連載:インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(2)

メールマガジン No66 2/9より転載

連載:インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(2) 後藤 友洋

意志の教育

私たちの周囲にいる子どもを観察すると、子どもには、学ぶことが楽しく、まったく苦にならないという子と、学ぶことは基本的に強制されるものであり、苦しみ以外の何物でもないと考えている子がいることに気が付きます。大抵の場合、子どもが前者である場合には「優秀な子」として、後者の場合には「落ちこぼれ」として見做されることになります。学ぶことへの意欲がそのまま優秀であることの尺度になり得るとまでは言えなくとも、両者の間に強い相関関係があることは誰もが認めるところでしょう。

しかし、こうした違いは、一体どこから生まれるものなのでしょうか?私たちは、子ども達が、いわゆる「優秀な子」と「落ちこぼれ」に二分されることは認識していても、なぜそのような違いがあるのかという原因については、あまり考えることがありません。学校において「学習意欲」が評価されることはあっても、そもそもその子がどのように学習意欲を持つようになったのかということについては、あまり語られることがないのです。

このことは、保護者や教師にとってもっとも切実な問題であるはずです。なぜなら、子どもが学ぶ意欲を持ち、強い意志を持って学びに取り組むならば、少なくともその子が「落ちこぼれ」になることはあり得ないからです。「落ちこぼれ」という言葉は、他者と比較することによってはじめて理解することが可能になるのであり、相対的な尺度でしかありません。それが他者との比較の問題である以上、必ず優れた者と劣った者が生み出されることになります。しかし、もし子どもが学ぶことの本来的な意味を理解して、学ぶことに対する意志を育むことができるのなら、その子にとって、そうした他者との比較はほとん
ど意味をなさなくなります。なぜなら、世界を探求することに目覚めた人間にとって問題なのは、他者ではなく、自分自身を乗り越えることでしかないからです。子どもが世界を探求することへの意志を維持することができている限りにおいては、決して「落ちこぼれ」は生まれないのです。

私たちは、子どもの能力を一律の基準で評価することにあまりにも慣れているので、子どもの学習の成果を、どうしても他の子どもと比較することによって判断しようとします。しかし、そのような学習成果の評価基準は、フラットランドに呪縛された世界(とりわけ、日本において)に特徴的なものであり、必ずしも妥当なものではありません。

たとえば、福田 誠治の報告によれば、近年、教育先進国として注目を浴びているフィンランドの小学生は、「勉強で友だちに負けたくない」という意識をあまり持っていないといいます。自らの能力を、他者との比較によって決定されるものだとは考えていないのです。

ここに、日本とは大きく異なるフィンランドの教育観をみることができます。フィンランドの教育観は、個人は、自らの才能や適性を考慮した上で、将来自分にとって必要だと思う知識を獲得すべきであるという前提に立っています。それは、日本のように、「誰もが身につけるべき正しい知識」というものが存在しているという前提に立ち、その知識を、すべての子どもに一律に教え込もうとする発想とは決定的に異なるものです。知識とは、個人の必要に応じて獲得され、更新し続けなければならないものであり、その知識内容は人によって異なっていてもよいとフィンランドでは考えられているのです。

ハワード・ガードナーが多重知能の理論によって明らかにしているように、人間の知能は多様であり、一つの物差しだけで測定できるような単純なものではありません。したがって、自らの適性に合った学習内容をそれぞれに選択することの方がはるかに効率的なのです。その意味では、こうしたフィンランドの教育観は、非常に妥当なものであるといえます。

獲得すべき知識の内容がそれぞれに異なるのであれば、学びのプロセスにおいて、他者との優劣はほとんど問題になりません。そのときに問題とされるのは、子どもが一生を通じて学び続ける意志と能力を身につけていくことであるといえるでしょう。そうした力さえあれば、その子どもは、必要に応じて知識を獲得していくことができます。子どもが、学ぶことの本来の意味を実感することができるためには、他者との比較によってではなく、自分自身の基準によって学びが評価され、意味付けられる必要があるのです。言い換えれば、学びを真に意味のあるものにしようとするならば、その学習活動のなかに、世界を探求しようとする子どもの意志が働いていることが不可欠になります。そして、学び続ける意志を持ち続けることができている限り、その子どもは決して「落ちこぼれ」になることはありません。

このように、意志の力を育てることは、子どもの教育において非常に重要な課題となります。それでは、そうした意志の力は、どのように形成されるのでしょうか。あるいは、子どもの意志の形成を阻害するものがあるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。

幼児教育の領域に独自の道を切り開いた、シュタイナーやモンテッソーリといった教育思想家は、教育の第一の目的は子どもの意志を育てることであるということをはっきりと意識していました。彼らが共通して指摘しているように、幼児教育において重要なことは、世界を知的に理解することではなく、自らの身体を通して、具体的に世界と関わりを持ち、具体的に世界を知ることなのです。そうして世界と直接触れ合うことを通して、子どもは世界を知ろうとする意志を育んでいくことになります。レイチェル・カーソンの言葉を借りれば、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を養うことこそが、子どもの教育にまず第一に求められることであり、生涯にわたって学び続けていくための基礎を作ることになります。

しかし、もし幼児期に意志を育む機会を逸してしまうならば、その後の人生において、その機会を再び持つことは極めて難しいと言われています。したがって、幼児期における教育は、その時期に行った教育が、その後の人生における学習への意欲を決定付けてしまうものであるという点で極めて重要なものです。こうした幼児期の教育の意義を理解せず、意志を育むというプロセスを飛ばしてしまうことは、その後の人生に大きな損失を与えることになります。

ところが、私たち大人は、他の子に先んじるために、できるだけ自分の子ども、あるいは生徒に早いスタートを切らせてあげたいという焦りを抱いてしまいます。その結果、そうした意志の形成に取り組む前に、いきなり高度に知的な学習に取り組むことを子どもに強制してしまうということがしばしば起こります。しかし、そのように意志の問題を軽視してしまうことは、かえって子どもを学びから遠ざけてしまうことになるでしょう。

この段階の子どもに必要な学習とは、抽象的な知識の内容を学び、理解することではありません。知的な学習に取り組むには、まだ早すぎるのです。

私たちが日々の経験を通して知っているように、知的学習に取り組むためには、高度な注意力と集中力が必要となります。少しでも気を抜くと、私たちの意識は、ある対象から別の対象へと、次々に移っていきます。ひとつの事柄に意識を留め、その事柄に関して、一定の時間、注意深く思考を持続させることできるというのは、実は、大変なことなのです。それができるためには、様々な衝動・欲望の源泉である身体を自律的にコントロールして、心的なエネルギーをある特定の思考内容へと差し向けなければなりません。それは、無秩序な身体的衝動に心的な方向性を与えることで、自己の知性を、意味のある活動に向けて組織化していくことであるといえるでしょう。

意志とは、このように、自らの身体的な衝動を超えた、より高次の目的に向かって自己を差し向ける、その力のことであるといえます。衝動的段階の個人においては、心と身体は、つねにその瞬間の衝動に支配され、動機付けられます。そこにあるのは「いま・ここ」における瞬間的な欲求の対象であり、次の瞬間には、もう別の対象に関心が移っていきます。そこには時間の持続はなく、即時的な満足があるだけです。このようなときには、自己の心的エネルギーは方向性を持つことができず、つねに拡散的に作用することになります。子どもがひとつの対象に注意を保つことができないのはこのためです。そうした子どもには、まだ特定の価値に向けて注意を払い続けるだけの意志が欠如しているのです。

ところが、子どもの心理的発達が進み、そうした刹那的な欲求の対象を越えたところにある普遍的な価値を認識することができるようになると、子どもはその価値の実現に向けて努力することができるようになります。「いま・ここ」の先にある未来に実現すべき価値があることを認識するとき、子どもはある特定の目的に照準を合わせて、そこに自己の全エネルギーを動員することができるのです。それは、「いま」というこの瞬間を、いまのためにだけではなく、未来のためにも捧げることができる態度であると言うことができるでしょう。換言すれば、意志とは、価値を保存する力のことであり、世界と格闘し続ける
ための原動力なのです。

こうした意志の力を十分に訓練することができていてはじめて、子どものなかで知的学習に取り組むための条件が整います。逆に言えば、就学前の子どもにとって唯一の、そして決定的な教育の目的とは、この意志の養成に他ならないのです。それでは、具体的には、どのようにして子どもの意志の力を育てることができるのでしょうか。次はそのための実践について確認していきましょう。

 

衝動的段階における教育実践:身体的・感覚的教育

相良敦子は、モンテッソーリ教育の実践を紹介するなかで、幼児期の教育において重要なことは、子どもが「自分で選び、自分で考えて実行し、やり遂げ、責任をとる」ということであると指摘しています。

幼児期とは、随意筋運動の調整期であり、正しい身体の使い方を学ぶ時期であると相良氏は言います。その時期になると、子どもは大人に何かをしてもらうのではなく、自分の身体を使って目前の問題に取り組もうとします。自分で服を着替えたり、歯を磨いたり、コップに水を注ぐなどといった行為を、自分自身で、正しい仕方で実行することができるようになるのです。

はじめのうちは、子どもはその問題に取り組むことを途中で放棄してしまうかもしれません。衝動的段階の子どもにとっては、ある対象について抱く関心はつねに刹那的なものであり、長続きすることはありません。他にその子どもの目を引くものがあると、子どもの関心は、すぐにそちらに移っていくことになります。その時、彼の心的なエネルギーは、ひとつの方向にまとまっていることがなく、拡散的に作用しています。ですから、最後まで自分自身の責任において課題を解決することができるだけの力を維持することができないのです。

しかし、実際に試行錯誤を繰り返しながら、積極的に外界に働きかけることによって、一定の時間、目的を達成するために自らの身体と心を一つの方向に向けて協同させていくことを子どもは少しずつ学んでいくのです。

このように、ある特定の身体的な活動に従事することによって、ある特定の目的に向けて自己の全エネルギーを動員することができるようになると、子どもは、自分が自身の行動の主人公であるという自信を持ちます。そして、目前の課題を自分自身の力で成し遂げるために、自分の意志通りに自分の身体を動かせるようになりたいという願望を持つのです。この願望を十分に満たしてあげることができると、子どもは、自らの責任において課題を解決し、自らの頭で考え、世界を探求し続ける意志と意欲を持つようになるのです。

したがって、モンテッソーリ教育のプログラムがそうであるように、子どもが自らの責任において具体的な日常生活の課題に取り組んでいく機会を与え、それを援助することこそ、幼児教育の実践における重要なポイントであるということができるでしょう(モンテッソーリ教育では、子どもが、他人に頼らずに自分自身の力で日常生活を営んでいくことができるようになるためのそうした教育実践を「日常生活練習」と呼んでいます)。

また、子どもは、このような活動に取り組み、自分の身体をコントロールすることを通して、自らの精神をもコントロールすることができるようになります。このとき、はじめて子どもの前に知的な学習に取り組むための扉が開かれることになるのです。

ピアジェが指摘したように、子どもの知能は、感覚運動的能力が基盤になっています。世界は、はじめは身体的経験として把握され、次に、知的に理解されます。子どもは、身体を通して世界と関わり、受け止めた感覚的印象を整理・分類していくことによって、世界を知的に理解するようになるのです。丸山 圭三郎の言葉を借りれば、 言語による認識としての「言分け」は、それに先行する身体による世界認識としての「身分け」を基盤にしているということになります。

シュタイナーは、幼い子どもが物を見るときには、目で見るのではなく、全身で見るのだと言っています。それは、あらゆる経験が刹那的なものとして流れさっていってしまう幼児期においては、感覚的印象が、反省可能な経験として定着されていないことを意味しています。しかし、言葉の発達とともに、私たちの経験は、五感によって分化され、言葉として対象化されることによって、分析可能なものとして客観世界のなかに位置づけられることになります。

たとえば、私たちは「赤」と「青」という色の分類を自明のものとして認識していますが、幼い子どもにとってはそうではありません。「赤」と「青」が、二つの色彩として互いに区別されるためには、言葉を習得する過程で色の分類を学ばねばなりません。決して、両者の区別が、所与のものとして存在しているのではないのです。このとき、個人は、全身で瞬間的に受け止められた「感覚」を、客観的な「感覚されたもの」として経験することになります。

あるいは、ある物を観察して、それを子どもが手に持つとき、その子どもはその物の「重さ」を経験します。他にも、色や形など、その物が持つ性質の全体から、ある特定の性質を引き出し、そうした諸々の性質は、客観化された知識として子どもに経験されます(経験的抽象)。そのようにして、子どもは自らの感覚を対象化していきます。そして、そこで得た知識は、子どものなかに芽生えた知性の働きによって活用されることになります。色を分類し、それぞれの色に対応する意味を付与すること(赤は「止まれ」、青は「進め」)、分けた物を比較することなどができるようになります。こうして感覚を対象化することによって、分類し、比較し、対応させるといった知的な活動が可能になるのであり、ここに、知的、あるいは概念的な学びの世界へと子どもが参入していく糸口があるのです。

このように、身体を使って具体的・物理的な世界を探索することは、子どもの意志の力を強め、抽象的・概念的な世界に入っていくための基盤をつくることになります。知性はまず、このように育っていくのです。

 

指導の型:提示

最後に、衝動的段階の生徒に対する指導の仕方について、説明をしたいと思います。衝動的段階の発達課題が、感覚を研ぎ澄ませ、適切に身体を使うことにあるとすれば、そうした身体の使い方を、手本として生徒の目の前で具体的に「提示」することが、教師の仕事となります。生徒が習得すべき身体の動き方をひとつ取り出し、その一連の動作をゆっくりと、正確にやってみせることがポイントです。それを見た子どもは、同じ動作を自分でやってみようとします。そして、その動作を行って得られた結果を分析していくなかで、子どもはその動作の意味を理解し、正確な動き方を学んでいきます。そうして、少しずつ自分の身体を使いこなすことができるようになっていくのです。

「提示」はモンテッソーリ教育の日常生活練習で使われている用語ですが、そうした指導の型は、衝動的段階の教育においてはつねに有効性を持つものであり、この段階のあらゆる指導において妥当性を持つものであるといえるでしょう。

私の専門である読み書きの指導でも、「提示」は非常に効果的な指導の型として使われています。たとえば、文字を書くことを覚えようとしている生徒に対しては、教師が生徒の隣に座って、実際に文字を書いて見せることで、効果的に書き方を教えることができます。私の勤務する国語専科教室の主宰である工藤順一の言葉を借りれば、書くこととは、ひとつの身振りなのです。子どもは教師が文字を書くときの手の動きを観察して、それをひとつの身振りとして記憶します。そして、それを自分も真似することによって、自身の身振りとして定着していくのです。そのようにして、子どもは正しい書き方を身につけることができます。

あるいは、本の読み聞かせも、ある種の「提示」であるということができるでしょう。はじめて本に向かう子どもにとって、白いページに書かれている文字は、意味のない、黒い記号の集まりに過ぎません。子どもが本を読むためにまず覚えなければならないのは、そこから個々の言葉を識別することであり、識別された言葉から意味を読み取ることなのです。これができないと、子どもは、どこで言葉を切ってよいのか分からず、うまく本を読み進めていくことができません。子どもが正確に言葉を識別し、意味を追いながら読むことができるためには、読み方を具体的に示してもらう必要があります。子どもに読み聞かせを行う必要があるのはこのためです。子どもがひとりで本を読むことができるようになるとき、読むという行為は自分自身への語りかけとして経験されることになりますが、それができるためには、まずはそれを実際に音声として聞くところから始めなければならないというわけです。

読み聞かせを行う際に、読み手が、文節ごとに、ゆっくりと、正確に発音してあげることで、子どもはそれを耳で聞くことを通して、読むことをひとつの身体的なリズムとして内面化します。言葉を単位ごとに区切ることを覚え、意味をつかむことができるようになるのです。そうしたことができてはじめて、子どもは自分ひとりで黙って本を読むことができるようになるのです。このように、読み聞かせの効果は、読むことを音読という身体的な行為として提示することで、まだ黙読のできない生徒に対して読み方を直接的に教えることができる点にあります。

衝動的段階の子どもが学ぶのは、このように、つねに具体的な事柄です。そして、こうした具体的な行為を通して培われた感覚は、より抽象化された、概念的な事柄を学ぶ段階へと移行した際に、子どもの思考を根底から支えることになります。なぜなら、メルロ=ポンティが指摘したように、言葉もまた、一種の感覚器官のようなものであるからです。この点については、いずれまた稿を改めて説明をしたいと考えています。

 

まとめ

これまで述べてきたように、幼児期における教育の課題とは、子どもがその後の人生において積極的に世界を探求していくための意志の力を形成し、強化することにあります。そのためには、幼い子どもの認識の基盤である身体を使って、具体的に世界と関わり、そこから知識を汲み取るための豊富な体験を持つことが必要です。そうした身体性を無視して、この時期に過度に抽象的・概念的な知的学習に取り組ませることは、子どもが私たち大人と同じように、そのように純粋に抽象的な記号操作を行うことができるだけの認知能力をすでに備えているはずだという誤った想定のもとに行われているという意味で、大変危険であり、有害でさえあるといえます。子どもの発達段階を考慮せず、あまりにも早く子どもに抽象的な概念を教え込むことは、学習を無味乾燥で、喜びの感じられないものにしてしまいます。しかし、意志の教育を行い、世界との正しい関係の取り方を学ぶことによって、衝動的段階の発達課題を克服することができるならば、発達の次のステージにおいて、より抽象的な知的世界のなかにも喜びとともに参入していくことができます。学ぶことのなかに、つねにいきいきとしたものを保つことができるようになるのです。

 

参考文献

・ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(T・U)春秋社
・相良 敦子(1985)『モンテッソーリの幼児教育 ママ、ひとりでするのを手伝ってね!』講談社
・相良 敦子(1999)『幼児期には2度チャンスがある』講談社
・ジャン・ピアジェ、滝沢 武久訳(1968)『思考の心理学』みすず書房
・瀬戸 賢一(1995)『メタファー思考 意味と認識のしくみ』講談社
・ハワード・ガードナー、松村 暢隆訳(2001)『MI:個性を生かす多重知能の理論』新曜社
・福田 誠治(2011)『こうすれば日本も学力世界一 フィンランドから本物の教育を考える』朝日新聞社
・丸山 圭三郎(2007)『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社
・モーリス・メルロ=ポンティ、竹内 芳郎・小木 貞孝訳(1967)『知覚の現象学T』みすず書房
・モーリス・メルロ=ポンティ、竹内 芳郎・木田 元・宮本 忠雄訳(1974)『知覚の現象学U』みすず書房
・モーティマー・J・アドラー、チャールズ・V・ドーレン、外山 滋比古・槇未知子訳(1997)『本を読む本』講談社
・ルドルフ・シュタイナー、高橋 巌訳(2003)『子どもの教育』(シュタイナーコレクション)筑摩書房
・レイチェル・カーソン、上遠 恵子訳(1996)『センス・オブ・ワンダー』新潮社
・リタ・デブリーズ&ローレンス・コールバーグ(1992)『ピアジェ理論と幼児教育の実践 モンテッソーリ、自由保育との比較研究 上巻』北大路書房

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。 国語専科教室講師。

大学時代にケン・ウィルバーの著作に出会い、以後、理論と実践の両面からインテグラル思想の探求に取り組んでいる。現在は国語専科教室において、小学生から高校生までの作文指導・読書指導を担当。言語教育の実践を通して、言語の発達と心理的発達の関係を考察し、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法の開発を目指している。