連載:インテグラル・エデュケーション−−フラットランドを越えて (1) 

後藤 友洋

メールマガジン No63 11/17より転載

 

今日、われわれは実にさまざまな社会的な課題や問題に直面しています。それらのなかでも、教育の領域における諸々の問題はとりわけ深刻なものであるといえます。

世界がますます複雑化・混沌化するなかで、当然のことながら、個人もそうした生活環境に適応するために必要な成長を遂げることを求められることになります。しかし、今日のあまりにも急激な変化をまえにして、われわれは人間の成長や成熟というものに関してどのような構想と方法を構築して実践をしていけばいいのか途方に暮れています。

これまでのように、単に既存の知識や技法を習得するだけの型通りの訓練をつみかさねていくだけでは、もはや十分でないことは明らかです。それらは、しばしば、刻々と変化する生活環境の中で急速に有用性を失うことになります。
また、そのようにして習得された諸々の知識や技法は、ときとして、われわれに世界をありのままに観察するのを困難にすることによって、われわれの適応力を致命的に減退させることにもなります。知識や技術をはじめとする「内容
物」(contents)を習得・蓄積することを優先的な課題とする発想を超克して、それらを収納・創造する「器」(structure)そのものを変容させていくことを重要視するより深層的な視座が必要とされているのです。

今日において、インテグラル思想が担う重要な責務のひとつは、人間というものを理解するうえで、こうした深層的な視座が必須のものであることを呈示して、それを実際の実務領域に展開していくことであるいえます。

これまで、インテグラル・ジャパンでは、そうした問題意識にもとづいて国内・国外で積極的な活動を展開されている方々の実践や論考を紹介してきました。今回は、日本語教育を専門として、10代の青少年を対象に独自の視点から教育活動を展開されている後藤友洋氏の論考を御紹介します。

最新の教育学や発達理論の知見を参照しながらも、常にみずからの実践経験にもとづいて思索を深めていく後藤さんの探求者としての洞察には、日頃からわたしも大きく啓発されてきました。これまで後藤さんには、これまでの実践と思索を総括するための論考の執筆をしてほしいと熱烈に要望してきましたが、先日、ようやくその重い腰を上げて、執筆作業に取り組みはじめてくれました。

今回 御紹介するのは、その序章にあたる部分です。確かな視座にもとづいて展開される若い実践者の真摯な論考をおたのしみください(鈴木規夫)。

 

連載:インテグラル・エデュケーション−−フラットランドを越えて(1) 後藤 友洋

ケン・ウィルバーは、主著である『進化の構造』のなかで、「フラットランド」という問題に取り組みました。フラットランドとは、一切の「質」が数値化可能な「量」に還元されてしまうモダン、およびポストモダンの世界を指しています。ウィルバーは、そうした深みを欠いた世界観を乗り越えるためのひとつの方法として、インテグラル理論を提唱しました。ウィルバーは、インテグラルな世界観を構築することによって、世界は多様な領域、そして階層からなることを明らかにしたのです(ALL Quadrants,ALL Levels)。

同様に、インテグラルな教育を構想しようとするとき、私たちはまずフラットランドと対峙することを求められます。とりわけ、戦後の高度経済成長という大きな成功体験を持つ日本は、量的成長を至上のものとするフラットランドの発想に強く呪縛されています。そして、そうした発想は、教育の世界にも浸透しています。教育の世界に競争原理が持ち込まれることになったのです。

日本においては、子どもたちの学びは最終的にテストの点数という形で測定され、評価されることになります。なぜなら、そのように子どもの能力を数値化し、比較することによって、子ども達を効率的に選別することが可能になるからです。そこには、学びの成果が子どもたちによってどのように消化され、活かされることになるのかという「質」の視点が欠如しています。したがって、子どもたちは学びの意味を実感することがなく、学びを自らが社会によって有利に選別されるための手段として考えるようになるのです。その結果、子どもたちの学びへの意欲は枯渇して、社会そのものの活力を奪うことになります。

このような日本の教育の現状は、多くの教育学者によってすでに指摘され、批判されてきました。戦後の教育学は、一貫して学びの価値を数値化することに反対してきたのです。受験学力という単一の物差しで子どもの能力を測ることによっては、学ぶことそのものの意味や、子どもの多様な個性を掬い取ることはできないということは、日本の教育学におけるほとんど常識的な見解といってもよいでしょう。その意味では、教育学の歴史はそのままフラットランド批判の歴史であるということができます。

それにもかかわらず、フラットランドの教育観は未だ乗り越えられているようには見えません。それどころか、フラットランドは、いまなお日本の教育において支配的な世界観であり続けています。その理由は、後述するように、フラットランドを批判する教育学そのものが、実はフラットランドと同じ発想の枠組みから生まれていることにあります。そしてまた、従来の教育学が、フラットランドを乗り越えるための地図と実践を持ち合わせていないことも、教育の停滞を招く大きな原因となっています。したがって、インテグラルな教育は、そうした限界を克服するための成長の見取り図を、具体的な実践とともに提示する必要があります。

それでは、現在の日本の教育において、フラットランドの病理は具体的にどのような問題として説明することができるのでしょうか。今回は、出発点として、この問題を扱いたいと思います。

人間の質的な成長の否定

言うまでもなく、人間は、つねに不完全な存在です。それゆえ、人間は、自らの属する環境の生存条件に適応するために必要な成長を遂げることが求められます。ひとりの人間として生きてゆくためには、自己の不完全さを克服し、あ
る一定の水準まで成熟する必要があるのです。そのために教育があり、ある一定の水準(この水準は、つねにその社会の生存条件によって規定されることになります)の成長を達成するための期間として子ども時代があります。

こんなことは当たり前のことであると思われるかもしれません。人間は人生の各ステージにおいて必要な成長を遂げるものであり、子どものうちから生きてゆくのに必要な力を備えているなどと考える人はいないでしょう。言い換えれば、子どもは外面的な成長だけではなく、自己の内面において、質的な成熟を果たさなければならないのです。

私たちがある対象を把握し、理解するためには、私たちの内面にそれにふさわしい質的な成熟が備わっている必要があります。「情報」は、その情報に意味づけを与える個人の内的な構造によってはじめて価値を持つからです。たとえば、生まれたばかりの子どもは、私たちの使用する言語の価値を解することができません。それは、幼児期における内的な成長を伴って、はじめて意味のある記号として認知されるようになるのです。

社会は、必ずその共同体の構成員にある特定の水準で世界を解釈することを求めます。現在であれば、それはたとえば、民主主義社会を生きる個人としての認識のあり方であり、近代的な価値観が個人の内面においても浸透していることであるといえるでしょう。しかし、子どもははじめから民主的な個人として生まれてくるわけではありません。ウィルバーの指摘したように、あらゆる個人は前-慣習的な存在として生まれ、やがて社会の慣習を受け入れ(慣習的段階への発達)、その先にようやく慣習を批判的に再構築することのできる民主的な個人として自己を確立させるのであり(後-慣習的段階への発達)、その発達は、長い時間をかけて進行していくものです。だからこそ、近代的な社会は学校を必要としているのであり、また、必要な発達を遂げるための期間として「子ども時代」が設定されているということができます。どのような社会も、社会統合のために必要な個人の発達課題を設定して、その発達の実現に向けた教育を行っているのです。

しかし、現在の日本の教育観――それは、そのままフラットランドの教育観といえます――は、驚くべきことに、世界の解釈のために人間は必要な発達を遂げるべきであるという、この当たり前の前提に立っていないのです。なぜなら、日本の教育は、何よりもまず子どもを学力の測定・選別の対象として扱うからです。

そのとき、私たちが問題にすることができるのは、テストの点数という、数値化できる側面だけです。そして、たとえば「いままで20分かけて解答していた問題を10分で解くにはどうしたらよいか」といったことや、「正答率を上げるためにはどうしたらよいのか」といったように、教師の指導も量的な側面に限って行われることになります。

そこには、そもそもそうした問題に取り組むことができるための子どもの質的な成熟をどのように達成していくのかという発想はありません。子どもの発達を支援するという視点が欠如しているのです。しかし、子ども時代というのは、本来、そうした発達を達成するための期間であり、必要な成熟に向けた学習を行うことがなりよりも重視されなければならないはずです。

マリア・モンテッソーリは、このことを「子どもの仕事は自分自身をつくることである」と表現しました。このことは、私たちは子どもを大人と同じように扱ってはならないということを意味しています。子どもは、決して小さな大人ではありません。大人と同じ論理を生きているわけではないのです。子どもには子ども独自の論理があります。子どもは発達の途上にある存在であり、大人のように、つねに直接的な業績を挙げることを求められるような存在であってはなりません。

社会的な責任を担うことを通してその対価を得ている大人にとっては、具体的な結果を出すことがつねに求められることになります。成熟した大人として生きるというのは、そういうことです。しかし、大人という成熟へ向けて成長しつつある子どもにとっては事情が異なります。子どもの成長は、失敗をすること、そして、そうした失敗について周囲の大人が寛容であることによって支えられていくものです。

ところが、フラットランドの教育は、学びの世界に競争原理を持ち込むことによって、子どもにはじめから具体的な成果を出すことを求めてしまうことになります。フラットランドの教育観は、知的に高度な問題に取り組むことができるためには、子どもの内面が長い時間をかけて質的に成熟する必要があるという発達上の課題を認めません。子どもの側にその問題に取り組むための準備ができるのを待つことなく、受験というタイムリミットを設定して子どもを急か
し、無理矢理に競争の世界に投げ込んでしまいます。子どもは、はじめからその課題に取り組むに十分な能力を、大人と同じように備えているはずであるという想定のもとに、テストが行われることになるのです。

かくして、私たちの社会が抱えている問題と同種の問題が、教育の世界に存在していることに気が付くことになります。すなわち、量的な成長が過度に強調されるために、質的な成長の持つ重要性が軽視、あるいは無視されてしまうと
いう問題です。

したがって、インテグラルな教育論は、なによりもまず人間の発達を重視するものである必要があります。人間が発達する存在であるという認識にもう一度立ち返って、発達の視点から、人間の成長を定義し直すことが重要なのです。

それにしても、なぜ、こんな当たり前のことを改めて強調する必要があるのでしょうか?そこには、教育の世界においては、フラットランドを擁護している陣営だけではなく、それを批判している陣営においても「発達」という視点はあまり歓迎されることがないという事情があります。

フラットランドに対する教育学の批判は、多くの場合、それが子どもたちを画一的に管理し、恣意的に順位付けするためのシステムであるという点に向けられます。そして、そこから子どもの多様性を受容していこうという立場が生ま
れます。しかし、この立場は、子どもを順位付けすることを拒絶するために、「高い」あるいは「深い」という言葉によって表現されることになる発達の視点を認めることができません。皮肉なことに、こうした多様性尊重の立場もまた、質を認めることのないフラットランドの発想から外に出ることができていないのです。

それゆえ、たとえば、近年大きなトピックとなっている新自由主義的な教育をめぐる論争は、それを肯定するものであれ、否定するものであれ、どちらの立場も基本的にはほぼフラットランドという枠のなかに収まることになります。それを肯定する側は、量的な順位付けのシステムをさらに推し進めるべきであると主張し、反対する側は、そうした量的な成長を質的な成長と区別しないままに、あらゆる階層的な発想を否定するため、発達論的な視点を受容することができません。結果として、両者は相反する立場を採りながらも、フラットランドの世界観を共有することになり、発達論的な視点を意識の外に追いやってしまうのです。

このように、発達という言葉が居場所を見出せずにいる教育の世界において、垂直的な成長の復権を志向することこそ、インテグラル・エデュケーションの重要な責務となるでしょう(次号に続く)。

 

後藤友洋 プロフィール

後藤 友洋 (ごとう ともひろ)

1983年長野県生まれ。法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科卒。国語専科教室講師。
大学時代にケン・ウィルバーの著作に出会い、以後、理論と実践の両面からインテグラル思想の探求に取り組んでいる。
現在は国語専科教室において、小学生から高校生までの作文指導・読書指導を担当。言語教育の実践を通して、言語の発達と心理的発達の関係を考察し、個人の統合的な成長に向けた教育環境・教育技法の開発を目指している。