連載:インテグラル・エデュケーション−−フラットランドを越えて(2)

メールマガジン No64 12/4より転載

 

前回に引き続き、後藤友洋氏の論考「インテグラル・エデュケーション」をおとどけします。序章にあたる「フラットランドを超えて」の後編です。前号では、発達論的な視点の欠如という、教育におけるフラットランドの問題を扱いましたが、今号では、フラットランドのもうひとつの病理的側面である「所与の神話」について、また、そうしたフラットランドの病理を乗り越えるためのインテグラルな教育の枠組みについて語られています。

インテグラル・エデュケーション−−フラットランドを越えて(2) 後藤 友洋

所与の神話

インテグラル理論では、量的(水平的)な成長と質的(垂直的)な成長を明確に区別します。たとえば、計算練習をひたすらに繰り返して、テストの成績を伸ばすことができた場合、水平的な成長が達成されたことになります。一方、垂直的な成長が達成された場合には、その問題に向き合う主体の、問題の捉え方そのものが変容して、より高い次元から世界を眺めることができるようになります。このとき、世界は、それまでとは全く異なった仕方で理解されることになるのです。このような垂直的、あるいは質的な成長を、「発達」と呼びます。

一方、上述したように、フラットランドの教育観によって質的な成長が否定されるとき、量的な成長のみが目指されることになります。そのとき、私たちはある特定の物の見方を絶対化して、それが唯一の世界の解釈の仕方であると思い込むことになるのです。なぜなら、もし質的な成長というものが存在しないのであれば、我々はみな世界を同じように理解しているはずであり、人によって世界をより深く見たり、全く別の解釈を与えたりすることはほとんどあり得ないということになるからです。そのようなフラットな世界のなかで私たちが信じることができるのは、誰もが共有することのできるような、客観的で数値化可能な「浅い」リアリティだけであるということになります。

ウィルバーは、そのように客観性という名の下に語られた現実のみが真実であり、したがって世界はそれを観察する主観の影響を受けることなく、つねに一定の真実を提示し続けると信じるフラットランドの発想を「所与の神話」として批判しました。フラットランドの影響下では、客観的に真であると認められた事柄だけを(本当は、誰によって認められたのかが問われねばならないのですが)、唯一絶対の解答として押し付けることが正しいことであるかのように、私たちは錯覚してしまうのです。

教科書がしばしば退屈であるのは、この理由によります。そこに書かれているのは、複数の学者の「客観」を突き合わせた最大公約数的な「真実」であり、そこではある特定の価値判断に踏み込むことは避けられています。そこには、ひとりの人間が自らある真実に達したときの喜びや戦慄はありません。あるのはただ、血の通わない、干乾びた真実だけなのです。

このことは、私たちが知識というものに対して持つ考え方を大きく変えることになります。

ウィルバーは、知識とは、純粋に客観的なものとして我々の前に転がっているものではなく、ある特定の領域・段階における主体的な実践を通して創造されるものであると指摘しました。インテグラル理論によれば、ある事柄の妥当性を判断するには、その事柄を単に知識として受容するのではなく、自らがその事柄を身をもって体験し、内側から理解する必要があります。たとえそれが、すでに真実として誰かによって発見されていたとしても、それがある人にとって本当の意味で真実であるためには、その妥当性は必ず自らの体験をくぐり抜けることによって、改めてその人自身によって発見されなければなりません。つまり、本来、知識は、つねに学習する主体の実践によって生み出されるものなのです。

言い換えれば、真の意味で学習というものが成立するとき、それは自らの存在を世界に投げ入れる、実存的な行為であるといえます。このような学習が成立するとき、そこから見えてくるリアリティは、決して同一のものであるとは限
りません。そのとき、その真実には、それを観察する主体の世界観がそのまま反映されることになります。その人が世界を見る深さの度合いによって、世界の見え方も同じだけ深まることになるのです。つまり、私たちは内的な発達を
通して、世界を新しく創造しているのです。

ところが、真実というものが、それを観察する主体の内的な発達に応じて変容し、更新されるものであるということをフラットランドの教育観は否定します。その結果、知識は固定化され、そうして客観化された知識を私たちはただ受動的に消費していればよいということになります。知識はただ所与のものとして私たちに手渡されるだけでよいのです。

これが、近年、つめこみ教育として批判されているものの正体です。私たちは、目まぐるしく変転する世界のなかにあって、知識というものが次の瞬間にはもう風化する可能性のあるものであることを認識しつつあります。今日は役に立った知識が、明日にはもう何の価値も持たなくなっているということがあり得るのです。したがって、一度手に入れた知識や技術を絶対化することは、生存条件が劇的に変化する現代にあってはむしろリスクとなります。

この点において、現在、日本の教育が子どもたちに求めている能力と、世界が私たちに要求することになる能力の間には決定的な相違があります。日本の教育が子どもたちに要求しているような、どれだけの知識を習得し得たかということは、私たちの社会においてさほどの重要性を持たなくなっているのです。知識は、もはやこの社会に過剰といえるほどに豊富に存在しています。情報化社会は、そうした知識にいつでも、どこでもアクセスすることを可能にしました。その結果、知識を習得することの重要性は相対的に小さくなっています。

現代社会において、より重要なことは、そうして手に入れた知識を自分なりに組み換え、新しい価値をそこに付与していくことであるといえるでしょう。知識に対する能動的な態度が求められるようになってきているのです。そのとき、私たちの関心は、知識を得ることから、知識を活用することへとシフトしていくことになります。

したがって、インテグラルな教育のあり方を模索しようとするとき、私たちの視線は、知識そのものではなく、その知を知として成立させている方法を学ぶことに向かいます。教育が問題にしなければならないのは、知識そのものではなく、その知を観察している主体の思考の構造であるということに目が向くようになるのです。言い換えれば、どのように知識を取り込むかではなく、刻々と移り変わっていく時代の文脈に合わせて、知識を再生産していくことのできる個人の深層的な能力を鍛錬することが重要なのです。

どのような知の体系も、その知を成立させている独自の思考の型を持っています。その型を身に付けることによって、はじめて私たちはその知識を活用することができるのであり、それなくしては、知識はつねに意味と切り離されたま
まです。そしてその型は、それを使いこなすためにある一定の発達段階に到達することを要求します。ある一定の年齢に達しなければ車の運転免許が取得できないのと同じように、たとえば、微分・積分を理解するにはある一定の内的な成熟が必要とされます。このように、あらゆる実践の型はそれにふさわしい発達を実践者に要求します。

現在の日本の教育の問題点は、このような知を活用するための方法を教えることがなく、また、その方法を習得するための内的な変容を重視しないことにあります。したがって、知識は分断され、学習者のなかに意味ある形で統合されることがありません。

インテグラル理論は、成長のための地図を提供するものであると同時に、成長を実現するための方法(型)をも示さなければならないと主張します。その背景には、このように、あらゆる知識が所与のものとして与えられることによって生じている知の停滞から脱却して、自らが知の創造者として生き、学びを再びいきいきとしたものとして私たちのなかに取り戻すことが必要であるという認識があります。したがって、インテグラル・エデュケーションの課題とは、そのための具体的な枠組みを構築していくことであるといえるでしょう。

 

インテグラル・エデュケーションの枠組み

以上のように、教育の領域におけるフラットランドの問題を考えていくと、インテグラルな視点がどのような意味を持つのかということが明らかになります。最後に、インテグラルな視点を教育に導入することの価値を確認しておきた
いと思います。

1.発達論的な視点に立って、成長のための見取り図を提供する

インテグラル・エデュケーションは、水平的な成長に加えて、垂直的な成長のための地図を提示することを重視します。現代の日本においては、初等教育から高等教育に至るまで、基本的には一貫して神話的合理性段階に重心をおいた教育方法を採用しているといえます。それゆえ、それ以前の段階にいる子どもは非常に難しいことが要求されることになり、それ以降の段階にいる子どもは非常に居心地の悪い思いをするという事態になっているのです。インテグラル・エデュケーションは、そうした悪しき画一主義(フラットランド)を乗り越え、発達の各段階において、何をすべきであり、何をすべきではないのかといったことを明らかにすることによって、個人の成長に向けた適切なサポートを行うことを目指していきます。

2.個人の発達を促進するための具体的な実践

生存条件が劇的に変化する現代にあって、一度手に入れた知識や技術を絶対化し、それに依存することのリスクは相当に大きなものになっています。また、
そうした知識や技術が必要とされていた前提条件そのものが無効化されたとき、つねに前提を見直し、より広い文脈に自己を位置づけていくことが求められます。そのためには、教育の目的を知識や技術を習得することではなく、知識や
技術を活用する主体の深層的な能力をつねに更新し続けていくことへとずらすことが必要です。インテグラルな教育理論は、知識や技術というものは、学習する主体の実践によって能動的に生みだされるものであるという認識に立ちます。そして、インテグラルな教育とは、各領域、各段階において、そうした知恵を生み出すための実践を提示するものでなければなりません。そのとき、あらゆる学習は、インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)として機能するこ
とになるのです。

インテグラル理論の基本理念がそうであるように、インテグラルな教育とは、地図と実践を兼ね備えたものである必要があります。ここに書いたことは、インテグラルな教育という未開拓の分野に関する私なりの試論に過ぎませんが、この連載を通して、少しでもその内容を明確化していきたいと考えています。

次回より、各発達段階における教育の課題と方法を概観していきたいと思います。(次号に続く)

参考文献

ケン・ウィルバー、松永 太郎訳(1998)『進化の構造』春秋社
相良 敦子(1985)『モンテッソーリの幼児教育 ママ、ひとりでするのを手伝ってね!』講談社
福田 誠治(2006)『競争やめたら学力世界一 フィンランド教育の成功』朝日新聞社

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。国語専科教室講師。
大学時代にケン・ウィルバーの著作に出会い、以後、理論と実践の両面からインテグラル思想の探求に取り組んでいる。
現在は国語専科教室において、小学生から高校生までの作文指導・読書指導を担当。言語教育の実践を通して、言語の発達と心理的発達の関係を考察し、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法の開発を目指している。