発達の領域(Lines of Development)(Wilber-III)

人間の人格的発達について検討しようとするときに、複数の発達領域を認識することが重要となることをケン・ウィルバーは強調する。今日、注目を集めているHoward GardnerのMultiple Intelligence Theoryにも象徴されるように、人間の発達領域をひとつのものとしてとらえ、その発達度を測定することが個人の成長段階の把握を可能とするという発想には、修正がくわえられはじめている(例えば、"IQ"に対する相補的な概念として"EQ"というものが提唱されはじめていることは、こうした動向の端的なあらわれといえるだろう)。これまでに使用されてきた視点(測定方法)の価値を認識したうえで、しかし、それでは十全にとらえられない人間存在の他領域を認識・尊重することをとおして、はじめて人間性の包括的な理解に近づくことができるという姿勢は、ウィルバーのインテグラル理論の非常に重要な構成要素である。


具体的な発達領域(Lines of Development)の代表的なものとして、例えば、この領域における代表的研究者であるHoward Gardner (1983/1993) は、下記のものを挙げている。

  • 言語(Linguistic Intelligence)
  • 音楽(Musical Intelligence)
  • 論理・数学(logical-mathematical)
  • 空間感覚(Spatial Intelligence)
  • 身体・運動(Bodily-Kinesthetic Intelligence)
  • 自己(Personal Intelligence―intrapersonalとinterpersonal)

また、その後の調査にもとづき、Gardner (1999) は下記の2つをくわえている。

  • 自然(Naturalist Intelligence)
  • 実存(Existential Intelligence)

留意するべきことは、これらの発達領域が、ある程度の自律性を保ちながら、個人のなかに並存しているということである。それぞれの発達領域は、独自の「介入」――「支援」(support)と「挑戦」(challenge)――を必要としながら、独自のダイナミズムにもとづいて段階的に成長をするのである。[2] また、人間がこうした自律的に展開する複数の領域を内包する存在であるということは、必然的に、個人の存在をあるひとつの発達段階に成立するものとして定義することが不可能であることを示唆する。


ただ、複数の発達領域の存在を認識するとは、必ずしも、それらの発達領域を列記することではない。同時に重要となるのは、並存する発達領域がどのような相互関係にあるのかということについて検討することである。例えば、その問題について検討をするうえで、下記のような質問が想起されるだろう。

  • ある発達領域における課題・問題に取り組むうえで、どの並存する発達領域に働きかけることにより、成長(治療)を効果的に促進できるのか?
  • ある発達領域における課題・問題を克服することができるまえに、まず、どの並存する発達領域において成長(治癒)が実現する必要があるのか?

人間の複雑性を認識・尊重したところに発せられるこうした問題意識の背景には、関係性というものへの感覚(認識)が存在する。こうした感覚は、今日のように、ある課題・問題に取り組むうえで、複数の方法を統合的に活用することの有効性が広範に認識されはじめている現代という時代において、とりわけ重要になることはいうまでもない。


ここで、ウィルバーは、これらの並存する発達領域をひとつの人格の構成要素としてまとめる意識の統合機能(integrative capacity of the psyche)に注目する。これは、人格の内部に存在する諸々の能力を自己(identity)の重要な構成要素として抱擁する機能と形容できるものである。結果として、ある能力は自己の構成要素として重視されることになり、また、ある機能は自己の構成要素として放擲されることになる。こうした「取捨選択」の「判断」にもとづいて、自己の内部に存在する諸能力を整合性をもつ組織(self-system)として束ねる機能をウィルバーは意識の統合機能と形容するのである。その意味では、こうした領域は、人間の主体(subjectivity)のよりどころとして、とりわけ重要となる発達領域であるといえるだろう。つまり、これこそが、「意識の進化の中枢にあるものなのである」(Wilber, 2000, p. 35)。


この機能は、(自他識別機能・意味構築機能等)人間の根源的な精神機能を可能とする認知能力(cognitive capacity)として、発達心理学により綿密に研究されてきたものである。インテグラル思想においては、人間の意識体験の基盤に存在する「自己感覚」("the proximate self-sense")と形容されている。


ウィルバーは、認知能力の発達度は、他の発達領域における成長の可能性を設定するものとして、とりわけ重要となると指摘する。例えば倫理(morality)(Carol Gilligan)や信仰(faith)(James Fowler)等の領域における発達は、認知能力の発達段階を超えるかたちでは、展開しえないという。つまり、認知能力の発達度とは、これら他領域における発達の上限を設定するのである。その意味では、倫理や信仰の領域における成長を実現するためには、こうした認知能力の成熟が非常に重要となるといえるだろう。


因みに、トランスパーソナル研究において強調される「個を超えることができる前に、まず、個を構築しなければならない」("You have to be somebody before you can be nobody")(Jack Engler in Wilber, 1997, p. 353)という洞察は、あくまでも、人間の主体(subjectivity)のよりどころとして機能する認知能力(cognitive capacity)というひとつの発達領域についてのみあてはまるものである。上記の洞察が人間存在のどの領域にあてはまるものであるのかを明確化することなしに、その妥当性について検討をするのは無意味である。


尚、上記と関連する主題である、並存する意識の3領域――"Frontal Line"・"Soul Line"・"Causal Line"――については、「統合心理学への道」(The Eye of Spirit)を参照していただきたい。また、人間の意識成長について検討するうえで、「発達段階」("stages")・「発達領域」("lines")とともに重要となる意識状態("states")・性格タイプ("types")については、『統合心理学』(Integral Psychology)を参照していただきたい。

人類種の進化(Evolution of Human Species)


個人の人格的成長は、常に、関係性のなかで展開するものである。Robert Kegan (1994) の指摘するように、成長は、周囲の適切な介入――支援(support)と挑戦(challenge)――を必要とする。それらは、成長への潜在能力を解発する必要因子として機能するのである。そして、そのどちらが欠落しても、成長はありえないのである。必然的に、人間の意識の深化の可能性について探求するうえで、「個」(the individual)と「集合」(the collective)の有機的な関連性を把握することは、非常に重要となる。


インテグラル思想を構築するうえで、ウィルバーは、こうした課題について綿密な議論を展開している(Wilber, 1981/1996, 1983/2005, 1995/2000)。「個」と「集合」が重要な性質上のちがいをもつことを認識したうえで、ウィルバーは、それらを、人類の進化に参与する2つの重要要素として位置づける。[3] 人類の進化とは、「個」の進化と「集合」の進化を相補的なものとして内包しながら展開する過程である。そのため、人間は、個人としての救済を追求しようとするとき、不可避的に、共同体の進化に取り組むことを要求されるのである。


インテグラル思想においては、「個」の進化と「集合」の進化は、霊(Spirit)という基盤のうえに、そして、霊の顕現として展開するプロセスの2つの側面である。霊との「つながり」(identity)を自らの本質的な条件として認識することを窮極的な救済としてとらえるインテグラル思想において、自らの本質的な課題として、これらの側面における成長(治癒)に取り組むことは、必須の課題なのである。


しかし、現代において、進化という概念を――自然世界ではなく――人類に適応することの妥当性には疑問が投げかけられている。ウィルバーは、そうした状況が存在する背景には、大別して3つの勢力が存在することを指摘している。

  1. 過去の宗教的世界観を踏襲する伝統主義者にとり、「人類進化」を伝統的な世界観の否定をとおして達成されるものとしてとらえる現代の歴史観は、受容することのできるものではない。伝統主義者にとり、今日において、「進化」と見なされているものは、むしろ、正当な世界観を継承することに失敗する過程、すなわち、「堕落」の過程として見なされるべきものなのである。
  2. 人類の歴史を太古に存在していた「楽園」("Eden")を「追放」されることを契機として始まる「堕落」の過程として見なす回顧的浪漫主義者("Retro-Romantics")にとり、進化のダイナミクスが人類に働いているという見解は受容できるものではない。彼らにとり、人類の歴史とは、「楽園」を「追放」された堕落した存在による「罪」の歴史なのである。そして、大量消費主義という思想を基盤として惑星規模で自然資源を搾取する体制を確立した現代という時代は、人類の「罪」が最大限に肥大化した時代なのである。こうした状況において、彼らが希求するのは、太古に存在していた「楽園」へと回帰することである。
  3. 今日、惑星規模で展開する現代文明を構築することをとおして、人類が、進化の最終的な目的地に到達したと信じる合理主義者にとり、今後、質的にさらに高度な認識構造、そして、それを基盤とする世界観が発生するとは信じがたい。実際、「意識の進化」という標語のもと、新しい世界観("New Paradigm")として提唱されるものは、おうおうにして、これまでの歴史のなかで獲得された成果を蔑ろにした退行的(regressive)なものである。彼らにとり、人類の進化とは基本的に完了しているのであり、今後、必要とされるのは、こうして確立された成果を展開していくことなのである。

これらの「立場」は、独自の価値構造を基盤とするものであるが、それぞれは、あらゆる価値構造がそうであるように、何らかの重要な真実をとらえるものであるとともに、また、必ず何らかの盲点を内包している。現代において必要とされているのは、これらの「立場」の内包する真実と盲点を認識したうえで、人類進化の妥当性を確立することであるとウィルバーは主張する。人類進化という概念を復権するために必要となる重要法則としてウィルバーは、下記のものをあげる。

  • 進化の両義性:進化とは、現在の段階において解決することのできない課題・問題を高次の段階を構築することをとおして解決する過程である。しかし、そうした高次の発達段階を構築することをとおして、過去の段階には存在しなかった問題・課題を創造することになる。その意味で、進化とは、常に、新しい可能性と新しい危険性をもたらす過程であるということができる。また、進化の過程で、超越と継承(transcend and include)という法則のもと、共同体の構造が複雑化するなかで、共同体は、その複雑性ゆえに、必然的に比較的に単純な構造においては存在しえない問題・課題を包含することになる。人類の進化について検討するうえで、高次の構造を構築するということが不可避的に内包することになる両義性に注目することが非常に重要になる。
  • 差異化と乖離の識別:進化の過程に働く重要な法則のひとつとして、「差異化」(differentiation)がある。これは、当初はひとつのものとして混乱・混同していたものに秩序をあたえて、そこに内包されていた要素を明確化して、新しい関係性のなかに位置づけることを意味する。例えば、個人の意識の深化において、理性的な構造としての自我を確立して、自己の身体を対象化することは、肉体的衝動の絶対的な支配からの自己の自由を確保するために、必須の課題となる。しかし、そうした差異化が過剰なものとなるとき、身体は個人の自己(identity)の構成要素として抱擁されず、結果として、乖離(dissociation)することになる。今日、個人の領域において蔓延している身体性の乖離は、共同体の領域においては、自然(nature)との乖離をもたらす。こうした病理は、今日、惑星規模の深刻な自然破壊として結実している。進化の過程において、差異化は非常に重要な法則であるが、これは、また、常に乖離の危険性を宿していることを認識する必要がある。
  • 超越と抑圧の識別:進化の過程において、高次の構造は、常に、低次の構造を対象化して、自己の構成要素(基盤)として抱擁する。これにより、高次の構造は、自己の構成要素として抱擁された対象に対して支配力を行使して、操作することができるようになるのである("downward causation")。しかし、こうした低次階層への操作能力は、時として、歪なかたちで行使され、結果として、諸々の病理を生みだすことになる(例:抑圧・否認・歪曲)。進化の過程において、高次構造の構築は、人間に、低次構造の絶対性を解消することをとおして、より包括的な視野から行動することを可能にする非常に重要な活動である。しかし、そこには、また、諸々の病理を生みだす可能性が内包されていることをわれわれは留意しなければならない。
  • 自然なヒエラルキーと病的なヒエラルキーの識別:進化の過程において、ある発達段階において全体であるものが、次の発達段階においてより包括的な全体の構成要素として抱擁されることになる。そして、より高度の統合能力をもつ構造に抱擁(embrace)されることにより、それそのものとしては所有していない意味(価値)を賦与されるのである。[4] こうした高次と低次の関係性(ヒエラルキー)は、いうまでもなく、このコスモスのあらゆるところに見いだされるものである。その意味で、ヒエラルキーは、自然の組織法則と形容することができるだろう。しかし、また、「抱擁」を基本法則として展開するヒエラルキー構造は、とりわけ人間の活動領域においては、常に、諸々の病理をひきおこす病的なヒエラルキーへと転じる可能性を内包している。従い、人類の進化について検討をする際、ヒエラルキーという法則が、実際に自然なものとして発現しているのか、もしくは、病的なものとして発現しているのかについて注意をする必要がある。
  • 高次の段階が低次の衝動に掌握されてしまう可能性があること:高次の構造により創出された装置・技術・機能は、常に、低次の衝動・欲求により利用される危険性を秘めている。とりわけ、今日のように、大量破壊兵器等、最先端の科学技術を利用して開発された装置が大量生産・大量販売されている状況においては、そうした装置を開発するための必要能力をもちあわせていない人々も容易にそれらを購入・使用することができることになる。結果として、合理性の創造物である装置が、神話的合理性段階の部族主義的な衝動にもとづいて利用されることになるのである。上記のように、進化とは、常に、可能性と危険性の両方を増幅する過程である。人類の進化について検討をする際、共同体のなかに並存する複数の発達段階の行動論理がどのような相互作用をしながら、可能性と危険性を発露させているかを慎重に考察をする必要があるのである。

「前・後の混同」("Pre/Post Fallacy")の項目においても述べたように、目前に展開する世界があまりにも過酷な苦悩に特徴づけられるとき、われわれは、しばしば、そうした世界をもたらした歴史の過程を進化の過程ではなく退化の過程であると思いこむようである。そうした意識状態においては、それらの苦悩が高度の意識構造を構築することにより獲得されたものであることは無視され、ただ、その瞬間に経験される苦悩の重圧のみが注目される。そして、その感覚を正当化するために歴史観が構築されるのである。こうした「錯覚」を回避するために、上記の法則は非常に重要な意味をもつといえるだろう。


インテグラル・ヴィジョン(Wilber-IV〜Wilber-V)


1995年に出版された『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)において、ウィルバーは、自己の思想活動をその端緒より特徴づけていた「個人」と「集合」の領域を相互に有機的に関連するものとしてひとつの包括的な理論構想のなかに統合することに成功する。そして、この理論構想は、『進化の構造』の発表後、継続的な修正をくわえられながら、今日の"AQAL"("All Quadrants, All Levels"を省略したもの)と形容されるものへと展開している。このあたりの理論展開の詳細については『進化の構造』とKosmic Karma and Creativityを参照していただくとして、ここでは、これらの理論構想をその基盤において支えている発想(態度)について紹介する。


与那城 務氏(2006)の論文においても指摘されているように、インテグラル思想は、「インテグラル」(統合)という大義のもと、多様な理論体系をその構成要素として包摂することを意図するものではない。むしろ、インテグラル思想とは、人間の意識というものが、ある視点(perspective)を抱擁することをとおして、必然的に盲点を抱えこむものであることの認識のもと、人間の認識行為の構造的な限定条件を建設的に活用することを意図するものである。つまり、それは、世界を認識する際、視点というものを利用せざるをえない人間の認識能力の特性を内省することをとおして、認識という経験が生成する背景としての意識という空間に立ちかえることを援助しようとするものなのである。こうした観想者の視野に継続的に立ちかえることをとおして、人間は、はじめて、自らの得意とする視点に執着することなく、様々な視点を柔軟に活用することができるようになるのである。


『意識のスペクトラム』は、こうした態度を基盤として、垂直的に存在する認識(存在)の階層をまとめたものである。そして、『進化の構造』以降の著作のなかで提唱されるAQALは、この意識(存在)の階層を、水平的に存在する認識(存在)の領域へと展開したものである。


水平的に存在する認識(存在)の領域として、ウィルバーは、"I"・"WE "・"IT"・"ITS"の4つをあげている。これらは、人間が生得的に所有する視点として普遍的に共有されているものであり、また、この世界のあらゆる事象を包括的に認識するうえで必要とされるものであるという。

  • "I"(Individual Interior):個の内面の領域。この視点は、個の主観的(subjective)な存在としての真実性を尊重するもので、そこでは、個は、自己の内的な意図にもとづいて行動する自律的な存在としてとらえられる。この領域の価値基準は、個人が、自己の内的な感覚をいかに正確に解釈・表現するかに注目する主観的な「誠実」(sincerity)というものである。
  • "WE "(Collective Interior):集合の内面の領域。この視点は、自律的な内面を所有する個人の相互理解と相互尊重を重視するもので、そこでは、集合(共同体)は、規範・倫理・価値等の文化を共有する個人による共感により維持されるものとしてとらえられる。この領域の価値基準は、集合(共同体)の構成員が、相互理解・相互尊重をとおして、いかにまとまりのある文化空間を構築するかに注目する「正義」(justness)である。
  • "IT"(Individual Exterior):個の外面の領域。この視点は、客観的に観察をすることのできる事象を重視するもので、そこでは、主観的な要素の影響することない、普遍的な事実が追求される。この領域の価値基準は、いかにあらゆる主観的な「歪曲」に影響されない「客観的」・「普遍的」な真実を抽出するかに注目する「真実」(truth)である。
  • "ITS"(Collective Exterior):集合(共同体)の外面の領域。この視点は、集合の組織体としての整合性を尊重するもので、そこでは、個は、あくまでも、集合の構成要素としてとらえられる。この領域の価値基準は、ある存在(個人・組織)が、それをとりまく外的な生存状況にいかに適合するかに注目する「機能的な適合」(functional fit)というものである。

上記の視野は、独自の価値基準にもとづいて事象を把握・検証する。つまり、それらは、独自の方法で事象を照明し、また、独自の方法で事象を隠蔽するのである。重要なことは、それぞれの視野の自律性を尊重したうえで、それらを相互の有機的な関係性のなかに位置づけることである。世界のあらゆる事象は、少なくともこれら4つの視野から認識することのできるものである。インテグラル・アプローチは、これらの視野が内在する光と陰を認識したうえで、それらを包括的に活用することの重要性を認識する。

ウィルバーの指摘するように、これらの視野の相補的な重要性を尊重することなく、どれかを絶対化すること("Quadrant Absolutism")は、深刻な悲劇をもたらすことになる。例えば、今日、現代社会は、内面性の価値を溶解しようとする文化的な潮流に席巻されている。これは、ウィルバーが「フラットランド」("Flatland")と呼ぶもので、近代科学の物質主義と現代思想の価値相対主義の融合により生みだされた、あらゆる価値基準の外面化・浅薄化の流れと形容することのできるものである。そこでは、人間を人間たらしめる内面性というものが妥当性をもつ価値領域として否定され、その代わりに、視覚や触覚等、肉体感覚により計測することのできる情報が信頼できる基盤として排他的に抱擁るれたのである。こうした状況において、人間の内面性を探求することをとおして人格の成熟を醸成することを意図する芸術等の営為の存在価値は、必然的に軽視されるようになる。こうした外面化・浅薄化の蔓延した社会においては、人間とは、あくまでも自己の肉体的衝動に忠実に行動する物質的存在にすぎず、その「治癒」は、肉体的衝動の充足をとおして可能となるものであるとされるのである。


しかし、発達心理学の調査が示唆するように、人間の成長(治癒)とは、内省力の深化をとおして、肉体的衝動を高度のレベルに昇華して、成熟した社会性のもとに表現する、自己中心性を克服する過程である。そこでは、成長(治癒)とは、自己を対象化して、複数の視点を考慮したうえで、表現することのできる意識構造を構築することをとおして達成されるものとして認識されるのである。そうした人間存在の垂直的な可能性を尊重する人間観は、今日の外面領域の絶対化を基盤とした人間観と真向から衝突するものである。結果として、こうした内面領域の否定は、とりわけ先進諸国において、意識の広範な地盤沈下をもたらしている。 [5]


理論と実践

インテグラル思想においては、普遍性と時代性・自律性と関係性・創造と継承等、一般的に対照的なものとして見なされている対極的事項の統合が積極的に志向される。われわれが瞬間・瞬間に経験する呼吸の動きに象徴されるように、人間の存在は無数の対極的な事項により特徴づけられているが、インテグラル思想は、それらをダイナミックに往復することの価値を認識・強調することをとおして、人間の可能性のより完全な実現を可能としようとするのである。


無数の対極性のなかでも、インテグラル思想において、とりわけ重要な意味をもつのが「理論と実践」である。これらの相補的な対極性を巧みに管理することは、非常に重要な課題として認識される。

上述のように、インテグラル思想において、最も重要視されるのが、構築物としての理論をのりこえていこうとする姿勢である。ウィルバーは、しばしば、その著作の末尾において、自らが構築した思想を自らの手により「否定」することをとおして、読者を常に既に存在する観想者としての自己にひきもどす。窮極的に必要とされるのは、概念的な構築物としての思想を記憶することではなく、人間の存在を特徴づける無(Nothingness)と神秘(Mystery)と空(Emptiness)を自覚することなのである。そして、それは、必然的に、われわれに生きることを要求する。


こうした洞察にもとづいて、今日、インテグラル・コミュニティーは、研究と実践の相補的な重要性を強調するAction Inquiry(行動探求)のコミュニティーとして、その活動を展開しはじめている。活動の主眼は、個人の領域の変容(治癒)のみならず、また、集合の領域の変容(治癒)を包含する、包括的なものである。 [6]


今日、人類をとりまく生存状況が惑星規模で急激に劣化するなかで、人類の生存の可能性そのものが深刻な危機にさらされている。[7] こうした状況のなか、現代文明を真の意味で持続可能なものとして構築しなおすための積極的な活動を展開することの必要性は、ますます切迫した課題として認識されている。しかし、実際には、そうした認識が、成熟した責任能力にもとづいて、意図的・継続的な変革の実践として世界的規模で実現されるまでには、まだまだ至っていない。むしろ、今日、世界的に頻発しているのは、生存状況の劣化を契機として発生する諸々の共同体間の衝突である。Steven LeBlanc (2003) の指摘するように、人間は、自らの生活する共同体の人口収容能力が自然資源の枯渇や自然環境の劣化により低下するとき、周辺領域を侵略することをとおして、自己の生存を図ろうとする生物である。今日、人類の繁栄と生存を可能としている重要資源である化石燃料が枯渇局面を迎えようとするなか(Heinberg, 2003)、自己の生存を確保するために、(国家・民族等)諸々の共同体間の衝突が頻発しはじめていることは、むしろ、当然のことといえるだろう。


この惑星は閉鎖システムであり、そこに存在する資源は有限である。継続的な人口増加に基づいた自然資源の大量消費は、いずれは、人類種の生存を可能とする重要資源の枯渇を招くことになる。そして、生存条件という外的状況の悪化は、個人・共同体の内的領域における退行をひきおこし、人間の生得的な自己中心性を増幅することになる。そうした状況が発生するとき、今日、先進諸国において物質的豊かさの基盤のうえに成立している内面性探求は、全く意味をもたないものに成り果ててしてしまう。 [8]


今日の繁栄を可能としている諸々の前提条件を溶解するであろう危機の時代において必要とされるのは、われわれに自らをとりまく生存状況を包括的に認識することを可能にする視野である。そうした認識の存在しないところで創出される対応策は――たとえ、それがどれほどの誠実さに支えられたものであろうとも――非効果的なものとならざるをえないだろう。


インテグラル・アプローチを特徴づけるのは、内面と外面、そして、個と集合という領域を相互に関連するものとしてとらえる包括的な視野である。また、インテグラル・アプローチは、そうした視野を自己の認識構造として確立するために必要となる自己変容の実践に取り組むことを重視する実践思想である。 [9]


そうした包括的な視野をとおして自己の置かれている時代状況と対峙するとき、われわれは、はじめて、真の意味の責任能力を所有する存在として人生を生きることができるのである。


参考文献

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林 道義(1996)『父性の復権』中公新書
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与那城 務(2006)インテグラル・アプローチにおける「永遠の哲学」と「新・永遠の哲学」Available at http://www.integraljapan.net/

脚注

1. ウィルバーの報告によれば、これまでの執筆活動において、こうした枠組は、普通、瞬間的な霊感のなかにもたらされるという。例えば、この「意識のスペクトラム」理論の場合、集中的な瞑想体験の最中に経験した、この惑星における生命の歴史をその主体として追体験するような体験のなかにもたらされた洞察を理論化したものであるという(こうした体験は集中的な瞑想体験においては必ずしも珍しいものではない)。


2. 複数の発達領域が存在することの認識は、また、人間が自らの包括的な成長を実現するために、ひとつの実践ではなく――あらゆる実践は、必ず何らかの盲点を内包する――複数の実践に同時に取り組むことの重要性を示唆することになる。こうした認識は、結果として、インテグラル思想における人間の成長のための方法論である "Integral Transformative Practice" 、もしくは、"Integral Life Practice" の擁護へとつながることになる。

3. 「個」("individual holon")と「集合」("collective holon")の重要な差異については、Wilber (2002a) を参照していただきたい。


4. ここで注意するべきことは、ここでいう抱擁の法則とは、あくまでも、「個」と「個」の関係において、そして、「集合」と「集合」の関係においてあてはまるものであるということである。「集合」が「個」を構成要素として「抱擁」することは、個の尊厳の剥奪(Fascism)でしかない。詳細については、Wilber (2002a) を参照していただきたい。

5. こうした内面性軽視の破壊的影響は、日本国内においても、非常に深刻なかたちで顕在化している。この問題についての優秀な研究書として、林 道義氏の「父性の復権」(1996)と「母性の復権」(1999)を参照していただきたい。


6. 今日、関係者により展開されている具体的な活動の例としては、ケン・ウィルバーの主催する研究・教育機関、Integral Institute(http://www.integralinstitute.org/)のHPの掲載資料を参照していただきたい。


7. 詳細については、Worldwatch InstituteのState of the World(『地球白書』)参照していただきたい。

8. 日本においては、こうした動向は、「こころの時代」といわれている。今日の内面性探求に対する関心の高まりは評価できることであるが、それは、基本的に、個人の内面というインテグラル思想において認識されているコスモスの重要領域のうちのひとつを排他的に探求するものにすぎない。そうした営みの妥当性は、今後、外的な生存条件が劣化するなかで、ひとたまりもなく雲散霧消することになるであろう。

9. インテグラルな自己変容の実践については、鈴木 規夫(2006)を参照していただきたい。


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