連載:インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(1)

メールマガジン No65 1/5より転載

連載:インテグラル・エデュケーション−−衝動的段階の教育(1) 後藤 友洋

今回は、就学前の子どもの教育についてお話します。私が普段指導の対象としているのは小学校1年生から高校3年生までの学年であり、幼児教育に関しては専門外なのですが、それにもかかわらず、敢えてこの段階から話を始めさせていただくのには理由があります。

私たち教師が生徒と出会うときにまず確認しなければならないのは、その子どもが、学ぶことへの意欲を持っているかどうかということです。生徒の側に学ぶ意欲が形成されていないならば、教師の側がいかに優れた授業を行おうとも、決して実りある成果を挙げることはできません。

それでは、学びへの意欲(あるいは、学びへの姿勢)は、どのようにして形成されるものなのでしょうか。私たちがこの問題について考えるとき、まずはじめに気が付くのは「学ぶ」という行為が可能になることそのものが、実は、発達上の大きな達成であるということです。

たとえば、近年、社会問題として広く認知されるようになった現象として、学級崩壊を挙げることができます。モンテッソーリ教育の研究者として知られている相良敦子をはじめとして、多くの教育学者が指摘しているのは、学級崩壊の原因は、小学校の教育のあり方に問題があるというよりは、むしろ、幼児教育の領域において「自由保育」が広く普及したことにあるということです。一定のルールのもとに、他者とともに学ぶという機会を与えることがない自由保育においては、子ども達がそれぞれに自らの欲求の赴くままに振舞うことになるので、知的な学習に取り組む上で最低限必要とされる社会性が身に付かず、それが小学校入学後の学級崩壊につながっているというのです。

このことは、多くの子どもが学習活動に取り組む準備ができていないまま小学校に入学してくるということを意味しています。

学びというものは、自らの所属する共同体の内部に蓄積されてきた智慧を継承する行為であるという意味で、極めて文化的な行為です。その意味では、学ぶということは、自己の視点からのみ世界を見るのではなく、他者の存在に対して自己を開いていくことなのです。それができるためには、他者の視点を考慮することができるだけの発達段階に到達している必要があります。そして、他者の視点を意識するということは、また、自己を律するということでもあります。学びを続けていくためには、一定の忍耐が必要とされますが、忍耐強くあるためにも、また、他者の視点から自己を見つめるだけの認知能力が必要とされます。

したがって、学ぶことに対する積極的な姿勢を作るためには、個人は、前-慣習的段階から、慣習的段階へと発達を遂げる必要があります。言い換えれば、小学校入学以降の学習を効果的なものにするためには、就学前の段階で、つねに個人の身体的な衝動に従って行動する前-慣習的段階を卒業しておく必要があるのです。そのことによって、子どもは自らの属する言語共同体において共有されている様々な「決まりごと」を理解し、諸々の記号的体系からなる概念世界に足を踏み入れることができるのであり、知的な学習はまさにそこから始まるのです。

このことは、小学生を対象に指導を行っている教育関係者にとっても非常に重要な問題となります。なぜなら、就学前に前-慣習的な段階における発達上の課題を克服することのないまま、小学生になってしまった生徒に対しては、小学校の学習に取り組む前に、ある意味ではもう一度幼児教育をやり直さなければならないからです。当然のことながら、個人の発達の進むペースはそれぞれに異なるのですから、たとえどんなに適切な教育環境のなかで育ったとしても、本来であれば就学前に終えておくことが望ましい発達上の課題が、小学校まで持ち越されてくることは十分にあり得ます。その意味で、幼児期における発達上の課題と、その克服の仕方を知っておくことは、小学校以降の子どもを担当している教師にとっても必須となっているのです(注1)。

インテグラルな教育理論を構築することのひとつの価値は、このように、人間のすべての発達段階を考慮することによって、生徒がどの段階で躓いているのかということを診断することができることにあります。場合によっては前の段階の課題からやり直すことによって、生徒の成長を前に進めることができるのです。この視点を持たずに教育を行う限り、一度「落ちこぼれ」の烙印を押されてしまった生徒は立ち直ることが極めて困難になります。その子がうまくいかないのはなぜなのか、という分析が十分に行われないまま、課題内容だけはどんどん高度なものになってしまうからです。一度出遅れると、その遅れを取り戻すことは難しいばかりか、できる子との距離はどんどん広がっていきます。結果として、そうした教育のあり方は、子どもから学ぶことの意欲を奪うことになるでしょう。

とりわけ、幼児期における教育は、子どものその後の成長の可能性を、強く規定することになります。幼児期における発達上の課題を適切に乗り越えることができなかった場合、そのことは、生涯にわたって、その個人の成長に影響するのです。より具体的にいえば、世界を探求するための意志の力は、主としてこの幼児期に形成されるものであり、この時期に意志を形成する機会を逃すと、子どもに本来備わっているはずの知的好奇心、あるいは、探究心を、健全に働かせることができなくなるのです。したがって、この意志の教育が、衝動的段階における教育の主題となります。

衝動的段階の認知的特徴

教育に携わる者であれば、必ず弁えておかなければならないことがあります。それは、子どもは私たち大人とは全く異なる仕方で世界を認識しているということです。このことがわからないと、教師は子どもが抱えている問題を正しく理解して、適切な対応を取ることができません。したがって、教師は、子どもの思考がどのような認知構造によって成立しているのかということを知っておく必要があります。それでは、発達の初期における認知的な特徴とは、どのようなものでしょうか。

ピアジェは、幼児には、活動を伴わない思考はあり得ないと指摘しています。なぜなら、幼い子どもは、自らの身体を離れて思考するということができないからです。このとき、幼児の心は、身体としての自己に完全に同一化しています。彼らにとっては、具体的な身体の経験こそが、唯一の自己の経験なのです。心はまだ自らの身体を対象化し得るほどの自律性を獲得していないため、自らの行動を反省して、自己を調整するということができません。自らを省みることがないので、幼い子どもはつねにいきいきとしており、また、つねに自己の身体的な衝動の赴くままに行動することになります。そのため、この発達の段階は、衝動的段階(Impulsive stage)と呼ばれています。

衝動的段階の個人にとっては、身体の経験こそが唯一の自己の経験である、ということは、幼い子どもの物事の認識の仕方を注意深く観察すれば、容易に理解することができます。たとえば、「右」と「左」を判断するとき、彼らが理解し得るのは、つねに「自分から見た右、あるいは左」であって、他者の視点から見た右、あるいは左ではありません。幼い子どもが他者の視点から見た方向(右、左)を判断するためには、彼らは自らの身体を他者と同じ方向に向ける必要があるのです。

つまり、幼い子どもの認識の範囲は、物理的・身体的な視野に限定されており、その意味では非常に限定的なものであるということができます。ピアジェが幼い子どもの認知的な能力の特徴を「自己中心的」であると言うとき、それは、身体的に知覚された具体的なリアリティの認識から外に出ることのできない、こうした子どもの認知的な限界を意味しているのです(注2)。

しかし、人間は、より高次の発達を遂げることによって、そうした具体的な行為を伴わずに思考することができるようになります。身体的な行為からまったく独立した思考が可能になるのです。そうすることによって、人は自らの身体の拘束から離れ、他者の視点をも含んだより抽象的・普遍的な視点から、物事を考えることができるようになります。したがって、この時期における発達とは、思考が徐々に行為から分離することだといえるでしょう。

ピアジェは、このような観点から、人間の発達を「自己中心性の減少」という言葉で定義しました。幼い子どもが理解することができるのは、自己の視点によって認識できる範囲に限定されており、他者の視点を考慮することができないという意味で、その認知的側面において「自己中心的」であるのですが、いずれはそうした認知的限界を乗り越え、他者の視点からも物事を考えることができるようになります。自己というものが脱中心化していくのです。そのとき、個人は、共同体の規範に忠実であることを、自己の衝動のままに振舞うことに優先させることができるようになります。そのようにして、個人は、発達の過程で自らの欲求・衝動を、道徳・倫理・規則といったものに自己を従わせることを通して、より高次の共同体的な価値のなかに適切に抑圧・昇華して、決してひとりよがりではない、他者とともにある生き方を選択することができるのです。

とはいえ、自らの身体に根拠を置く自己中心的な世界認識は、決してネガティブな認識として発達の過程で切り捨てられるべきものではありません。なぜなら、私たちが身体から分離した心によって抽象的に思考するときでさえ、そうした抽象的な思考を支えている言葉は、身体的な感覚に支えられて成立しているものだからです。私たちの用いる抽象語の多くが、そうした身体的な感覚のメタファーとして使われていることに目を向けるなら、このことは容易に確認することができるでしょう。たとえば、「明晰」な文章、出典を「明示」する、
光明を「見出す」といった言葉は、どれも光のメタファーであり、議事「進行」、難問に「直面」する、危険を「回避」するといった言葉は、どれも空間のメタファーです。このように、多くの言葉は身体的知覚、とりわけ視覚を基にして紡がれているのです。

そのようにして、人間は、何よりもまず自らの身体を軸にして世界を認識しているということができます。心が身体から独立するほどに発達していない、衝動的段階の子どもにおいては、そのことがとりわけ顕著に観察されます。したがって、衝動的段階の子どもは、身体を介して事物に働きかけることによって、世界に対する認識を深めていくことから学びを出発しなければなりません。

この時期に、様々な体験的な学習を通して身体的な感覚を研ぎ澄ませておくことは、その後の知的な学習に取り組むための土台を形成します。言語学者の丸山圭三郎が指摘したように、人間は知的に世界を認識する以前に、まず身体を世界に投げ入れることによって世界を分節化しているのです(丸山は、前者の知的認識を「言分け」、後者の身体的認識を「身分け」と呼んでいます)。

ルドルフ・シュタイナーは、この点について絶えず注意を促していました。人間が知性の働きによって物事を認識することができるためには、その認識の対象がすでに具体的な体験としてその人間のなかに記憶されていなければなりません。そうした体験が個人の身体に記憶されないうちに純粋に知的な学習に取り組もうとすることは、畳の上で水練をするに等しい行為であるといえるでしょう。水泳の練習にまず必要なのは水であって、水を経験しないうちに行われる水練に効果がないことと同じように、具体的体験を欠く知的認識は、決してその人にとって腑に落ちた知識にはならないのです。

しかし、しばしば私たちはそうした感覚的な教育の意義を見過ごし、身体を経由することなく、抽象的な概念から構成される学習の世界にいきなり子どもを投げ込んでしまいます。早期教育の危険はまさにここにあります。

子どもの教育を考えるとき、私たちは、学びが活き活きとした現実の経験から切り離され、抽象的な記号を操作することのみに終始してしまうことを警戒しなければなりません。確かに、身体から分離した心にとっては、そうした純粋な記号操作は可能であり、それが実際に多くの学校で行われていることでもあるしょう。しかし、ここには2つの落とし穴があります。まず第一に、そうした抽象的で、純粋に知的な学習に取り組むことが、しばしばあまりにも早く行われてしまうということです。子どもの側にそうした学習に取り組む準備がまだできていないうちから、そうした高度な学習に直面させることは、あまりにも酷であり、非効率であるばかりか、勉強嫌いの子どもを作ることにつながります。第二に、言語的・概念的な学習を通して知識を得るだけでは、その知識は実際に活用可能なものとはなり得ないということです。身体的な感覚に根差すことのない知的な理解は、本当の意味での理解とはいえないのです。教育者は、心は身体という滑走路から飛び立つことによって、はじめて安全に離陸することができるということを心に留めておく必要があります。

これらのことから、衝動的段階における教育のポイントが明らかになります。それは、以下の2点に集約することができるでしょう。

まず第一に、衝動的段階の子どもは、つねに具体的な行為を通して学ぶ必要があるということです。なぜなら、上述したように、この段階の子どもは、身体を通して学ぶ以外に、世界と関わる方法を持たないからです。したがって、純粋に抽象的な思考を要求するような早期教育を行うことには慎重である必要があります。それは子どもに不可能なことを要求しているのであり、そうした無理な要求をさせることによって、子どもの学習への意志を挫いてしまう危険があります。衝動的段階の学びはつねに、自らの身体をくぐり抜けたものである必要があるのです。

また、この段階の子どもは、ある特定の身体的な活動に従事することによって、世界との関係の取り方を学び、世界に働きかけていくことを学びます。そして、そうした経験を通して、世界を探求することへの意志を育むことになるのです。この「意志の形成」が、衝動的段階の教育の目的となります。これが、この段階の子どもに対する教育の第二のポイントです。具体的な行為を通して、自らの力で課題を解決することで、子どもの意志の力は強化されていきます。世界と取り組み続けるための力が養われるのです。また、そこから、世界をより正確に理解しようとする知性の芽が育っていくことになります。知的な学習に取り組むための土台が形成されるのです。

もし、このような発達の初期における教育的意義が理解されず、子どもが意志を育むための機会を逸してしまうのであれば、それはその子どもの人生の全体に大きな損失を与えることになります。なぜなら、学びへの意志を持つことこそが、生涯を通じて意味のある学習を進めていくための前提であり、この時期にそうした意志を形成しておくことができなければ、再びその機会を持つことは極めて難しくなるからです。

これから、この2つのポイントについて、より詳細に検討していきたいと思います(次号に続く)。


【注】

(1)こうした問題は小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学への進学においてもつねに起こり得ます。たとえば、いま、大学の1年次においては、高校の学習内容の復習から始めなければ大学の学習内容に入ることができないというケースがしばしば発生しているようです。教育が、子ども達に各学年に応じた発達上の課題を十分に克服させることができない場合、そのつけは進学先の学校において払わされることになります。その意味で、段階を飛ばして発達することはできない、という発達心理学の指摘は極めて重要なものとなります。

(2)この「自己中心性」という言葉には、少し注意しなければなりません。発達心理学の文脈においてこの言葉が使われるとき、それは決して子どもが倫理的に劣った存在であるというわけではありません。発達心理学が問題にしているのは、他者の視点を考慮するための認知的な側面の発達であり、人格の優劣を問題にしているのではないのです。実際に子どもは他者に対して多くの場面で優しさを示すことができますし、それはしばしば無私の行いとして観察することができます。「自己中心性」という言葉をより正確に説明するならば、幼い子どもはまだ自己と他者を区別し得るほどに強固な自我を確立させていない
ということになります。

 

参考文献

・ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』(T・U)春秋社
・相良 敦子(1985)『モンテッソーリの幼児教育 ママ、ひとりでするのを手伝ってね!』講談社
・相良 敦子(1999)『幼児期には2度チャンスがある』講談社
・ジャン・ピアジェ、滝沢 武久訳(1968)『思考の心理学』みすず書房
・瀬戸 賢一(1995)『メタファー思考 意味と認識のしくみ』講談社
・ハワード・ガードナー、松村 暢隆訳(2001)『MI:個性を生かす多重知能の理論』新曜社
・福田 誠治(2011)『こうすれば日本も学力世界一 フィンランドから本物の教育を考える』朝日新聞社
・丸山 圭三郎(2007)『言葉・狂気・エロス 無意識の深みにうごめくもの』講談社
・モーリス・メルロ=ポンティ、竹内 芳郎・小木 貞孝訳(1967)『知覚の現象学T』みすず書房
・モーリス・メルロ=ポンティ、竹内 芳郎・木田 元・宮本 忠雄訳(1974) 『知覚の現象学U』みすず書房
・モーティマー・J・アドラー、チャールズ・V・ドーレン、外山 滋比古・槇 未知子訳(1997)『本を読む本』講談社
・ルドルフ・シュタイナー、高橋 巌訳(2003)『子どもの教育』(シュタイナーコレクション)筑摩書房
・レイチェル・カーソン、上遠 恵子訳(1996)『センス・オブ・ワンダー』新潮社
・リタ・デブリーズ&ローレンス・コールバーグ(1992)『ピアジェ理論と幼児教育の実践 モンテッソーリ、自由保育との比較研究 上巻』北大路書房

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。 国語専科教室講師。

大学時代にケン・ウィルバーの著作に出会い、以後、理論と実践の両面からイ ンテグラル思想の探求に取り組んでいる。現在は国語専科教室において、小学 生から高校生までの作文指導・読書指導を担当。言語教育の実践を通して、言 語の発達と心理的発達の関係を考察し、個人の統合的な成長に向けた教育環境・ 教育技法の開発を目指している。