長年にわたり、ケン・ウィルバーの著書の翻訳者として尽力された松永 太郎氏が、今年11月に逝去されました。

1985年に『意識のスペクトル』が翻訳されて以降、ウィルバーの著作はこれまで30年以上にわたり日本に紹介されつづけていますが、松永氏は、『進化の構造』の出版を契機としてはじまるウィルバー思想の「第四期」(Wilber-Four)の著作の中心的な紹介者として活躍されました。これは、ウィルバーの思想が「トランスパーソナル思想」の枠組みを明確に超えて、「インテグラル思想」として確立される非常に重要な時期であり、また、松永氏はその意義を正しく理解していた数少ない知識人でした。

現在、インテグラル・ジャパンがこうして活動をすることができるのは、これまでにウィルバーの思想の翻訳・紹介に携わってこられた数多くの翻訳者の方々の努力に負うものですが、中でも松永氏の業績に負うところは非常に大きいといえます。あらためて松永氏の御冥福を御祈りしたいと思います。

わたしが松永氏とはじめて御逢いしたのは、CIISでの研究生活を終えて帰国した2005年の秋のことでした。木枯しの吹く中で御茶ノ水駅の改札口で待ち合わせて、そのまま松永氏の経営するイタリア・レストランに行き、数時間ほどのあいだに様々な話題について会話をしました。とりわけ、国内の文化的・社会的な状況を正確に把握するためには、「発達」の視点が必須となるということについてふたりで話合ったことは、今でも鮮明に記憶しています。

個人的には、ウィルバーの紹介者として松永氏をユニークな存在としているのは、その政治的な現実(リアリティ)に対する感性の鋭さにあると思います。そして、正にそれゆえに、「第四期」においてウィルバーの思想の枠組み(フレイムワーク)が大きく変貌したときに、その意義を正しくとらえることができたのだろうと思われるのです。

ウィルバーはインタビュー等で「インテグラルであるとは政治的であるということである」と発言をしています。いうまでもなく、これは、選挙や納税等の政治的な活動に参加するということではなく――それが市民としての義務であることはいうまでもありませんが――むしろ、わたしたちの日常が本質的に政治的な側面を内包していることに意識的であるということです。インテグラル思想の基盤である四象限図には、個人と集合が密接に関連していることが明示されていますが、それは、わたしたちひとりひとりが共同体(コミュニティ)を支え、また、共同体(コミュニティ)に支えられていることを示します。それは、そのことを意識するしないにかかわらず、四象限の中に置かれることをとおして、わたしたちの存在の条件となるのです。

ウィルバーの第四期の枠組みは、そのことを明確に認識させるものでした。また、それは、それまでの人間性開発運動(ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント)を規定していた「個人の意識が変容することをとおして、世界は変容するのだ」という内面主義的な発想の誤謬を露にするものでした。実際、21世紀においてわたしたちが経験している危機の多くは大規模のものであり、個人の意識が変容するだけでは、到底解決できないものです。

こうしたことは、ある意味では、当然のことであり、ことさら強調されるべきことではないように思われます。しかし、そのことを常に意識することは、必ずしも容易なことではありません。それは、自己の存在が、自らの個人的な努力では解決できない巨大な問題の影響下に置かれていることを認識することであり、そして、そのことが醸成する無力感を抱擁するということにほかならないからです。

しかし、インテグラルであるとは、個人としての救済というものが時代や社会の幸福と離れたところで実現できないものであることを認識することです(そのことは、インテグラル思想において、「わたし」の「実現」や「救済」に執着する個人主義的な霊性(スピリチュアリティ)が批判されることにも示されています)。それは、個人の努力では解決できない問題を自己の問題として受けとめることを決意することを意味するのです。

松永氏は、企業の経営と翻訳の傍ら、平河総合戦略研究所のメイル・マガジンに定期的にエッセイを寄稿していましたが、その内容は、政治や経済をはじめとする同時代の集合的な問題を鋭く探究する、洞察溢れるものでした。そして、また、そこには、そうした問題と対峙する人に特有の絶望と諧謔と希望という相克する感情が常に共存していたように思われます。

第四期を迎えて、ウィルバーの思想が個人と集合の本質的な不可分の関係をその重要な洞察として位置づけるものに深化したとき、松永氏がその意義を的確に認識して、日本語への翻訳に継続してとりくまれたのは、ひとつには松永氏がこうした資質を有していたからなのではないでしょうか。

2001年9月11日に発生した「同時多発テロ事件」をわたしは滞在中のサン・フランシスコで経験しました。リアル・タイムでテレビの画面に映しだされる世界貿易センターの崩壊を目撃しながら、わたしは異様な感覚を経験していました。それは、今、目の前で歴史が大きく動いていることを直感したことがもたらす精神の震撼といえるかもしれません。それは、いわば、ひとつの新しい時代が突然に幕開けたことに対する驚きであり、また、それが紛れもない暗黒の時代となるであろうことに対する畏れでありました。

実際、間もなくして、合衆国は「対テロ戦争」の大儀のもと、戦争に突入することになります。また、時を同じくして、わたしたちの生活する日本の周辺では、事実上の冷戦構造が再現化して、政治的・経済的・軍事的な軋轢が激化していくことになりました。とりわけ、周囲を核保有国に包囲された日本にとり、過去10年間に現実化した国際的な現実(リアリティ)は、未曾有の危機をもたらすものであるといえます。

くわえて、それらの核保有国が全て実質的な独裁体制にもとづいて運営されているということ――つまり、それらの国の行動論理が「他者利用型段階」(opportunist)という極度に自己中心的な段階にあるということ――は、彼らと意味のある対話をすることそのものを困難にすることになります。こうした状況の中でわたしたちはあらためて国家として自らが立脚する価値観について再検討することを求められています。発達心理学者のロバート・キーガン(Robert Kegan)が述べるように、「わたしたちが問題を解決するのではなく、問題がわたしたちを解決する」状況が生まれているのです。

こうした急激な時代状況の変化を受けて、2001年以降、合衆国では、一般の人々のあいだで非常に活発な政治的議論が行われるようになりました。とりわけ、湾岸戦争の当事者である合衆国においては、「そもそもこの戦争は何のために行われているのか?」という根源的な問いに遡る真摯な探究が、今日まで多数の人々により行われています。
こうした空気の中で次第に注目を集めるようになったのが、資源をめぐる問題でした。今世紀において、わたしたちは、水や土壌をはじめとして、自己の生物としての基盤を構成する重要資源の枯渇という危機的な状況を経験することになるといわれています。さらには、現在の物質的繁栄を可能としてきた――また、産業革命以降の人類の人口の大量爆発を可能としてきた――化石燃料が、21世紀に枯渇局面を迎えることが意識されはじめています。

これまでの10年というのは、日常の水面下で進行しているこうした歴史的な事態を人類が集合的な規模で意識しはじめた10年であるといえます。そして、今、世界各地で展開されている資源争奪戦の意味は、こうした文脈の中に位置づけられることをとおして、明らかにされることになったのです。いうまでもなく、こうした争奪戦は軍事衝突という形態をとるだけでなく、経済的・政治的・文化的な軋轢や衝突という形態をとることになります。これまでの10年というのは、こうした国家間の利害の衝突が顕在化して、恒常的に国際秩序を混乱させる「危機の時代」の只中にわたしたちがいることを露呈した時期だといえます。

オックスフォード大学の考古学者のスティーヴン・ルブラン(Steven Le Blanc)は、著書Constant Battles: Why We Fightの中で、人類が戦争をするのは、必ずしも人類が凶暴であるからではなく、むしろ、人類が愛する能力をもつからであるという意味のことを述べています。人類は幸福と繁栄を求めて、自己の生活環境が埋蔵する資源を利用するための技術を歴史的に進化させてきました。しかし、それは、また、同時に資源の枯渇を急激に進行させることをとおして、生活環境の人口収容能力(carrying capacity)を損なうことになります。こうした状況の中で人類は愛する同胞の生命を維持するために、致し方なく周囲の共同体(コミュニティ)に進出していくことを強いられてきたのだ――というのです。

今日、わたしたちの周囲で展開している様々な国際的な軋轢や衝突とは、その深層において、人類が歴史的に経験してきたこうしたメカニズムにもとづくものだといえそうです。ただし、今日の危機が特殊であるのは、20世紀をとおして、文明の人口収容能力を増大してきた最重要資源である化石燃料が惑星規模で枯渇局面を迎えることになるということです。それは、最終的には、人類の生物種としての存亡に関わる問題として顕在化することになる究極的な危機といえるものなのです。

近年、ベストセラーとなったジャレド・ダイアモンド著作をはじめとして、人類文明の崩壊の可能性について検証をこころみる作品が発表されていますが、こうした話題に対する関心の高まりは、正に21世紀の人類の生存条件を的確に反映したものであるといえるでしょう(代表的なところでは、他にはRichard HeinbergのParty's OverやJoseph TainterのThe Collapse of Complex Societiesがあります)。

「インテグラルであるとは、政治的であるということである」というウィルバーの発言には多様な意味が含意されています。しかし、少なくともそのひとつは、こうした同時代の状況を鳥瞰的に把握したうえで、日常の中で発生している政治的・経済的・軍事的なイベントの意味を洞察することであるといえるでしょう。そして、そうした洞察を基盤とする問題意識を自己の統合的な実践(インテグラル・プラクティス)の中に反映させていくことを意味するのです。

こうした意味においては、松永氏の著作活動は、21世紀という時代が対峙する深刻な危機を実に的確にとらえたものであったといえます。そこには、霊性(スピリチュアリティ)に対する真摯な感性と共に、こうした同時代の状況をきれいごとで糊塗することのない透徹した知性が息づいていました。とりわけ、日々混迷の度合いを高める国内の政治状況に関する洞察は、国家の衰退するときに集合意識を呪縛することになる視野狭窄の本質を見事にとらえるものでした。こうした卓抜した知性が喪失されたことは、くれぐれも残念でなりません。

最後になりましたが、あらためて松永氏の御冥福をこころより御祈りいたします。