連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(1)

メールマガジン No67 4/30より転載

連載:インテグラル・エデュケーション−−慣習的段階の教育(1) 後藤 友洋


前回は、衝動的段階の教育では、身体的な活動を中心にした学習を行うことが重要であることを説明しました。子どもが、自己の身体をコントロールして、目の前の課題を自らの責任において解決する経験は、その子どもの内面に、その後の人生において世界と取り組み続けるための意志を形成します。こうした発達上の目標が幼児期に十分に達せられると、次の段階である「慣習的段階」(Conventional stage)へと、非常に健全な形で移行していくことができます。慣習的段階は、主として義務教育(小学校入学後から中学校卒業まで)を受ける時期に通過することになる段階です。

衝動的段階の教育において重視されることになる「意志」とは、換言すれば、ある特定の価値の実現に向けて自らのエネルギーを動員する、その原動力のことであるといえるでしょう。そうだとすれば、十分に意志の力が育成された、その後の発達においては、その意志がどのような価値に向けられたものであるのかということが問題になるはずです。ここから、私は、発達とは、より高次の価値(真・善・美)が目の前に開けていくことであると定義したいと思います。発達が進む過程で、個人は、「正義とは何か」といったことや、「よい生き方とはどのようなものであるか」といったような、より抽象的な価値を探求することができるようになるのです。そして、ひとたびそうした価値を観取したならば、その価値の実現に向けて、人は努力することができます。発達論的な側面から教育を考えることは、言い換えれば、この個人の価値観の深まりについて洞察することであり、それは、各発達段階の教育を構想する上で不可欠の視点を提供してくれます。

今回は、そうした観点から「慣習的段階」の教育について考察していきます。そのポイントは、一言で要約すれば、慣習的段階において、抽象的な価値の領域に眼が開かれるとき、子どもの内面に何が起こっているのかを記述することにあるということができるでしょう。

衝動的段階の教育が身体を中心にした学習を重視するのに対して、慣習的段階の教育では、読み書きを中心にした学習が重視されます。したがって、この段階では、身体による知覚ではなく、言葉による知覚が重要な位置を占めることになります。より正確にいえば、個人は、言葉をある種の身体として用いることによって、諸々の記号的な体系からなる概念世界を探索することができるようになるのです。

言語学者の加賀野井秀一が指摘したように、ある特定の抽象的な概念を正確に把握することができるためには、その概念を言い表すための言葉が、自らのなかに十分に身体化されている必要があります。なぜなら、言葉とは心的な世界を知覚するための「新たな感覚器官」(メルロ=ポンティ)であり、「思考の身体」(ヴァレリー)であるからです。つまり、目や耳といった感覚器官が正常に機能してはじめて、外的な世界が正しく知覚されるのと同じように、言葉を自分の身体のように自在に操作することができて、はじめて、私たちは心的な現実を知覚することができるようになるのです。

あるいは、また、ケン・ウィルバーは、概念的な世界における現実を知覚するためには、「肉の眼」ではなく、「知の眼」を用いなければならないと主張しています。「知の眼」とは、概念的世界を探索するための微細な身体のことを指しています。そして、その場合の身体とは、概念(シニフィエ・signifié)を入れる器としての記号、すなわち言葉の物質的側面(シニフィアン・signifiant)であるといえるでしょう。ここでウィルバーが主張していることも、要するに、言葉をあたかも自らの手足のように自在に使いこなすことによって、私たちは、はじめて、抽象世界におけるリアリティを掴み、認識することができるということでしょう。

読み書きを習得することの意味はここにあります。私たちは、文字を読み、また、書くことによって、自らの経験を、文字として対象化することができます。個人の経験がつねに刹那的であるのに対して、文字として書き取られた情報はいつまでも残り、そうした情報は概念的に整理され、共同体の内部で共有することが可能になります。そのようにして読み書きすることは、物事を身体的、あるいは物理的な次元において認識するのみではなく、心的、あるいは文化的な次元において認識することができるようになるということであるといえるでしょう。なぜなら、同じ言語を共有する共同体の内部で、読み書きを通して記号を交換するということは、とりもなおさず、その言語共同体において共有されている認識の枠組みを受け入れることであるからです。私たちが読み書きを行う際に使用している概念は、子どものなかにひとりでに生まれたものではなく、言語を媒介にして、文化的に構成されたものです。したがって、読み書きを学ぶことは、一連の記号から構成され、独自の価値の体系を形作っているところの文化的・社会的慣習(ラング・langue)を、その共同体の一員として、その身に引き受けていくことにほかなりません。

このように、慣習的段階への発達とは、個人が社会化される過程であり、自らの所属する社会で生きていくための素養を身につける段階であるといえます。いま、ここで展開している議論は、非常に抽象的な次元の話のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。この段階において獲得される知性は、日常の生活のなかで、社会の規範に沿った振る舞いの「適切さ」として表現されることになります。その意味では、ここで問題にしている個人の素養とは、非常に具体的、且つ、実践的な知として評価されるはずのものなのです。

しかし、私たちは、こうした記号操作の能力を、どうしても紙と鉛筆によって測定されるものとして捉えてしまいがちです。そのように、いわゆる「受験学力」というものを過度に強調することの弊害は至るところで指摘され、また、しばしば批判の的とされてきました。

発達論の観点からいえば、「受験学力」を重視する知識偏重型の学習には、次のような弊害があることが指摘できます。

第一に、受験に合格することを前提にして行われる学習においては、大量の知識を効率的に詰め込むことが求められるために、その学びが、えてして、身体的な感覚と切り離されたものになってしまうという弊害です。すでに述べたように、学習者が学習の内容を本当の意味で理解することができるためには、その理解が身体的な感覚に支えられたものである必要があります。

慣習的段階への発達によって、心が身体と脱同一化する過程で、心と身体の間に「断絶」が生じることになります。つまり、発達論においてしばしば指摘されるように、心が身体的な衝動から解き放たれ、それをコントロールできるようになるのです。しかし、それは、同時に、心が身体を抑圧することができるようになるということでもあります。

この危険性に無自覚なまま、学習の効率のみが追い求められるとき、学習者は、現実の経験から切り離された抽象的な記号を大量に詰め込み、それらを頭の中で操作することに腐心するようになります。しかし、そのようにして得た知識は実際に活用可能なものとはなり得ません。なぜなら、十分に身体化されることのない知識や概念は、この具体的な世界との接点を見出し得ないからです。

したがって、あらゆる学習活動において、身体的な実感が伴わない形で知識が扱われてしまうことに私たちは注意しなければなりません。また、知識の獲得は、誰かが見出した概念や法則を外から受動的に与えられるものであってはなりません。知識は、学習者の身体をくぐり抜けた上で、学習者自身によって改めて発見されることが望ましいのです。そのために、慣習的段階の教育においては、心と身体の間に断絶を引き起こすのではなく、連続性を見出すことができるように学習活動をデザインする必要があります。子ども達が、自分の生活とはかけ離れた事柄を、言葉だけで知的に理解することには限界があります。できるだけ子ども達の生活経験の範囲内にある材料を使って、子ども自らが知識を「構成する」ことができるように、教師は工夫をしなければなりません。

第二に、テストで良い点を取るという個人的な動機のみが学習の動機として強調されることによって、先に述べたような、その共同体の内部に蓄積されている文化的・社会的な価値にアクセスするための力能を身につけることの重要性が見過ごされてしまうという弊害を挙げることができます。私たちは、物理的な現実に対してだけではなく、社会的・文化的に構成された心的な現実に対しても、自らを適応させていかなければなりません。それは、人間が社会的な存在として生きる上で必ず直面する課題であり、この段階の教育の意義であるといえるでしょう。しかし、そうした学びの本質が忘れ去られ、いまや、学ぶことは、受験学力を効率的に育成し、個人が自らの商品価値を高め、要領良く生きていくための道具として矮小化されているのが現状ではないでしょうか。

日本において、慣習的段階の教育は、主として学校教育が担ってきました。それゆえ、私たちにとってこの段階の教育は馴染みのあるものであり、それだけに一層、議論の難しいものであるということもできます。以下、この段階の教育の意義について、もう一度根本に立ち返って考えていきたいと思います。

 

慣習的段階の認知的特徴

すでに述べたように、慣習的段階における発達上の課題とは、共同体の一員として生きる上で必要とされる社会的な認識を獲得することであるということができます。このことを、認知的な側面から記述するならば、それは、他者の視点を理解することができるようになることであると言い換えることができます。

衝動的段階において、個人の心はいわば身体としての自己に完全に同一化しており、子どもの自我はまだ、自らの振る舞いを客観視することができるほどには発達していません。したがって、この段階の子どもは自らの欲求の赴くままに行動し、その行動に対する反省が起こることはありません。しかし、慣習的段階に達した個人は、そうした衝動的な自己を、あたかも他者の視点から眺めているように客観視することができ、自らの振る舞いが適切なものであるかどうかを考えることができるようになります。慣習的段階に至って、子どもははじめて「行動する前に思考する」(ピアジェ)ことができるようになるのです。そして、その思考は、それが他者の視点に立ってはじめて可能になるものであるがゆえに、純粋に個人的なものではあり得ず、文化的、あるいは社会的に構築されたものであるということができるでしょう。

このように他者の視点を認識できるようになることは、慣習的段階の子どもの行動に大きな変化をもたらすことになります。たとえば、慣習的段階の子ども達は、一定のルールに基いて運営される学習の空間に適応することができるようになります。それは、衝動的段階の子ども達が行う「遊び」とは質的に異なるものです。私はこれを「遊び」から「学び」への移行と呼びたいと思います。子ども達がある特定の物事に取り組むとき、それが純粋に「遊び」である限りにおいては、子どもは自分の欲求の向かうままに自由に振舞うことができますし、遊びに飽きたのなら、いつでもやめることができます。しかし、慣習的段階の個人によって構成される集団においては、そのような個人の自由な振る舞いは非難されることになります。その代わりに、一人ひとりの子どもは、一定のルールに従って、最後まで自らに与えられた役割を果たすことが期待されるようになります。個人の快楽を追い求めることよりも−−たとえば、サッカーの試合に勝利するといったような−−自らの所属する集団の目標を達成することが優先されるようになるのです。

ジャン・ピアジェは、子どもがそうした社会的な関係性のなかに置かれることが、子どもの認識が客観性を獲得するために不可欠の条件であると指摘しました。子どもは、自らの振る舞いに対する他者の反応を見ることによって、自分自身の視点を相対化し、より普遍的な認識へと自らを開いていくのであり、独りよがりな物の見方を克服して、真実を探求することの重要性を感じることができるのです。

私は、一般的に教育の文脈で問題とされている「学び」というものが可能になるのは、この慣習的段階以降のことであると考えています(注1)。なぜなら、読み書きを中心にした学習は、必ず社会的なものをその内に含むことになるからです。「読み書き」という営みは、この世界のリアリティを、文字情報として記述することによって対象化し、反省可能なものとすることによって、他者とその認識を共有することであるといえます。本来、刹那的に過ぎ去っていくはずのものである自らの経験を、反省可能なものとして対象化し、客観的に分析することを通して、自らの認識を新たにするための活動であるという点において、「学び」は「遊び」と明確に区別することができます。そして、そうした「学び」は、ある一定の社会的な慣習に従って行われることになります。「学び」というものが、基本的には言語を使用することによって行われるものであるがゆえに、それは、自らの駆使する言語を生み出しているところの社会的慣習を受け入れることなしに成立しないのです。

したがって、慣習的段階における教育の課題とは、共同体の一員として生きるために必要な社会的慣習を学び、その共同体のなかに蓄積されている叡智を活用することができるようになることであるといえます(注2)。そして、そのためには、書き言葉を習得し、読み書きを通して、社会の共有財産として書き留められてきた様々な情報にアクセスできるようになる必要があるのです。したがって、慣習的段階における教育の課題とは、何よりもまず「書き言葉」を習得することにあるということができます。作家の水村美苗の言葉を借りれば、そうした書き言葉の習得は、人類の叡智が蓄積された<図書館>に出入りするための条件であるということができます(注3)。以下、このことについて考えてみたいと思います。

 

<図書館>に出入りすること

水村が『日本語が亡びるとき』という著作のなかで書いているように、書き言葉を使いこなすことができるということは、自らの所属する言語共同体の一員として、その文化に蓄積されている叡智を分かち持つことに他なりません。先人達の智恵は、文字として外部に定着されることで広い範囲に伝達され、多くの人々の検証に晒されることによって鍛えられ、普遍的な叡智へと高められていきました。文字という情報伝達の手段が広く普及したことは、文字文化の成立以前に口承によって伝えられていた智恵に比べて、はるかに複雑で、高度に体系化された情報を構築することを可能にしたのです。したがって、無文字文化から文字文化への移行とは、優れた人々によって生み出された智恵の公共化であるということができます。

私たちが社会的な存在として現代社会を生きていくためには、そうした智恵の体系にアクセスすることができるだけの読み書き能力を有していることが必須の条件となります。とりわけ、そうした能力(リテラシー)を有していることは、あまりにも多様で複雑な情報が氾濫している現代社会のなかにあって、真に「読まれるべき言葉」がどこにあるのかを見極める助けになるでしょう。その意味では、生きていくための教養とは、「読まれるべき言葉」が書き留められ、蓄積された情報の総体としての<図書館>に出入りすることができてはじめて身につく能力であると定義することができます。言い換えれば、それは「思考の身体」としての言葉が、高度に体系化された概念世界を自由に探索することができる状態であり、衝動的段階から慣習的段階への意識の発達を遂げるための重要な要因であるということができます。

また、<図書館>に出入りするということは、自らもまた、そうした叡智の創造に参加する資格を得るということでもあります。なぜなら、読み書きという営みは、決して個人的なものではあり得ず、つねに読む者と読まれる物の間に弁証法的な智恵の発展を引き起こすものであるからです。ソシュール以降の言語学が洞察してきたように、個人は言語を媒介にして社会的慣習に取り込まれると同時に、そうした慣習そのものを自らの言語活動によって少しずつ変えていくことができるのです。言い換えれば、読み書き能力の習得と、その向上は、それ自体がすでに社会参加のひとつの形態であるということになります(注4)。

少なくとも、教育関係者は、義務教育段階における学びの意義を、こうした本質的なレベルまで掘り下げて理解しておく必要があります。そうした理解を欠いたままに、学ぶことの意味を、受験競争を勝ち抜くことであるとして矮小化してしまうことはあまりにも愚かです。なぜなら、学ぶことの第一の意味は、すでに述べたように、読み書きを通して学び続けていくことのできるだけの力を身につけること−−すなわち、<図書館>に出入りして、そこに蓄積されている智恵を自らの生活に活用していくことへの意志と能力を涵養することであり、そうした教養を身につけているのでなければ、たとえ受験競争に勝つことができたところで、その先に待ち受けている、流動的に変化をし続ける社会を生き抜いていくことができるという保障には全くならないからです。

また、グローバル化の進展する社会を生きる上で、私たちはこれまでよりはるかに複雑で、高度な言語能力を獲得することが求められています。現在、世界に流通している重要な情報の多くは、英語で書かれています。近年、英語が普遍語としての地位をますます確かなものにしつつあるなかで、私たちが真に価値のある情報を求めようとするとき、英語の言語空間に適応することがほとんど必須とされるような時代が訪れようとしています。しかし、また、私たちは、日本語で語ることによって、日本語という言語空間の内部に独自の価値を構築していかなければなりません。そうすることによってのみ、私たちは、日本という言語共同体の内部に、私たち自身の存在の根拠を見出すことができるのです。いま、この時代に、日本という国に生まれた私たちは、そのようにして二つの(あるいは、さらに複数の)言語の狭間で生きることを宿命付けられています。ところが、現状の日本の教育環境は、そのような時代に適応するための二重言語者を育成するのに十分な条件が整備されていません。国語や英語といった教科の枠組みを超えて、二重言語者の育成に向けた枠組みを構築することが、今後の教育の大きな課題となるでしょう。

 

【注】

(1) 「一般的に」というのは、「学び」という言葉は、それが用いられる文脈によって、まったく異なる範囲の営みを指す言葉であると考えられるからです。たとえば、歯の磨き方や靴紐の結び方に至るまで、日常生活のすべての事柄において自己の認識を新たにするための営みを「学び」と呼ぶ場合があります。一方、社会的に蓄積された知識を「読み書き」を通して習得していくことのみを指して「学び」という言葉を使う場合があります。私は、前者を広義の「学び」、後者を狭義の「学び」としてそれぞれを区別しています。教育を語る上で「学び」という言葉が問題にされる場合、それが指し示す範囲は、ほとんどの場合、読み書きを中心にした、限定的な意味での「学び」であり、私がこの文章のなかで問題にしているのも、後に述べるように「遊び」とは厳密に区別される、狭義の「学び」です。

(2) 学校教育が、社会的慣習を一人ひとりの子どもに内面化する役割を担っていることは、一方で、学校が、子どもの自由を制限する「抑圧の装置」であるとして批判される根拠にもなってきました。しかし、ウィルバーの指摘するように、そもそも、そのように社会の慣習に対して批判的であることができるためには、慣習的段階を経て、後-慣習的段階へと発達する必要があるのであり、したがって、発達論の観点から言えば、慣習を受け入れることは、慣習を乗り越える上で欠くことのできないステップであるということができます。私は、発達論的な視点を導入することで、このような「自由か抑圧か」という単純な二項対立は解消されると考えています。

(3) 水村は<図書館>という言葉を、文字通りの意味ではなく、ある特定の言語空間の内部に蓄積されている書物の総体を指す、抽象的な表現として使用しています。この文章でも、水村の定義に沿ってこの言葉を使っています。

(4) ただし、自らを取り込んでいる社会構造の変動に影響を与えうるだけの言語活動を為しうるためには、後-慣習的段階(後期合理性段階)への発達を待たねばなりません。

 

参考文献

・ウォルター・J.・オング、林 正寛・糟谷 啓介・桜井 直文訳(1991)『声の文化と文字の文化』
・加賀野井 秀一(2002)『日本語は進化する 情意表現から論理表現へ』日本放送出版協会
・工藤 順一(2010)『文書術』中央公論新社
・ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(T・U)春秋社
・相良 敦子(1999)『幼児期には2度チャンスがある』講談社
・ジャン・ピアジェ、滝沢 武久訳(1968)『思考の心理学』みすず書房
・スティーブン・クラッシェン、長倉 美恵子・塚原 博・黒澤浩訳(1996)『読書はパワー』金の星社
・苫野 一徳(2011)『どのような教育が「よい」教育か』講談社
・丸山 圭三郎(2007)『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社
・水村 美苗(2008)『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』筑摩書房
・リタ・デブリーズ&ローレンス・コールバーグ(1992)『ピアジェ理論と幼児教育の実践 モンテッソーリ、自由保育との比較研究 上巻』北大路書房
・ルドルフ・シュタイナー、高橋 巌訳(2003)『子どもの教育』(シュタイナーコレクション)筑摩書房
・吉田新一郎(2010)『「読む力」はこうしてつける』新評論

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。 国語専科教室講師。

大学時代にケン・ウィルバーの著作に出会い、以後、理論と実践の両面からインテグラル思想の探求に取り組んでいる。現在は国語専科教室において、小学生から高校生までの作文指導・読書指導を担当。言語教育の実践を通して、言語の発達と心理的発達の関係を考察し、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法の開発を目指している。