。そうした普遍語によって、学問の体系が組み立てられ、様々な専門領域が組織されることになったのです。それゆえ、そのような高次の精神活動に取り組むことができるためには、「普遍語」としての書き言葉を習得する必要があります。

学校教育が、日常生活において使用される言葉とは質的に異なるものである「学習言語」を、自在に使いこなすことができるようになることを重んじるのもそのためです。また、そうした教育的な意義が受験学力の獲得のための詰め込み教育によって歪められることなく尊重されるならば、子ども達は、自然と学ぶことの意味を理解することができるようになるはずです。

これまで、日本においては、学校教育が「知識偏重」型の教育を行ってきたことに対する批判が盛んに行われてきました。しかし、それはあくまでも知識の習得の方法に対して向けられた批判であって、必ずしも知識そのものの価値を軽んじるものではないということに注意する必要があります。受験やテストが要求する知識量があまりにも膨大なものであるために、子ども達が、必ずしもその言葉に対する真の理解を伴うことのないままに、大量の言葉をただひたすらに覚えることに終始してしまうことが問題なのです。

たとえば、鎌倉幕府が成立した年号を正しく答えることができたところで、「幕府」という概念について理解したことにはなりません。また、何をもって幕府の「成立」と見做すかによって、実はその年号も変動し得るものであるということは、子ども達には基本的には教えられません。そのような物事の本質に迫る議論は全て捨象されて、ただひたすらに1192年という年号を暗記させられることが問題なのです(注1)。

大切なことは、あらゆる教科の学習を下支えする基本的な読み書きの能力を獲得した上で、各教科の学習に取り組むために必要とされる諸々の概念体系を、理解を伴いながら、効率的に習得していくことであるといえるでしょう。ここでは、そうした知識の習得のあり方について、2つのことを指摘しておきたいと思います。

第1に、言葉を身体と対立するものとしてではなく、むしろ身体の延長として捉えることが重要です。私たちの身体が正常に機能することで、はじめて、物理的な現実を知覚することができるのと同じように、言葉を自らの身体のように使いこなすことができるようになることによって、はじめて、私たちはある特定の概念を「掴む」ことができます。言語とは、諸々の概念体系によって構成されるところの<図書館>に出入りするための身体なのです。つまり、私たちは、言葉という身体によって抽象世界にアクセスしているということになります。

ところが、私たちは、しばしば、言葉というものを、現実を知覚するための道具としてではなく、現実を歪めるものとして考える傾向にあります。震災以降、御用学者と呼ばれる人々の存在が広く知られるようになり、マスメディアの伝える情報が、必ずしも事実をありのままに反映したものではないということを多くの人が実感することによって、そうした傾向はますます強くなっているように思われます。このことは、大衆に向けて言葉を発信する立場にある「知識人」の側に責任があることは明らかです。

私たちは、もはや、専門家と呼ばれる人々を、高度な知的価値を担い、その価値を体現する人々として、素直に尊敬することができなくなっています。むしろ、彼(彼女)らは、自らの利益のために情報を操作するかもしれず、彼(彼女)らに向けられた不信は、そのまま「言葉」に対する不信となって、私たち日本人の「反知性主義」的な立場を強化することになります。そして、そのことが、学ぶことの意味を見失わせ、子ども達が学びから逃走することの一因となってしまっています。

しかし、言葉を「思考の身体」として捉えるインテグラル理論の立場からは、そのように言葉と身体を対立的に捉える反知性主義的な発想にこそ、むしろ警戒しなければならないということができます。そうした反知性主義的な発想は、言葉によって表現される抽象的、あるいは観念的な事柄をすべて非現実的なものとして否定しようとするために、具体的、あるいは感覚的に知覚できる世界のみを唯一のリアリティであると考える傾向にあります。その結果、抽象的な思考によってはじめて知覚することのできるリアリティがあるということに目が閉ざされてしまうのです。言葉が時として現実を歪めるものであることは確かだとしても、それを理由に言葉と向き合うことを放棄しようとすることは、言葉によって構築された高次の価値の領域にアクセスすることをも放棄することにつながります。発達論的には、それは一種の退行であって、決して健全なスタンスであるとは言えません。

言葉を現実を歪めるものとして否定的に扱うことは、必ずしも言葉というものの本質的な価値を正しく理解しているとはいえません。言葉が不適切な仕方で使用された場合にのみ、言葉は現実を歪めてしまうのです。つまり、言葉が現実に対する知覚を歪めてしまうことがあるのだとすれば、それは言葉が身体に対立するものであるからではなく、言葉を自分の手足のように自在に使いこなすことができていないために起こることであると考えられます。言葉の身体性が十全に機能していないために、現実を捉え損ねてしまうのです。そのようにして紡がれた言葉は、地に足が着いておらず、現実から遊離しているがゆえに不自然なものになります。しかし、そうした言葉と現実の不一致は、言語の身体性が正しく機能していないことの結果であり、言語の性質そのものに原因があるわけではありません。

慣習的段階における教育は、このことを十分に意識した上で行われる必要があります。
学習言語の習得は、できるだけ学習者の身体的な体験を伴って行われるべきであり、そうすることによってのみ、言葉は真の理解を伴った、柔軟な身体性を発揮することができます。知識の習得が、純粋に抽象化された言葉のみをひたすらに暗記させるようなものである限り、そこで獲得された言葉は決して身体化されたものとはならず、活用可能な言葉として学習者のなかに血肉化されることはありません。したがって、教師は、子ども達の体験と地続きのものとして知識を扱い、子ども達が自らの具体的な体験を概念的に整理していくことができるように学習活動をデザインしていく必要があります。

そのためには、子ども達の学習活動は、あまりにも膨大な知識を扱うものであってはなりません。これが、第2のポイントです。

教育哲学者の苫野一徳は、義務教育段階において育成されるべき力能を、「共通基礎教養」と呼び、それを「すべての子どもたちに共通に獲得を保障すべき基礎教養」であり、「将来どのような職業に就いても、一定程度共通に必要とされる教養」として定義しています。確かに、そうした教養を獲得することは、慣習的段階の意識構造を確立する上で欠くことのできないものであるといえます。そうした教養があってこそ、個人は、共同体の構成員として、必要な情報にアクセスすることができるのであり、社会に参加することが可能になるのです。

苫野は、さらに、そうした教養を獲得するために必要とされる学力の本質とは、「諸基礎知識」と「学び(探求)の方法」を得ることにあるとしています。

これまで、日本の教育が批判されてきたのは、獲得すべきであるとされている「諸基礎知識」の量があまりにも膨大であるために、限られた授業時間のなかで、教師はどうしても知識を詰め込むことに終始してしまい、「学びの方法」を学ぶための時間を確保することができないという問題を抱えているからでした。そのような状況のなかでは、ただひたすらに算数の公式を暗記するといったように、現実の世界とは切り離された、抽象的な観念のみを扱うことしかできなくなります。そのように細切れにされた知識は、もはや生気を失っており、子ども達にとっては、無理をして覚えなければならないものでしかありません。

苫野の指摘しているように、ここで必要なことは、「諸基礎知識」の量を必要最小限の量に抑え、代わりに「学びの方法」の育成に力を注ぐことであるといえるでしょう。そうすることによって、子ども達に与えられることになる「諸基礎知識」の内実は、本質的なものだけが残され、系統立ったものになり、より確実にその知識の獲得が保障されるようになります。また、子ども達自身が「学びの方法」を身につけていれば、限られた授業時間のなかで、教師によって膨大な「諸基礎知識」を詰め込まれるということをしなくても、子ども自身の自発的な学びによって、適宜、必要な知識を補っていくことができます。そのようにして子ども自身の自発性に委ねてしまうことで、子どもは探究心を失うことなく、自らの身体的な実感に基いて学習活動に取り組むことができるのであり、それが結果的には学習の効率を上げることにもなるはずです。

実際、テストのために覚えた知識が、テストが終わった途端に忘れ去られてしまったということを、みなさんは頻繁に経験されているのではないでしょうか。そのようにして詰め込まれた知識は定着しないものであるということは、私たちの実感としても正しいように思われます。しかし、自発的に探求し、自らの感覚によって掴み取った知識は、個人の身体にしっかりと血肉化されているために、多様な文脈に合わせて応用していくことができるものとなります。

したがって、義務教育段階においてどれだけ高い知識到達度に達することができたかということは、学力の本質を問う上で本来は問題にはならないはずです。そうしたことを問題にしなければならないというのは、受験という子どもの選別作業のために、ある特定の時期における子どもの知識量を一律に測定しなければならないという、大人の事情でしかありません。義務教育が真に問題にしなければならないのは、そのようなことではなく、一人ひとりの子どもが、今後の人生において、その都度、自らにとって有用な知識を獲得していくための潜在的な能力を、いかに引き出していくのかということであるべきなのです。

そして、そのためには、最低限必要とされる基礎知識を、すべての子どもにできるだけ確実に獲得させるとともに、「学びの方法」を与えることによって、子ども達自身の手に学びの責任を委ねていくことが必要です。そのとき、教師は、「知識の伝達者」としての役割に徹するのみではなく、教師自身がひとりの学習者として、子ども達に「学ぶ」ということの手本を示していくのでなくてはなりません。教師は、教えることのプロであるだけではなく、学ぶことのプロでなくてはならず、学びの方法を子ども達にわかりやすく語ることができる必要があります。言い換えれば、教師には、学びを行っているときに、自らの思考がどのように活動しているのかということに自覚的になることができ、それを子どもにも実践できる「型」として示す技量が求められることになるのです。教育の世界では、そうした指導法を、しばしば「考え聞かせ」という言葉で表現します。最後に、そうした思考の型について、考えていきたいと思います。


指導の型:考え聞かせ

衝動的段階の子どもに対する指導の方法として、教師が具体的な行為を実際にやってみせることが有効であるということをすでにお話しました。そうすることによって、子どもは、適切な身体の動かし方を教師から学ぶことができたのでした。

この「提示」の考え方は、慣習的段階の子どもへの指導においても引き継がれます。ただし、そこで扱われる内容が高度な思考を要求する抽象的な学習内容である場合には、教師は身振りによってではなく、言葉によって提示を行うことになります。具体的な行為ではなく、精神的な行為として、思考活動を提示していくことになるのです。これを、個人の内的な思考内容を言葉にして外に示すという意味で、「考え聞かせ」といいます。

ルドルフ・シュタイナーは、この段階において、大人が権威を持って語る事柄が、子どものその後の人生における思考内容に大きな影響を与えることを指摘しています。すでに確認したように、慣習的段階とは、他者の思考を内面化することで、自らの思考を拡張させていく段階であることを考えれば、シュタイナーのこの洞察は妥当なものであることがわかります。

考えるという行為は、基本的には、自らに問い、自らそれに答えていくことで成立しているということができるでしょう。しかし、思考することに慣れていない子どもは、そもそもどのような問いを投げかけるべきかが分からない場合があります。そのようなときに、教師が子どもに適切な問いを投げかけてあげることで、子どもの思考が問題解決に向けて前進していくことが、教育の場ではしばしば起こります。教師は、子どもに発問をすることによって、「考える」ということの半分を肩代りしてあげているのです。多くの教師は、ほとんど無意識的にそうした発問を子どもに投げかけていることと思いますが、教師自身が、自らの思考の過程に注意を払い、それを生徒に「考え聞かせ」ることに意識的に取り組むことで、その教師の授業内容は、より効率的に生徒のなかに沁みこんでいくことになるでしょう。

考え聞かせを続けていくことで、子どもは、ある特定の事柄に対してどのように問いを立て、考えを進めていくべきであるのかを理解します。そして、少しずつ、教師のサポートなしに自分自身で思考を進めていくことができるようになります。教師が「考え聞かせ」によって示してきた思考の型が子どものなかに内面化されていくのです。

このことは、自転車に乗る練習をすることに似ています。子どもは、初歩の段階では自力で自転車を走らせることができないので、補助輪をつけて、あるいは、大人の手に支えられながら、自転車に乗ることを覚えていきます。そして、慣れてきたら、補助輪を外し、大人が少しずつ手を離していきながら、だんだんと子どもが自分自身の力で自転車を漕ぐことができる状態に近づいていくのです。

「考え聞かせ」によって教師が子どもの思考を導いていくことは、補助輪つきで、大人の手を借りながら、自転車を乗りこなしていくことと同じであるといえます。子どもが、最後にはすっかり自分自身の力で自転車に乗ることができるようになるのと同じように、「考え聞かせ」を行うことで、子どもは、最後にはすっかり自分自身の力だけで考えることができるようになります。このように、少しずつ教師から子どもへと責任を移転していくことが、教育の基本であり、同時に「考え聞かせ」の基本であるといえます。

このように、「考え聞かせ」を通して具体的な思考の過程に触れることで、知識はもっとも効率的に習得できます。その意味では、読書は非常に優れた学習法であり、考え聞かせであるといえます。

ところが、受験学力が重視される日本においては、読書が子どもの学習活動に与える影響について、どうしても軽視される傾向にあるように思います。実際、私は高校時代に、国語の教師から「本を読むくらいなら受験勉強をしろ」と言われたことがありますが、そうした発想は、受験を目の前にした教師や保護者にとってはむしろ当然のものとして受け取られているのではないでしょうか?

しかし、スティーブン・クラッシェンの調査によれば、読書を行うことが、知識を定着させる上で非常に効果的な方法であることが明らかになっています。たとえば、語彙の習得などは、教師が細かく言葉の指導をするよりも、本を読む方がはるかに効果的であることがわかっています。文脈から切り離された言葉をいくら頭に詰め込んでも、そうして得た知識はなかなか個人のなかに定着せず、自由に使いこなせるものにならないのです。

慣習的段階においては、知的な学習に取り組むための基本的な概念を習得することが重要な課題となりますが、それは、このように具体的な思考に触れることを通して達成されるべきでしょう。


まとめ

慣習的段階は、個人が、はじめて世界を知的に探求し始める段階です。衝動的段階における成長が、身体が外的環境に適応していく過程であったように、慣習的段階における成長は、言語を一種の「思考の身体」として用いることで、文化的・社会的に構成された概念世界に適応していく過程として捉えることができます。個人の言語能力の発達によって、より抽象的な現実を認識することが可能になるのです。言い換えれば、それは、自らの所属する共同体の慣習に適応していくことであり、したがって、義務教育の意義は、社会的に規定された慣習の総体を学ぶことによって、すべての子どもに社会の一員として生きていくための「教養」の獲得を保障することであるといえるでしょう。そうした教養は、「諸基礎知識」と「学びの方法」を獲得することによって具体的なものとなります。また、そうした教養を持つことによって、個人は、共同体の内部に蓄積された叡智=<図書館>にアクセスすることができ、さらには、次なる段階である合理性段階への発達によって、慣習そのものを変えていくことのできる主体として目覚めることになるのです。慣習的段階の子どもにとり、保護者や教師は、そうした社会的な慣習を体現する存在として認識されることになります。多くの発達心理学者が指摘するように、発達というものが、他者の視点を取り込むことで進行していくものであるとすれば、慣習的段階において、具体的な慣習のあり方を提示してくれる身近な大人の存在は、子どもの発達に欠かすことのできない「重要な他者」であるということができるでしょう。


【注】


(1) ただし、現在の歴史教科書の多くは鎌倉幕府の成立を1185年に設定しているようです。

参考文献

・ウォルター・J.・オング、林 正寛・糟谷 啓介・桜井 直文訳(1991)『声の文化と文字の文化』
・加賀野井 秀一(2002)『日本語は進化する 情意表現から論理表現へ』日本放送出版協会
・工藤 順一(2010)『文書術』中央公論新社
・ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(T・U)春秋社
・相良 敦子(1999)『幼児期には2度チャンスがある』講談社
・ジャン・ピアジェ、滝沢 武久訳(1968)『思考の心理学』みすず書房
・スティーブン・クラッシェン、長倉 美恵子・塚原 博・黒澤浩訳(1996)『読書はパワー』金の星社
・苫野 一徳(2011)『どのような教育が「よい」教育か』講談社
・丸山 圭三郎(2007)『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社
・水村 美苗(2008)『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』筑摩書房
・リタ・デブリーズ&ローレンス・コールバーグ(1992)『ピアジェ理論と幼児教育の実践 モンテッソーリ、自由保育との比較研究 上巻』北大路書房
・ルドルフ・シュタイナー、高橋 巌訳(2003)『子どもの教育』(シュタイナーコレクション)筑摩書房
・吉田新一郎(2010)『「読む力」はこうしてつける』新評論

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。
大学時代より、民間の教育機関において言語教育に携わる。同時に、インテグ ラル思想の探求に取り組み、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法の開発を目指している。